「あーずーさっ」

突然、背中から体当たりを食らわせられた。
律先輩が、私の肩に腕を回して「おっはよー」と上機嫌に笑う。

「……おはようございます」

何か良い事でもあったんですか、と聞こうとして止めた。
さりげなくを装って、肩に回された律先輩の手を外す。

元々スキンシップというものが苦手だった。軽音部に入ってから、唯先輩がしょっちゅう
抱きついてくるのにはもう慣れてしまったけど、未だに律先輩のスキンシップには慣れない。

最初、私は唯先輩だって苦手だった。けど一年生のときの合宿で見た唯先輩の意外な一面と
ほんわかとした空気が私に安心感を与えてくれた。それ以来、唯先輩に抱きつかれるのは嫌じゃ
なくなった。
けど律先輩は。
普段だってまったく練習してないし、いつも無茶苦茶で無鉄砲。全然部長らしくも
先輩らしくもない、ただ元気が取り柄みたいな人。小さい頃から私はどちらかといえば
物静かな、大人っぽい人が好きだった。だから律先輩みたいな人とは極力話さなかったし、
そういう人とどうやって話せばいいのかわからなかった。
律先輩に触れられるのが嫌なわけでもないけど、私は正直「怖い」と思ってしまう。
だからなのかも知れない、律先輩が苦手だと思ってしまうのは。

「なんだよ梓?元気ないぞ?」

「ほっといて下さい」

顔を覗きこまれて、私は思わずびくっと肩を震わせてしまった。
慌てて顔を逸らしたけど、それを見た律先輩が苦笑していたのは見なくても解った。
「何にもしないっつーの」という声が聞こえたから。

少しだけ申し訳ない気持ちになって、私は訊ねてみる。

「今日は澪先輩と一緒じゃないんですか?」

すると、律先輩は「あぁ」と頷いて後ろを顎で示した。
振り返ってみると、澪先輩は唯先輩とムギ先輩と一緒に歩いていた。
唯先輩が私に気付いて、手を振りながら私に駆け寄ってくる。

「あずにゃん、おはよーう!」

そして、私はいつの間にか唯先輩の腕の中に居た。
唯先輩が「あずにゃん分充電充電」とさらに腕の力を強くした。

「ほんっと唯は梓に抱きつくの、好きだよなあ」

「だって、気持ちいいんだもんっ」

「ふーん。梓も梓で満更でもなさそうな顔、してるしな」

「そんなことありません!」と言うと、律先輩が面白そうに「梓が怒ったー」と
からかってくる。

反論する気も失せてしまい、私は溜息を吐いた。
朝から疲れる人たちだ、と思っていると、「おはよう」と癒しの声が聞こえた。

まるで飼い主を待ちわびていた犬みたいに反応した私を見て、律先輩と唯先輩が
「おぉ!」と声を揃えた。

「おはようございますっ、澪先輩、ムギ先輩!」

律先輩たちと比べ、優しいし演奏だって上手で、何より頼りになる澪先輩とムギ先輩。
たぶん、二人がいなければ私は高校初めての夏休みに入る前に軽音部を辞めていたような
気がする。

「今日も暑いな」

澪先輩が立っているだけでも流れ落ちてくる汗を拭いながら、誰にともなく呟いた。

そういえば、と再び五人揃って歩き出すと律先輩が口を開いた。

「もうすぐ夏休みなんだよなあ」

「そだねー。今年合宿どこ行こっか!」

律先輩の夏休みという言葉に、唯先輩が食いついた。
私は少し俯いていた顔を上げると、慌てて訊ねた。

「今年も行くんですか、合宿!?」

「え、だめなの?」

唯先輩が不思議そうに訊ねてきた。
先輩、だめも何も、先輩たちは受験生ですよね?

「今年は私たち受験だからやめとこうよ」

私が訊ねる前に、澪先輩がそう言って止めようとした。
だけど、驚いたことに、澪先輩と同じことを言うものだと思っていたムギ先輩が、
「最後の夏休みなんだから」と唯先輩側に立った。

「ムギも!?」

「そうそ、最後こそ合宿行くべきじゃーん?ってことで、日程他は今日の放課後、
ゆっくり決めようぜ!」

律先輩は、こういうときだけ部長らしく纏める。澪先輩が、仕方ないなさそうに頷いた。
私は大丈夫なのかな?と思いながら、校門をくぐって先輩たちと別れた。


―――――
放課後。
珍しく掃除もなく、早めに部室に顔を出すと、案の定と言うか、やっぱり誰も
いなかった。

誰も居ない部室は初めてで、私は何となく居心地が悪く、ソファーに鞄を置くと、
ギターケースを開けてギターを取り出した。
早く誰か来ないかなと思いながら、チューナーで音を合わせていく。
それが全部済んだとき、背後のドアが小さく音を立てて開いた。

「こんにちは!」

やっと来てくれた誰かは、律先輩だった。
嬉しさと安堵で膨らんだ胸が、一気に萎んでいったような気がした。

「おっす」

律先輩は部室に私以外誰もいないことを確認すると、中に入ってきた。
そして、さっきの私と同じように鞄を置くと、私の後ろに立って手元を覗き込んできた。

「唯と違って真面目だなあ、梓は」

「律先輩とも違って、じゃないですか?」

「んまっ、手厳しいわねえ、この子はっ!」

律先輩はわざわざ声を裏返させて言った。
私はそれを無視すると、チューナーをギターから外して立ち上がった。

「練習するの?」

「律先輩と違いますから」

そう答えると、律先輩は乾いた笑いを漏らして「不真面目で悪うございました」と
いつもの席に腰を下ろした。

それ以上、何も言わないので私も遠慮なくギターをかき鳴らす。

「ふわふわ?」

「え、はい、そうですけど」

難しい部分で四苦八苦していると、律先輩が訊ねてきた。
頷くと、「そ」と微妙な相槌を打って、それっきり何も言わない。

律先輩って、こんなに静かな人だったっけ?

そういえば私、律先輩と二人きりになったことは一度もない。
他の先輩だって殆どないんだけど。

律先輩は、誰彼構わず一人喋り倒してるようなイメージがあった私は、だから
何かを考え込むような表情をして黙っている先輩が意外で、思わずじっと見詰めてしまった。

「え、なに?」

私の視線に気付いた律先輩と目が合う。
先輩らしかぬ表情が消え、きょとんとしたような表情で私を見る律先輩から目を
逸らすと、何でもないですと首を振る。

「てっきり私に見惚れてたのかと思っちゃったよ」

「絶対ないですから安心してください」

ふざけたように言う律先輩に即答すると、律先輩は「ひどっ」と机に突っ伏した。

「そこは嫌でもそんなわけないじゃないですかーとか言って赤くなってよ可愛くない」

「私は可愛くない後輩ですから」

「梓冷べたい……」

やっぱり律先輩は律先輩だ。
私は「はいはい」と言って再びギターを構え直した。

軽く口ずさみながら、ふわふわ時間のサビの部分を弾いていると、背後からカタカタと
音がした。
律先輩が、私の音に合わせて机を手で叩いていた。

そのまま演奏を続けていると、律先輩が突然「よし!」と言って立ち上がった。

「まだ誰も来ないし少しセッションするか、梓」

「二人だけでですか?」

「いいじゃん、楽しそうだし」

ギターとドラムのセッションもそうだけど、律先輩が自らセッションしようなんて
言い出したことに驚いた。
律先輩は鞄からスティックを取り出して、早速ドラムに触れている。

それから徐にスティックを持った手を頭上に。
私は慌ててギターを構えた。

「ふわふわな!1、2、3!」

律先輩のカウントと、スティックを叩く音が静かな部室に響いた。

それに合わせて、私の手が自然に動き出す。
普段は唯先輩が弾いているパートを、少しだけ背伸びして弾いてみる。

二人だけなのに、楽しいと思った。
走り気味の律先輩のリズムだけど、いつのまにかそのリズムが身体に馴染んだらしく、
演奏している間は逆に心地良いくらいだった。

律先輩とずっと二人だけは嫌だけど、今この瞬間だけはずっと演奏を続けていたいと
思った。

それでも曲は終わってしまう。
最後の部分を弾き終わると、私は思わず感嘆の息を吐いた。

「あー、気持ちよかった!」

律先輩が大きく伸びをして言った。
それには同意せざるを得ない。いつものセッションと違って新鮮だっただけなのかも
知れないけど。

でも、身震いするほど、演奏が合っていた。

確かに律先輩のドラムは走ってる。
だけど、鳥肌が立つくらい合った演奏が出来る。
今まで澪先輩がしっかりとした土台を作っていると思っていたのに、この走り気味の
律先輩のドラムが既にちゃんとした土台を作っていた。

全然そうは見えないのに。

「律先輩ってちゃんと練習、してるんですね!」

思わずそう言うと、てっきり律先輩は「してるしっ」と言って何か攻撃を仕掛けて
くると思ったのに、身構えた私のほうを見もせずに「そらな」と、やっぱりドラムを
叩いたまま呟くように答えた。

「私が練習しなきゃ放課後ティータイムは滅茶苦茶になっちゃうだろー」

「そりゃそうですけど……いつも部室じゃ練習してる姿見せないから……」

私が言うと、律先輩はドラムを叩くのをやめて私を見た。

「だって、そんな姿見せたくないじゃん?部長が真面目に練習してたら部員もそんな
雰囲気になっちゃうだろー?」

「だめなんですか?」

「だめ。うちの軽音部はいつでも楽しくなきゃ!練習ばっかじゃ楽しくないだろー
楽しく演奏しなきゃ音楽やってる意味、ねえし」

それは律先輩がただ単に練習がしたくないからなのか、それとも本当にそう思ってるのか
どうかはわからないけど、やっぱり私は驚いてしまった。
言い訳じみたようにも聞こえるけど、軽音部のことをちゃんと考えてるんだと、
そう思ったから。

「見直した?」

ここで素直にはい、と頷くのは癪なので、私は「ちょっとだけ」と答えた。
律先輩は、意外そうに「へえ」と言うと、少しだけ嬉しそうな顔をした。


その後、掃除で遅くなった澪先輩とムギ先輩、さわ子先生に進路のことで呼び出されて
いたらしい唯先輩が来て、いつもの部活が始まった。

ムギ先輩の淹れてくれたお茶をみんなで飲みながら、テーブルを囲む。
普段この時間は、少し心の中で勿体無いなと思ってたけど、今日の律先輩の言葉を
聞いて、確かにこれがなくなったら軽音部じゃないかなと納得してしまったりした。

「んじゃー今年の合宿どこ行きたい?」

「はいはーい、今年も海!」

「去年も一昨年も海行ったから山にしよーぜ!」

「海だよ海!」「山だ山!」と、つまらない言い合いをする唯先輩と律先輩を、
澪先輩が「遊びに行くんじゃないんだから」と言って止めに入る。

「じゃあ澪ちゃんはどっちがいい!?」

「どっちって……ムギ、何かいい案ある?」

「私もなんとも……」

唯先輩に訊ねられ、困ったように澪先輩がムギ先輩に話を振った。
だけどムギ先輩も、苦笑交じりに首を傾げる。
結局何も決まらない。

そういえば、一年生のとき、軽音部の合宿といえばみっちり練習するものだと
思っていたっけ。
今思えば、そんなの夢のまた夢なんだけど。

律先輩の言う通り、楽しいを第一にするとしても、どうせ合宿に行くんなら
軽音部らしいことがしたい。
自分達で演奏しなくても、他の人の演奏に触れるだけでもいい。

「梓は?」

そんなことを考えていると、突然律先輩に話を振られた。

「え?」

「だから、合宿。どこか行きたいとこある?」

まさか自分にも訊ねられるとは思っていなくて、正直戸惑ってしまった。
それでも、私は小さな希望として、今考えていたことを口にすることにした。
却下されるだろうけど、言うだけ言ってみる価値はある。

「えっと、野外フェスとかどうですか?プロのバンドの演奏聴くのも勉強になると
思うんですけど」

「あぁ、夏フェスか。いいな!」

澪先輩が頷いてくれる。
良かったと胸を撫で下ろした。
反対されそうだなと思っていた唯先輩も、「面白そう」と同意してくれた。

「ムギは?」

律先輩は、自分の意見を言わずにまだ何も発言していないムギ先輩に訊ねた。
ムギ先輩が、「野外フェス?」と首を傾げる。

「あれ、ムギ、夏フェス知らない?」

「いえ、大体わかるけど……」

「けど?」

「ほら、ああいうのってチケットとか取るの、大変でしょ?それはどうするの?」

ムギ先輩が、心配そうに特長的な眉毛を顰めて言った。
しまった!と心の中で後悔。
大体、高いし暑いし、やっぱり止めておいた方がいいかも。

「んー……確かになあ」

「あの、やっぱり夏フェスは行くのやめときましょう!」

「何で?梓、行きたいんだろ?」

「それはそうですけど……」

「じゃあ折角提案してくれたんだし、部員の意見無視するわけにもいかねーじゃん?
だから行こうぜ、夏フェス!チケットとかはどうにでもなる!」

律先輩はそう言い切って、がたっと勢いよく立ち上がった。
不覚にもかっこいい、さすが部長!なんて思ってしまった。
「りっちゃん、どしたの?」と唯先輩が訊ねる。

「さわちゃんに聞きに行こうかと、夏フェスのチケット余ってないか」

……前言撤回。
やっぱり律先輩は律先輩だ。
けど、ほんの少しだけ、律先輩が苦手じゃなくなっていた。

―――――

残り少ない一学期もあっという間に終わり、高校二度目の夏休みがやってきた。
去年は、まだ先輩たちのことがよくわかっていなかったり、仲良くできるか不安
だったりで気乗りしなかった合宿だけど、今年は少し楽しみだった。

合宿は先輩たちのことをよく知るチャンスだし、何より今年は夏フェス。
楽しみにしないわけにはいかない。

それに付け足すとすれば律先輩のことをちゃんと知りたいというのがある。
変な意味じゃなくって、純粋に知りたいと思った。
今の時期にこんなこと考えるのも変かも知れないけど、いずれ軽音部の部長になる私が
先代の部長のことを知っているほうがいいと思う。
少しの好奇心のような気持ちもあるんだけど。

合宿はいよいよ明日だ。
私はベッドに寝転びながら、メールの受信を知らせていた携帯を開けた。
律先輩からメールが届いていた。

『集合時間五分前には駅に集合!五分前行動が大切だぞ!』

「……」

律先輩らしいのか、部長らしいのか。
私はなんと返せばいいかわからずに、何となく宛て先を見てみた。
一斉送信だと思っていたのに、私だけに宛てたものだった。

尚更何か返事を返さないといけないよね。

そう思いながら、返信しようと律先輩の文面を消していると、暫くの空欄のあとに
また何か書いてあるのに気が付いた。
慌てて消すのを止めてもう一度律先輩のメールを開いて、下にスクロールしていくと、
『明日は楽しもうな』という言葉が添えられていた。

「……わかりにくいなあ、もう」

私はそう呟きながらも、心の中で「はい!」と大きく返事をした。
律先輩は、他人の心のテンションを上げるのが上手いのかも知れない、なんて思った。

『律先輩こそ遅れないで下さいね!』

それだけ打つと、送信ボタンを押して携帯を閉じた。
律先輩のメールのせいで、よけいに眠れない気がしたけど、目を閉じると案外
すぐに睡魔はやって来た。

呆としてきた頭で、明日は晴れますように、なんて柄にもなく願ってみた。


次の日、天気は良好で、絶好のライブ日和だった。
朝見た返事の返事らしい『当たり前だろ!』という自信満々なメールの通り、
律先輩は遅れないでちゃんと来た。
一番乗りは、なんと唯先輩だったらしい。

電車に遅れずに乗り込むと、少し緊張していた私はやっと落ち着くことが出来た。
夏フェスには何度か参加しているけど、何度行ってもこの妙な緊張感というか、高揚感が
拭えない。

唯先輩の隣に座り、窓の外を見ていると、いつも以上にハイテンションな声が
聞こえてきた。

「……澪先輩、何か凄いですね」

丸一年は一緒に居るのに、あんなにはしゃいでいる澪先輩は見たことが無い。
唯先輩が「うん」と気の無い返事をする。
こっちはこっちで朝早いせいか眠そうだ。

「なあ律!」

「あー、はいはい」

唯先輩越しに、通路を挟んで横に座る澪先輩を見る。
その横には、律先輩が座っていた。
てっきり一緒になってはしゃいでいると思ったのに、律先輩は優しい顔をしているだけで、
澪先輩の話の聞き役に徹していた。

……律先輩ってあんな顔も出来るんだ。

普段見慣れていない律先輩の表情に、思わず惹きつけられてしまう。
唯先輩の前に座っていたムギ先輩が、「梓ちゃん?」と不思議そうに私の名前を
呼んだ。


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最終更新:2010年12月02日 23:41