私は、いったい何がしたいのだろう。そんなことをいちいち聞いて、それが何になると言うのだろう。
が、唯は心底嬉しそうに
「うん、綺麗だったよ!ちょうど夏だったからさ、天の川が見えた」
「天の川ですか…織姫と彦星の」
「そうそう!その織姫様と彦星様を探したりして…あ、あずにゃん知ってる?織姫様はベガって星で、彦星様はアルタイルって星なんだよ。
それで、デネブ、アルタイル、ベガの三つの星を合わせて、夏の大三角って呼ぶんだよ」
「へえ、そうなんですか。全然知りませんでした」
記憶はないけれど、そういった知識は頭の中に残っているのだろうか。そういう記憶喪失の仕方も珍しくないと、テレビでどこかの教授が話していた気がする。
「ここからは、あんまり星が見えないねー。今の時期なら、うお座とか、みずがめ座とか、見えそうなんだけどなぁ」
唯は窓の外に浮かぶ夜空を見て、呟く。
「この街は夜でも明かりが多いですから…仕方ないですね」
「この街は大きいよね。今まで私が来た中で一番大きいかも」
「そうですか。唯さんが今まで行った街はどんな感じでした?」
「色んなとこがあったよー。北へ南へ西へ東へ、デタラメに歩きまくってたからね。ほんとに色んな街を旅してきたと思う。例えばね…」
唯は語る。優しく言葉を紡ぐ。梓は相槌をうちながら聞いている。活気溢れる港町の話。自然に囲まれた田舎町の話。この街と同じように、人口の光に包まれた大都会の話。
唯の口から発せられると、不思議とその全てがかけがえなく綺麗なもののように思えてくる。この世界に絶望していた梓にとって、それは新鮮で、眩しくて、羨ましい。
もっと、ずっと耳元で聞いていたい。そんなことを考えている自分が、確かにここにいた。
「えへへ、あずにゃーん」
「わっ…」
唯がいきなり抱きついてくる。甘い香りと温もりに包み込まれる。
心地よい。心地よくて、梓の体から力が抜ける。なんなんだろう。この感覚は。さっきまでの自分なら、容赦なく拒絶していたはずなのに。
今日は未体験のことばかりで、新しい感情ばかり湧いてきて、頭が心にうまくついていかない。理解が回らない。
だけどよく考えると、その感覚は…人の温もりは、今までずっと自分が渇望していたものなのかもしれなかった。
逆境から逃げるために、部屋に引きこもって、自分から孤独になって。それでも完全に孤独になることに耐えきれなかった普通の人間の姿が、ここにあった。
「な…なんのつもりですか。ベタベタしないでください、もう…」
「えへへ、あずにゃんの誕生日プレゼントですよ、いい子いい子」
「子供扱いしないでください…私の誕生日はとっくに終わってますしもう十九歳です!たぶん唯さんとそう変わらない年のはずです!」
梓がムキになると
「そっかー、私って本当は何歳なのかなぁ…」と唯。
「あ、そっか、生年月日も、やっぱり…?」
「うん、さっぱりわかんない」
「そうですか…」
「だから、誕生日プレゼントってのを、まだ貰ったことがないんだ。くれる人もいないし、いつかわかんないから、貰いようがないよね、あはは…」
唯は笑う。今までと少し違う顔で。今にも崩れそうな顔で。こんなに悲しそうに笑う人間を、こんなに寂しそうな笑顔を、梓は初めて見た。
腹が立つ。今日この場に限っては、感情を理性で解釈しようとしても無駄だということをさすがに梓はもうわかっていた。だからあれこれ考えないことにした。
ただ、この人がこんな顔をしているのは、なぜだか許せない。この人はそんなキャラではないはずだ。許すことができない。
だから梓は、唯の両腕を振り払って、がばりと跳ね起きる。暗い部屋。いきなりの出来事に驚く唯に向かって。窓の外の薄明かりをバックに、叫ぶ。
「じゃあ誕生日なんて、私たちで勝手に決めちゃいましょう!!」
「…ほぇ?」
何を言っているのかさっぱりわからないといった顔で、首を傾げる唯。
「だから、誕生日なんて今、テキトーに、決めればいいんです…そうだ!もう今日にしちゃいましょう。唯さんの誕生日はこれから今日、十一月二十七日です。いいですね!」
「今日が、誕生日…?」
「ええ、私がさっきあげたおにぎりと、ラーメンと、お風呂と寝床。これが誕生日プレゼントです」
「えーと、それはどういう…」
「ほら!誕生日プレゼント貰ってるじゃないですか!サイコーじゃないですか、ホームレスの行き倒れでも誕プレぐらい貰えるんですよ。簡単に貰えるんです!何が貰ったことないですか、ナメないでください。だからそんなに…」
「そんなに?」うろたえる唯に向かって、梓は拳を握りしめ、歯を食いしばるように一言
「そんなに悲しい顔は、やめてください…」
はっ、と。唯が息を呑む音が聞こえる。
梓は言うだけ言うと、下を向いて黙りこんでしまう。
まるで別の生き物のように意味不明の理論をまくし立てた自分の口が怖かったから、ではない。ただただ目の前の少女の頼りない姿が、悲しい顔が、心の奥にずしりと響いたから。
そして、
「…うん、ごめんね、あずにゃん」
今度は正真正銘、最高の笑顔で、唯はそっと囁いた。
その顔を見て、梓の中でなにかの決意が固まる。
「…と、いうわけで、誕生日おめでとうございます、唯さん」
「うん、ありがとう」
「それと、大事なことがもう一つ。誕生日プレゼント第二弾をたった今考えつきました」
「おお!なんでしょう」唯は目を輝かせる。
「一時的に、この部屋に居住する権利をプレゼントします。行くアテが見つかるまで、ここに寝泊まりして下さい」
やめておけ、これ以上関わるなと理性の警告は続いていたが、既に梓の中の決意は聞く耳を持っていなかった。
このまま唯を行かせたら、この先またどこかで、昨夜のような状態で行き倒れるかもしれない。『赤の他人』の、そんな姿を考えるだけで、みぞおちの奥が苦しくなるのだ。
それに、何かもっと根本的なところで、この少女には出て行って欲しくなかった。それもどういった感情なのか、梓には説明がつかなかったが。
けどそれを聞いた唯は複雑そうな、本当に複雑そうな顔で「あ、ありがとう、ありがとうなんだけど…私はまだ旅をしなきゃ…」
「わかってます。家を探すんでしょ。だから、行くアテが見つかるまでって言ったじゃないですか」
「ほぇ?」
「冷静に考えてみてさい。このままアテもなく放浪して、本当にどこにあるのかもわからない家が見つかると思いますか?」
「………」
「それより、ここに腰を落ち着けて、記憶を蘇らせるための努力をしたほうが現実的じゃないですか?ここなら、私も何かしら協力できますし。ふとしたことで記憶が戻るかもしれませんよ」
唯はそんなこと今まで考えもしなかったというような、驚きの表情を見せる。
「…いいの?ほんとにいいの?ほんとに?」
「どんとこいですよ。これからよろしくお願いします、唯さん」
「あ、あずにゃーん、君はほんとうにほんとうに、私の恩人だよぉ、ありがとう」
例の、ひまわりの花が開いた笑顔を見せながら、唯が抱きついて頬ずりをしてくる。
「だ、だから、抱きつくのはやめてくださいってば…」迷惑そうに引き剥がそうとしても、唯はなかなか離れてくれない。
きっと、本当は不安だったのだろう。不安でないはずがない。
いかに慣れているとはいえ、これからの極寒の季節に、まだ二十歳かそこらの少女が外で一人で生きていかなければならないのだ。出来ることなら、安心して帰れる家と温かい寝床があったほうがいいに決まっている。
もはや温かいを通り越して暑苦しいと感じるほど梓を抱きしめながら、唯はふとこんなことを言う。
「あ、そうだ、あずにゃん」
「はい?」
「その唯さんって呼び方は、なんかちょっと距離を感じるよぉ」
だって、つい三時間前に知り合ったばっかりじゃん…色んな意味であんたの距離が近すぎるんだよ、というツッコミは、この空気ではしないほうがよかろう。
「だって、名字知らないし、見たとこ年上だから呼び捨てやちゃん付けにするのは抵抗があるし…」
「うーん…呼び捨てでもいいんだけどなぁ」
「『おい』とか『ねぇ』とかでいいですかもう」
「それはもっといやだ!」
「うーん…あ、年上だし、『唯先輩』でどうですか」
半分冗談のつもりで言った梓だったが、唯は
「それだ!それだよあずにゃん!先輩って響き、なんかすっごく好きだよ!」
「ま…まじですか?」
どうやら決定のようだ。
先輩って響き、か。梓にとっては思い出したくない最悪の響きだが、唯にとってはそこまで甘美に聞こえるのだろうか。
唯が中学や高校に行っていたかどうかは定かではないが、例えばそういった場所で何らかの部活に所属していて。
そしてその部活には、唯がとても慕っている後輩がいた。もしくはそういう後輩の出現を唯が強く望んでいた。
そんな思い出が、もし唯の失われた記憶の中にあったとしたら。『先輩』と呼ばれることに本人もよくわからない無意識の幸福感を覚える、ということがあったりするのだろうか。
梓に詳しいことはわからないが、そういった無意識からのアプローチをかけることで、失われた記憶を再び呼び戻すことができるかもしれない。
「しょうがないですね。じゃあ、唯先輩…」と梓は話しかけようとして、やめた。
梓より数センチ背が高いはずのこの困った先輩は、体をくの字に折り、梓の胸に顔を埋めて安らかな寝息を立て始めている
寝るのも一瞬か。しかもタイミングが自分勝手すぎる。
梓はまた、本日何度目かわからない溜め息をつく。子猫でも眺めるように微笑みたかったが、顔の筋肉は笑顔の作り方を覚えていなかった。何年もの間、そんな表情を作ったことがなかったから。
これが心に傷を抱えた少女、
中野梓と、唯と名乗る謎の放浪少女の、出会いの夜だった。
第一章終了。
最終更新:2010年12月07日 23:59