それからも、週に何度か、私は先生の家でギターの練習をした。
学業には支障を来さないように、先生も気を遣ってくれているようだった。
暗くなる前に、私を追い立てるように急かす先生を、何故だか憎々しく思った。
先生の家を離れると、また、いつまでも、ギターの不協和音が私の頭に響いた。
頭蓋骨を割って、血管を引きちぎって、皮膚を切り裂いて、外へ飛び出しそうなその音が、
私には狂おしいほどに、憎くも、愛しくも感じられた。

「和ちゃん、見て見て、ほら、志望校判定、かなり良くなってるでしょ?」

本格的に冷え込んできたある日、唯が誇らしげに一枚の紙切れを見せてきた。
私には、ああ、そうね、と当たり障りの無い返事をすることしか出来なかった。
すると、唯は心なしか不機嫌になった。

「唯ちゃん、最近勉強頑張ってたものね」

元軽音楽部の友人に言われて、唯は頬を緩めた。
それから、彼女は私の方を見ようともせず、友人たちと談笑していた。
私はため息を付いた。

卑怯じゃないか、そんなの。
だって、唯は私と一緒にいないから、いつも部活の友人とばかり一緒にいるから、私には、
唯が何を言って欲しいかなんて分からないのに、どうして、どうして唯は私に求めるのか。
鬱々とした忘却の草むらの奥には、たしかに私と彼女の、幼馴染としての十数年があるけれど、それ以外には、何も無いのに。

どうして、どうして、どうして……

疑問と不信は私の脳内を何度も駆け巡り、増幅され、フィードバックノイズのように精神を埋め尽くした。


「ねえねえ、和ちゃん、今日は音楽室でギターの練習しましょうよ」

ある日先生は私を職員室に呼び出して、こんなことを言った。
私の返事を聞かずに、先生はこつん、と私の額を人差し指でついて、微笑んだ。

「約束よ、破っちゃ駄目だからね」

はあ、と私は軽く頷いた。


「それで、来たわけですか。先生も、何だかよく分からない人ですよね」

長い黒髪を二つに束ねた女の子が、音楽室の水槽のスッポンモドキに餌をやりながら、苦笑した。
彼女は、軽音楽部の下級生だ。
唯と一緒にスポットライトを浴び、唯とアイコンタクトをした、中野梓ちゃんだ。

「和さん、和さん」

ぴっと人差し指を立てる仕草は、小柄で童顔な彼女がやると微笑ましく、可愛らしく見えた。
梓ちゃんは高い声を作って言った。

「アタイ、スッポンモドキのトンちゃん、チェケラッチョイ!」

一瞬、彼女が何をしたいのか分からなかったが、嬉しそうににこにこと笑っているのを見て、私も自然と笑みが零れた。

「その亀、喋るんだ」

「アタイ、亀じゃなくてスッポンモドキよ!」

彼女は、私が鬱陶しいと言うまで、甲高い声でしゃべり続けた。
私に、その声をやめるように言われると、彼女は頬を膨らませて、不満げに言った。

「可愛いから良いじゃないですかあ」

放課後で、まがりなりにも部活動中だと言うのに、彼女は暇らしい。
さっきから音楽室内をうろうろと歩きまわるばかりで、落ち着かない。
冬の弱々しい日光が当たる窓際の、床に直接座って、体操座りをして私は言った。

「梓ちゃん、思っていたのとは随分違う人ね。もっと気難しいかと思ってた」

ぴた、と急に動きを止めて、梓ちゃんは真っ直ぐ私を見つめて、言った。

「どうしてそう思っていたんですか?」

「ん、唯たちからそう聞いてたから、かな」

「どんなことを、聞いていたんですか?」

奥が見えない、髪と同じ真っ黒な瞳で私を見つめるものだから、私はたじろいでしまった。

「ツインテールで、小柄で、可愛くて、練習熱心だって……」

梓ちゃんは、ゆっくりと自分の髪に手を伸ばして、髪留めを解いた。
長い髪が、自由に宙で踊った。
梓ちゃんが首を軽く振ると、二つに分かれていた髪は完全に一纏まりになり、
先程まで二つに結ばれていた跡を、完全に消してしまった。

「ツインテールじゃあ無くなったわねえ」

頬杖を突いて私が言うと、梓ちゃんは、髪で光を反射させながら、輝く笑顔で言った。

「ええ、だから、そんな又聞きのイメージで私を判断しないでくださいね。
 ツインテールで、小柄で、可愛くて……そんな言葉じゃなくて、ね。
 だって、もう私はツインテールですらないんですから、そうでしょう?」

彼女が何を伝えようとしているのか、分からなかったけれど、私は何となく自分の髪を撫で付けて、
梓ちゃんに肩をすくめてみせた。

「私、髪短いのよね」

梓ちゃんは、髪を下ろしたからかは分からないが、幾分か大人びて見える表情で、笑った。

「似あっていますよ」

それから、私たちは長い間何も話さなかった。
私はぼうっと天井を眺めて、梓ちゃんは頬杖を突きながらスッポンモドキを眺めていた。
ちらりと梓ちゃんの横顔を見ると、その表情は、最近の唯と同じように大人びていて、
けれど、その目には優越感など欠片もなく、気のせいであればいいと思うのだが、どこか悲哀と、憎悪を孕んでいるようだった。

彼女の目の中で、光る水面がゆらゆらと揺れた。


「ごめんなさいねえ、遅くなっちゃったわ」

数十分して、ようやく先生は音楽室に顔を出した。
そのころには、もう時計は五時半を回っていた。
先生はまず梓ちゃんを見て、眉をひそめて、

「なによ、そんな綺麗な髪の毛見せつけてくれて、私への当てつけなの?」

と言ってから、私を見て、笑った。

「床に直接座ると汚れるわよ」

梓ちゃんは、水槽から目を離さずに、間延びした口調で言った。

「先生が和さん呼んだんでしょう、呼び出した本人が遅れてどうするんですかあ」

ご尤もな意見だったが、なんだか、必要以上の悪意を含んでいるように感じられた。
先生は、けらけらと笑って、明るく言った。

「あら、和ちゃんと一緒にいるのは嫌だったかしら」

「そういう話じゃないでしょうに」

梓ちゃんは水槽から少し離れて、ぺたん、と座り込んだ。
それから私のほうを見て、にこりと笑った。

「和さんの、真似、です」

そして、ひとつ、大きく欠伸をした。
それを見て、先生はまた大声で笑い出して、私の傍に来て、梓ちゃんを指さしながら言った。

「ね、ふてぶてしいでしょう、猫みたいじゃあない?」

梓ちゃんは、こっちを見てにやにやと笑いながら言った。

「違うわ、アタイはスッポンモドキよ」

自分で言っておきながら、梓ちゃんは自分で大笑いした。先生も釣られて笑った。
私は自分の喉の奥が妙な震え方をするのに気づいて、口に手を当ててみると、くつくつと笑っているのに気づいた。

「今日はもう暗くなってきてるから、和ちゃんには悪いけれど、ギターの練習はなしにしましょう」

その代わり、いい所に連れて行ってあげる、と言って、先生はくすりと笑った。
梓ちゃんは、またですか、と言ってため息を付いた。

二人とも、楽しそうだった。多分、私も楽しかった。


「こっちの娘たちにはオレンジジュースね、あと、焼き鳥」

先生は私たちを寂れた町外れの居酒屋に連れてきた。
先生の車には、私と、梓ちゃんと、先生の、三本のギターが積んである。

「相変わらずボロ臭い店ですね」

梓ちゃんは何度かこの店に来ているらしく、店長に面と向かって言い放った。
少し太った中年の店長は、気を悪くした様子もなく、豪快に笑った。

「いいじゃねえか、こっちのほうが、たまに来る別嬪さんの姿も映えるってもんだろう?」

先生、店長さんは私のことを言っているんですよ、と梓ちゃんは先生の顔をのぞき込みながら言った。
先生は人差し指で梓ちゃんの額を弾いて、ジョッキのビールを飲みながら言った。

「貴方は可愛いけど、美人じゃないわよ。美人は私、和ちゃんはイケメン、でしょう、店長?」

花盛りを過ぎたくせに何を、とぼそぼそ呟く梓ちゃんを見て、店長さんは声を押し殺して笑った。
先生は少しむっとした様子で、席を立ち上がった。

「大人には大人の魅力があるのよ、ツルペタ娘が、舐めた口聞いてんじゃないわよ」

そして、髪を揺らしながら店の外へ出て、車に積んであったフライングVを抱えて戻ってきた。
店長さんが嬉しそうな声を上げた。

「おう、今日は随分と乗り気じゃないか」

状況がいまいち飲み込めない私に、梓ちゃんが、焼き鳥をほおばりながら言った。

「機嫌が悪くなると、先生ギター弾き始めるんですよ。私より上手いからって、嫌味ですよね」

言葉の割に、期待しているような様子で、先生のほうをずっと眺めていた。
私がオレンジジュースに口を付けると、ギターの音と共に、澄んだ声が聞こえてきた。

「show me how you do that trick...」

多分、外国の歌。歌詞は簡単な英語で、意味を取るくらいのことは私にも出来た。
女の人と男の人が、愛を歌いながら踊っている。
目の眩むような崖の上で回りながら、顔に、頭にキスをする。

「daylight licked me into shape.i must have been asleep for days...」

場面は変わって、男の人が独りきり。
気がつけば彼は独りきり。荒れ狂う海に、愛しい彼女を奪われて、彼女は彼の心の奥底に沈んで……

「just like heaven...」

まるで天国のようさ。

先生の歌が終わると、梓ちゃんは嬉しそうに拍手をした。

「大したもんです、本当に」

何様のつもりよ、なんて言いながら、先生も眉尻を下げて笑っていた。

「あら、和ちゃんは、つまらなかったかしら?」

心配そうに私の顔をのぞき込みながら、不安気に先生は言った。
先生の髪から、柑橘系のいい香りが漂ってきた。
しどろもどろになりながら、私は言った。

「いえ、そんなことはないです、すごく……すごく、綺麗でした」

先生ははにかんで、短く、ありがとう、とだけ言った。
首を軽く横に傾けたお陰で、先生の肩にかかった髪は、とても柔らかそうに見えた。

「ギターの演奏聞いておいて、綺麗って言う感想も無いもんだと思いますけどね」

けらけらと笑いながら、梓ちゃんが言った。
楽しそうにオレンジジュースを飲んでいた。

「帰るんですか」

居酒屋から出て、先生の車に乗り込むとすぐに、梓ちゃんが顔を曇らせて言った。
長い髪が顔にかかっていて表情は読み取れなかった。
先生が黙ってアクセルを踏むと、先生と、梓ちゃんの長い髪が揺れた。

「和さんに聞いてるんです」

顔を上げて、髪を手で払って梓ちゃんは言った。
不気味なほど、無表情だった。帰るんですか、と梓ちゃんは繰り返した。

「そりゃあ、もう暗いもの、帰らないと……なんだか、ごめんね梓ちゃん」

訳もわからず、空気に流されて私が謝ると、梓ちゃんは窓の外へ顔を向けた。
別に、謝ってほしいわけじゃあ無いんですけどね、とぼそりと呟いた。

「こら、梓ちゃんも我侭言っちゃ駄目よ。和ちゃんも勉強があるし、あなただって、ご両親が心配してるでしょうに」

梓ちゃんはミラー越しに先生を睨んで、口の端を吊り上げて笑った。
三日月型に歪んだ唇から、掠れた声が漏れた。

「勉強、勉強、勉強……そればっかりですね、先生は」

そして、ぐるりと顔を私の方へ向けて、震えた声で言った。

「ねえ、和さんは、この時期にこんな風に外を出歩く余裕があるんですね」

「まあ、そうね、一年生の時からちゃんと積み重ねていたから、ある程度はね」

「そうですか、ところで、和さん、三年生っていうのは、受験生っていうのは、」

メールも送ってこれないくらいに忙しいんですか?

梓ちゃんの声が、空気を震わせて、それから、車外の音と混ざり合った。
先生が、静かに梓ちゃんの名前を呼ぶと、梓ちゃんは黙り込んでしまった。
なんとなく気まずくなって、運転席に目を遣ると、ミラーの中の先生が、寂しそうな目でため息を付いているのが見えた。

「ねえ、梓ちゃん」

私が名前を呼ぶと、梓ちゃんは華奢な肩を大きく一瞬震わせて、怯えた目付きで私を見つめた。

「そんなふうに怯える理由がわからないわ……はい」

私がポケットから携帯電話を取り出して渡すと、梓ちゃんは目を丸くした。

「なんですか、これ」

「なにって、携帯電話。メールがしたかったんじゃないの?」

私の言葉を聞くと、梓ちゃんは、きょとんとして、それから、声を上げて笑った。
私が驚いて先生のほうを見ると、先生も笑っていた。

「和さんって、意外と可笑しな人ですね」

目の淵に涙をためて、梓ちゃんは私の手から携帯をとった。
慣れた手つきで操作をして、あっという間に自己の携帯に連絡先を登録した。

「あ、いいな、梓ちゃん、私にも和ちゃんの連絡先教えてよ」

「土下座したら考えてあげます」

つんと澄まして言う梓ちゃんを見て、どうやら先程までの悩みは消えてしまったようだと思い、私は安心した。
押し殺した笑い声をたてながら、先生は私に言った。

「ねえ、和ちゃん、またたまに音楽室にいらっしゃいな」

梓ちゃんが期待したような様子で、ちらちらと私の方へ視線を向けていた。
なんとなく、子供っぽく思えて、可愛らしかった。

「そうですね、そうします」

そう、ありがとう、と先生は歌うように言った。
何がありがとうなのかは分からなかったけれど、私もオウムのように同じ言葉を返した。
梓ちゃんも、ありがとうございます、と屈託の無い笑顔で私に、そして先生に言った。

先生は、ずっと、優しく微笑んでいた。


それから、週に何度か、私は音楽室に通った。
音楽室にはいつも、梓ちゃんか先生がいて、二人とも机に突っ伏して、だるそうに私を迎えてくれた。
あまり歓迎されているように思えない、と私が言うと、二人は慌てて立ち上がり、必死になって否定するのだった。

「ねえ、唯、梓ちゃんとは最近どう?」

そんなある日のこと、授業前の教室で、何の気なしに私は唯にそんなことを聞いてみた。
唯はしばらく宙を眺めてから、さあ、と情けない声を出して、へらっと笑った。

「さあ、って、一緒に遊びに行ったりはしないの?」

唯は机にだらしなく上半身を預けて、疲れたような口調で言った。

「無理に決まってるじゃんかあ。受験生だよ、私は」

久しぶりに、それこそ、梓ちゃんや先生と音楽室で雑談をすることが増えてから滅多に聞こえなくなっていたが、
ギターの不協和音を聞いた。
もっと上手く扱え、と罵るような、不協和音を聞いた。
同時に浮かび上がってきたのは、無駄に広々とした音楽室で、独りでギターを鳴らす、小柄な女の子の姿だった。
ただ過去の記憶だけを、ギターを通じて表現しようとするような、小柄な女の子の姿だった。

「そう、そうなんだ」

独りで勝手に納得して、頷く私を眺めて、幼馴染は携帯をいじりだした。
ちらりと見えた待ち受け画面には、最近のものと思われる、部活動の友達と移ったプリクラが背景として設定されていた。
梓ちゃんの姿は無かった。

「そっか」

私は、ただそれだけを繰り返した。


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最終更新:2010年12月06日 22:25