次の週の、金曜日。
ギターを買った日からしばらくは安定して暖かったのに、その日は朝から急激に冷え込んでいた。雪は降らないらしいが、代わりに乾燥した冷たい空気が肌を刺した。


梓は昼休みになっても一人、会社のパソコンと睨めっこをしていた。
家では唯が騒がしくて、なかなか落ち着いてパソコンができない。だからこうして、一人になれる時間にネットを使って調べておきたかった。
何を調べているのかというと、一昨年の夏あたりの新聞の記事だった。知らない街で記憶を失ったまま倒れていたという異常な状況から、唯は何かしら事件に巻き込まれた可能性が高いと、梓は考えていた。
日本全国各地の無数の記事の中から、唯に関係のありそうなワードで絞り込み検索をかける。
ゆい、ギブソン、レスポール、記憶喪失、など様々なワードを試してみたが、何一つ引っかからなかったり、逆に引っかかる件数が多すぎたりして、今のところ芳しい成果は得られていなかった。

少し諦めかけていた梓の脳内に、突然、唯の言葉が蘇える。

「それだ!それだよあずにゃん!先輩って響き、なんかすっごく好きだよ!」


ん?待てよ。先輩って響き…
その響きから梓の脳裏に浮かんでくるのは、地獄のような部活動の思い出だけだ。もっとも、唯のことを唯先輩、と呼ぶ時には、不思議とそんな忌まわしい光景が頭に浮かぶことはないのだが。

それにしても、先輩、部活動。何故かギターを弾ける唯。その言葉の連鎖は、ふと梓の中に一つの想像を形作っていく。まさか…

唯先輩も、私と同じでどこかの学校の軽音楽部に所属していた?

思えば、無意識のうちにその悪夢のようなワードを、頭の中で封印していたのかもしれない。
梓は『ゆい 軽音楽部』で、祈るようにもう一度絞り込み検索をかけてみる。
検索エンジンが起動する。


「そんな…そんなことって…唯先輩…」

梓は青ざめていた。吐き気がした。
体中の力が抜けていた。立つことも、指先一本動かすこともできなかった。

視線の先には、一昨年の七月二十五日の記事。
そこには、無機質に、無感情に、ただ起こったことだけが文字になって書き連ねてある。


『昨日昼ごろ、桜高校軽音楽部が夏休みの旅行に使用したクルーザーが突然の嵐で転覆し、一名が行方不明となった。
行方不明になっているのは、軽音楽部のメンバーである平沢唯さん。他のメンバーは骨折などの重傷を負ったが、命に別状はないという。警察は海上保安庁と協力して、唯さんの捜索を続けている。
桜高校の軽音楽部のメンバーら四人は、夏休みを利用して合宿を兼ねた旅行を計画。メンバーの一人が所有する島の別荘へ、クルーザーで乗り付けようとしていたという。』

その十数日後の記事は、平沢唯さんの生存が難しいとされ、捜索が打ち切られた旨を伝えていた。

つまり、唯先輩はクルーザーで事故に会い、嵐の中を遠く離れた街の砂浜に流れついて奇跡的に助かったが、ショックで記憶をなくしてしまった。そして誰にも発見…というより認識して貰えず、月日が立つうちに世間もその痛ましい事件を忘れていった…ということなのだろうか。

間もなく昼休みが終わるというのに、梓の頭は混乱したまま、その場を動くことができない。
桜高というのは、梓の実家がある街の女子高ではないのか。私は自分の街で起きた事件のニュースすら伝わってこないほど酷い引きこもり生活を送っていたということか。


その記事には、他ならぬ唯先輩…平沢唯そのものの写真の下に『事故に巻き込まれた平沢唯さんの妹の憂さんの談話』が載っている。
彼女は「私はお姉ちゃんが死んだなんて信じられません。必ず戻ってくると、戻ってきてほしいと、強く願っています。」と語っている。
唯先輩の妹にしては、しっかりと丁寧に話す子だ、という印象を受けた。もしかしたら私と同い年くらいだろうか。

唯先輩が弾き語っていた、『U&I』という優しい曲が、頭の中で再生される。

その時に唯先輩と交わした会話も。

『この曲は、唯先輩が大切な誰かのために作ったものなんじゃないですか?』

『そうかも。この曲のサビを歌ったとき、その誰かの顔が浮かんでくる気がしたんだよ』

『なら、その人は今も、笑顔で唯先輩のことを待ってますよ、絶対に』

『そうだよね!私がその人のところへ帰っても、きっと…とびっきりの笑顔で出迎えてくれるよね!』

『ええ、きっと』


梓は続けて、唯が所属していた軽音部のメンバーの談話を見る。

ドラムスのTさん「唯はちょっとドジだったけど、場を和ませてくれるムードメーカーでした。私たちのバンドの、最高のギタリストです。唯の代わりはどこにもいません。唯、早く帰ってこい!お前がいないと軽音部はだめなんだ。みんな、ずっと待ってるからな!」

ベースのAさん「唯の捜索が打ち切られたと聞いて、みんな沈んでいます。私は唯が戻ってくるとまだ信じてます。私達が信じなくなったら、終わりだと思うから。」

キーボードのKさん「私が悪いんです…救命胴衣が、人数分揃ってなくて…唯ちゃんは優しいから、一人犠牲になって胴衣なしで海に飛び込んで……ごめんなさい、ごめんなさい。唯ちゃん、私を許してください」

きっと皆、目に涙を溜めて、声を詰まらせて話していたのだろう。その様子が容易に想像できる。
唯のことを、真の仲間として心配しているのだ。そして唯の生存を信じている。事故から何日たっても。そして、多分今でも。
このメンバーが先輩たちなら。この軽音部に、もし自分が入っていたとしたら。
私はもっと、上手くやっていけたんじゃないか。楽しい学生時代を過ごせたのではないか。理由もなく、梓の中の直感がそう告げる。

昼休みが終わる。静かだった室内に、人がなだれ込んでくる。
とりあえずその記事のURLを自分の携帯に送り、ブックマークに保存しておく。

梓は考える。
この事を、唯先輩に言うべきだろうか。
これは難しい問題だ。

このことを話せば、確かに唯先輩は家に、生まれ故郷の街に帰ることができるだろう。しかし、そこに帰ってきた唯先輩は、全ての記憶をなくしている唯先輩だ。今までの唯先輩とは別人なのだ。そのことに周りはショックを受けるだろう。

そこまで考えて梓は、机を蹴り飛ばした。置いてあった弁当や飲み物が、床の上に散らばる。一瞬にして、周りの驚きと好奇の視線が集中する。
無償に腹が立つ。記事の内容を『話すことができない』自分に、ではなく、『あれこれともっともらしい理由をつけて話そうとしない』自分に、だった。

良いではないか。例え記憶をなくしていたとしても、周りの人達は、これからまた新しい唯先輩との新しい思い出を作っていけばよい。少なくとも、唯先輩がいないよりは数千倍マシだ。
それに、記事を見せることで完全に唯先輩の記憶が戻る可能性だってあるのだ。見せたほうがいい。言ったほうがいいに決まっている。それが唯先輩を二年以上もの間、突き動かした夢なのだから。

では、なぜ。私は唯先輩に真相を伝えたくないのだろう。なぜなのだろう。

…やめろ。それを考えると、考えてしまうと…
腹の奥が爆発しそうに熱い。

それは結局、たった一つの自分勝手な理由なのだ。それは…




梓が自分の部屋のドアを乱暴に開け放ったのは、午後八時ごろ。
両手に抱えた袋に入った大量の酒の缶を見て、唯が驚いた顔をする。
「あずにゃん、どうしたの?そんなにいっぱい、お酒なんて買って。私のギターのせいで生活苦しいんじゃあ…」

「いえいえ、いいんです、パーティーですよ。楽しいパーティーです」
そう告げるといきなり、五百ミリリットルの酎ハイの缶を二、三本同時に開けて、一気飲みを敢行する。

「あ、あずにゃん!やばいって!そんなに一気飲みしたら…」
唯が慌てて止めにくる。

なぜ止めるんだろう。止めるな。今日は早く酔っ払って、薬を飲んでどこかにいきたいのだ。そんな気分なのだ。
今、目の前にいるヘアピンをつけた茶髪の女の顔を見ていると、今すぐ自分の体を刃物でズタズタにしてしまいたい衝動に駆られる。
だから、その前に我を忘れるのだ。
「いいから唯先輩、そこの引き出し開けて、薬とってください。早く。」
「薬?」
「最近あまり飲まなくなったからしまっておいたんです、でも今日は飲まなきゃいけないんです」
「え?あずにゃん…どこか具合でも悪いの?大丈夫…」
「ごちゃごちゃとうるさいです!早く渡してください!」
今まで聞いたことがないような梓の大声に、唯の体がびくっと縮こまる。心配そうな顔をしながら、引き出しの中の薬をおずおずとまとめて梓に手渡す。
なぜそんな顔をしてる。やめろ。私は心配に値するような人間ではないのだ。

梓は無我夢中で、錠剤をいくつもいくつも取り出し、酒で次々と胃の奥に流し込む。


「あずにゃん、それは何の薬なの?」
尋常ならざる梓の様子に疑問を抱いたのだろう、唯は必死に問いかける。

「ああ、これですか…まあ簡単に言うとドラッグですよ。唯先輩も飲みます?トリップできますよ、トリップ」

ドラッグ、という言葉を聞いて、唯の顔色がはっきりと変わる。
梓は狂ったように笑う。
「だめだよ!あずにゃん!こんなのだめ!」
「うるさいうるさい、うるさいです」
酒と薬で、視界がぐるぐると回りだす。
そこに映る唯は、ゆがんだ輪郭の唯は。


泣いていた。涙を流していた。


「あずにゃん、なんで…なんでなの…何かあったんでしょ、辛いことが。だったら、私に言ってよ…」

大粒の涙。しかしそれは、初めてギターを弾いたときに見せた優しいものではなく、ただただ悲しく辛そうな、くしゃくしゃの顔で泣いていた。

「なんでこんなことになるの、あずにゃん、だめだよぉ…」


辛い、本当に辛い。泣き顔を見るのも、泣き声を聞くのも。みぞおちを冷たいナイフでざくりと刺されたようだ。

梓は何も持たずに部屋を飛び出した。

「待って!」
中から唯が呼び止める声が聞こえる。
何も考えずにすむよう、全速力で非常階段を駆け下りて、全速力で走る。
目的地はよくわからない。視界もぼやける。足元もふらつく。
顔に激突する冷気は、もはや冷たいというより痛いという言葉を使ったほうが良いほどだった。
路地を駆け抜け、大通りに出る。
梓の両隣には、動き始めた夜の街。電気街の煌びやかなネオンサイン。車のヘッドライト。歩道橋の上のカップル。レストランの料理の匂い。
そんな賑やかな街を、息を切らせて走り抜ける。

そして丁度、体力の限界が訪れたのは、大通りから少し外れた、人気のない公園の前だった。

風が吹きつける。
寒い。とにかく寒い。
手足の先の感覚がない。
視界は相変わらずぐーるぐーると回ったり、ぐにゃぐにゃと歪んだり、はっきりと視点が定まらない。
とにかく休みたい。梓はブランコに腰かけ、はぁ、はぁと荒く呼吸する。



どれくらい、そうしていたのだろう
もしかしたら、少しの間意識を失っていたのかもしれない。
酷い頭痛に耐えきれなくなって目を開けると、隣のブランコに、唯がいた。
手には、何か湯気の立つコンビニの袋のようなものを持っている。梓の体には、いつの間にか毛布がかけてあった。

「女の子が泣きながらこっちのほうに走ってったって、人に聞いたから」

唯は梓の氷のような手に、息を吐きかけながら、言う。

「唯先輩…」
なんて、優しいのだろう。なんて、あったかいんだろう。
なすがままにされる梓は、ぐらぐらと揺れる頭で、唯に一つの疑問を投げかける。

「なんで唯先輩は、そんなに…優しいんですか…」

「なんでって…」

「なんでこんな私なんかのために、そこまでしてくれるんですか。私にはわかりません…」

唯は困ったような顔で
「それならあずにゃんのほうがだよ。何も知らないただの行き倒れを助けてくれて、部屋まで貸してくれて、ギターまで買ってくれて…」


私は…優しいあずにゃんが大好きなんだよ。


と、そんな台詞が、凍える空気を震わせて梓の耳に届いた。
他人から嫌いと言われることはいつものことだが、好きと言われることに、梓は慣れていない。だって、違うのだ。唯先輩の思い描く私と、本当の私…

「違います、違うんです。唯先輩。世間をナメないで下さい。私が、中野梓が、ただの善意で行き倒れの汚らしいクズをわざわざ助けて、あまつさえ部屋まで提供するような人間だと、本気で思ってるんですか」

梓は自分を嘲笑するように、問いかける。
唯は、「え?」と。怪訝そうな顔で梓を見つめる。

「世間にはね、あんたみたいな本当の善人のほうが、よっぽど珍しいんですよ!
言ってあげましょうか。大発表しましょうか。私が唯先輩を助けた本当の理由。きっと驚きますよ。あはははは!ざまあないです。
その理由はですね…」

そう、それは、その理由は。
自分が今まで、善人のフリをして胸の内に秘めてきた感情は。

「ただ、寂しかった、からです…」
涙がボロボロと、ひとりでに流れ出す。

「……」
「自分が寂しかっただけなんですよ、自分が寂しいから、人の温もりが恋しいから、側にいてもらいたかっただけです。ただそれだけなんです。
可哀想だから助けたとか、このまま唯先輩を行かせることが耐えきれなかったから部屋に置いておいたとか、そんなごたくは全部、本当の理由をごまかすための嘘です。嘘っぱちの感情なんです!」

「あずにゃん…」

そう、その理由がある限り、私の優しさはどこまでいってもただの嘘っぱちの優しさだ。
唯ちゃんは、優しいから…という桜高軽音部のKさんの言葉を思い出す。
仲間のために、命の危険を省みず救命胴衣を捨てるような本物の優しさが、私にはたまらなく眩しい。私はそんなもの、これっぽっちも持っていないのだから。

「それだけじゃありませんよ。私は、唯先輩にそばにいてほしい、寂しいという自分勝手な理由だけで、許されないほど酷い隠し事を今、唯先輩にしようとしています。証拠は私の携帯の中です。絶対に、許されない隠し事です…」

喘ぐように、絞り出すように、やっとそこまで言う。嗚咽が止まらない。涙が止まらない。胸が苦しい。
「だから、こんな奴は、もういますぐ手首切って死んだほうが…」

「私も、ただ寂しいだけだよ!」
梓の自責の言葉を、唯の大声が遮った。

「…唯先輩?」
「あずにゃんが大好きだから、あずにゃんが辛いときは助けてあげたいよ。でも、じゃあなんであずにゃんを大好きになるかって、一人じゃ寂しいからだよ!」

この人は、きっぱり言い放つ。
自分の優しさも、ダメ人間中野梓と、全く同じ理由から来た優しさだ、と言い放つ。

「私だってずっと一人で旅をしてきて。この街であずにゃんに会えて、すっごく嬉しかった。あずにゃんといれば、寂しくなかったから。だからあずにゃんを失いたくなかった。だから好きになった」

「だったら…」
嘘をつけ。だったら、本当にあなたが私を失いたくないのなら。

「だったら、ずっと一緒にいてくださいよ。私の部屋で…一緒にギターを弾いて…
唯先輩の旅の終着点は…Drifterの放浪が終わる場所は、この街ですよね。そう約束して下さいよ、唯先輩!
うわああああああああああああ」

泣き叫ぶ梓の背中を、唯の手がゆっくりとさする。栓が決壊したダムのように、涙は、感情は、容赦なく溢れだす。
耳元で「わかった。約束する。」
と、ふわりとした声が聞こえた。

それだけで、温かな安らぎが体中を駆け巡っていくのを感じる。

「ごめんなさい。ごめんなさい、唯先輩。私…」
「あずにゃん、そろそろ帰ろ?ね、帰ろ。あったかいおでん買ったからさ。冷めちゃう前に、帰ろ?」
唯に促されるまま、梓はゆっくりと、ブランコから立ち上がった。




第三章まで、終わりました



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最終更新:2010年12月08日 00:02