それは、本当に何気ない日常の一コマに過ぎない……そのはずだった。

 それは、冷静な私なら見過ごせる程度のこと……そのはずだった。

 それは、唯先輩からしたら只のお遊びでしかない……そのはずだった。

 でも、私は耐えられなかった。

 優しい笑顔も、ふんわりとした高い声も、温かい身体も、

 全部が――嫌いになっていった。

 その感情は恋ではない。

 この感情は憎しみでもない。

 あの感情は焦燥に近い。

 ひとつだけハッキリしていることは、嫌い、大嫌いだということだけだ。

「唯先輩、嫌いです……」

 照明の点いてない部屋の中、

 私は一人、自室のベッドの上で呟いた。

 嫌い、という言葉を口にするたび、胸が痛くなる。

 左の手のひらを天井に翳して、右腕で視界を覆う。

 暗い視界が漆黒に変わる。

 今の私には心地よい、何も考えたくない、このまま海の底に沈んで眠ってしまいたい。

 今日あった出来事は、私を苦しめたのだ。悲しみが溢れ続ける。

 十秒……三十秒………百秒…………千秒、時間が虚しく経過していく。

 ――気がつけば、午前二時の深夜。

「唯先輩、嫌いです……大嫌い、です」

 私は繰り返し、自認させるかのように呟き、意識を闇に沈めていったのだった。



――今朝。


 下駄箱を通り過ぎた辺りの廊下で、背後から包まれる感触を味わった。

「おはよー、あーずーにゃーん♪」

 声を聞く前に、誰だかわかってしまった。

「おはようございます唯先輩、でもいきなり抱きつかないで下さい!」

 体温が、グンと上がったのを自分でも感じた。
 恥ずかしさから反射的に否定の言葉が出てしまう。

「えー、じゃああずにゃん、後ろ向いてー」

「どうしてですか……」

「いいからー、はい!」

「もう、しょうがないですね」

 後ろを振りむくと、律先輩、澪先輩、紬先輩の3人がいた。
 視線があったので挨拶をしようとするけど、

「あーずーにゃーん、抱きついていい?」

 唯先輩が確認を取ってくる。
 どうやらいきなりではなく、したいようだった。

「ダメです」

 私は、すかさず拒否をした。

「えいっ! う~~ん、柔らかーいよー」

 でも、唯先輩はお構いなしに抱きついてくる。
 髪の毛から漂ってくるシャンプーの甘い香りが鼻腔を刺激する。

「おまえらー、相変わらず仲いいな」

「律先輩、おはようございます。……呑気に見てないで助けてください」

「ヤだよ、大体そんなニヤケ顔で助けを求められてもねー」

「そうだねー♪ 梓ちゃん、嬉しそうだし」

「ムギ先輩まで……!」

「あずにゃーん、可愛い」

「もう、いい加減離れて下さい!」

「ちぇー」

 これが私の日常風景。
 大好きな、私のやり取りだった。

 だけど、戸惑いも感じた。
 初めて経験した学園祭でのライブの日から、
 自分の中にしこりみたいのを意識してしまうのだ。
 特に、唯先輩に対して。
 そんなことを考えながら、先輩たちと別れて、一年の教室へ。
 入り口付近にいたクラスメイトと挨拶を交わし、自席に座る。
 既に教室に来ていた友人が、私の席に集まってくる。

「おはよう、梓ちゃん」

「おはよう、梓」

「おはよう、憂、純」

「あれ、梓ちゃん、元気ない?」

 たった一言言葉を交わしただけなのに、私の気分がわかるなんて、
 憂はシックスセンスの持ち主……なのかな。

「……どうだろ、たぶん大丈夫」

「悩みあるんだったら、私たちに相談しなさいよー」

「純、ありがとう、本当に大丈夫だから」

「……あ、もしかしてけいおん部の先輩に関係してること?」

 なぜか、純にもバレていた。
 憂と純が凄いのではなく、私が単純なのかと不安になった。

「ち、違うの! 別に、唯先輩は関係ないから!」

 言ってから、自爆したことを悔やんでしまう。

「……梓、何もいうまい」

 どうやら私は、単純だったみたいだ。

「えっと、お姉ちゃんがどうかしたのかな?」

 憂の優しい視線が心に沁みた。
 これは、話さないといけない気がしてきた。
 それに、自分一人で悩んでいても、解決できないのはわかっていたから決心する。

「あぁぁぁ! もう! 話すから二人とも一緒に来て!」

 二人の手を取り、席を立つ。廊下に連れていこうとするが、
 担任の先生がドアをガチャっと開けて入ってきた。

「はーい、HRを始めますので着席してください」
「……じゃあ、お昼休み!」

 お昼休み。私はパン派だ。
 購買でアップルパイとミニ三色パンとぞうさんの紅茶紙パックホットを購入した。
 冬という季節柄、あまり人が立ち寄らない中庭での食事、だったのだが……。

「いや、寒すぎだろ!」

 純が耐えられなかった。

「確かに寒いけど、他に良い場所なんてないし」

「部室は開いてないの? けいおん部の」

 部室は使える。だけど、あの部室は先輩たちがいて初めて『部室』になる。
 けいおん部にとって大切で特別な場所。
 だから、嘘を吐いてしまう。

「……部室は使えないんだ、ごめん」

「そっかー、残念」

 あっさりと下がってくれた純に心の中でもう一度謝った。

「でも、食べながら話していれば暖まってくるよ」

 憂が、手を擦り合わせながらベンチに座った。

「憂は寒くないわけー?」

 純が続いて憂の右側の席に腰を下ろし、私は憂の左側に座る。

「うーん、じゃあ人間カイロしようか」

「なにそれ?」

「こうやって、固まって身体を密着させるの、寒いときにお姉ちゃんと良くやってて」

「なんかおしくらまんじゅうみたいだね」

「……恥ずかしい」

 ここは中庭。廊下、教室などのどこからでも、誰でも注目することができる場所。
 つまり、数多くの視線に晒されていた。

「大丈夫だよ、どこのグループも似たようなことやってるから」

 女子高には数多くのグループ、もとい縄張りみたいのが存在している。
 だけど、女子高に限った話ではない。女の子の集団があったならどこでもグループが生まれるし。

「そうそう気にしない、気にしない、ほら梓、悩み事をパパ~っと話してみなって」

 軽いノリだが、その方が暗くなりすぎず、話しやすくなった。

「なんか、距離感がわからなくなってきちゃって……」

「……距離感? 部内での?」

「最近、私が私じゃなくなっていくみたいなの、近すぎて流されていくというか、でもこのままでも良いなぁって」

「これまたわかり辛い悩み方だな。
 梓がいいんならそれで良いんじゃない? 私だって、ジャズ研の先輩たちの雰囲気に流されるし」

「良いんだけど、ダメなの! 自分でも良くわからないから悩んでるの!」

「うーん、じゃあ一度距離をゼロにして、そこから梓ちゃんが一番理想的な距離感を図ってみたらどうかな?」

「……ゼロ?」

「思い切って、梓ちゃんから抱きついたりして甘えてみるの、たぶん受身でいるから判らなくなるの。
 そこから、どの程度までの接し方が梓ちゃんにとって心地いいか考えていくの」

「普通、逆じゃないか? 梓の場合、近すぎて判らないから一度距離をとって大切さを実感させる方がいいような」

「……それじゃあ、ダメなんじゃないかな、今の梓ちゃんが距離を取るってことはどうするの?
 けいおん部に出ない? それとも、部内で会話を減らす? 不自然極まりないし、
 関係をこじらせるだけじゃなく、距離感がもっと混乱しちゃうよ」

「……言われてみるとそうかも、雨降って地固まる作戦は見送りかー」

「今大切なのは、すれ違うことじゃなくて、ありのままの事実関係を見つめることだと思うんだ」

 憂の言ってることは、ボンヤリとだけど解る気がした。
 私は、すれ違いたいわけじゃない。
 気持ちに整理をつけておきたいだけなんだ。
 それが解っただけでも、価値があった。

「……私、頑張ってみる! 憂と純に相談してよかった」

「梓、やる気なのか!」

「私は、応援してるよ、梓ちゃんファイト!」

「勿論! や、やってやるです!」

 そうして、私は放課後に実行しようと決意するのであった。

 帰りのHRも終わり、とうとう放課後がやってくる。
 昼休みの時は大丈夫だと思ったけど、いざ実行する時間が近づいてくると、
 緊張が私の足を重くさせた。

「梓、けいおん部いくんでしょ?」

「う、うん……」

「ほら、お姉ちゃん達が待ってるから、梓ちゃん頑張って!」

 憂の声援を前向きに受け止め、なけなしの勇気を振り絞り、
 愛用のギターであるムスタングをいつものように背負い、部室へ向かった。
 私を出迎えてくれる先輩方の笑顔を思い浮かべて、部室の扉を開ける。

「おっ、梓が来た」

 真っ先に気づいたのは律先輩だった。
 口にポッキーを銜えた姿はどことなく男の子っぽい。

「待ってて、今お茶の準備するから」

 紬先輩は給仕に手馴れていて、すぐ準備に取り掛かる。
 一度くらいは後輩の自分が、お茶汲みをするべきだとは思っている。
 だけど、紬先輩が淹れてくれる紅茶は格別に美味しいから手が進まない。

「飲み終わったら、ふわふわの練習だからな」

 やる気に満ち溢れていたのは澪先輩。
 何か、触発されることでもあったのだろうか。

「えー、今日は寒いし、お茶飲んでお喋りしてよーよー」

 相変わらずLAZYなのは唯先輩。
 このボンクラでズボラで能天気な唯先輩が、私の心をかき乱した張本人。
 ただ、グータラなだけでなく、やる時はしっかりとこなすだけに性質が悪い。
 それに、唯先輩がいると部室全体の空気が暖かくなる。あと、身体だけでなく心も。
 新入生歓迎会で始めてけいおん部を見たとき、私は唯先輩の演奏と魅力に惹かれていた。
 入部するキッカケとなったのも、唯先輩によるところが大きかった。
 なんていうか、居心地が良かったのだ。
 たった一つのことだったけど、それが全てを物語っているような気がした。

「今日は、しっかりと練習しますです! 良いですね! 唯先輩」

「まぁまぁ、あずにゃん、ケーキだよ、あ~ん」

「……あ~ん……はぁ、美味しいです」

 はっ!
 ついいつもの調子で受けてしまった。
 憂の言葉を思い出す。

『受身でいるからわからなくなるの』

 そう、ここは、私から動くとき……。

「ゆ、ゆ唯先輩、あ~ん」

 手が若干震えながらも、フォークでガトーショコラケーキを刺し、唯先輩の元へ。

「おぉっ! あずにゃんがあ~んしてくれるの? ん~~」

 口を大きく開けて私のケーキを待つ唯先輩は、どうしようもなく可愛かった。

「あ、あ、あ~ん!」

 唯先輩の口内にガトーショコラケーキが落とされる。
 でも、これじゃ只のバカップルみたいだ!

「いやー、今日は暖房の必要がないんじゃないかー暑い暑い」

「そうだな、梓と唯を見ていたら歌詞が思い浮かんだぞ……」

「お、澪も絶好調じゃん」

「そ、それでは……ふたりの距離 縮められればガトーショコラの味
 甘い香りが君を運んでくる このまま時間が止まればいいのに
 だめだよまだ離れないで ずっと君を感じていたい……とか」

「澪ちゃん素敵! 私が後で作曲するからね」

「ムギ……澪もベタな歌詞というか、そのまんまというか……」

「なんだよ律、これはイケるって思ったのに」

「澪ちゃん、私も気に入ったよー、あずにゃんはどう?」

「え? 私ですか? というより、そのふたりって私と唯先輩のことなんですよね……」

 そこまで甘い関係を演出していたわけでもないのに……。

「では澪ちゅわーん、私たちもあーん」

「止めろ律、そんな恥ずかしいことが私にできるか!」

「りっちゃん、りっちゃん、私にあ~ん」

「唯は食いしん坊だな、ほら、あ~ん」

「あ……」

 律先輩が唯先輩に食べさせてあげる姿を見て澪先輩の表情が翳る。
 まるで、おもちゃを取り上げられた子どもみたいだった。

「律のばか……」

 小声で呟いたのを、私は聞き取ってしまった。

「澪先輩……」

「ほーら、澪、あーん」

「あ、あーん……」

 結局、律先輩に食べさせて貰っていた。
 なんか、こっちのふたりのが本物のカップルみたいだ。
 お互いの気持ちを分かり合ってるというか、フォローが自然だ。
 ふたりを見ていたら、歌詞が、私の頭の中に流れてきた。
 視線はそらさないで わたしはいつだって 君の瞳に映っていたい
 そう 気まぐれな気持ちは許さない 真っ直ぐわたしをみて欲しい
 月が輝くように アネモネが笑うように いつまでも……
 ……口にしないでよかった、と改めて思う。
 詩はやっぱり恥ずかしいから。

「へぇー、梓も中々良い詩が思いついてるじゃないか」

 澪先輩の一言は、私につうこんの一撃を与えた。

「……え”」

「思いっきり声に出していたぞ」

「むふふ、あずにゃん、今日は一段と可愛いねー」

「うぅぅぅ~~」

 声にならない叫びがこだまする。頭が沸騰してきた。
 今なら勢いでアンジェロラッシュができるかもしれない。

「唯はなんか歌詞思いつかないか」

 律先輩がケーキを口にしながら尋ねた。

「うーん、サンデー ケーキの日 マンデー アンコの日 チューズデー チョコの日 ウエ――」

「もういい、相変わらず食べ物が多いな……」

「だってー、私の動力源だしー美味しいじゃんー」

「ムギは何かない?」

「私は、ちょっと……」

「そういうりっちゃんは何かないの?」

「律に歌詞を期待するだけ無駄だよ、唯」

「なにをー! ……好き放題言われってるレッテル貼られってる、なんちってーあっはは」

 どっかで聞いたことあるフレーズ……。

「練習しますか」

「そうしましょうか」

「そだねー」

「律、早くきなよ」

「おまえらぁ……」

 今日もけいおん部のコンビネーションは抜群です。


 それから、ふわふわ時間、ふでペン~ボールペン~、私の恋はホッチキスを通しで演奏した。
 演奏する瞬間に気が引き締まるけいおん部の空気がとても好きだ。
 それぞれ、演奏のなごりを味わい、私のミストーンが少し目立ってしまったことや、
 律先輩のドラムが少し走りぎみになってしまっていたことなど指摘しあった。
 珍しく、有意義な練習になった日であったため、憂のアドバイスを実践する機会が殆どなかった。
 ……これでは部活が終わってしまう。
 もうすぐ、冬休みに突入してしまうため、なんとしても行動に移したかった。

「あ、あの! 唯先輩! ちょっと、そこでじっとしていて下さい」

「ん~? だるまさんがころんだでもやるの?」

 ギターを背負い、少しうつむき気味の体勢の唯先輩に私は、そのままで、と指示した。
 なんだなんだ、と律先輩を含め、澪先輩、紬先輩までもが私のことを注視した。
 私は、無言のまま唯先輩に近づき、距離を縮めていく。
 残り七メートル、まだ遠い。今の私はきっと顔が赤い。
 残り四メートル、これでもまだ届かない。心音が煩く、耳と脳に響く。
 残り二メートル、お互いが手を伸ばせば届く距離。手足が震えた。
 残り一メートル、もう躊躇わない、そのまま距離をゼロにして唯先輩を抱きしめた。

「…………」

 私のほうが身体が小さいので包み込むようなことはできなかった。
 でも、いつもは抱きしめられてばかりいるので、新鮮な感覚だった。
 桃みたいな柔らかさの唯先輩の感触にやすらぎを感じた。
 緊張からか、はたまた羞恥からか動くことができなくなった。
 唯先輩はこんな恥ずかしいことを良く抵抗なしで出来るものだと凄さを改めて実感。

「なでりなでり」

「……な、なんですか?!」

 急に頭を撫でられ、私は俯かせていた顔を上げた。

「ちゅー」

「…………~~~~~~~っ!」

 え? 何? 今何か口に当たった!


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最終更新:2010年12月12日 01:18