アットウィキロゴ
考えて見れば馬鹿馬鹿しい話。
スポットライトが当たった幼馴染を、それとも、クラスメイトの声援を浴びる幼馴染を、
はたまた、小柄な可愛らしい後輩とアイコンタクトを取る幼馴染を……
とにかく、どこが、かは具体的には分からないが、私は羨ましいと思った。

自分ではっきりと理解することさえできていないような、ぼんやりとした羨望の為に、
私は、高校三年生の秋、受験勉強が激しさを増すこの時期に、ギターを買った。

丸っこい形の、曲線美を備えた、十五万円のジャズマスターを買った。


「部活、終わっちゃったんだよね」

幼馴染の唯が、ところどころ跳ねている茶色がかった髪の毛を指で櫛りながら、感慨深そうに呟いた。
文化祭も終わり、クラスには何となく疲れた雰囲気が漂っている。

「これからは、勉強に一生懸命にならなくちゃいけないんだよね。
 あずにゃんには可哀相だけど、もうあんまり音楽室には行けないかな」

唯の横顔は少し寂しそうで、細めた目は大人びた雰囲気を生んでいた。
彼女の周りの空気と、私の周りの空気とで、明らかに違っている感じがした。

「そう、私にはよく分からないわね」

なんで、と唯が首をかしげて尋ねた。

「だって、私は一年生の頃から勉強してきたし、それに、生徒会は後輩との繋がりが強くないもの」

ふうん、と唯は微かに優越感の宿った瞳で、私を見つめながら言った。

私が勉強を続けてきたのは、私に計画性があったからで、
仲の良い後輩がいないのは、私が生徒会において公私を混同しなかったからだ。
私がしてきたことには何一つ間違っていることはないのに、何故だか、文化祭が終わったこの時期になって、
私は、私の幼馴染に追いぬかれて、遥か後方に置いて行かれたような気がするのだ。

彼女の眼が、いつも私を嘲っているように感じるのだ。


私は家に帰ると、通学カバンを放って、部屋に入り、スタンドからギターを取った。
理解の出来ない不定形な欲求と焦燥感に駆られて、貯金をおろして買ったジャズマスター。
アンプは無いから、情けない音しか出ないけれど、その音は何となく私の不安を鎮めた。

「そうだ、コード……コードを覚えるんだった」

口に出して、しなければならないことを、
体中に曲線美を備えたこの娘を歌わせるためにしなければならないことを、確認する。
本棚から、薄い本を取り出す。"初心者でも簡単、これから始めるギター"。
ぎこちなく動く左手の指を、ゆっくりと指板に沿って這わせていく。
本の挿絵と同じフレットを抑えて、右手で弦を弾いた。

情けない音がした。

けれど、楽しかったから、私は結局、それから数時間、ギターの練習を続けた。
今までの習慣通りに勉強をすると、床につくのは十二時過ぎになってしまった。

ジャッ、というちっとも綺麗でない音が、スポットライトを浴びるわけでもなく、
部屋の片隅でギターを抱き続ける私の姿が、寝ている間も頭から離れなかった。
教室にいても、友人と、幼馴染と話していても、頭から離れなかった。

ギターにかまけていても、私は今まで通りの成績を維持し続けていた。
少し誇らしくもあるが、悲しくもあった。
大枚をはたいて買ったギターがもたらした変化は、私の睡眠時間の減少だけで、
それすらも、慣れてしまえばどうということもないものだった。

変化は麻薬。


「ちょっと、なにそのでかいの。ウチは唯ちゃんの家とは違って狭いんだから、
 あんまり大きなものを買ってこないでよね」

包丁とまな板が一定のリズムと、安売りの野菜を刻む台所から、母が顔をのぞかせ、口を尖らせた。
私は、母が"大きなもの"と呼んだ箱を胸に抱えて、やはり口を尖らせた。

「良いじゃない、部屋に勉強道具と本しか無いような女子高生なんて私ぐらいしかいないのよ」

なにいってんだか、と母は肩をすくめた。
私も、何を言っているんだろうと自問した。答えは出なかった。

部屋に上がって、私は箱を開けた。
近所の楽器屋で買ってきた、初めてのアンプ、シールド、エフェクター。
本と教科書が整然と並べられた棚の隣にそれらを置くと、なんだか、なにかを手に入れられそうな気がした。

私はギターとアンプを、エフェクターを仲人にして繋げた。
その日、彼女はいつもよりひび割れた声で歌った。
私はいつもより長く彼女を抱き続けた。


「和ちゃん、眼に隈出来てるよ」

いつも通りに登校した朝、教室で、唯がぎょっとしたような眼で私に言った。
それから、そんなに勉強してるの、と心配そうに――彼女自身が、か、私が、かは分からないが――尋ねた。

「別に、今まで通りよ。ちょっと眠れなかっただけ」

私が笑うと、ふうん、と答えて、唯は元軽音楽部の友人たちと談笑を始めた。
彼女は、私のことをそんなに気にかけていないようだった。
私も彼女のことを別に気にかけてはいなかったから、別にいいのだけれど、
いつのまにか深くなってしまった記憶の霧を透かして、過去を見つめてみると、
私と彼女はいつも一緒に笑っていたような気がする。

まだ鮮明に蘇る残像に目を遣ると、高校に入ってから、彼女は部活の友人と笑っていたような気がする。
私は、いつ、誰と笑っていただろうか。
私の眼が私自身を映し出すことは無いから、どれだけ記憶を探っても、答えは見つからない。

その日も帰ってギターを弾いた。
口元を意識してみると、私は、ギターを弾いている時だって笑ってはいなかった。
本棚の脇に置かれたアンプ達は、ただの箱に見えた。

それなのに、あの、汚いギターの不協和音だけが、眠っている間も私を悩ませ続けた。
私を、多分、責め続けていた。

「えっと、もう一回言ってもらえるかしら」

職員室に、綺麗な声が響いた。他の教員たちは殆どどこかへ出ているようで、
部屋には私と、その前で頬杖を突いて眉をひそめる女教師しかいなかった。

「ですから、個人的な趣味でギターを始めたのですが、差し支えなければご教授願いたいと思いまして」

私が言うと、その教師、山中さわ子先生は、相変わらず固いわねえ、と言って苦笑した。

「別にそれはいいのだけれど、もう文化祭が終わって二週間よ。
 そんなことをしている暇があるのかしら」

そう自分で言っておいて、目を細めて笑った。

「まあ、和ちゃんにはそんな心配も必要ないかもね。
 いいわ、勉強の息抜きにもなるかもしれないものね」

どこで教えようか、と尋ねてきた先生を、私は無言で見つめ返した。
先生は少したじろいだ。

「なによ」

「いいえ、ただ、私には練習環境としてどのようなものが適切か分かりませんので、先生に……」

私が全部言い終わらないうちに、先生は大きく手を振って面倒くさそうに言った。

「わかった、わかった、とりあえず私の部屋でしましょう。学校が終わってからでいいのよね?」

はい、と私は頷いた。口元は、そういえば、緩んでいる気がする。


一度家に戻って、部屋のギターをソフトケースに入れる。
傍でアンプ達がじっとこちらを見つめているが、流石にこの大きさのものを持っていくことは出来ない。

「ごめんね」

私は軽く頭を下げてから、部屋を出、家を後にした。


ギターを肩にかけて外を歩くのは、ギターを買った日以来だった。
そもそも、私は唯とは違って、バンドを組んでいるわけでもないから、家の外にギターを持ち出すこと自体、初めてのことだ。
肩にかかるギターの重みが、慣れた道の歩みに、光景に、ほんの少しの変化を与えてくれた。
足を踏み出す速度は遅くなり、心なしか目線は少し下を向いた。

私は、私の背中にいる彼女を、愛しく思った。
いつも通りの街並みに、こんなにも変化を与えてくれる彼女を。

再び学校に着くと、先生の車が校門の前に止まっていた。
窓から眠たそうな目を覗かせて、辺りを窺っていた。

「どうしたんですか、先生?」

先生は、眼をこすりながら、あなたを待ってたんじゃないの、と言った。

「部活もないから、今日は早く帰れるのよ。そう思うとなんだか眠くなっちゃってね」

「よくわかりませんけど」

くすりと笑って、先生は車のドアを開けた。

「まあ、あと数年経ったら分かるわよ。それより、早く乗りなさいな」

後部座席にギターを寝かせて置いて、私は助手席に乗り込んだ。
ミラーに、恋愛成就のお守りがぶら下がっていた。

「それね、ご利益ないのよ。ホントに、ジーザスファックってなもんよね」

指でつまんでくるくると回してみると、裏には某神社と書いてある。
表には、恋愛成就、と刺繍がされていた。

「キリストは関係ないと思いますけど」

「いいじゃない、きっと神様友達だと思うわ」

訳の分からないことを言いながら、先生はキーを差し込んだ。
エンジンが、自分の存在を私たちに知らせるような大きな音を立てると同時に、あっ、と
大きな声が学校の方から聞こえた。

「和ちゃんとさわちゃんだ、どこにいくのさ」

楽しそうに笑いながら歩く、現在を謳歌する女子高生の集団から、独りの女の子がこちらへ駆け寄ってきて、言った。
私の幼馴染の唯だった。怪訝そうに眉をひそめて、彼女は繰り返した。

「ねえ、どこにいくの。二人が一緒にいるところなんて初めて見たよ」

私が口を開こうとすると、隣から、面倒くさそうな声が聞こえた。
先生が上半身をハンドルに預けて、明後日の方向を見ながら、口の端を釣り上げて笑っていた。

「デートよ、デート。二人で眼鏡買いに行くのよ、唯ちゃんはお呼びじゃないの、お分かり?」

それから、眼を丸くしてなにかを言おうとする唯を無視して、先生はアクセルを踏んだ。
タイヤが忙しく回って、私たちと唯との距離を広げていった。

唯は私たちをしばらく見ていたが、直ぐに、軽音楽部の友人たちの元へと小走りに戻っていった。
先生はぼうっと外を眺めて、気だるそうにハンドルを回していた。
先生は、ちらりとこちらに目をやって、優しく笑った。

「別に、唯ちゃんたちのことは嫌いじゃないのよ」

しばらく黙りこんで、私の顔を見つめてから、本当よ、と念を押してきた。
私は何も言っていないのに。
しばらく一本道の道路を走って、赤信号の前で止まったとき、先生はまたこちらを見た。

「あまりじろじろと見られると、照れるんだけどね」

先生がそう言ったから、私は、ごめんなさい、と呟いて慌てて窓の外へ顔を向けた。
後ろで先生が明るく笑っていた。

「和ちゃんは可愛いわね、意外と、唯ちゃんよりも、変なところで子供っぽくて」

窓の外を見たまま、どこがですか、と私は呟いた。
自分で思っていたよりも、不機嫌な、刺々しい声だった。

「さあ、ね。ただ、唯ちゃんは、和ちゃんが知らないことを知ってるわ」

でも、知らなくてもいいのよ、そんなことは。
先生は寂しそうに呟いて、アクセルを踏んだ。
信号は青くなっていたが、私の顔の色は、そんなに急には変わらなかった。
何故だか顔が熱くなっていた。

少しだけ顔の角度を帰ると、視界の端に先生の顔が見えた。
真っ直ぐ、前だけを見つめていた。
歩道を通る女子高生にも、外から聞こえてくる高い笑い声にも惑わされず、真っ直ぐ、前だけを。

なんとなく、私も前を向いた。
どこまでも続きそうな一本道が見えた。


「いらっしゃいませお客様ぁ」

語尾を気だるそうに伸ばして、先生は仰々しくアパートの部屋の扉を開けた。
独り暮らしの部屋らしく、雑然とした部屋だった。

「じろじろ見ないでよね、片付ける時間なかったんだから」

先生は頬をふくらませた。
先生に言われたとおり、部屋の光景から目を逸らすと、私は先生を見つめるしか無くなった。
しばらく見つめていると、先生は、また、笑った。

「ほら、ギター、練習するんでしょう?」

それから先生は、押入れの中から随分と尖ったギターを取り出した。
ストラップを掛けて、長い足を組んで椅子に座る姿は絵になっていて、
先生の前で、丸っこいギターをぎこちなく肩にかけ、おぼつかない手つきでギターを触る私が、情けなく感じられた。

「それ、ジャズマスター?」

先生が目を見開いて言った。

「そうですよ」

「値段は?」

「一五万くらいでしたね」

先生は、呆れたようにため息を付いた。

「和ちゃんは、本当に、訳がわからないわね。十五万って言ったら、アレよ、何回かソープに行ける額よ。
 男の人が綺麗な姉ちゃんといかがわしいこと出来る額なわけよ」

「それが、どうかしましたか」

首を傾げる私に、先生は笑いかけた。

「まあ、どうということはないわね。ただ、最近の高校生はお金持ってて羨ましいな、って思って」

親のお金なんですけどね、と私が言うと、先生はギターをじっと見つめて、
流れるような曲線よね、と言った。
私が真意を測りかねていると、先生は、パンと手を鳴らして、微笑んだ。

「練習、しましょうか」

それから、私は大層情けない思いをした。
ギターの練習を始めた途端に、先生は厳しい顔つきになって、私の弦の押さえ方、ピックの持ち方をいちいち修正した。

「先生、疲れてきました」

私が皮の剥けかけてきた指先を先生に見せたのは、日がすっかり暮れてしまった頃だった。
先生は目を細めて、自分の指を私の掌に押し付けた。

「固いでしょう?」

「そう、ですね」

「皮膚の厚さは、積み上げてきた時間よ。別に、和ちゃんに、全力で練習しろ、だなんて言わないけれど」

勉強もあるしね、と呟いて、先生は、唐突に、私の心臓が飛び跳ねそうなくらい突然に、
私の指を、ちろっと覗かせた舌で舐めた。

「ちょっとヒリヒリしてこない? なんだか気持いいわよね、達成感があって」

先生は私の顔を見て、笑った。

「和ちゃん、可愛い」

「なにがですか」

「顔、真っ赤よ。自分では気づいてないかもしれないけど、ね」

顔に手を当てると、随分と熱くなっていた。
唇を指でなぞると、三日月型に曲がっているのが分かった。

「照れてるわけじゃあ無いんですよ」

「そう、残念ね」

先生はくつくつと笑って、立ち上がった。

「もう暗くなってきたから、家まで送るわよ。断ったりしないでね?」

先生の家を出ようとしたとき、廊下に、額縁に入れられたジグソーパズルが掛けられているのを見た。
真っ直ぐに続いていく、障害物の無い、道路の絵。いくつかピースが欠けていた。

「先生、これ」

「ああ、ジグソーパズルね。暇つぶしに作ったんだけど、ピースが無くなっちゃったのよねえ」

肩をすくめて、先生が笑った。

「和ちゃんは、ものを無くしたりしなさそうよね」

「そうでしょうか」

うん、と屈託なく笑う先生を見て、私は、なんだか先生を騙しているような気分になった。
急に先生の顔を直視できなくなって、目を伏せた。



「あら、先生、ご親切にどうも」

何時だと思っているの、なんてヒステリックな声を上げると私は踏んでいたのだが、
私の母親は、先生の前で、丁寧に頭を下げていた。

「いえ、真鍋さんは成績も優秀ですから、私、音楽教師ではありますが、
 彼女の将来に少しなりとも手助け出来ればと、常々思っておりますので」

何故だか、私は今日、先生と進路について相談したことになっていた。
車の中で、先生は、和ちゃんの親御さんは面倒くさそうよね、と呟いていた。

「まあまあ、ご丁寧にどうも、和もお礼を言いなさいな」

母親に促されて先生を見てみると、母に気付かれないように、小さく舌を出して笑っていた。

「先生、今日は親切にどうもありがとうございました」

先生は、くくっ、とこもった笑い声を立てて、言ったのだった。

「どういたしまして。これからも、カウンセリングまがいのことも兼ねて、度々娘さんのお時間を頂くことがあると思いますが、何卒ご理解の程を」

仰々しく礼をして、先生は車に乗り込み、帰っていった。

「山中先生、ご立派な人ねえ」

感心したように言う母親に、そう、と曖昧な返事をしてから、私は部屋に上がった。
たしかに、さっきの先生の姿は歳相応で、ご立派なものではあったけれど、何だか、違う気がした。


2
最終更新:2010年12月06日 22:24