授業が終わり、終礼が済むと、私は急いで教室を出て、音楽室へ向かおうとした。
けれど、幼馴染に止められた。

「和ちゃん、一緒に帰ろうよ」

馴れ馴れしく私の腕を掴む幼馴染の手を、私は荒っぽく払った。
幼馴染は、目を大きく見開いて言った。

「なに、どうしたの?」

彼女は目を開いていたけれど、盲目だった。
ずっと前から、私と彼女との間には、深い霧が立ち込めていたというのに、彼女はまだ私が見えている気でいた。
私には、彼女の顔はもう見えなかったから、何の遠慮もなく私は言い放った。

「唯、ちょっと黙ってて、邪魔をしないで」

ぽかんと口を開ける幼馴染を後にして、私は駆けだした。
先生が、教室の中から、一度私の名前を呼んだ。
心配するような声だった。

私が廊下を踏み、蹴って前に進むたびに、肩にかかったバッグは大きく揺れた。
二年生のいる階を走り抜けるときに、癖毛を二つにしばった女の子が、驚いたように言った。

「最近はランニングが流行ってんのかな」

なんだか的はずれな意見で、思わず足を止めそうになったが、バッグの動きに引きずられて、
私は音楽室まで足を止めること無く走り続けた。

音楽室の扉の前に立つと、中から、分厚い音の壁が迫ってきた。
おそるおそるドアを開けると、予想以上の勢いで、音は私を飲み込んだ。

独りでいるには広すぎる、二人でいても落ち着かない、三人でいても肌寒い、
そんな冬の音楽室の中で、梓ちゃんは、地べたに直接座って、ギターを鳴らしていた。
アンプから、洪水のように音が流れだしていて、梓ちゃんはその中に溺れているようだった。

「and moving lips to breathe her name...」

梓ちゃんは、寝起きのような気だるい声で、先生が居酒屋で歌ったのと同じ歌を口ずさんでいた。
ノイズに埋もれて聞き取りづらかったけれど、梓ちゃんは小さな口を動かし、歌っていた。


「and found myself alone alone alone...」

私だってネイティブじゃあないから偉そうなことは言えないけれど、梓ちゃんの発音は拙かった。
舌の回らない歌い方もあって、まるで子どもが歌っているようだった。

あんどふぁうんまいせるふあろおんあろん、あろおん……

舌っ足らずな発音で、彼女は歌っていた。
気づくと僕は、ひとり、ひとり、独りきり……

久しぶりに見た彼女のツインテール姿は、なんだか窮屈そうだった。
私はアンプばかり見ていてこちらにはまったく気がつかない梓ちゃんに、そっと近づいていって、髪留めを解いた。
キン、と大きな音がして、ギターの演奏がやんだ。

「なんだ、和さんか」

梓ちゃんは一度目を伏せて、それから、薄く目を開けて私を見た。

「なんですか、演奏の邪魔はやめてほしいんですけど」

彼女は小さな口の中にこもった声で言った。
さっきの子どもっぽい、可愛い発音と、今の態度とのギャップが可笑しく感じられた。
梓ちゃんは、眉をひそめて言った。

「理由もわからず笑われるっていうのは、あまり気分のいいものじゃありませんよ」

「え、私、笑っていた?」

からかわれていると思ったのか、梓ちゃんはため息を付いて立ち上がった。
相変わらず寝ぼけているような声で言った。

「まあ、別にいいんですけどね。お茶でも入れましょうか、和さんが歓迎しろって五月蝿いから」

生意気なことを言いながらギタをーを肩から下ろす梓ちゃんの姿が、言葉よりずっと小さく見えたから、私は、

「え、ちょっと、なにすんですか!」

彼女の足を払った。大きな音を当てて尻餅をつき、痛みに小さい声を上げてから、彼女は怒ったように言った。

「なんですか、やる気ですか、言っておきますけど、私超強いですからね」

それでもやはり、彼女の背中は小さく、肩幅は狭く、弱々しかった。
だから、私はそっと床に座って、彼女の首に手を回した。

「なんですか」

みぞおちの辺りにある私の手首を、指でつまみながら、梓ちゃんが言った。

「別に、ただ、なんとなく……ねえ、独りじゃないわよ、梓ちゃん」

ぴたりと動きを止めて、それから、梓ちゃんは私の人差し指を弄り始めた。

「何いってんですか」

「ん、なんだろうね」

変なの、と言って、彼女は私の腕を振りほどき立ち上がって、はにかんで笑った。
立ち上がる瞬間に、髪の毛が私の手に触れた。

「変です、けど、嫌いじゃないですね、そういう、訳の分からない感じ」

一瞬、梓ちゃんは顔にかかった髪を払って、遠くの灯台を見るような、
霧の中で、やっと見つけた光を見るような、そんな期待と渇望と憧憬と、ちょっとばかりの不安の混じった目をした。
すごく、大人びて見えた。

「ねえ、和さん、私の演奏、どうでした?」

梓ちゃんは首を傾けて言った。
私の頭の中に残っていたのは、ひび割れた音の中に溺れる梓ちゃんの姿と、
その中に溶け込む、可愛らしい発音の英語だけだったから、しばらく考えて、私は答えた。

「可愛かった、かな」

梓ちゃんは小さく笑って、唇を尖らせた。

「先生には綺麗だって言ったくせに」

何気なく梓ちゃんが放った言葉は、私の心を大きく揺らした。
そう言えば、なんでだろう。


その夜、一通のメールが来た。
夜遅くに、韻も踏んでいない、綺麗でもない、受験英語の長文を読んでいると、メールが届いた。
差出人はさわ子先生で、短く、一言だけ書かれてあった。

『ありがとう』

私は、もう夜も遅いというのに、構わず先生に電話を掛けた。


「さっきのメールのことかしら?」

「ええ、そうです」

「そっか、なんでお礼を言われたのか、知りたい?」

私は、はい、と答えようとしたが、その言葉を飲み込んで、首を振った。

「そういうわけじゃあないんです、ただ……」

「ただ?」

「私も、ありがとう、って言いたくて」

何がよ、と先生は明るく言った。
私も、何でしょうね、と返した。


「えぇ……先生、余計なこと言わないでくださいよ」

一二月も第二金曜日に入り、コートを着て音楽室でお茶会を開いていると、梓ちゃんが顔をしかめて言った。
そろそろ、本腰入れて勉強したほうが良いんじゃないの、と言った先生に対しての、非難だった。

「余計なことじゃあないと思うわよ。和ちゃんの一生に関わることなんだから」

先生がそう言うと、梓ちゃんは急に姿勢を正して、私と先生の顔を交互に見みつめて、
重々しく口を開いた。

「ないですよ、一生に関わるような重大なことなんて、実はあまり無いんですよ」

私は紅茶を口に含んで、頭の中でその言葉の意味を咀嚼していたが、
先生は直ぐに梓ちゃんの真意を汲み取ったようで、苦々しく笑った。

「あなた、まだそんなことを言ってるの」

梓ちゃんは、急に真面目な顔つきを崩して、へらっと笑った。

「なんちって、ジョークですよ、先生もそんな怖い顔しないでください。
 和さん、勉強がんばってくださいねえ。ギターも、たまには練習しといたほうがいいですよ」

それから、立ち上がって、窓のほうへ駆けていき、窓に手をつけた。
うひゃあ、と小さく声を上げた。

「寒いですね、寒くなりますね、これからの時期は」

うん、寒いわねえ、と先生が繰り返した。
二人とも、どこか遠くを見ているようだった。

「寒いなら、ストーブ置きます? 生徒会室に余りがあったと思いますけど」

私が紅茶を飲み込んでから言うと、先生は楽しそうな顔を、梓ちゃんは困ったような顔をした。
先生は、あっけらかんとした声で、

「やっぱり、おかしいなあ、和ちゃんは」

と言って、梓ちゃんは、大袈裟に肩をすくめてみせた。

「本当に」

なんだか、からかわれているような気がして、私が抗議の声をあげようとすると、先生が立ち上がり、手を叩いた。

「これからは寒くなるわ、そうよね、梓ちゃん?」

梓ちゃんは、また窓の外に顔を向けて、頷いた。

「そうですね、雪も降るかもしれませんね。雨よりはいくらかマシですけど」

そして、さわ子先生も大きく頷いて、そして、覚悟を決めたように、少し寂しそうな、
けれど強い声で言った。

「だから、今日は私の家でお泊り会をしましょう。みんなで集まって寝れば、今日だけは、寒くならないから」

私は、その素敵な提案に、胸が踊るのを感じた。
梓ちゃんは、そんな私の心情に気がついたのか、優しく微笑んで、けれど、そっけない口調で先生に言った。

「家って、あのボロいアパートのことですか」

先生は、眉をひそめて、口を歪めて笑った。

「お泊り会は、不躾な猫を躾ける会に変わったわ」

梓ちゃんは、あー、と声を上げて、髪を撫で付けながら、笑った。

「しまった、口を滑らせた」

くすくすと穏やかに笑う二人を見ながら、私もあたたかい気持ちに包まれたが、なんとなく不自然な気がした、
どこかに違和感があった。
耳を澄ましてみると、どこかから、あの不協和音が聞こえていた。


「うわあ、前来た時より汚くなってませんか、この部屋」

先生の部屋に入るなり、梓ちゃんは言い放った。
先生は梓ちゃんを小突いて、苦笑した。

「あなた、本当に今夜は覚悟しておきなさいよ。ちゃんと躾けるから」

前も来たことがあるの、と私が尋ねると、梓ちゃんは、一度だけ、頷いて、
いたずらっぽく笑った。

「ふふ、大丈夫よ、安心して、この人とは何でもないわ、私はあなただけを愛してる」

何言ってんのよ、と私が彼女の唇に人差し指を当てると、梓ちゃんは顔を綻ばせた。

「なんなんでしょうねえ」

長い髪のてっぺんから先まで、指を通して、くるりと私に背を向けた。
あ、と短く声を上げた。

「これ、ジグソーパズル」

じっと、ピースの欠けたパズルを見つめて、もう一度、ジグソーパズル、と呟いた。
先生は、ああ、と相槌を打って、言った。

「そう、前梓ちゃんが来たときに作ってたやつよ。ピース無くしちゃって」

この有様。先生は両手を広げた。
そして、梓ちゃんは、いたずらっぽい、優しい微笑を口に浮かべて、こちらを振り返った。
小さい手の、細い人差し指を薄い唇に当てて、首を傾げて言った。

「先生、厚紙、あります?」

先生が持ってきた厚紙を、器用に鋏で切り取って、油性ペンで字を書いた。
それから、額縁から取り出したジグソーパズルにゆっくりはめ込んで、誇らしげに胸を張った。

「はい、先生、感謝してくださいよね、これでジグソーパズル完成です」

空いていた部分に、"梓"と"和"とそれぞれ書かれたピースが二枚ずつ、合わせて四枚はめられていた。
先生が悲しそうに言った。

「ちょっと、私は?」

梓ちゃんは、一瞬固まって、もう、わがままなんだから、とため息を付いた。
ミミズが這ったような字で、ピースに書き加えた。
"梓わ子"、"さ和子"と書かれたピースを見て、先生は一度口を開いて、直ぐに閉じた。
そして、満足気に頷いた。

「うん、これでいいわ、ありがとう、梓ちゃん」

例えば、彼女の、そして彼女たちの高校生活が、ひとつの絵だったとする。
ひとつの絵として、彼女たちの心のなかに刻まれたとする。
その絵は、どうやって描かれた?
絵の具になる何かが、キャンバスになる何かが、筆になる何かが、どこかに転がっていたとでも?
もちろん、そんなことはありえない。だから、大抵の人は、絵なんて描けない。
それなのに、彼女たちは描き上げてしまったのだ。大きなキャンバスに、満足いくまで、綺羅びやかな絵を。

「それでですねえ、和さん、先輩たちったら酷いんですよお」

絵の中に書かれたけれど、絵を所有することを許されなかった子が、今、私の部屋で、ビールを飲んでいる。
ビールを飲みながら、同じく、ただ絵の一部になることしか許されなかった子に、延々と愚痴を垂れている。

「四人で勉強したとか、遊びに行ったとか言われたって困るじゃあないですか、ねえ?」

長い髪を乱して、短髪の、眼鏡の女の子の首に、彼女は腕を回していた。
幼い顔つきだったが、アルコールの入った目だけが妖艶に輝いていた。

「うん、気持ちは、分かる……かな」

和ちゃんは首をかしげて、けれど、いつものような曖昧な誤魔化すような笑い方ではなく、
優しく微笑んで、梓ちゃんの髪の毛を撫でながら言った。

「ふふ、でしょう、だから、大好きです……先生も、和さんも……」

こくん、と梓ちゃんの頭が揺れた。和ちゃんの肩に額をのせて、静かに寝息を立てて眠っていた。
和ちゃんは私の顔を見て、苦笑した。

「寝ちゃいましたねえ」

そして、一度も口を付けてない、ビールが注がれたコップの縁を、人差し指でなぞって、
遠慮がちに私を見つめて、言った。

「先生と梓ちゃんはビールを飲んで、私は飲まない。
 先生と梓ちゃんは、何か同じことを知っていて、私は知らない」

いつまでも、私は仲間はずれですか、そう尋ねる彼女の顔が、あまりにも輝いていたから、私は胸が痛くなった。
彼女は、多分、私たちの仲間になれると思っている。期待している。

「知らなくてもいいの、そんなことは」

「知りたいな」

彼女は強い口調で言った。
私は肩をすくめた。

「教えたくないな、私は」

和ちゃんはじっと私の顔を見つめて、眉を下げて笑った。
そうですか、と大人びた声で言った。

「じゃあ、私が自分で知るしか無いんでしょうね」

そうね、と返しなら、私は、できればそんな事にはなって欲しくないと思った。
けれど、多分、それは無理だろう。
あるいは、和ちゃんの四肢を鎖に繋いで、壁に貼り付けて、ただ、過ぎ去っていく現在だけを感じさせれば、可能かもしれない。
けれど、未来と過去の境界線でしか無い、その一瞬だけを見るなんてことは、並大抵のことではないから、私は彼女にそんなことは求めない。


「きっと、そのうち分かるんでしょうね。分かってほしくなくても」

私の言葉に、和ちゃんは返事をしなかった。
ただ、黙って、温くなったビールを口に含んで、飲み込んだ。
苦い、と彼女は苦笑した……


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最終更新:2010年12月06日 22:27