何もしゃべらないようにこらえていたお姉ちゃんが、ついに言葉を発してしまいました。
憂「ちょ、ちょっとうい――」
唯「もういいよ憂。こんな人の話なんて聞いてたくない」
伯父「う、憂ちゃん、目上の人に向かってこんな人とは――」
顔を真っ赤にしたお姉ちゃんの甲高い声がリビングに反響しました。
こんなに怒ったお姉ちゃんの顔は、もうずいぶん見ていません。
伯父「……二人して、大人をからかってたのか?」
憂「ごめんなさい…」
唯「っていうか、なんで見分けらんないの? そりゃ憂はうまかったけど、私の演技なんてダメダメじゃん」
伯父「そりゃ、お前たちがよく似た姉妹だから……」
どうしていいか分からず、とにかくお姉ちゃんを止めようとしましたが、すぐ右手で制されてしまいます。
伯父「あのな、伯父さんは社会人として、保護者として――」
唯「赤の他人はおじさんの方だよ! 赤の他人なんかがあずにゃんの悪口言うな!」
言うなり、お姉ちゃんはソファーのクッションを伯父さんの顔にぶつけます。
よろめいた伯父さんの横をすりぬけて、足音をばたばた立ててお姉ちゃんは部屋を出ていきました。
……お姉ちゃんのいなくなった部屋は静まり返ります。
私は、どうすればよかったんでしょうか?
【2010年11月27日 16:30:02/第二近隣公園】
その場にいたくなくていきおいだけで飛び出して、むちゃくちゃに走った。
話をしたくもなかったし、そもそも声も聞きたくなかった。
……わかってるよ、最初っから。
私たちが少ない方だっていうのも、それを間違ってるって言う人のことも。
けど、息を切らせるたびに憂やあずにゃんの顔が浮かんできて、胸がいたかった。
ごめんね。私、いろんな人に迷惑かけてばっかりだよ。
住宅街のブロック塀とどこかを走るエンジンの音、排気ガスなんかに取り囲まれて……なぜか目にしみるほどで、窒息しそうな気がした。
魚が息を吸うみたいに顔を思いっきり上にあげたら……うんざりするぐらい、きれいな夕陽が見えた。
夕焼け放送はとっくに鳴りやんでた。
いつかの私たちみたいにちっちゃかった子どもたちはみんな手を取り合って、自分の家に帰ってしまった。
11月ぐらいになると、やっぱり暗くなるのも早いみたいで、ムラサキの空に吸い込まれていきそうで少し怖くなった。
誰もいない公園のベンチで膝ごとバッグを抱えていると、どうしてもいろいろ思い出してしまう。
伯父さんが言ってたことは、間違ってなんかない。
だから私は、エリちゃんや姫子ちゃんみたいなクラスの子に、あずにゃんとの関係を言えずにいた。
運命、だったんだと思う。
あずにゃんは――私にはよく分からないけど――新歓ライブで私を見つけて一目惚れしてくれたらしい。
私も初めて見たときから、あずにゃんがかわいくてかわいくて仕方なかったんだ。
抱きしめたい。ぎゅってしたい。
体温を感じたい。声を聞きたい。
髪を、肌を、息を、声を、ぜんぶぜんぶ私のものにしちゃいたい。
恋とか愛とか今もよくわかんないけど、あれが恋じゃなかったら私は一生恋なんてしないと思う。
特別……なんだもん。あずにゃんだけは。
初めて生まれた気持ちをどこにどう持っていけばいいのか分からなくて、あずにゃんを避けたこともあったっけ。
だって、どうしていいか分からなくなっちゃったから。
触れるのが、そうして壊してしまうのが、怖かった。
あずにゃんがもし「先輩」として私を見てるなら、この気持ちは多い隠さなきゃいけなかった。
だって、よこしまな気持ちだとしか思えなかったから。
……でも、こんな内側から溶けてしまいそうな熱い気持ちをもてあましていたのは、私だけじゃなかったんだ。
気持ちが通じあえたときの喜びは……言いあらわせっこないよ。
だって、すごいもん。奇跡だったんだもん。
八月の終わりから付き合い始めて、お互いにこわごわ近づいていった。
今までだって手はつないでたのに急につなぐのが怖くなって、おそるおそる伸ばした指先が触れた瞬間、はずかしくて笑ってしまう。
けど、そうやって「はじめて」を一つずつ越えていく日々がすごくすごくいとおしかったんだっけ。
最後の「はじめて」を二人で乗り越えた夜、あずにゃんは言ってくれた。
いつまでも一緒にいましょう。あいしています、って。
でも……それは、私の間違った「恋」が無理やりあずにゃんを引きずり込んでしまったんだとしたら。
公園のベンチは急に冷え込んできて、昼の格好で取り残された私は思わず身体をふるわせてしまう。
さむいよ。……あっためて、ほしいのに。
この公園にだって、二人でよく遊びに来た。
小さい頃から憂や和ちゃんと一緒に遊んだ公園だって言うと、あずにゃんは目を輝かせて見て回っていた。
なんでそんなに? って聞いたら、「唯先輩がどうやって育ってきたかを知るのもうれしいんです」って照れながら教えてくれたっけ。
あの日、あずにゃんがなでていたすべり台に手を伸ばしてみる。
鉄は冷たく冷えていて、赤黒くさび付いた支柱から汚れが手に着いた。
あずにゃんの手も、汚れてしまったのかもしれない。
私がこんなとこに連れてきたから、汚してしまったのかもしれない。
唯「……あずにゃん、私、……だめ、だったのかなぁ……」
そこにいない人に問いかけたのに、なぜか聞こえる気がした。
それがどうしようもなくたまらなくて、こみ上げていたものがあふれだしてしまう。
自分の泣き声と鼻をすする音と風音しか聞こえない公園で、一人で身体を抱きしめる。
唯「ううっ……あずにゃん……ごめんなさい……でも、やだよぉ…すき、すきなんだもん……」
謝りたかった。気持ちを聞きたかった。
でも、それより――あの声と、体温がほしかった。
だってここは静かすぎるから。寒すぎるから。
――なにしてるんですか、唯先輩。
風邪、ひいちゃいますよ?
唯「……あず、にゃん?」
振り返るよりも早く、私の身体は抱きしめられた。
その腕はあったかくて、なによりも安心できた。
梓「もう、探したんですよ? 唯先輩」
誰よりも安心できるその声を聞いて、涙がもう一度こみあげてきてしまった。
そんな私の身体を、私の愛する女の子はしっかり支えてくれた。
梓「……唯先輩、ちょっとお話しましょうよ」
【2010年11月27日 17:15:10/第二近隣公園】
遠くの犬の遠吠えが響くぐらい静かな公園で、しばらく私は唯先輩を抱きしめていました。
肌寒い季節ですが、唯先輩はいつでも陽だまりを集めたようにあったかい人でした。
けれどもそんな唯先輩はいま、私の腕の中で泣いています。
私の大好きな人は普段ははわほわしてつかめない人ですが、ときどきとても強く私の手を引っ張っていってくれます。
でも、たまにこんな風にとても小さくもろく、抱きしめてあげなきゃ崩れてしまいそうなぐらい弱ってしまうこともあるのです。
振れ幅が大きすぎるし、優柔不断だし、不安定だし、すぐ自分を責めたりする。
唯先輩は自分でもそう言ってますけど、そんなところも含めて私はあなたのことが愛おしいんです。
高い波がさざ波に変わるようにあふれた涙のおさまってきた頃、唯先輩はぽつりとつぶやきました。
唯「よく、わかったね。憂のかっこしてたのに…」
梓「わかりますよ。私の目はごまかせません」
だって、唯先輩の目は大きくてきらきらしてて、一目見たら分かりますから。
あなたのすべてを分かっていたいんです。
唯「あのね……あずにゃん」
梓「……付き合ってて、ほしいです」
えっ、と赤くなった目を見開いて、私の方へ振り返りました。
わかりますよ。唯先輩が、どんなこと考えてたかなんて。
だから――
梓「私の見えるとこから、逃げないでくださいよ。さみしいじゃ、ないですか」
やった。やっと唯先輩が、その頭を私の胸にあずけてくれた。
私は左腕を唯先輩のおなかの方に回して、ぎゅっと抱きしめました。
するとこの腕を、先輩の柔らかい指がそっとつかんでくれた。
もう一方の手で、あずけられた頭をなでてみます。
ふるえのおさまった頭と、指先に絡まる唯先輩の髪の毛は、どこか溶けるような心地がしました。
青く暗く更けてゆく夜とやわらかな電灯の光の下で、私は次第にやわらぐ唯先輩の息に耳をすましていました。
梓「……はなれませんよ」
唯「うん……ありがと、すきだよ」
私の方を向いた唯の顔から、やっとくすんだ色が晴れたように見えました。
思わずくちびるを近づけてしまうと――やがてやわらかい感触が、重なったのです。
唯「……えへへ。珍しいね、あずにゃんからなんて」
梓「……誕生日プレゼントです。うそですけど」
唯先輩はいつもみたいに、子供のように笑ってくれました。
なんだかありきたりな微笑みで、あまりにいつも通りの屈託のなさで、変に泣きそうになってしまいます。
唯「……あずにゃん、好きで……いて、いいんだよね?」
梓「当たり前じゃないですか。今さら遠くに行ったら――ゆるさないですから」
こんなこと、他の人には言えませんよ。
あなたに出会うまで、自分の中にあったなんて気づきもしなかった気持ちだったんですから。
梓「唯先輩が……みつけて、くれたんですよ? わたしのこと」
思わず口にしてしまって、自分でも意味わかんなくて、ちょっとふきだしそうになってしまいます。
梓「あは……意味、わかんないですね」
唯「んーん。私もあずにゃん、見つけた」
そう言って、唯先輩はうれしそうに顔をうずめました。
なんだかちょっとくすぐったかったし、それにちょっと寒くなってきました。
ですから私は右ポケットから、さっき手に入れたとっておきのプレゼントを取り出します。
梓「……唯先輩。遅くなっちゃいましたけど、デートの続きしませんか?」
唯「えっ、どこどこ?」
梓「これです」
そう言って、私は隣町のホテルのディナーチケットと、展望台の無料券を見せました。
梓「おなかすきましたよね。一緒にごはん食べて、そしたらちょっとここ行ってみましょうよ」
唯「うん……でも、いつから持ってたの?」
梓「それは……いつか、教えてあげますよ」
そう言って腕をそっとゆるめると、唯先輩は私の手をぎゅっと握りました。
――手、つないでこ?
すっかり暗くなった電灯に、うるんだ赤い瞳といつもの笑顔が照らされました。
その姿がいとおしくてまた抱きしめたくなっちゃったので、とりあえずハンカチを渡してごまかしました。
【2010年11月27日 20:29:59/マクドナルド 桜ヶ丘駅前店】
先ほど、お姉ちゃんからメールが届きました。
律さんたちから話を聞くだけでは心もとなかったですが、おいしそうなデザートの写真が届いて安心しました。
どうやら本当に、隣の町のプリンスホテルでお食事しているみたいです。
せっかくの誕生日がどうにかいい思い出になりそうで、私もちょっとほっとしました。
律「……シェイク、飲まないの?」
憂「あ、とけちゃいますね……でも紬さん、そんな高価なものいただいちゃってよかったんですか?」
紬「いいのよ、持ってても使わないから。それに……二人が仲良くしていると、私もうれしいの」
そう言って紬さんはほほえみました。
先ほどお姉ちゃんが家を飛び出したときは、どうしようかと思いました。
このまま、家に戻ってこないんじゃないかとさえ思えたからです。
私もすぐに飛び出して辺りを見回したのですがもうお姉ちゃんはどこかに行ってしまったので、家でしばらく待っていたのです。
けれども……メールも電話もなく、ただひたすら時間は過ぎていきました。
不安になってお姉ちゃんを捜しに家を飛び出したところ――律さんと紬さんにばったり出くわしたのです。
どうやら紬さんは澪さんから事情を聞いていたみたいです。
それに、たまたま梓ちゃんにも会って二人で少しお姉ちゃんのことを話したそうです。
二枚のチケットはそのときに梓ちゃんに手渡したらしく、「頼りがないのは元気な証拠」と思っていたらしいです。
とはいえ、あんなことがあった後なのでやっぱり不安でした。
そんな話をしたら、律さんがちょっと話そうとこのお店に誘ってくれたのです。
純ちゃんと同じくらい律さんには昼間に助けてもらったので、私もそのお礼がしたかったのです。
それからしばらくして、梓ちゃんからメールがきました。
「唯先輩に会えたよ。心配しないで、二人でいるから」
たった一言でしたが、そのメールを見たとき涙が出そうなぐらい安心しました。
それからメールはしばらく途絶えていましたが、さっきのデザートの写真を見る限り……無事、一緒にご飯を食べられたみたいです。
律さんが写真を見て、紬さんにチケットのあまりをねだっているのがちょっとおかしかったです。
お姉ちゃんの無事を確かめてほっとしたあとで、私は二人に伯父さんとのことを話しました。
律「なんていうかさ……勝手にすげー悪人として見てたけど、ちゃんと唯たちのこと考えてるんだよな……」
律先輩はうつむきがちにそう言いました。
憂「私も……そう、思ってます」
あの伯父さんはちょっと融通がきかなくて頑固なところはあるけれど、私たちのことを見守ってくれてる大事な親戚です。
律「実際さ、唯たちって周りに隠してるわけでしょ? 付き合ってること」
憂「和さんとかは知ってますけどね、さすがに」
周りに隠さなきゃいけないのが、あずにゃんとの関係が悪いものみたいでつらい。
――お姉ちゃんは以前、そんな風に言ってました。
紬「でも……ダメよ。めずらしいのかもしれないけれど、唯ちゃんも梓ちゃんもお互いに好きなんだから」
一言ももらさず真剣に聞いていた紬さんが静かに口を開きました。
セットで買った爽健美茶を一口すすると、紬さんは話します。
紬「私のお母さんね、小さい頃に病気で亡くなったのよ」
律「そっかあ、ムギも大変だったんだな……でもそれってどんな関係が?」
紬「バイセクシャル、って分かる?」
律「……あー」
私のお母さん、ビアンでもあったの。
最終更新:2010年12月13日 23:47