澪「……それは、どういうものなんだ?」
梓「そうですね。まず一つは、身体を制約する、同期というものの話なんですけれど」
澪「それはもう律から聞いた。私が知りたいのは、もう一つの方だ」
梓「……感情のほうですか」
澪(身体と感情……)
梓「私たちのおかしさには、秋山先輩といえども気付いてますよね」
澪「……いちいち刺々しいよな。やめてくれないか?」
梓「別にやめたって構いませんよ。ただ、それで苦しむことになるのは秋山先輩ですけど」
澪「……」
梓「いいですか。私たち鏡の中の存在は、鏡の外側に居る私たちの本体に影響されます」
梓「身体は同じ場所に。心は逆さまになるんですよ」
澪「……心が逆さま?」
梓「ベクトルといいますかね。人に対する感情の向け方が逆になります」
澪(……?)
梓「あちらの世界に、Aさんを好きなB君がいるとしましょう」
梓「この鏡の世界では、B君はAさんのことが大っ嫌いです。殺したいほど憎んでいます」
澪「それじゃ、えっと」
梓「先輩の世界とここでは、好きと嫌いが逆転している、と考えていいんじゃないですか」
澪「梓や律や、それにムギの態度も……つまりそういうことか?」
律「……あぁ。そっちの世界での好意と悪意を、裏返しにしただけだ」
澪「なるほどな。やっと理解できたよ」
梓「……なんも分かってない顔ですね」
律「だな。……でも、それがいいさ」
澪(現実の梓の裏返しとはいえ、ウザい)
澪「分かってないって?」
梓「そのままですよ。何も分かってないですし、その方が幸せです」
澪「いいから、梓」
梓「……」チラ
律「……」コク
梓「私たちの悪意が、私たちの実体が持っている好意だということは分かってますよね?」
澪「ああ」
梓「ああ。じゃないですよ。みなまで言わすなです」
梓「つまりその逆はどういうことになりますか?」
澪「逆って……そりゃあ!」
澪(じゃあ、この世界で好意を向けられるっていうことは)
律「……澪。これから和のところに行くなら、鏡の法則だけは忘れるな」
律「お前は鏡の外の人間だ。私たちがこうやって集まっていることが示すように、みんなが澪を心配してる」
律「いつか。いや、すぐにでも帰らなきゃならない」
澪「……」
律「その時のために、忘れないでおくんだ」
澪「……律」
律「私たちはただの虚像かもしれない。でも、物思う心だってちゃんとあるんだ」
律「私たちが考えて、この心が変わった時にも……鏡の法則は保たれる」
澪(……そうか)
澪(だから律は、さっきからこんな悲しそうな顔を……)
律「ごめんな、澪。私の揺らいだ気持ちは、あっちでなんとか修正してくれ」
澪「……バカ律っ」フイッ
律「……へへ」
澪(もしもこのまま、この世界にとどまれば……)
澪(律と、そんな関係になれるのか?)
律「もう行け、澪!」
澪「っ……」
澪(駄目だ! そんな事、律は望んでない!)
澪(そうだ、ただの鏡に映る像……そうなんだ!)
澪「……じゃあみんな、またっ!」ダッ
ガチャッ
澪「……」ダダダ…
澪「っう……」タッ タタッ…
澪(なんでこんな場所……来たくなかったよ)
澪(あんなちょっとの間で、嫌いを好きに覆せるくらいにしか……律は私を好きじゃなかったんだ)
タッタッタッ
澪(当たり前だよな……)
澪(いきなり同性の幼馴染に、好きなんて言われて……嫌悪を抱かないほうがおかしいよ)
澪(唯たちさえあんな状況なのに……律は、無理して私と)
澪「はぁっ、はぁっ……」
澪「……」
澪(和の家に行こう。律が待ってる)
澪(唯を見つけて、一緒に帰るんだ!)ダダッ
――――
憂の部屋
唯「ふぅーっ」クタッ
憂「お姉ちゃん、お疲れ?」
唯「ん……えへへ。少しだけ、かな」
憂「声とか凄かったもんね。よく頑張りました」ナデナデ
唯「もう、憂ってば……」
唯(……ん?)
唯「こ、声っ!」
憂「え?」
唯「声だよっ、私の……聞こえてたよね、隣の部屋に」
憂「隣……お姉ちゃんに? 大丈夫だよ」
憂「お姉ちゃんの可愛い声は私だけのものだもん」
唯「え、でも隣には唯ちゃんが……」
憂「忌み合ってるけど、私はこれでもお姉ちゃんの妹だもん」
憂「ちょっとぐらいは分かってるつもりだよ。お姉ちゃんのこと」
唯「……?」
憂「お姉ちゃんはこんな時にじっとしてるような人じゃないと思うな」
憂「きっと、誰か大事な人のところに行ってるはずだよ」
唯「こんな時って……こんな時?」
憂「ちがうよ。こんな時のことは、つい最近まで考えたことないもん」
憂「私はお姉ちゃんがずっと憎かったから……」
憂「お姉ちゃんが消えないかなって、そんなことばっかり考えてた」
憂「消えるとしたら、どんなことを思いながら消えるのかな……って」
唯「……消える?」
唯(死ぬじゃなくて? なんだか、隕石が落ちてくるみたいな言い回し……)
憂「内緒にしてて、ごめんね」
唯「な、なにを?」
憂「けど教えたら、お姉ちゃんは放っておかなかっただろうから……」
憂「ごめん。お姉ちゃんと一緒にいたかったの。帰ってほしくなかった」
唯「ねぇ、憂っ!」
憂「……ほんとは、お姉ちゃんが鏡を通り抜けてこっちに来ちゃった時、すぐに教えるべきだったんだ」
憂「あっちの世界に帰る方法と……お姉ちゃんが帰らなきゃいけない理由」
唯「私は……帰らないといけないの?」
憂「そういう訳じゃないよ。むしろ、今は……ぜったいに帰ったらだめからね」
唯「……その、理由は?」
憂「お姉ちゃんが決意したことだから」
憂「命をかけて願った、お姉ちゃんの幸せだから。捨てるなんて、ありえない」
唯「命を……?」
――――
平沢家近辺の路上
澪「ん? あそこにいるのは……」
澪「唯、唯ー!?」
ゲロ唯「……」チラッ
澪「よかった会えて……誰かと一緒じゃなかったのか?」
ゲロ唯「……」
澪「唯? どうした?」
ゲロ唯「……何なの? 鬱陶しいよ」
澪「いあっ!?」
澪(鏡の中の唯か……びっくりさせるなよ)
ゲロ唯「私、行くとこあるから」
澪「ま、待って!」ガシッ
澪(律が言っていたはずだ)
澪(鏡の中の人間は、同期するために自分の実体の居場所が分かる……それなら)
澪「頼む、教えてくれ。唯は……こっちの世界に迷い込んできた唯はどこにいる?」
ゲロ唯「私がそれに答えると思う?」
澪「お願いだ、何でもするから!」
ゲロ唯「何もして欲しくなんかない。あえて言うなら、その手を離して」
澪「約束だな?」
ゲロ唯「ん?」
パッ
澪「さあ手を離したぞ、唯の居場所を教えてくれるな?」
ゲロ唯「……そういうところがほんっとに嫌い」
ゲロ唯「はあぁ……。ま、いいや。ついておいで」スタスタ
澪「ありがとう」
ゲロ唯「といっても、すぐそこだけどね。ホラ」
澪「ここは?」
澪(……表札に真鍋って書いてある。それに、ここは唯の家の近くだし)
澪「もしかして、和の家?」
澪(……そういえば私、和の家がどこにあるのかも知らなかったんだな)
ゲロ唯「……」カチ
ピーンポーン
澪(それは返事か?)
ゲロ唯「……」
トタトタ…
和「あら」ガチャッ
和「珍しいわね、唯から会いに来るなんて」
和「で……秋山さんは何かしら?」ギロ
澪(もう慣れた、もう慣れた……)
澪「唯を探しに来たんだ。……和のことも」
和「……唯。何か変よ、こいつ」
唯「放っといていいよ。絡んでもうざいだけだし」
澪(落ち着け、落ち着くんだ私)
澪「それより和、ここに唯がいるんじゃないのか?」
和「いるじゃない、そこに」
澪「じゃなくて! えっと、私は鏡の外から来たんだ。唯も一緒に」
和「……なんですって?」
澪「唯と一緒に、鏡の外から来たんだ。けど途中で唯とはぐれて……」
澪「なんとかして唯と合流して、元の世界に帰りたいんだ」
澪「だから、唯を出してくれ。あっちに帰るために、力を貸して欲しい」
唯「……秋山さん、ちょっと顔貸して」スッ
澪「ん?」
バシンッ
澪(……痛い)ジンジン
ゲロ唯「さっきから勝手なことばっかり言ってさ……自分が正しいとか思ってる?」
澪「どういうことだよ……」
澪「私たちがこの世界に留まり続けるだけでも、誰かの感情に悪い影響を与えることになる」
澪「一刻も早く帰らないといけないんだ!」
和「……どうでもいいけど、玄関先でぎゃーぎゃー騒がないでくれないかしら」
和「唯。それからそこのデカブツも、上がっていいわよ」
ゲロ唯「……そうだね。あがるよ、真鍋さん」
澪「……ごめん、和」
パタンッ
和「私の部屋でいいわよね?」
ゲロ唯「真鍋さんだけトイレでもいいけど」
和「勘弁して頂戴」
スタスタ
ガチャ
和「部屋のものに勝手に触ったら殺すからね」
澪「わ、わかってるよ」
和「どうだか」バタン
澪(信用されないって辛い)
唯「さて、と」
和「そういえば聞きそびれてたけど、唯はどうして私の家に?」
唯「今から話すよ」
澪「……なぁ、唯はどこに」
澪「べふっ」ドスン
唯「真鍋さんには、なんだかんだでお世話になったからね」
唯「消える前に挨拶しておきたくなっただけ」
澪(……消える?)サスリサスリ
和「……鏡の外の唯が、こっちに来てしまったのよね」
ゲロ唯「うん。だから……」
澪「唯、その消えるっていうのは……鏡の法則か?」
ゲロ唯「うるっさいな。分かってるなら訊かないでよ」
澪「そうなんだな?」
ゲロ唯「……そーだよ」
澪(どういうことだ? 同じ場所にいるなら消えないと言っていたじゃないか)
澪(……鏡の外の同じ場所じゃなきゃだめなのか? ……だったら、私たちがこの世界に来た時点で)
和「解せないわね。迷い込んできたなら、すぐ帰してあげればよかったじゃない」
和「いくら唯でも、実体を帰す方法を知らないわけじゃないでしょ?」
ゲロ唯「当たり前じゃん。殴るよ?」
和「殴ってみなさいよ」
ゲロ唯「やめとこ」
和「もう。それで? 唯はどうして消えるのよ」
和「私の目には、唯が消えたがっているようには見えなかったけど」
澪(……消えたがる、という場合もあるのか)
ゲロ唯「実をいうと、昨日から憂がおかしくって」
和「へぇ。元からおかしいけどね」
ゲロ唯「……私のことを好いてた。確かに、もとから私ほどの敵対心は持ってなかったみたいだけど」
ゲロ唯「それってつまり、法則に従うと、そういうことでしょ?」
和「だから……?」
ゲロ唯「私は本当に、ほんとに憂のことが大嫌いだから……」
ゲロ唯「憂に好かれるのが、いやでいやで仕方なかった。消えたい、とさえ思うぐらいにね」
和「……」
ゲロ唯「そんな気持ちで、あの子が元の世界に帰った時のことを考えたんだ」
ゲロ唯「どうしようもないくらい私に憂を嫌わせる、あの子のことを」
ゲロ唯「あの子は……唯ちゃんは、憂を愛してた。私が同情しちゃうくらいに深く、ね」
ゲロ唯「私が存在したいがために、あの子を辛い現実に帰したくはなかったんだ」
和「その代わりに自分が消えても?」
ゲロ唯「構わないよ。しょせんは、ただの物思うだけの幻影なんだしさ」
ゲロ唯「私が消えることで、あの子の幸せな居場所ができるなら……全然いい」
澪(唯は……だからあんなに怒って、唯を連れ帰るのを阻止しようとしたのか)
澪(命をかけて守ってあげた幸せ、だものな……)
和「……なるほどね。唯も優しいところあるんじゃない」
ゲロ唯「何言ってんの? 優しさのかたまりだよ、私」
和「どの口が言うんだか……」
ゲロ唯「殴っていい?」
和「……」
ゲロ唯「やめとこ」
ゲロ唯「……ふぅ」
澪「……」
ゲロ唯「そろそろ、かな」
澪「唯……」
和「……」
ゲロ唯「いい、秋山さん。……いや、澪ちゃんか」
ゲロ唯「そういう訳だから、唯ちゃんはこの世界に置いていってあげて欲しいな……」
ゲロ唯「私が失うものを、命だと思ってくれるなら」
澪「……」
和「おい」
澪「わかってる、わかってるんだよ……」
澪「でも、唯を置いて帰るわけにはいかない」
澪「唯の居場所は鏡の中じゃない。みんなと居た、鏡の外の世界だ」
和「あなたねっ!」
ゲロ唯「いいよ、和ちゃん」
ゲロ唯「澪ちゃんにはまだ分からないだけ。あの子がどんな状況にあるか」
澪「……唯が辛いのは知ってる。けど、逃げたらだめだろ! 向き合わないと」
ゲロ唯「それを本人に……言えるかな」フラッ
澪「……」
和「唯、しっかり」ガシッ
ゲロ唯「ふ、ふふ……えへへ」
ゲロ唯「ねぇ、和ちゃん。……なんだかんだで、最後まで一緒にいてくれてありがとね」
和「……唯らしくないわね」
ゲロ唯「私はほら、入れ替わったからさ。あっちの唯ちゃんっぽく振舞わないと」
和「そういうことにしといてあげるわ」クスッ
和「……さよなら、唯」ギュ
ゲロ唯「えへ……」
最終更新:2010年12月04日 21:30