次々と流れ込んでくる言葉の奔流に栓をするかのように、梓はぴしゃりと言い放つ。
コミュニケーションが苦手な私が、これだけはっきりと文句を言えるなんて、と自分で少し驚いたほどだった。
が少女は、ん?と可愛らしい顔で小首を傾げるばかり。まるで宇宙人とでも対話しているかのようで、ますます腹が立ってくる。

「あの、もう寝ませんか?夜も遅いですし」
わざとらしく時計を見て、梓は提案する。
「あ…そうだね」
流石の常識外れの少女も、二時十五分という時刻が普通は睡眠に充てるものであるという認識はあったらしい。
梓は心底ホッとしてベッドに潜り込み「じゃあ、電気を消しますよ」と言おうとした刹那
「ちょっと待って、私はどこで寝ればいい?」
「え…」

そうだった。うっかりしていた。今夜は少女を泊める、などと言っても、一体どこに寝かせればいいのだろうか。
梓の部屋は狭い六畳一間で、その大半をオーディオ機器と長方形のテーブル、ベッドが占領している。
ベッドの横に布団を敷くにはテーブルを動かして壁に立てかければよいのだが、テーブルの上にはパソコンを始め様々な生活必需品が乱雑に置かれており、今からそれらを全部どかすのは非常に面倒くさい。
かと言って他に布団を敷けるスペースなど見当たらない。とくれば…
少女もそんな梓の表情から全てを察したのか、とびきり嬉しそうな笑顔で

「うん、あずにゃん、一緒に寝よっか」

梓は長い長い溜め息をついた。多分、ここ数年で最大級の溜め息だった。

誰かと一緒に寝たのは、小学校の時以来だろうか。あの頃は毎晩、両親と三人で川の字になって寝ていた。梓は真ん中で、どちらか片方でも開いていると、わけもなくただ恐ろしかった。
自分の両側に人間がいることで、自分はこの世の全ての恐怖や災厄から守られているのだという温かな確信めいたものを抱いていたのだった。
それは遠い日のオルゴールのように、胸の奥に染み渡る大切な記憶。懐かしく、柔らかな記憶。

しかし、家族以外の人間と同じ布団で寝るのは、本当に生まれて初めてだった。
小柄な女とはいえ、シングルベッドに二人というのは非常に窮屈なものだ。
ボディソープの甘い香りをほんのりと纏った少女は、梓の体にぴたりとくっついてくる。確かに暖かいが、鬱陶しさのほうが大幅に勝っている。それに何だか恥ずかしいのだ。
「ちょ、あんまりくっつかないでください!」
「そんなこと言ったって、狭いんだよぉ」
とか言いながら、心底楽しそうな症状を浮かべている。
「ね、あずにゃん、やっぱり私眠くないや、朝までお話しようよー」
「い、いやです!お断りします!」

少女が喋る度、歯磨き粉の良い匂いがふわりと漂ってくる。
修学旅行中の夜の女子高生みたいなテンションだな、と思う。もっとも梓は修学旅行など行ったことがないので、自分の勝手な想像の中での話だが。

「この期に及んで何を話そうっていうんですか、さっさと寝ましょう」
「えー、あずにゃーん、ねぇー」
「なんでそんなに無遠慮で馴れ馴れしいんですか…それといつの間にかその変なあだ名を定着させようとするな!」

完全無視して寝るのは簡単なはずだが、生真面目な梓は彼女の言動全にいちいちツッコミを入れてしまうのだった。要するに、全てにおいて相性が悪かった。どう転んでも向こうにペースを握られてしまう。非常に苦手なタイプだ。

「しかもですね…あなたは私に色々質問して来ましたが、私はあなたのことをこれっぽっちも知らないんです。素性も一切明らかになりませんし、どうして外で倒れていたかも知りません…別に知りたくもないですけど。だから話すことなんて何もないです」

梓の長々とした説明を頷きながら最後まで聞いていた少女は、どういうわけか少し寂しそうな表情を浮かべ
「そういえばそうだね、私のこと全然話してなかったね、あはは」
しかし、それも一瞬で元の優しげな笑顔に戻り
「私の名前は、ユイ、っていうんだよ。よろしくね、あずにゃーん」


ユイ。
それがこの謎の行き倒れ美少女の名前。
いい響きだな。ぼんやりとそんな事を考える。
どんな字を書くのだろう。結衣、優衣、由衣…
自分だったら一文字で『唯』とつけるだろう。というか、それがこの人に一番合っている気がする。唯我独尊の唯。唯一無二の唯。

「ふ、ふん。それだけですか。名前だけですか。私はフルネームの他に誕生日や血液型まで話したのに。不公平ですっ」
梓は自分が何を言っているのか、本当によくわからない。RPGで言うなら、まさに「あずさはこんらんしている!」という状態だ。

少女は、唯は。
そんな梓の糾弾に対し、優しい笑顔を一ミリの崩さず、まるで歌うように軽やかに言葉を返したのだった。

「ごめんね、私、自分のこと、名前以外は全然覚えてないんだよ」

予想外の返答に、梓は数秒間硬直した。


「え…ど、どういうことですか。自分の名前しか覚えてないって、意味が…」

「この前の前の年の夏ぐらいかな…それより前の記憶が、私にはないみたいなんだよ」

「ええっ!?」
梓はがばりと寝返りを打って、唯のほうに向き直る。
要するにこの人が言いたいのは、記憶喪失…ということなのか。確かに世界にはそういった人も少しは存在するのかもしれない。
しかし、テレビのドキュメンタリーをぼんやり見るのと、実際にそのような人物に遭遇するのとではわけが違う。
本当に記憶が、つい昨日までの出来事が、綺麗さっぱり頭の中から飛んでいってしまうというような事があるのだろうか。想像もつかない。

唯は遠くを見るように
「気付いたら砂浜に寝転んで星を見てたんだよ。それが最初の記憶かなー。海がすっごく綺麗なところだったよ」

綺麗な海?この街にも一応砂浜はあるが、人口の多さに比例してかゴミだらけでお世辞にも綺麗とは言えない。

「荷物も何もなくって、最初は、自分の名前すらわかんなくて…でも、ポケットに入ってたハンカチに『ゆい』って書いてあって。だから多分それが私の名前なのかなって」

「それって、この街じゃないですよね?」
「うん、すごく遠いと思うよ」
「どうやって、ここまで来たんですか?」
「ずっと旅してきたんだよー。野を越え山を越えってやつですな。えへん」
「旅…ですか」
「うん。自分の家に帰りたいからね」
平坦な調子だったが、そこに秘められた決意の色を、梓はかすかに感じる。
「アテはあるんですか?」
「ないよぉ。自分の名字も知らないし住所も電話番号も…それに」

「家族や友達との思い出だって、なんにもないんだよ?あはは」
こちらに笑顔を向けたまま喋る唯の声が、わずかに震えたような気がした。

アテのない旅。何も情報のない状態で、どこにあるのかもわからない自分の家を探す、絶望的な旅。
それはもはや旅とは言えないのかもしれない。彼女は旅人…Travelerではなく。
そうだな、あえて言うなら、『Drifter』…漂流者。放浪者。そう呼んだほうが正しいのかもしれない。

外の風の音が強まる。布団の中で、二人の体温が混ざり合う。
一人で寝るより、ずっと温かかった。しかし、いつの間にか梓の眠気はどこかへ吹き飛んでしまっていた。

「…今まで、どうやって生活してたんですか?」
やっと言葉を絞り出すようにして、梓は訊ねる。
「行く先々の街で、ホームレスさんに食べ物や服、わけてもらったり。コンビニで賞味期限切れのお弁当を貰ったりかな。
寝床はいろいろ。雨風をしのげる駅の構内がいちばん多いかなー。あっ、でも雨が降ると体を洗えるから結構貴重なんだよー」
ずっと暖かい自室でぬくぬくと暮らしてきた梓には本当に想像がつかない。すさまじい生活だ。

「そうだ。警察には相談したんですか?家族が捜索届けとか出してたりするかもしれないじゃないですか。警察の力を借りれば、案外すぐ見つかるんじゃ…」
「お巡りさんにも聞いてみたけど…むりだったよ」
「どうして?」
「交番に行ってもホームレスさんと間違われて門前払いなんだよー。いやまあ、間違いではないんだけど。
けど一度なんかは『お嬢ちゃん、お金あげるからおじちゃんといいことしよっか』とか言われて。怖くなって逃げてきちゃった」
「マジですか…」

梓は呆れた。国家権力の腐敗というのは、ここまで進んでいるものなのか。下手をしなくても訴訟起こせるレベルである。警察を信用できなくなっても無理はない。

呆れ果てて、その次に、段々怒りが込み上げてきた。職務を全うせず挙げ句の果てに少女と売春しようとした警察官に対してではなく、唯本人に対しての怒り。
梓自身にも、その怒りの意味が全くわからない。どうも今日は、自分で意図せぬ感情が次から次へと湧き出てくる気がする。
しかし、腹が立つのだから仕方がない。


なぜ、この少女は笑っているのだろう。

いきなり記憶のない状態で見知らぬ土地に放り出された。二年以上もの間、泥まみれになりながら、街から街へ、必死で旅を続けてきた。
それでも自分の家の手掛かりさえ掴めない。知り合いも助けてくれる人もいない。警察も役に立たない。そんな絶望的状況の中で。
この人は、なぜこんなに明るく、こんなに無邪気に、こんなに透明に、笑顔で話をすることができるのだろうか。
自分には無理だ。自分が同じ状況なら、きっととっくの昔に発狂している。なにしろ、部活で虐めにあっただけでここまで人生が狂ってしまうような人間なのだから。
そこまで考えて、やっと梓は怒りの意味を理解する。
私は悔しいのだ。この少女に、お前は弱い人間だと言われているようで。虐められていた頃を、自分は世界で一番不幸だと思っていたあの頃を、笑われているようで。
お前よりもっと不幸な目に遭っても、お前と違って明るく生きている人間もいると、教えられているようで。

薄明かりに照らされた時計の短針は、もうそろそろ三の数字に近づこうとしている。風はますます強く、容赦なく、二階建てのオンボロアパートに吹き付ける。

「…あれ、あずにゃん、黙り込んでどうしたの?怒ってる?」
「い、いえ。そんなことないです、それより…」

梓は慌てて、首を振って誤魔化す。
それより…の先に続けるべき言葉。何が良いだろう。早く寝ましょう、か。うん、そうだ、それがいい。
このまま話が続けば睡眠時間が削られるばかりだ。本格的に明日の仕事に響く。この少女も…唯さんも、寝不足のまま外に放り出されるのは辛いだろうに。
そんな事を考えるが、梓の口から自然と出てきたのは、それとは全く別の言葉だった。

「それより、綺麗でしたか?星は」

「え?」
「海辺の街で寝転がって、星を見たんでしょ。その星空は、どんな風だったんですか」


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最終更新:2010年12月07日 23:59