「なななな、何をするですか!?」
「いやー、あずにゃんが可愛かったからついー」
「……は、初めてだったのに! こんなところで酷いです!」
「だってだって、あずにゃんの貴重な甘えんぼシーンだよ!」
「……唯、とりあえず梓に謝っておけ、女の子のファーストキスはそんなに軽くないだろー」
「えー、女の子同士だしノーカンだよー」
ノーカンだよー。
のーかんだよー。
NO-COUNTだよー。
足元がふらついた。
これは、めまい……?
「あずにゃんのファーストキスおすそ分けー」
「……は? ……っておい!」
「んちゅー……ちゅぷー……ペロペロ」
なんだろう……唯先輩と律先輩は何をしているのだろう。
なんか唇から舌も出てるような気もするけどなんでしょうね。
あぁ、キスをしているのかぁ、私のキスのおすそ分けって言ってたもんね……。
「……しかも梓の時より濃いぞっ!」
「ふへへー、りっちゃんの唇げっとー」
「……ゆーいー……」
澪先輩が二人にゆらりゆらりと近づいて行った。
そして拳を振り上げ、思いっきり振り下ろした。
「いだぃ! ってなぜ私!?」
「律も唯を止めなかった責任があるからだ」
「すみません! 理不尽すぎるんですけどっ!」
「唯ちゃん唯ちゃん、私も私も~」
「かもーん、ムギちゃんにも、おすそわけー」
うっとりした目でこのやり取りを続ける紬先輩。
遠い世界の出来事のように感じられた。
唯先輩を見ていると、なんだかバカバカしくなり、怒りが沸々こみ上げてくる。
さっきまであんなに緊張していた自分に。
何で悩んでいたのか、どうでもよくなるくらい目一杯に握り拳を作った。
長くないはずの爪が皮膚に食い込んで痛かった。
「唯先輩の、バカァァァァァァァ!」
ありったけの声量を込めて叫んだ。
叫んで、スクールバッグとギターを持って、部室から逃げるように走り去った。
背後から呼び止める声が飛んできていたが、構わず階段を駆け降りる。
下駄箱に着くまでに、何人かの生徒とぶつかってしまった気もするが、
俯いていたので、あまり覚えていない。
「はぁはぁ……なにやってんだろ私」
空回りもいいところだった。
自分自身でも何がしたかったのか、要領を得ていなかったかもしれない。
そもそも、距離をゼロにした結果があれなんだとしたら、やっぱり私には無理がある。
ハグまでが私の境界線だ。
その先は、まだ早い。
結局はいつもの距離が一番居心地がよかったというわけだ。
「……けど」
けど、今日は失敗してしまった。
はぁ……金曜日だったから土日を挟んじゃうし、月曜日の部活、行きづらい……。
でも悪いのは唯先輩、あんなに無神経だとは思わな……いや、思いたくなかった。
外に出ると、雪が地上に化粧をしていた。
ザクザクと積もった雪を踏み鳴らしながら、私は走った。
ローファーだったのですぐに転んだ。痛い、この痛みも唯先輩のせいだ。
身体が冷たいのも、転んで擦りむいたのも、涙が止まらないのも、全部。
無様な姿の身体を起こし、一歩。また一歩。
そして小走りに、通学路を駆ける。
何度転んでも関係ない。ただ、ギターだけは、汚さないように……。
いつの間にか、普段は唯先輩と別れる場所にまで辿り着いていた。
木枯らしが吹きすさび、私を冷やしていく。
一人で帰る通学路がこんなにも虚しいものだとは思わなかった。
けいおん部に入る前までは、一人でいることの方が普通だった。
友達はいるが、クラスで会ったら挨拶と流れで行動する程度で、深い付き合いではない。
それに、暇があれば友達と遊ぶより、ギターを弄っていたから。
お世辞にも私は、人付き合いが上手いほうではなかったと自覚していた。
言いたいことは素直に発言してしまうし、おべっかを使うのは苦手。
だけど、けいおん部の人たちは、そんな私も受け入れてくれた。
一年生なのに、練習しましょうとか文句を言ったり、
先輩方の演奏に堂々と口を出したりしても、態度が変わることはなかった。
私が私のままの姿でいられて、安らげる空間が初めて学校で持てた瞬間だった。
クラスでは友達もできた。だけど、けいおん部にいる方が楽しいと感じてしまう。
唯先輩たちと一緒に活動しているほうが、充実しているのだ。
もう、一人では、クラスでは、物足りなくなっていた。
「なんなんですか、この感情は……っ!」
全部ホッチキスで綴じれませんよ! 全然っ!
隣にいてくれないと、寂しいじゃないですかっ!
けだるそうな顔でも、笑顔でも、泣き顔でも、
視界にいないと、手の届く範囲にいないと、胸が苦しいよ……。
この気持ちを紛らわすために、どこかで寄り道しようとしたが、財布が軽かったので、我慢した。
それからは真っ直ぐ家に帰り、髪に積もった雪を玄関で払うこともなく自室へ直行する。
バッグを放り投げ、ギターを壁際に置く。
制服姿のままベッドに倒れこみ、毛布を被る。
全身にくっついていた雪が水となってベッドを濡らした。
湿ったベッドはあまり心地よくなかった。
意識を失う前に、夕食だと呼びかけてきた親の声が聞こえたような気がした。
数時間後、起き上がった私はありったけの不満を口にするのであった――
唯先輩なんか嫌いだ、そう思って眠りについた私は、あっけなく朝に目を覚ました。
改めて今の格好を見直すと、とても外に出れる状態じゃない。
「制服が皺くちゃ、それに髪の毛のゴムが片方ない……」
片方だけ、髪が括ってあり、もう片方はバサっと広がっていた。
「最悪の寝覚め……髪の毛、痛んでないよね……」
髪だけでなく、身体がベトついて気持ち悪いのに気づく。
一度、意識してしまうともう耐えられない。
制服を脱ぎ、替えのパンツなど着替えを持って脱衣所へ行く。
全ての服や下着を脱ぎ、浴室へ。
シャワーの栓を開け左腕を差し出す。
指でお湯の温度を確かめてから、鎖骨部へシャワーをかける。
「気持ちいいです……」
全身くまなく身体をボディシャンプーで洗っていき、髪の毛をお湯に丁寧に染み込ませる。
フローラルな香りのシャンプーを使い、コンディショナーでケア。
長い髪を頭の上でまとめて、お風呂に浸かる。
39℃と少しぬるかったが、ボーっとした頭には丁度良かった。
「……ふぅ」
ゆっくり湯船に浸かるだけで、精神にだいぶ余裕が出てくる。
安心したらお腹がキューっと音と立てた。
昨晩、夕食は取らなかったのだ。
身体が空腹を訴えるのにも、頷けた。
食欲が戻ってきたということは元気になってきている証拠。
「朝ごはん、何食べよう……」
そんなことを考えつつ、浴槽から身体を出して、もう一度シャワーで全身をさっと洗い流す。
脱衣所で白のパンツとブラジャーを身につけ、私服に着替える。
朝食もそこそこにとった後、自室へ戻る。
ふと、携帯電話の電池残量が気になった。
スクールバッグから取り出した携帯には着信アリのメッセージ。
ピカピカと青いダイオードが発光していた。
誰からだろう、携帯を手に取り開く。
着信はメールが2件。電話が1件だった。
まずはメールから確認する。
1件目は唯先輩から。時間は、私が帰宅するちょっと前くらいだろうか。
『あずにゃんさっきはゴメンね(><)
明日時間あったら、先輩が何か奢ってあげるよ~!
1時過ぎに、商店街の入り口で待ってるから!』
写メが添付されており、土下座していた。
誰かに取って貰ったのだろう。
次に2件目を開く。純からだった。
『結果はどうだったの?』
酷く単調であったが、この短さが返信する気分にさせた。
『ゴメン、ちょっと携帯見てなかった。
昨日は大失敗、普段しないことに挑戦しても上手くいかないね、やっぱり』
絵文字も顔文字も使うことなく、メールを送った。
唯先輩への返信は、出来そうになかった。
電話の着信履歴を見ると、憂からだった。時間は20:20。
唯先輩と夕食の後の会話なんかで、私のことを聞いたのだろうか。
恐らく、昨日私を焚きつけた本人として、心配しているのだと思う。
憂が責任を感じることは全然ないのに……。
今の時刻は、午前10時30分。
商店街で待つらしい唯先輩の一方的な約束の時間まで、充分に余裕があった。
だけど……。
「どうしよう、行くの止めようかな……」
ここでホイホイついて行くというのは釈然としない。
それに、メールで謝られても嬉しくない。
むしろ、なんで追いかけてきてくれなかったんだろう、なんて考えてしまう。
もしあそこで私を追いかけてきて、抱きしめてくれたのなら、素直に許せたかもしれないのに……。
「あぁ、もうっ! 本当に唯先輩は……」
ギターを手に取り、チューニングをする。
チューニングを終わらせた後は、聞きなれた音楽を流し、ギターパートを模倣していく。
だけど、音にキレがない。
いつもはできるスウィープもテンポが崩れてガタガタだった。
変拍子で構成されていたのも、テンポを崩す要因。
ギターを一度置いて、携帯を見る。
すると、丁度憂から電話が掛かってきた。
『梓ちゃん、おはよう』
「お、おはよう」
『今日、時間取れるかな?
お姉ちゃんが、梓ちゃん怒らせちゃったって反省しているの……
30分でいいからお姉ちゃんに付き合ってあげて』
「憂……うん、わかった、ちゃんと今日行くよ……」
『ありがとう! さすが梓ちゃん、それじゃあ今日は宜しくね!』
「ん? んん……じゃあまたね」
ツーツー。
相も変わらず憂はできた人間だと思う。
憂の電話がなかったら、たぶん唯先輩と会いに行こうとする気はおきなかった。
悩んでいるうちに時間が迫って、悪いのは唯先輩なんだって思って、
一人でギターでも弾いてたかもしれない。
そんなことをしても、結局は何のプラスにもならないと解っていても、だ。
だから、憂のフォローは嬉しかった。
時刻は午後12時、そろそろ準備し始めないと間に合わない。
身だしなみを整え、家着から外に出る用の服に着替える。
髪を括って、いつものツインテールに。
「そういえば、唯先輩と二人っきりなのかな? それとも澪先輩とか律先輩、ムギ先輩も一緒?」
果たして、今の私には、どちらの方が嬉しいのだろうか……?
最終更新:2010年12月12日 01:19