次の日。梓が仕事を終えて部屋に戻ったのは、夜の七時過ぎだった。ツインテールの形に結んだ綺麗な黒髪を、相も変わらず強い北風にはためかせながらドアを開ける。
急激な冷え込みに体を震わせながら路地を歩いてきたが、部屋に入るとエアコンが効いていて暖かかった。
が、それにしても変な臭いがする。まるで何かを焦がしたような…
ふいに、備え付けのガスコンロの前にエプロンをつけて立っている唯の姿を目にする。

「唯先輩?なななな何をやっているんですかあなたは」
まさか、と戦慄する梓に、唯が一言

「晩ご飯作ろうとしたけど、失敗しちゃった。てへっ」

「うああああああ!てへっ、じゃない!なんですかそれ真っ黒焦げじゃないですか!」
「だってー、あずにゃん家にタダで居させてもらって何もしないのは、さすがに悪いと思ったから…」
両手の人差し指をくっつけて、申し訳そうに弁明する唯。
梓は溜め息をついて
「はぁ…そんなこと、別に気にしなくてもいいんですよ。まあ、いいです。気持ちだけありがたく受けとっておきます」
「うう…ごめんねえ」
「晩ご飯ならコンビニで買ってきたので、それを食べましょう。あったかいですよ」
と梓は、湯気の立つ美味そうなおでんをテーブルの上に出す。
「ははーっ、ありがたき幸せ!」

「ところで、唯先輩」
「はふはふ。なあに?」
唯は熱くなった具を一気に頬張って、口の中から湯気を出しながら話す。

「今朝話したあれ、何か発見とかありましたか?」
「はふはふ。あふい、あふい」
「一気に食べるからそうなるんですよ…」

やっとの思いで具を飲み込むことに成功した唯は、思い出したように
「ああ、丁度いろんなとこを見てる途中だったんだよ、ほら」
唯の視線の先には、電源がついたままのパソコン。

あれ、と言うのは、いわゆるGoogleマップであった。街中の風景をリアルタイムで映すストリートビュー。サービス開設当初はアメリカの主要都市でしか実施されていなかったが、今では日本国内でも相当数の街の風景を、この場にいながら見ることができたはずだ。
なぜそんなものを片っ端から唯に見せようとしたかと言うと、やはり梓が『無意識からのアプローチ』に唯の記憶を取り戻す可能性を見出したからだった。
自分が日常的に見ていた風景、好きだったこと。そういったものは、記憶には残っていなくても無意識、潜在意識の中にはちゃんと刻まれているものなのではないだろうか。
だから、昔住んでいた街の風景を、パソコンのモニタを通してもう一度見ることによって、記憶が完全に戻らないまでも何かピンとくることくらいはあるのではないか、と考えたわけだ。

「今のところ、まだ手掛かりはナシ、ですか」
「うん…」
「まあ、焦っても仕方がないですし。気長にいきましょうよ」
「ん、そーだねあずにゃん、よーし、もっともっと食べるぞー!あずにゃんの分まで!」
「ちょ、そこは遠慮してください!」

唯と二人で食べる晩飯は、なかなかに騒がしく、慌ただしく…そして、心地がよかった。

「ねぇ、あずにゃん。昼間からすっごく気になってなってたんだけど、あれはなに?」

満たされぬことを知る者だからこそできるのだろう、晩飯をたらふく食べたあと、唯が見せる表情はこの世に並ぶものがないほど幸せそうだ。
これから、飯のたびにこんな顔をされていてはたまらないと、梓は思う。
そんな唯が、部屋の隅に寝かされた無機質なハードケースを指さして、訊ねてくる。

「ああ、あれは私の宝物です。見ますか?」
「た、宝物?よ、よかったー、我慢できなくて、勝手に開けちゃいそうになるのを必死で我慢してたんだ」
「別に勝手に触ってもいいですけど…大事に扱って、弾いたあとは弦を綺麗に拭いておいてくれれば」
梓の小さな手が、宝箱の蓋を開ける。
「弾く?」
「楽器ですよ、楽器」
中から、ピカピカに磨かれた赤いじゃじゃ馬が顔を出す。

それを、そのムスタングを一目見て、唯の顔色が変わる。

「それは…それは、ギター、だよね、あずにゃん」

「ええ、ムスタングっていうギターなんです。私が小さい頃から使っているやつなんですけど」
「お願いあずにゃん、それを、ちょっと貸してほしいんだ。何でかわかんないけどそのギターって楽器、すっごく懐かしい感じがする」
そう懇願する唯は、いつになく、真剣な面持ち。まるで、何かを思い出そうしているかのような。
まさか…?梓は慌ててストラップの長さを唯の身長に合うよう調整し、彼女に手渡す。

唯は賞状でももらうようにゆっくりと赤いボディを受けとる。ストラップはかけずに、腕だけで重みを支えて、ベッドの上に腰掛ける。
その持ち方が、なんだか素人のものには見えなくて、梓はおずおずとピックを渡す。

唯の左手が迷うように弦を撫でる。何かを必死に呼び戻すように目を閉じている。
やがて、「最初は…最初は、A、から」という呟きが聞こえたかと思うと、ふわふわと力のこもっていなかった左手が、急にしっかりと弦を押さえる。二フレットの、二弦、三弦、四弦。驚いた。まぎれもないAコードだ。
右手がゆっくりと、ピッキングを始める。暖かい部屋に、綺麗な和音がこだまする。
そして遅れて、歌声が響く。子供の天使が歌っているような声。

「キミがいないと何もできないよ キミのご飯が食べたいよ」

歌いながら少女の左手は、そこからD、E、そしてまたAへと。優しく、けれどしっかりと形を変えてゆく。
簡単なコード進行ではあるが、心を打つようなメロディに、梓は思わず聴き入ってしまう。

「もしキミが帰ってきたらとっびきりの笑顔で抱きつくよ
キミがいないと謝れないよ キミの声が聴きたいよ
キミの笑顔が見れれば それだけでいいんだよ
キミがそばにいるだけで いつも勇気もらってた」

歌っている唯の目から、いつの間にか大粒の涙がポロポロと零れ落ちていた。
ギターの音と共に流れ出す、宝石のような雫。震える天使の歌声。
悲しいのだろうか、辛いのだろうか、きっと違う。それならこんなに、美しい涙にはならないだろう、と梓は思う。
彼女の涙には、もっと優しい出どころがあるような気がして、胸を締め付けられたまま言葉をかけることができない。

「いつまででも一緒にいたい この気持ち伝えたいよ
晴れの日にも雨の日も 君はそばにいてくれた
目を閉じれば君の笑顔 輝いてる」


冷たい外の風。窓から入り込む月明かり。
暖かな空気に満たされた六畳間で、寄り添う二人の少女。
ツインテールの少女の肩にもたれる、真っ赤な目の少女。

「びっくりしました。唯先輩、ギターも歌も上手いじゃないですか」
「そーかな?」
「そーですよ。何か思い出せましたか?」
「私が今弾いた曲は、『U&I』って曲。私が昔作った曲。だけど、わかったのはそれだけ。その頃の思い出とか、私がなんでギターを弾けるのかとかは、ぜんぜんわかんないよ」
「うーん、私にも詳しいことはよくわかりませんけど…」

「この曲は、唯先輩が大切な誰かのために作ったものなんじゃないですか?」

「そうかも。この曲のサビを歌ったとき、その誰かの顔が浮かんでくる気がしたんだよ」

「笑顔が、ですか」
「うん…」

「なら、その人は今も、笑顔で唯先輩のことを待ってますよ、絶対に」
「そうだよね!私がその人のところへ帰っても、きっと…とびっきりの笑顔で出迎えてくれるよね!」
「ええ、きっと」

祈りにも似た唯の言葉。それに呼応する梓の声が、じんわりと部屋中に染み渡ってゆく。どこかでクラクションの音が聞こえる。

「えへへ…あずにゃん、そのギター、これから好きなときに触らせてもらっていい?」
「いいですよ。今度一緒に、楽器屋にも行ってみましょうか」
「うん!」

人が涙を流したあとに見せる微笑みは、綺麗に見えるものだと、梓は思った。




それから唯は、ギターを弾くようになった。
昼間、梓が仕事に行っている間に、梓の持っているCDを片っ端から聴き漁って、気に入った曲を耳コピしている。
そして梓が仕事から帰ってくると、嬉しそうにその曲を弾いて聴かせてくれるのだった。
かなりの音感とセンスがあるのか、耳コピの速度が異常に速い。梓が何十回も聴かないとわからないコードを、唯は一回聴いただけで簡単に弾けてしまう。
演奏技術や音楽的知識は断然、梓のほうがあるが、そこらへんの才能は間違いなく唯が上だった。
昔弾いていたオリジナルの曲も思い出せるらしく、ふでペンやらホッチキスがどうのこうの、という非常に謎な歌詞の歌を時々歌っている。

今日はどの曲を弾いてくれるのだろう、と、梓は予想しながら帰途につく。それが結構、楽しくなっていた。

唯と二人で暮らすようになって、梓が飲む薬の量も、飛躍的に減っていた。
隣に唯がいれば、ハルシオンを飲まなくても眠れたし、レキソタンなど飲まなくても不安な気持ちを紛らわすことができた。
とにもかくにも唯の存在が、梓を確実に変えつつあることは確かだった。


そして、週末。


「起きてください。唯先輩、唯先輩?」
南向きの窓から陽光が射し込んでいるということは、もう昼間に近い時刻であるということを意味していた。もっと早くに起きるつもりだったのだが、どうやら昨日、遅くまでネットで調べものをしていたため、寝坊してしまったらしい。

「う、うーん…あと五時間…」
「ふざけるなです。とっとと起きてください」
梓はそう言うと、唯がかぶっている毛布を容赦なく引き剥がす。少女はダンゴ虫みたいに丸まって、ぶるぶると震える。
「うう…あずにゃんのおにー、あくまー」
「何言ってるんですか。今日は唯先輩が起きなきゃ始まらないんですよ?」
「ほぇ?」

「楽器屋、行くんでしょ?」



休日の昼間に外出するなんて、どれだけぶりだろうか。
昨夜降った初雪が、まだ街のそこかしこに残っていた。冬の陽が水溜まりに反射して、梓は思わず目を細める。

唯は少し窮屈なブーツを吐いて、水溜まりの上をピチャピチャと飛び跳ねて、笑う。長い睫毛とヘアピンが、綺麗に光る。
何やってんですか、私の靴を汚さないでください、と梓は膨れてみせる。

アルバイトがビラを配り、学生がはしゃぐ午後。


この楽器店に来るのは、街に来てから何度目だろうか。前来たのは三ヶ月前。きっとそれが最後の昼間の外出だろう。
ギターのメンテナンスをしてもらい、消耗品のピックや弦を買い溜めした。
CDや楽譜などは基本的にネットで取り寄せるため、そういった用事以外では基本的にお世話になることはない。
自動ドアが開く。唯が大はしゃぎで中に飛び込んで行く。梓も続いて店内に入る。
カウンターから、初老の店員がこちらを一瞥する。多分、私の顔も覚えてはいないだろう。あのムスタングを見せれば思い出してくれるかもしれないが。

「ねえあずにゃん、見て見て!これ何だろう?」
さっそく店の奥から、梓を呼ぶ声が聞こえてきた。はいはい、何ですかと言いながら唯のそばに行くと、彼女は機械の箱のようなものを手にとって眺めている。

「ああ、それはチューナーですよ」
「チューナー?」
「私の家にもあったでしょ。唯先輩には、必要のないものみたいですけど」
チューナーとは文字通りギターのチューニングを合わせる機械のことだが、驚いたことに唯はチューナーもピアノも使うことなく、自分の耳だけで正確に六本の弦の音を合わせてしまうのだった。
梓だって正解に近い音くらいにはできるが、唯の場合は、彼女が適当にちょちょいとチューニングした直後にチューナーで計ると、全ての弦が正確に、寸分の狂いなくミ、ラ、レ、ソ、シ、ミとなっている。絶対音感があるとしか思えない。

そんなことを考えていると、隣にいたはずの唯がいつの間にかいなくなっている。
後ろを振り返ると、今度は店の入り口のほうで、一本のギターと睨めっこしていた。その表情は、とても真剣だ。

「今度はどうしたんですか?」
「これ…このギター、かわいい。すっごいかわいい」
そう言ってハァハァしている唯の視線の先には、チェリーサンバーストのギブソン・レスポール・スタンダードの姿。
レスポールを見て、格好いい、と思うことこそあれかわいい、とは普通思わないだろうに…つくづく、この人の感覚はわからない。
驚くべきはその価格で、なんと二十五万円。別に楽器店では珍しい値段ではないが、旧式のスタンダードが二十五万というのはいささか高過ぎるのではないだろうか。

が、そのギターを見る唯の目は、もうこれが欲しくて欲しくて仕方ない、と言っているかのよう。

別に楽器店を見に来ただけであって、ギターを買いにきたわけではないのだが…
しかもこんな高いもの、絶対に買えるわけがないし。

そんな梓の考えを察知したのか、唯は
「べべ別に買おうとかは言ってないよ!うん、そんなバカな、あはは」
「当たり前です」
「でも本当、かわいいなぁ。もし買ったら服着せて、添い寝するんだ」
「いや、そこは弾きましょうよ!」

廉価版のエピフォン・レスポールも近くに置いてあったが、そちらには目もくれようとしない。唯に良いギターとそうでないギターが見分けられるとは思わないが…まさか値段で選んでいるわけでもあるまいに。

「唯先輩、そっちに同じタイプのレスポールがありますよ?」
「え?うーん…あれも可愛いんだけど、なんか違うよね。なんか、この楽器店でこのギターだけが光り輝いて見えるんだよ」
唯は、見ているだけで幸せと言わんばかりに目を輝かせている。
「光り輝いて、ですか…」

梓は考える。唯がここまでの執着を見せる理由はなんだろう。例えば、彼女が昔欲しくて欲しくてたまらないギターだったり。もしくは本当に彼女の愛用ギターだったりしたのかもしれない。
ギタリストが自分の好きなギターに寄せる愛着を、梓はよく分かっているつもりだ。
それは値段が高いとか安いとか、そういう問題ではない。自分の気に入った音。気に入った形。気に入った雰囲気。それさえあれば、もうそのギターは自分の宝物だ。梓にとっては、それがムスタングだった。
唯にとって、その宝物がレスポールだったのだとしたら。


梓は静かに問う。

「唯先輩…絶対にお金、返しますか?」

「ふぇ?」
「唯先輩が、いつか自分の家にたどり着けたら、二十五万、耳そろえて私の講座に振り込んでください。約束できますか?」

「え?え?もしかして…このギター買ってくれるの!?」
ぱあっと。そんな言葉が本当に聞こえてきそうなほど、唯の表情が変わる。

「別に、ちょっとお金を貸すだけですよ」

まあ、ちょっとどころではないが。働きだしてからコツコツと貯めてきた貯金の総額が、丁度それくらいだった気がする。
これを下ろしたら、多分来月の家賃や水道代を払えなくなってしまうが。
何とかなるだろう。実家に泣きつくなり、家にあるものを売るなりして生計を立てれば。
つい一週間前に出会ったばかりの他人のために…自分でも馬鹿馬鹿しいとは思うが、今このスタンダードを買わなければきっと後悔すると、直感が告げていた。

ありがとう、本当にありがとう、と何度も何度も繰り返す唯を店内に待機させて、梓はコンビニのATMに走った。


遅い昼食を食べ、街をぶらついていたら、いつの間にか夕方になっていた。
梓と唯は、少し遠回りして行きとは違う道を通る。
唯の背中には、レスポール・スタンダードの入ったハードケース。
店員の説明でわかったことだが、このギターは、どうやらヒストリック・コレクションのトラスロッド・カバーをスタンダードに付け替えたものだということだった。
それで二十五万円というのは、逆に格安ではないか。そう考えると、非常にいい買い物をしたのかもしれない。

「わああ、綺麗な海だね、あずにゃん」
「どこがですか…」
防波堤の上から眺めたこの街の砂浜は、ゴミだらけでお世辞にも綺麗とは言えない。ここに寝転んで星空を見ろと言われても、梓には多分できないだろう。
ただ、海も砂浜も防波堤も染め上げる、緋色の夕暮れは美しいと思った。
汚れた海も、一瞬にして美しく変えてしまう魔法の光。まるで自分にとっての唯先輩のようだ、と考えかけて、なんだか梓は恥ずかしくなる。

手を繋いで歩こう、と唯が言う。寄り添うように並んだ二人の影が伸びていく。

「ねえ、きっとこの海は、私の最初の記憶にある街の海と繋がってるよ。ね、あずにゃん」
「そりゃここは日本ですから…繋がってはいるでしょうね」

何気ない会話を繰り返しながら、二人は歩いていく。
しばらくの間、雪は降らないでしょう、と、どこかの家から天気予報のお姉さんの声が聞こえた。


その日の夜。
まだフィルムも剥がしていないギターを持って、唯が床の上にあぐらをかく。
梓も自分のムスタングのチューニングを合わせて、唯と向かい合うようにベッドの上に座る。
オーディオのスイッチを入れる。スピーカーから音楽が流れる。
ポップなドラムス、柔らかく、美しいストリングス。梓の大好きな曲。唯のおかげでコピーすることが出来た曲でもある。
その曲に合わせて、二人はギターを鳴らす。そして、歌う。

『Just a little kiss 覚えてる?
あの道をずっと歩いたら
そよ風も雨の日も 愛おしく思うから』

どことなく歌詞が、唯の作った『U&I』という曲に似ているような気がする。
昔、一人で聴いていた時にはただ、いい曲だとしか思わなかったが、今はなにより温かく、優しい曲だ、と思う。
これも、愛おしい誰かを想って作った歌なのだろうか。そうやって作られた曲は、みんな自然と優しいメロディになっていくのだろうか。

ムスタングの歯切れの良い音色と、レスポールの艶やかな音色が溶け合って、部屋中を満たしていく。
その中で二人の歌声が、綺麗なハーモニーを作り出す。

『Like a little bird 青い空
あなたの肩に舞い降りて
歌い始めるの きっと 耳を傾けていて
いつまでも ずっと』

梓の夢。いつか誰かと一緒に、楽器を演奏したいという、幼い日の夢は、こうして思わぬ形で現実となった。
梓は、唯と顔を見合わせながら、いつの間にか自分が笑っていることに気づいた。さして驚きはしなかった。この人となら、この人といれば、いつか心から笑える日がくるかもしれないと、そう思っていたから。

幸せな、夜だった。




第二章、終了しました。



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最終更新:2010年12月08日 00:00