日曜の夜。
旧型のテレビが流すノイズ混じりの天気予報が、例年より早い冬の訪れを告げていた。
雲の流れが速い。丸い月が現れては隠れ、ビルの谷間を吹き抜ける木枯らしが女々しい悲鳴を上げる。
街並みに埋もれるようにして佇む二階建ての古ぼけたアパート。その一室。薄暗い照明に照らされた六畳一間から窓の外を見上げ、
中野梓は小さく溜め息をついた。
明日から、外を出歩くには本格的な厚着が必要になるだろう。そうだ、出勤前にドタバタせずに済むよう、コートの準備をしておかなくては…
出勤、という言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、梓の胃がずきずきと痛んだ。どす黒い手でみぞおちを絞られるような不快な激痛。小さな口から呻き声が漏れる。
テーブルの上に、震える手を伸ばす。そこには大小様々、色とりどりの薬が乱雑に置いてあった。カプセル剤、錠剤…市販のものではなく、医師の処方箋だったり、怪しげな通販サイトから入手したものである。
その中から胃薬をつかみ取り、一つ取り出して口に放り込む。
しばらくすると激痛は和らぎ、やがて消えていった。
ふぅ…と安堵の息を吐きながら、梓は思う。ここまでなのか。明日から一週間、また仕事漬けの日々が始まることに対し、自分の身体はここまでストレスを感じるようになってしまったのか。
否、それはストレスというより最早、『拒絶反応』に近かった。
いかんいかん。ここ数日どうもネガティブな考えに取り憑かれている気がする。
少しでも薬の量を減らそうと努力していたが、その結果がこれでは話にならない。リラックスしなくては。
そう思い、またテーブルの上に手を伸ばすと、さっきとは違う薬をつかみ取る。
精神安定剤。レキソタンの5mg錠。どんな不安も消し飛ばす魔法の薬。
それを水なしでぐい、と飲み込み、オーディオのスイッチを入れる。
どことなくレトロな匂いのする特徴的な音色のギターと、硬いピックで思い切り弦を弾いたような存在感のあるベースに乗せて、ソウル・ミュージシャンのような吐息混じりの声で男が歌う。
「Fallen leaves
I can see the sun is setting early today
(枯れ葉が落ちる、日が暮れるのも早くなってきた)」
梓は部屋の隅に寝かせてあったハードケースの蓋を、宝箱でも開けるかようにゆっくりと上に持ち上げる。
その中に几帳面に収納されていたのは、歯切れの良いサウンドが特徴の赤いフェンダー・ムスタング。梓の相棒とでもいうべきギターだ。
「So it goes,seasons pass me away but I'm not ready for a jacket
(季節は僕を置き去りにしていくけれど、ジャケットの準備はまだできていない)」
肩からストラップをかけて椅子に座り、小さな指でピックを摘む。
小学生の頃からの、梓の唯一と言っていい趣味。梓が一日の中で唯一至福を感じる瞬間。
全身を蝕む憂いも苦しみも、全てを忘れられる瞬間。
「Day by day I can feel the wind is getting colder at night
(日ごとに夜の風が冷たくなっていく)」
左手が魔法のように指盤の上を這い回り、複雑なコードを押さえる。
スピーカーから流れる洒落たサウンドに合わせ、右手がカッティングによる小気味良いリズムを作り出す。
『So it goes,seasons blow me away
Now I keep my hands in the pocket
(季節が僕に吹き付けて、僕はポケットから手を出せないよ)』
憂鬱げな男の歌声に、可愛いらしい梓の声が重なる。
こんな時梓は、自分が誰かと共にバンドを組み、ステージの上に立ち、ライブハウスの観客に向けて音楽を届けているような、そんな様を想像する。
それは叶わなかった幼き日の梓の夢。憧れ。ボロボロに打ち砕かれた想い。
だからこそ、梓は強く強くその光景を思い描く。暴れ馬のように六弦をかき鳴らす。声を張り上げて、歌う。
『Cloudy sky and winter days
It gets me down,so I just stay in bed
And then I smell the scent of green then again
Spring is just not enough
(曇った空と冬の日々
気が重くなってベッドから抜け出せない
そしたら、緑の匂いがしたんだ
そうは言っても、春じゃまだまだ物足りない)』
『Waiting for the summer Saturday night
We will stay up all day all night』
僕は待ってる、夏の土曜日を。一日中、一晩中、起き続けて…か。
幼い自分は夢見ていたと思う。命を輝かす青い春、そしてその先にある深緑の季節。目に映る全てのものが美しく光り輝き、世界中が歓喜の叫びに満ち溢れているかのような…そんな時期が、自分の人生にもきっと来るのだろうと思っていた。無邪気に、頑なに、来ると信じていた。
ところが自分には、光の季節はやっては来なかった。
梓の中の時計の針は、あの中学時代から止まったまま動いてはくれない。ずっと夏を待ち続けても、梓の心の中には今日もただ終わらない冬があるだけ。今、窓の外に浮かぶあの寒空のように。
梓の精神は、その考えに取り乱すでもなく、地に伏して戦慄くでもなく、ただ、それを事実として受け入れていた。何の動揺も焦燥もなく、ただ受け入れていた。
梓には、それが薬の作用なのか、それとも心の底からのある種の諦めが為せる業なのか、自分でもよくわからなかった。わからないまま、ただただ手を動かし音を出すことに没頭していった。
小学校四年生の時。
ジャズバンドをやっていた父親の影響で、ギターを始めた。幼い梓にとって、ぴんと張られた六本の弦はどんなゲームよりも漫画よりも魅力的な、魔法の玩具だった。
初めて押さえられるようになったコードは、Eだったか、Gだったか。
自分の左手で押さえる弦が、小さな指で押さえる弦が、調和のとれた和音を鳴り響かせているのが不思議で信じられなかった。
その日は自分の部屋で一晩中、顔を輝かせながら簡単なコードを延々と鳴らし続けていた。綺麗だな。なんて綺麗なんだろう。そう思いながら。
手の小ささなど気にならなかった。梓は練習に練習を重ね、中学校に入学する頃には父の周囲の大人達が驚き、天才と褒め称えるほどの腕前に達していた。
その頃から、夢が出来た。誰かとバンドを組みたい。四、五人、いやスリーピースでもいい。それが無理なら二人のユニットでもいい。
とにかく楽器を弾くことの感動を、音を出すことの感動を分かち合える人と一緒に、何かを奏でてみたい。そしてそれが、願わくばリスナーに勇気や希望、安らぎを与える音楽になればいい。そんなことを考えていた。
だから中学では迷わず、軽音楽部に入部した。希望に満ち溢れた季節が、これからの自分の行く先には待っている。そんな確信めいた予感に心躍らせながら。
そこで梓は、酷いいじめにあった。
軽音楽部の先輩達は、皆中学から楽器を始めた人ばかりで、梓は入部当初から既に部内のギターパートの誰よりも技量があった。
とはいえ、それを得意に思ったり先輩を見下したりしたことはない。ただ始めるのが早いか遅いかの違いで、誰でも練習すればある程度のレベルにはなる。自分も何か役に立てれば。先輩方の上達の助けになれば。その一心で一生懸命にアドバイスをした。練習にも付き合った。
しかし上級生からすれば、それが気に入らなかった。
ただでさえ艶やかな長い黒髪と可愛いらしい顔立ちで目立つ一年生に、ギターの腕前ですら勝てないとなると面目は丸つぶれである。
それを鼻にかける様子もなく、あまつさえ悪意なく助言まで与えてくる優等生的な態度に嫌悪感や嫉妬心を抱いても不思議ではない。
自らが純粋すぎたがゆえ、透明すぎたがゆえにその事に気付けなかった梓は、次第に部内での居場所を無くしていった。
結局、入部から一ヶ月足らず、結局一度も他人と一緒に演奏することのないまま、梓は軽音楽部を退部した。
その時に負ったトラウマは、少女のか弱い精神をズタズタに引き裂いてしまった。
人付き合いは苦手になり、すぐに学校へも行かなくなった。
人前でギターを弾くこともしなくなった。心を閉ざし、自分の部屋に引きこもって、そこで延々と弾き続けた。常に右手と左手を動かしていなければ、それらを別のこと―例えば鋭利なカッターで手首をザクリと切りつけたり―に使いそうで恐ろしかった。
少女は妄想の中に沈んだ。自分の夢が叶った妄想。自分が心通じ合う仲間と共に、ライブハウスのステージの上でアンサンブルを奏でている妄想。
そんな妄想とともに演奏に没頭している間だけは、悪しき思い出もこれから先の人生への不安も全て、忘れることができた。
親に精神科へ連れて行かれた。様々な薬も、この頃から服用し始めた。
精神安定剤、レキソタン。睡眠薬、ハルシオン。眠り病と偽って手に入れた合法覚醒剤、リタリン。
薬漬けで精神をコントロールし、ただひたすらギターをかき鳴らす。そんな生活が六年近く続いた。
高校は一応、通信制を卒業した。
その後、これでは本格的にダメだと思い直し、親の反対を押し切って、実家から離れたこの街の小さなアパートで一人暮らしを始めた。それがつい八ヶ月前の話だ。
仕事も見つかり、引きこもっていた頃に比べれば幾分マシな精神状態にはなったものの、未だに薬なしでは生きられない。
その上今度は職場で、梓に対する風当たりが強くなってきていた。
どうも彼女が引きこもりだったという噂が、社内に広まってしまったようだった。自分を嘲笑する同僚たちの内緒話を、梓は聞いてしまっていた。
梓は勉強はさっぱりだが元々頭はよかったので、仕事は出来るほうだった。またしてもそれが妬まれていたのかもしれない。
いつかはこうなるかもと半ば覚悟していたことなので、もう中学の時のようなショックを受けることはなかったが、それでもストレスで胃は痛んだ。
辛いというより、情けなかった。他人を卑下する事でしか自分の存在意義を見出せないような人達が、たまらなく嫌だった。しかし自分はそんな人達にも嘲笑されるような立場の人間なのだと思うと、諦めにも似た無力感が襲いかかってきて、瀕死の病人のように体の力が抜けた。
この世間に、世界に、人生に、全てに、彼女は絶望していたのだった。
ドサッ!
何か柔らかいものが路上のアスファルトに激突したような音が窓の外から聞こえて、梓は目を覚ます。
時計を見ると、夜中の十二時を少し回ったところだった。
さっきレキソタンを服用して二、三曲弾いたあと、シャワーを浴び、ハルシオンを飲んで寝たはずだ。なんだか悪い夢を見ていた気がする。
なぜ目が覚めたのだろう。梓は考える。
確かにハルシオンは強力だが、その効能は寝つきをよくする「スピード型」の睡眠導入剤であり、長く深く眠れるようになる「スタミナ型」ではない。夜中にいきなり覚醒するというのもありえない話ではないだろう。
しかしそれにしても不思議なほど寝覚めが良すぎる。ほんの少し頭がぼーっとしているだけで、歩けないほどではない。
切れがよい反面、夜間起床時には一過性健忘やもうろう状態などの副作用が出やすい薬だったはずだが…効き目が薄れてきたのだろうか。
また量を増やさなくてはならないのか。梓は溜め息をつきながら、何か頭の隅に引っかかるものを感じる。
違和感の正体は、すぐに梓の耳に飛び込んできた。
ずり、ずり…という音。窓の外、部屋の真下から聞こえる、何かを引きずるような音。路上をゾンビが這い回るような音。
ゾンビの妄想をいつまでも留めておくほど梓は子供ではなかったが、代わりに現実的な懸念として「泥棒か何かではないか」という考えが脳裏によぎる。梓は青ざめた。
窓を開けて下を覗こうとするが、丁度ベランダの真下に隠れるような位置から音は聞こえている。ここからではよく見えない。
玄関のドアをそっと開けると、天気予報の通りの冷たい空気が肌に触れた。恐怖と相俟って、背筋に悪寒が駆け巡る。冷たい手で泥棒退治のための金属バットを持って息を潜め、震える足で恐る恐る非常階段を下りる。
そこには、人間が倒れていた。
倒れてはいるが、意識はあるようだ。どこかへ行きたいのか、汚い路上をほふく前進のような形で懸命に這って先へ進もうとしている。だが健闘虚しく、体は一向にその場所から動く気配を見せない。
足がふらついて立てなくなった酔っ払いだろうか…と、最初はそう思った。
しかしそれにしても様子がおかしすぎる。ただの酔っ払いだとしても、こんな日にこんな状態の人をこのまま放っておいたら、確実に凍死は免れないだろう。朝起きたら自分の部屋の真下に死体が転がっているというのは、あまり気持ちの良い話ではない。
梓は相手が多分女性で、自分とそう変わらない背格好だということを認識すると、「あの…大丈夫ですか?」と声を掛けつつ近付いていく。
特殊な状況とはいえ、見知らぬ人間に自分から話し掛けるというのは、人付き合いの苦手な梓には経験のないことだった。それだけで頭が真っ白になる。
近付くにつれて、その女性の異様な姿が街灯の明かりにはっきりと浮かび上がってきた。
やせ細った身体に汚いTシャツを着て、その上からこれまたボロボロの大きなコートを羽織っている。
この寒い中、手袋もマフラーもしていないどころか、靴すら履いていない。
砂利まみれの足には所々に小さな切り傷があり、流れ出した少量の血液が冷たいアスファルトに黒く染みを作っている。
乱れに乱れたボサボサの茶髪に隠れて顔はわからないが、きっと痛みと寒さで真っ青だろう。
ただの酔っ払いと呼ぶにはあまりにも異常で凄惨な光景。
「だ…大丈夫ですかっ!?しっかりしてくださいっ!」
ようやく事の重大さを理解した梓はバットを投げ捨て、慌てて女性を抱き起こす。
アルコールの匂いは一切しない。代わりに漂ってきたのは、つんと鼻をつく刺激臭。多分何日も、いや何週間も風呂に入ってない人間の臭いだ。
うっ、とこのまま胃の中身を全部ぶちまけてしまいそうな不快感を覚えるが、必死に堪えて女性の身体を揺さぶる。
「う、うう、うーん…」という声。遠くに行ってしまいそうな意識を、懸命に自分の元に繋ぎとめているような呻き声。
しかし梓が驚いたのは、その声が非常に若く可愛いらしかったということだ。思わず女性の髪を右手でかき上げ、顔を覗き込む。
たしかに真っ黒に汚れてはいたが、顔の造り自体はかなりの美少女だった。年齢も、先日十九になったばかりの梓よりほんの一つ二つ上といったところだろう。
梓はさらに困惑した。酔っ払いでなければホームレスか、と予想していたが、ここまで若い、しかも女性のホームレスがいるものだろうか。
しかし梓の思考を遮るように、目の前のボロボロの美少女がかっと目を見開き、梓の顔を凝視する。ぱっちりと大きな、吸い込まれそうな瞳。
彼女は空を掴むように手を伸ばし、苦しそうな声を発する。
「ご…、ご…」
「ご?なんですか?しっかりしてください!とりあえず寒いので中に入りましょう。肩を貸すので立てますか?」
梓は努めて冷静な対応を心がける。自分に医学的知識は皆無だが、長時間外を歩き続け低体温症で倒れたことは明らかだ。それなら暖かい部屋の中に入れて、体力を回復させてやれば…
「ごはん」
「えっ?」
「ごはんはおかず。炭水化物と炭水化物の、夢のコラボレーション。うう、おなかへったよぉ…」
予想外のひとことに、梓は唖然とした顔を相手に向けることしかできなかった。
時刻は、午前二時に差し掛かろうかというところだった。
炭水化物と炭水化物の夢のコラボレーション。
初対面でいきなり謎の言葉を残した行き倒れの美少女のお望み通り
握り飯をたんまりと握って与え、インスタントラーメンによる炭水化物同士のコラボレーションを完成させたあと、ついに悪臭に耐えきれなくなった梓はユニットバスにお湯を溜めて少女をブチ込んだのだった。
凍傷になりかけてうまく動かない両手で、差し出された握り飯を片っ端から口の中に放り込む彼女の顔を、梓は思い出す。
あれほど「目を輝かせる」という言葉がぴたりと当てはまる人間の表情を、未だかつて梓は見たことがない。少なくともここ数年の梓があんな顔をしたことは一度たりともないだろう。
ユニットバスのドアが開く。バスタオルを巻いた少女が現れる。
数週間溜まった汚れを徹底的に洗い流した姿は、先程までとは別人だった。
やはり、相当な美少女であることに疑いはない。ボサボサだった茶髪も今はしっとりと濡れて艶やかに光っていた。
梓の使っているトリートメントは良物なので、乾けばサラリと流れるような質感になるだろう。
轟!と突風の吹きつける音が外から聞こえる。
はっ、と我に返った梓は、彼女のあられもない姿から慌てて目を逸らし、ドアの前に畳んで置かれた可愛いらしいTシャツとジャージ、そして下着を指さす。
「えーと…着替えはそこに置いてあります、私の服なので少し小さいですけど」
「とんでもない!何から何まで至れり尽くせりで幸せだよぉ、こんな行き倒れを救ってくれて、何とお礼を言ったらいいか…」
梓より一つ二つ年上に見える少女はしかし、まるで小学生のように幼く明るい口調の持ち主だった。
他人と馴れ馴れしく喋ることや、感謝の意を述べられることに慣れていない梓には、それが少しくすぐったく感じる。
「いえ、大したこと、してないですから」
本当に大したことはしていないと思う。家の前で死なれるのが困るから助けただけだ。
行き倒れた…という少女の言葉に少し引っかかりを感じるのは確かだが、あえて追求してみるほどの勇気はない。そこまで他人の事情に興味も持てない。
着替え終わった少女にドライヤーを手渡す。ありがとう、と彼女は朗らかに答え、スイッチを入れる。濡れた髪がぱたぱたとはためく。
とりあえず今夜は(と言ってももうすぐ夜も明けるが)この部屋に泊めて、明るくなったら出ていってもらえばよい。着なくなった服と、余りの毛布と、段ボールくらいならまあ施してもよかろう。
彼女には本当に悪いが、その後どこかで餓死しようが凍死しようが知ったことではない。赤の他人を助ける義理など自分には元々ないのだから。
「ね?お名前なんていうの?」
梓の思考を、歌うように無邪気な声が遮る。
謎の美少女からの突然の質問に、梓の返事は裏返った。髪を乾かしていたはずだが、いつの間にかドライヤーの音は止まっている。
「え、あ…なかの…」
「なかの?」
「なかの、あずさ、と申します」
別に私の名前なんて知らなくてもいいだろうに、と心の中では思うが、ついつい丁寧に答えてしまう。
「あずさちゃんか、うーん…」
少女は顎に手を当てて困った顔をする。
いきなりちゃん付けか、しかも何を一生懸命悩んでいるんだろうこの人は、と梓が思っていると
「あっ、思いついた!」
少女の表情がひまわりでも咲いたようにぱっと明るくなる。
「な、何をです…」
混乱した頭で梓が問いかけるより早く
「あだ名はあずにゃんで決定だね!」
「へっ?」
本当に晴れ晴れとした顔で、本当にわけがわからないことを彼女はのたまった。
唖然とした梓の顔を見て
「なんとなく猫に似てるからあずにゃんがいいかなって…気に入らなかった?」と心配そうな少女。
「い、いや、あの…」
あだ名?一体全体どういうことだ。この人は私と仲良くなりたいのだろうか。何のために?どうせ夜が明けたら赤の他人ではないか。
ていうか、あずにゃんって何だ。愛称をつけるにしてももう少しマシなのがあるだろう。なんとなく猫に似てるってどういう意味だ。
無数のツッコミがぐるぐると脳内を回るが、うまく言葉にして発することができない。
完全に相手のペースに乗せられていた。
「ねえねえ、誕生日は?」
「えっ…と、十一月十一日ですけど、それが何か…」
「血液型は?」
「ええと、…ABです、はい」
天然不思議系美少女の質問に、しどろもどろになりながら答える梓。
なぜ今日知り合ったばかりの他人にこんなに簡単に個人情報を教えているのか。梓は自分がよくわからない。この人なら悪用したりする心配はないだろうと心のどこかで気を許しているのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。梓は段々イライラしてきて、心の中で悪態をつく。自分以外の人間を信用するなど、中学以来の梓にとって有り得ないことだった。
「じゃあじゃあ、好きな食べ物は…」
「それを聞いてどうしようってんですか。もう静かにしてください」
最終更新:2010年12月07日 23:56