5月、吉日。

私こと田井中律は、学校生活における最大のイベントの一つである修学旅行に参加していた。

気心の知れた友人達と過ごす2泊3日の小旅行。否が応にも気分は高揚していた。

初日の集団行動を終えた私たちは、それなりの食事に舌鼓を打ち、大浴場にて旅の垢を流した。

布団を敷き、取り止めのない話で笑い転げていると、就寝時間はあっという間に迫っていた。

担任の山中女史の叱りつける声も心楽しく、消灯をしてもなお私たちのおしゃべりは続いた。

この時はまだ…この部屋の誰一人として、数時間後に訪れることとなる惨劇を予見し得なかったろう。

ある者、を除いては。

一番初めに眠りに落ちたのが誰なのかはわからない。ただ、私ではないことは確かである。

なぜならこの耳に、誰かの穏やかな寝息のリズムを感じた記憶があるからだ。

先ほどまでは小さく騒いでいた皆が、その寝息を聞いて後ははたと黙ってしまった。

友が眠りについた以上、おしゃべりは自粛すべし。それくらいの良識と思いやりは、誰しも持っていた。

私は小さく「おやすみ」と呟いてから、天井の木目をわずか見つめ、まぶたを下ろした。

旅の疲れかあるいははしゃぎ疲れであるか、私の意識はスポンジに水が吸い込まれるがごとく、急速に闇に呑まれていった。


どれほど眠っただろうか。私は微かな尿意を覚え、ゆるりと目を覚ました。

豆球も消されていたため、部屋の中は実に暗い。明かりといえば障子紙を透かして入るわずかな屋外灯の光のみだ。

これではとてもトイレまでは行けぬ。が、耳を澄まさずとも、友人達の寝息は耳に飛び込んでくる。

明かりをつけるわけにもいかない。私は携帯電話の液晶の輝きを頼りに部屋を出ようと決めた。

手探りで携帯電話を発見し、かぱりと開く局地的な光源に、何とはなしに安堵のため息が漏れた。

と、その時だった。

複数の寝息の中に混じって…すすり泣く声のようなものが聞こえたのである。

私はてっきり友人の誰かがホームシックにでもかかったものかと思い、小さく苦笑した。

だが、このメンバーとは何度か合宿などで、家以外の場に宿泊したことがある。ホームシックというには妙である。

私は確認しようと思い、携帯電話で照らしつつ顔を右に向けた。

そこで、私は見た。

窓際に一人の髪の長い女がうつむいて、私に背を向けるかたちで正座をしている。

肩が小刻みに震えているところをみると、すすり泣きく声の出所はどうやらここらしい。

「澪か、それともむぎかな?」

すぐに私は二人の友人の名を思い浮かべた。どちらも髪が長い。

が、次の瞬間。私は気付いた。

澪もむぎも布団に包まって、携帯電話の光を浴びつつ寝息を立てていることを。

…じゃあ、あの女は誰だ?

澪でもむぎでもないのなら…残る一人、唯だろうか。しかし唯はあんなに長い髪を持ってはいないはず…。

「んぅ~、あずにゃん…」

そこで私の耳に飛び込んできたのは、紛れもない唯の寝言だった。

あの、窓際の女は、私の友人達ではない。

そう確信した瞬間、私は全身の毛穴が開くような恐怖を感じた。

やばい。わからないが、わからないがあれはやばいものだ。

そんな直感が私の全身を貫いた。その時。

すすり泣く声が止んだ。そして。

女は正座をしたままゆっくりと、首をこちらに向けて動かし始めた。

私は蛇に睨まれた蛙のごとく、全身を硬直させて、身動きがとれずにいた。

ゆっくりと、女の顔が動く。

横顔が見えた。いや、正確には、横顔があるべき箇所が見えた。

正座の姿勢のまま、首から上だけが、ありえない角度にまで動いている。

女の顔は、右半分が、まるで抉り取られたように欠損していた。

私はそのまま意識を失った。


私が再び覚醒したのは、下半身に奇妙な違和感を覚えたためだった。

冷たい。重い。不快感。

知っている!私はこの感覚を知っている!とうの昔に別れを告げたはずの、あの行為がもたらす感覚!

「げ、おねしょ…?」

私は思わず、小さく呟いた。そして、いまだ右手に固く握られたままの携帯電話で布団の中を照らした。

シーツの上には、湿り気をふんだんに含んだ世界地図が広がっていた。

「メルカトル…」

気の利いた言葉は出なかった。

まずい。実にまずい!修学旅行先でおねしょ!?高3なのに!受験生なのに!?

私はとりあえず、この並々ならぬ量の尿をどうにかせねば、と思った。

ふき取る、ふき取らねばならないだろう。確か箱のティッシュがあったはずだ!

携帯電話をかざして部屋の中を見回す。

あった!あったが…!

ティッシュの箱に辿り着くためには、すやすや眠る澪を越えなければならないようだった。

私は意を固め、すっくと、音もなく立ち上がった。

ジャージの股から聖水が滴った。

どうやらジャージにもたっぷり尿が染み込んでいるようだ。重い。

このまま移動すれば、ヘンゼルとグレーテルよろしく、滴る尿で跡が出来てしまう。

私は一瞬の逡巡の後、皆がぐっすりと眠っていることを耳と目で確かめた。

覚悟が出来た。

私はジャージとショーツに手をかけ、一気にずり下ろした。

そこには、修学旅行先の宿で下半身を丸出しにした少女の姿があった。

ぶるりと全身が震えた。寒い。

だが、寒いのはきっと、気温のせいばかりではない。

幸い股間の周辺にしか尿はついていないようだ。

私はジャージのすそで股にこびりついた残尿を拭い取った。不思議と清々しい気分である。

「さて、ティッシュを取りに行くか…!」

己の心に強く言い聞かせ、右足をゆっくりと前に踏み出す。

音を立ててはいけない。

振動は極力抑えねばならぬ。

体を踏むなど言語道断だ。

慎重に、慎重に、携帯電話の明かりを頼りに、私は布団と畳を踏んでいく。

ふと目線を下げると、いかにも気持ちよさげに眠る幼馴染の顔があった。

この娘は、今、枕元に下半身だけすっぽんぽんの親友が立っていることを知らない。

ここにきて、生来の茶目っ気が顔を出した。

あるいは深夜のテンションがなせる業か、あるいは脳内麻薬の賜物か。

私は腰骨に手を当てて肩幅に足を開き、ぐねぐねと腰を回し始めた。

ダンスだ!

腰を回し、尻を振り、突き出し、引っ込め、左右に揺らす。

玄人はだしのダンス。誰も見ていないからこそできる、しかし誰かに見てもらいたい、そんなダンス。

時間にすればほんの1分足らずであったろうが、実に充実したダンス・タイムだったと心から思う。

何気なく、眠る澪の顔に目をやると、その顔には点々としぶきが落ちていた。

ふき取りきれていなかったのか、あるいは尿道に残っていたものか。

私は心の中で澪に謝ると、そのままティッシュのところまで行き、見事箱ティッシュと、近くに落ちていたビニール袋を入手した。

確保したティッシュで布団をぬぐい、ビニール袋に押し込む。何度か繰り返すうちに水気はあらかた無くなった。

「ふう、これで何とかなったな!」

空元気を出して小さく叫ぶ。そうだ、何とかなったわけがないのだ。

掛け布団と敷布団に描かれた壮大なる世界地図と、そして臭い。これをどうにかせねばならぬ。

時刻は4時を過ぎたころだった。起床までは2時間強しかない。

私はぺたりと布団に座り込むと、腕を組んで考えた。

何とかこのままうまいことスルーできないものか…?

ああ、この宿に止まるのが今日が最後であれば…押入れに無理矢理突っ込んでそ知らぬ顔で帰路につけたものを!

水をこぼしたことにするのはどうだろう?

いや、駄目だ。それでは臭いも色もごまかせぬ。

旅行の疲労もあってか、私の漏らした尿は異常に黄色く、また臭いも強かったのである。

臭いの強い飲み物も、色の濃い飲み物も手元には無い…!

ああ、どうすればいい!?どうすれば私は救われるのだ!?

神よ!父よ、母よ!聡よ!梓よ!誰でもいい、私の一世一代の窮地を救ってくれまいか!?

私は天井を仰ぎ、木目を眺めながら熱い涙をほとばしらせた。

その時である。

「りっちゃん…おはよ…」

唯が、目覚めた。

心臓が飛び出そうになる、とはこういう時のことを言うものか。

私は驚愕し、かつ絶望した。

見つかった…見つかってしまった!ああ、何と悠長に構えていたのだ、私は!

私はがくりとうなだれる。太ももに熱い雫が滴っては弾けた。

が、ここで意外なことに、唯は私になど目もくれず、ふらふらと部屋を出たのである。

なるほど、トイレに起きたのだ。ならば何とかこの場は取り繕えようて。

私は布団に潜り込んだ。足に触れる尿の染みがひんやりと気持ち悪い。

5分ほど経過して後、唯はゆらゆらとした足取りで戻ってきた。

そして…!

部屋の入り口に座り込むと、そのまま眠ってしまったのであった。

私の心の中には3人の田井中律が棲んでいる。

小悪魔的な性格が魅力の律。

頭は固いが心根は優しい田井中さん。

そしてひたすら怠惰なりっちゃん。

この3人が私の中でせめぎ合い、絶妙の拮抗状態を作り上げることで、私という人格は形成されている。

だが、この時、優等生である田井中さんと怠惰なりっちゃんは夢の中にいた。

しかし小悪魔律は、昼の日中と変わらず活動をしていたのである。

小悪魔は、保身のために友を犠牲にせよ、と囁いた。

抗えよう筈が無い。

私は布団からゆっくりと這い出すと、唯の元へと歩み寄った。

耳元に唇を寄せ、柔らかな声音で囁く。

「唯、こんなところで寝ちゃ駄目だぞ?布団に戻ろうな?連れてってやるからさ」

私の言葉に、熟睡の手前にいた唯は、微かな声でこう答えた。

「んぅ…りっちゃん…ありがとぉ…」

胸が痛んだ。だが、私自身が傷むよりは…ましだ。

私は半分以上眠っている唯を抱え起こすと、布団へと運んだ。

唯のではなく、私の布団へと。

唯を私の布団に優しく寝かせる。ジャージ越しであれば布団の湿り気はさほど感じないはずだ。

案の定、私の描いた世界地図の上に寝かされても、唯は気にせず、完全に眠ってしまった。

我が意を得たり。だが、これではまだ不十分だ。

私はペットボトルに残しておいたお茶を取り出した。

そして慎重に、慎重にその中身を、唯の股間にゆっくりと落としていった。

息遣いが荒くなるのが自分でもわかる。

汗がとめどなく流れた。

数分後、3分の1ほど残っていたお茶は、全て唯のジャージと布団に吸い込まれていた。

幸い唯はその間、全く反応せずひたすら眠りこけていた。

「…よし」

私は小さく呟いて、カバンから替えのショーツとジャージを取り出し履くと、唯の布団へと潜り込んだ。

そこからは一転して睡魔との戦いとなった。

それから約1時間、私はまんじりともせずにひたすら時間を無駄に潰していた。

時計の針があと少しで6時をささんとするころに…私は最後の仕上げをするために布団を跳ね除けた。

唯は相変わらずぐっすり眠っている。

澪も、むぎも眠り続けている。

よし…!

私は足音を殺して唯の元へと急いだ。そして、唯の掛け布団をゆっくりとめくり、望む形に整えた。

お膳立ては整った。

後は…自分の演技力を恃むのみだ!

奮い立て、田井中律!


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最終更新:2010年12月12日 02:17