律「んー、澪なんか言ったか」
澪「聞こえてたのか?」
律「いんや別に。それより昨日のドラマでさー――」
なんとなく予感がして声に出てしまった。
それは、あくまでも可能性の一欠けらであって予測の範囲内にギリギリ収まる程度であって予知夢にも似た偶然が重なって起こるようなことだった。
考えた後で、何てことを考えてしまったのだ、と戒めを起こしてしまった。
いつもの音楽準備室でいつものメンバーでお茶をしていた。
練習に性も出さずひたすら糖分を補充しては、唯なんて口の周りに食べかすをこびり付かせている。
会話の内容も非常に有り触れているものを、昨日の議題を今日に繰り越すみたく、展開させていた。
所謂、昨日のテレビで見たんだけどさー、なんて他愛も無い話である。
そんな中で私はぼーっと聞き耳を立てていた。
律と唯の言葉で展開されるお笑いコントじみた風景に溶け込んでいた。
そしてチラリと律を見た。
これについて一切の自発的なものは含まれていない、よく使われる『なんとなく』というやつだ。
私はその『なんとなく』を行使して、律を見た。
律の指先がたまたま私の方向を指していた。
その指先が伸びて、目の前にまで伸びてきて、角膜を通り抜けて、瞳孔を突き破って、水晶体にまで進入し、硝子大官をくぐって、網膜血管に溶け込んで、視神経を圧迫して。
それから肉やら骨やら
その他もろもろの生命維持には欠かせない物体を貫通したあげく頭の後ろから出て行ていってしまうような。
非常に有り得ない幻想に襲われた。
律は、私の目を刺そうとしていたのかもしれない。
澪「なぁ、律」
律「ん。澪も昨日のドラマ見たのか?」
澪「いやそうじゃなくて。今私を指差さなかったか」
律「そうだっけ? たまたまじゃない」
澪「何か言いたかったのか?」
律「いんや別に」
悩ましげな不安がモコモコと膨れ上がる中で、問いただしてみた。
律とは幼馴染の関係である。
私を羊とするならば、差し詰め律は牧羊犬といったところか。
牧草地帯で何をするでもなくポツンと立っていると、律犬が喧しく追い掛け回してくる。
逃げ惑うしかないのだけれど嫌ではない、むしろ居なければ困るのだ。
そんなやり取りは今に始まったことではない、日常に組み込まれていた。
しかし、今回はどこか違ったベクトルを感じたような気がした。
犬羊の関係であるならば決して噛み付かれることはないのだ。
妄想が大分行き過ぎている、今日は疲れているのかもしれない。
紬「今日はパンプキンケーキを持ってきたの」
律「うっほー、凄ぇ美味そうだ」
唯「ムギちゃん早くわけてわけて~」
紬「はいはい。ちょっと待っててね」
澪「ペーパーナイフ……」
ムギはいつも通りケーキ用のお皿をテーブルに並べて。
ムギはいつも通りペーパーナイフでケーキを切り分けようとする。
彼女はお嬢様育ちでありながら時折メイドのように私達の世話をしてくれる一面がある。
慣れた手つきでカッティングを進めるのだが、何故か気に食わない部分が生まれてしまった。
決して滑らかではない刃先がチラチラと延長線上に私を捉えてはすぐ離れて、また戻ってくる。
その度に、えも言われぬ緊張感が背筋を伸ばしていた。
ペーパーナイフ、とは随分と軽い言い方に聞こえるがナイフの一種である。
手首に当てて強くスライドさせれば皮が剥けて肉が裂けてしまうことだってある。
だからといってペーパーナイフそのものに恐怖心を持つのは非常におかしな話である。
用途として重宝される場面は、ナイフを持ち込めない場所で似たような効果を出したい時、等々。
現にここは学校であり、上記の説明が大いに当てはまる。
握っているのは他ならぬムギであり、目的はケーキを切り分ける為であるからだ。
だけれども、それなのに――。
律「今のはちゃんと聞こえたぞ」
唯「何が『かもしれない』なの?」
澪「それはだな、えーと、大したことじゃないんだ」
言うべきじゃない、常識的に考えて。
紬「澪ちゃん、もしかしてパンプキン嫌いだった?」
澪「いや、そんなことないよ。どっちかと言えば好きな方かな」
紬「なら。はいどうぞ」
コトリと私の前にケーキが置かれた、非常に美味しそうである。
黄色味がかかったムースは雪のように滑らかで内側から溢れる生クリームが食欲をそそってくる。
そこまで認識しておいて、私の意識はすぐに別のところへ向いてしまった。
ペーパーナイフはどこにある?
見ればムギはケーキの入れてあった箱に仕舞おうとしている最中だった。
自然と私の視界からは問題の物が消えることとなる。
そしてムギは椅子に座り、箱には見向きもせずムースを一つまみすると口に入れて味わう。
一連の動作を確認してから、私はやっと目の前のケーキを食べようと思うことができた。
舌下に広がる甘みを堪能しながら、私は『なんとなく』を再使用する。
ケーキを口に含んだままクチャクチャという音を混ぜて喋っている唯の存在。
場所を同じくして同じものを食べている身としては何とも気にかけるべき行為であるのだが。
軽音部では日常として認識されてしまっている、何度言っても一向に直らないからだ。
唯は所謂天然さんであり自由奔放であることに定評がある。
なので最近では注意をすることもなくなってしまっていた。
人体には感じ取れない高周波のように完全に溶け込んでいた。
という理由から、私は再度『なんとなく』を行使するに至ったのである。
唯「んでもやっぱヒロインは普通さぁ――」
澪「……」
律「ドラマなんだからそんな現実的な展開じゃ詰まんないって」
紬「そうよ、ロマンチックを求めるのがいいんじゃない」
唯「そうかなぁ。でもやっぱり――」
澪「……かもしれない」
まただ、また言ってしまった。
律「なぁ澪さんや」
澪「ごめん、先に帰っていいかな」
今日の私はどうかしている。
唯「えっまだケーキ残ってるよ?」
澪「ごめん、いらない。唯が食べたいなら食べていいよ」
唯「本当にいいの?」
澪「うん。ムギごめんな、折角持ってきて貰ったのに」
紬「気にしなくていいのよ。調子悪いのならゆっくり休んでね」
澪「ありがとう。本当にごめん、それじゃ」
私は音楽準備室を出た。
律「何かさ、今日の澪変だったよな」
紬「そうね。どこか気を滅入らせてる感じだったし――」
澪「まさか、そんなわけないよな」
ひとりごちても答えてくれる人はいなかった。
見上げた自室の天井は平らな姿勢を崩そうとしない。
あの時感じてしまった妄言じみた妄想を、一人思い出していた。
確かに唯はフォークの先端を私に向けていた。
それ自体は何ら珍しいことではない。
次いで唯の食事マナーがよろしくないことは重々承知している。
なのに、有り得ない可能性が頭の中を過ぎった。
不意に指から離れたフォークが空中を闊歩し、私の顔目掛けて突き刺さる。
とか。
「澪ちゃんあ~ん」と催促する腕が勢いを誤って、私の喉元に突き刺さる。
とか。
フォークを落としてしまい地面に不規則に跳ねた後、私の脛を目指して突き刺さる。
とか。
可能性という液体でコーヒーを作るみたく妄想のペーパーフィルターで濾していた。
抽出された何滴もの有り得ない事が溜まっていって濃度を増していく。
受け皿に収まりきらなくなれば溢れ出し発声器官を刺激して。
内側で処理し切れない疑問が口をついて出た結果だった。
澪「かもしれない。かぁ」
律「おっす澪。元気になったか?」
澪「別に体調不良とかじゃなかったんだ」
律「んん? んじゃあ何だっていうんだよ。怪しいなぁ澪さぁん」
澪「そんなにジロジロ見ても何も出ないぞ」
翌日、いつも通り学校へ行こうとすると律が玄関で待っていた。
私のことを心配してくれているのだろう、純粋な喜の感情が沸いてくる。
昨日過ぎってしまった不健全な妄想もさっぱり出てくる気配が無い。
証拠としてこんなにも有り触れた朝のやり取りを交わしている。
やはり昨日の私はどうかしていたのだ。
律「――んでまた聡が馬鹿でさぁ」
澪「それはお前が嗾けたのがいけないんだろ」
律「私はちょーっと背中を押しただけだって。実行犯の罪が一番重いんだ」
澪「全く。姉としての威厳というか模範というものをだなぁ」
律「澪ぉそんな怒んなってば」
ごくごく普通の朝の場景だった。
和「澪、一緒にお弁当どう?」
澪「うん。勿論」
二年次で軽音部の三人と離れ離れになった私にとって和は唯一の救いだった。
最も和自身も新しいクラスで浮きたい願望はなかったようで。
自然と私達はクラス内で行動することが多くなり、一緒にお昼ご飯を食べるようになっていた。
それもこれも、和と幼馴染の唯が軽音部にいるお陰である。
和「新歓ライブの練習は進んでる?」
澪「あんまりかな。もっと精を出すべきなんだろうけど」
和「あの二人が駄々を捏ねるのね」
昨日は私がそうだったのだが、言えるはずもない。
澪「まぁそれもあるかな。やる気のある後輩が入ってくれればいいんだけど」
和「そうねぇ。でもあの雰囲気がなくなったら、それはそれで寂しい部分はあるかも」
澪「何かもう和には全てお見通しなんだな」
和は落ち着いていて、それでいて周りに気の配れる優等生だ。
だから、少しは甘えてもいいのかな、なんて柄にもなく考えさせられてしまう時がある。
昨日の事を相談してみるのはどうだろうか。
あの幼稚すぎる脳内イメージについての貴重な意見が貰えるかもしれない。
和は答えを知らなかったとしても何かしらの手段で安心させようとしてくれる人間だ。
和「生徒会も結構忙しいのよ。この時期は書類が飛んでばかり」
澪「去年の新歓から生徒会にいたような感じだね」
和「あながち間違いでもないけどね」
澪「へぇ。そうなんだ」
和「それじゃちょっと行ってくるわ。律に講堂の使用申請書出すように言っておいて」
澪「うん、分かった。またね」
結局、相談するという結論に達しないまま和は生徒会室に向かってしまった。
食事もあまり咀嚼をせずに飲み込んでいるようだったし、時間に焦らされていた。
私は自分から話題を提供することなく、和の話に適当な相槌を打つ程度にしか機能できなかった。
そんな和に更なる負担をかけてしまうのは酷だと思ったのだ。
今でなくとも生徒会の仕事で大車輪の活躍をみせているというのに、これ以上は気が引ける。
仮に和からアドバイスを貰えたとしても完全回避に繋がる術は出てくるのだろうか。
私が軽音部に顔を出さなければいい、なんて極論は抜きにして。
やはり現実に起きていない事件を取り上げるなんてどうかしている。
澪「講堂の使用申請書、まだ出してないんだって」
律「あーそれはー、丁度今からやろうと思ってたところなんだよ」
澪「そんなことだろうと思った」
紬「まあまあ。忘れないうちに書いちゃいましょう」
唯「それ出さないとライブできないんだ?」
律「当たり前だろ。ちゃっちゃと書いちまおうぜ」
呑気さを恥じることなくひけらかして、律は鞄から書類を取り出した。
適当なボールペンを取り出すとスラスラと筆先を走らせるのだが、何故かすぐに動きを止めてしまう。
律「そーいえば曲順どうすんだっけ」
唯「あれ、まだ決めてなかったんだっけ?」
澪「よくよく考えれば決めてないな。四曲分の時間が貰えるんだろ」
律「んーそうなんだけど。まぁ後で決めればいいかぁ」
澪「そうやって先延ばしにしようとするからだな」
紬「まぁまぁ澪ちゃん落ち着いて」
律「じゃあ澪はどんな順番がいいんだよ」
その時だった。
どんな順番がいいんだ『よ』!!」
その瞬間、私の神経は全てが律の挙動に注がれていた。
律は机に肘を付けていかにも考えているといった姿勢を見せていた。
頭蓋をノックするかのように、ペン腹を側頭部にくっつけたり離したりと遊ぶ。
そしてその腕を、指先を、ペン先を、私の方へ向かって伸ばしたのだ。
私への問い掛けと私を示そうとしたペン先、そのモーションがダーツを射るかのごとく見えた。
俊敏にスナップを利かされて前へと突き出される。
延長線上には私の顔という的があって、高得点の赤鼻目掛けて一直線に伸びてくるような。
ペン先を追って、瞬きも忘れて、原子の粒を見るように、ひたすらに凝らして、そうしていたら。
ボールペンが私の眼球に吸い込まれていくような。
澪「いやッ!!!」
そう叫んで、派手に後方に倒れた。
みっともない醜態を晒しながら私は震えていた。
撮ったばかりのフィルムを巻き戻して、また再生して、ひたすら脳内に焼き付けていた。
鼻筋に伝わる痒いような痺れる感覚がそこから全身に送られているようだ。
私は抗おうと、異物を取り除こうとして顔の前に手を伸ばすのだが。
指先は何度も虚空を描いてしまう。
律「どうした澪!」
唯「澪ちゃんどうしたの。目に虫が入っちゃったの?」
紬「目じゃないわ。鼻の、先かしら」
律「おい澪、ちゃんと見えてるか。どこが痛い? どこを見てるんだ」
視覚は役割を放棄して、脳内ビジョンにだけその入力先を預けていた。
確かに律は私目掛けてペンを投げつけた。
本気でそう感じ取ったのだから体を放ってでも顔を守ろうとしたのだ。
しかし何度繰り返しても、何度見直しても、肝心のシーンが訪れてくれない。
あの時の私だけが見ていた幻想だった、とでも言ってしまえるのか。
じわり靄が晴れるように、五感が現世に戻っていった。
律は声のボリュームを最高潮にまで押し上げていた。
律「澪! 澪! しっかりしてくれよ!」
澪「ぇと……ぁの……」
律「意識は戻ったんだな。よかった。本当によかった」
澪「ねぇ、刺さってない? 傷ついてない?」
律「見た目は、大丈夫だと思うけど。それより」
澪「じゃあ、律は私にボー――」
律「ボー。その先は何だ」
最終更新:2010年01月26日 00:36