私は禁句を押さえつけるように口を噤んだ。
感覚は高揚しながらも気分だけが下落する、張り付けにされた異教徒のような気分だ。
その先を言ってはならない。
白状すれば二人の関係を壊すことに繋がってしまう。
いや、二人だけでなく軽音部全体に大きなメスを入れてしまうのではないか。
北風に晒されると強気なコートをがっしりと掴み直してしまう。



紬「一応保険室に行きましょう。それがいいわ」

澪「大丈夫。もう平気だから」

律「それは駄目だ。どっからどう見たって、さっきの澪は普通じゃなかった」

唯「怖い話された時の比じゃなかったよ」

澪「普通じゃないなら、どうだったっていうんだよ」

律「ずっと震えてたし、目の焦点が合ってなかった。意識だって――」

澪「それくらい、よくあることだから」

律「はァ?」

澪「前にお前に見せられたホラー映画の映像がフラッシュバックしたんだ。それだけだから」

律「そんなの理由になんてなるかよ」

澪「とにかくもう構わないでいいから。それでも保険室に行けって言うなら帰る」

律「……あーあー、そうですか。澪さんは心配してくれる友達を無視しやがりますか」

唯「りっちゃん言い方が――」

澪「話するだけ無駄みたいだな。今日も帰らせて」

紬「澪ちゃんちょっと待って。いくらなんでも――」


一人、音楽準備室を出た。

階段を下ると部活動の勧誘に性を出す姿がちらほら見受けられた。
勧誘期間も始まったばかりだというのに何とも熱心なことだ。
軽音部として今日は勧誘する予定ではなかったのだが、やはり少しだけ罪悪感を覚えてしまう。
通り過ぎる間際、野球のバットやら剣道の竹刀やらゴルフのクラブがやたらと目について嫌悪感を覚える。
それでも、今さっき体験した幻想と比べれば随分とマシだった。

校舎を出れば、やはり勧誘及び入部活動に忙しないのか生徒は疎らである。
少し歩いて後ろを振り返ってみると、やはり律と唯とムギの姿はなかった。
心配している、なんて言った割には白状なものだ。

澪「でも、やっぱり寂しいよ」

―――― ブブブブブブ

独り言に答えてくれたのは携帯のバイブレーションだった。
心拍数を上げて開けば、やはり律から送られてきたメールだ。
ムギが気転を効かせて無理矢理にでも送らせた文章があるのだろう。




 from 律

さっきはキツイ言い方になっちゃ
ってゴメン。でも本当に心配だっ
たんだ。今まで嫌がってるの知っ
てて怖いもの見せてたのも悪かっ
たと思ってる。だから何があった
のか教えて欲しい。私で役不足な
ら他の誰にだっていいから。ただ
、絶対に一人で抱え込まないでく
れ。それだけは絶対のお願いだ。





顔文字も絵文字もない素っ気無いメールだけれど、律なりの優しさが詰まっていた。
内容に目を通してから、ごめん、と言ってすぐに閉じた。
どう返信すればいいのか分からなかった。

私は逃げるように自宅へと戻り、そして思う。
律はボールペンの先を私に向けた、その瞬間に通常では起こりえない惨状を疑似体験した。
ならば自らペンを持ち向けてみても同じ現象が起こるのだろうか。
怖い気持ちは大きいけれど、確かめる必要があった。
毎回こんなリアクションを取っていたらいよいよ異常人物と見られてしまう。
そう何度か言い聞かせてから愛用のシャープペンシルを一本取り出した。


澪「普通のシャーペンだよな」

筆箱を開けてペンを持つ、特に問題は発生しない。
それはそうだろう、今さっきまで学校にいたのだし授業で散々に使っていたものだ。
別段大した感情すらも沸いてこない。
見定めるべきはこの先にある、ゆっくりと回転させていった。

澪「大丈夫。怖くない、怖くないからな」

声に出して言い聞かせながら、針の糸を通すように慎重に向けて、ペンの全貌が見えて。
先が確認できるまでになって、やっと真横にまで到達して、次第にペン先の腹が見えてきて。
ついに先端が私を捉えて――何とも思わない。

こんな馬鹿な話があるか、私は一体何に対して恐れていたというんだ。
分からない、分からないから無性に探したくなる。
乱暴に机の引き出しを開けて手を突っ込んだ。

やはりボールペンなのか、なんとも思わない。
なら色鉛筆で、少しも動揺しない。
万年筆なら、びくともしない。
三角定規で、うんともすんとも。
ハサミなら、全く無意味だ。
カッターなら、微動だにしない。
ならもっと近づければいいのか。

あの時は目と鼻の先にまで迫ってくるほどの圧迫感が伴っていた。
もっと近くまで、皮膚が剥がれるように、肉が抉れるように、神経が支配されるように。
もうちょっと、もうちょっとで。

澪「痛ッ」

鼻頭にピリッと小さく電流が走ると、私はカッターを机に投げつけた。
傷つけようとしていたんじゃない、ただ追求したかったんだ。
そう思い聞かる度に頭がこんがらがった。
自慢の黒髪をぐしゃぐしゃに束ね、跳ね散らかしていた。
何でこんなことをしているのか、理解に苦しんでいた。


律「おはよ」

澪「ぉ、はよう」

律「学校行くか」

澪「うん」

眠そうなのがバレているだろうか、案の定あまり寝付けなかった。
あれから何度試しても同じ症状が出ることはなかった、なかったのだけれど。
それが一番なはずなのにかえって不安にさせた。
律に勘繰られたくないので、できるだけ視線を逸らして話しかける。

澪「なぁ律」

律「どうした」

澪「昨日はごめん。メールも、返さなくて」

律「まぁあれだな。頼りが欲しくなったらいつでも言ってこい」

澪「ありがと」

不安よりも喜びを大きく感じ取れるように、律の言葉を噛み締めることにした。
風邪が辛くてもバラエティ番組を見て笑えている間はそれを感じさせないようなものだ。
頼りにするならやはり親友なのだろう。
だけれども、おんぶに抱っこでは何とも申し訳なくなる。
まだ打ち明けることができそうにない。

さわ子「スペシャルな衣装を用意したわよ!」

澪「あの、それは衣装じゃなくて着ぐるみかと」

さわ子「細かいことはいいのよ。さっさ早く着替えなさい」

紬「アルバイトみたいで楽しそうだわぁ」

唯「私クックアドゥードゥルドゥーね」

律「それ今日の授業で知って使いたかっただけだろ」

何故か強制的に馬の着ぐるみをかぶらされると新歓に狩り出されてしまった。
またも途中で帰ってしまうと思われたのだろうか。
先手を打たれた気分だ、別に逃げるつもりなんてなかったのに。
昨日の帰り際に新歓活動を見た時だって多少は罪悪感は覚えた。
こうしてあからさまに確保されると、如何せん悔しさを隠し切れない。

さわ子「大事なのはインパクトよ。インパクト」

唯「はいはい、ディープインパクトを与えるんですね!」

律「それは地球に隕石が落ちる映画だ」

紬「競走馬にもいたわね」

こんなんで大丈夫なのだろうか。


馬澪「軽音部です。よかったらどうぞ……」

周囲の反応が痛い、チクチクと目に刺さるようだ。
視界が剥き出しになっていないことと、発信源が分散しているのがまだ救いなのだろう。
いいや、元々被り物なんてしなければ怪しげな目で見られるはずもない。
あの時に似た感覚がじわりとこみ上げてきた。

これは苛められっ子の気分に似ている。
距離を保ちつつ取り囲まれて「見てみなよ~」と指をさされる。
決して触れられず、かといって見放されるわけでもなく、笑いの対象として適度なリアクションを求められる。
適役としての私を認識すると苛立ちが精神を容赦なく削っていった。
加えてこの晴天に着ぐるみだ、吹き出る汗で塩が取れるそうな勢いである。
暑すぎる、劣悪な環境だ。

犬律「澪フラフラしてないか。ちょっと休むか」

馬澪「いいよ。どっちにしてもあんま変わらないと思うし」

猫紬「無理しないで。とりあえずベンチに座りましょうか」

素直に腰掛けて視線を下に落とすと多少は気が安らいだ。
外部からの情報を絞っていると、時折トンボ目の穴から犬ぐるみが覗いてきた。
もぐら叩きのごとく映っては消えるのだが、指をさされているよりはずっと楽だった。
律にどこまで気付かれているのだろうか。
ヒントなら私から発信していた部分もあった。
「ボー――」という言葉や「刺さってない?」という反応とか、色々ある。
意地を張っていても、無意識下では助けを求めていたのかもしれない。
プライドを捨てるしか道はないのか。
苦虫を噛むと奥歯が擦り切れる音がする。


澪「――――という訳なんだけど」

律「そうかぁ」

澪「別に律が嫌いとか怖いとかそんなんじゃないんだ」

律「何回も言わなくても分かってるって」

澪「でも、それが一番不安で……」

この日は私が早々に棄権したおかげで大した勧誘活動もできずに終わってしまった。
攻めるでもなく、槍玉に挙げるでもなく、ただ納得してくれたムギと唯に深く感謝しなくてはならない。
そして目の前で私のベッドに腰掛けている律にも陳謝しなくてはならない。
こんな告白をされて、心象を悪くしたり、果ては絶交されたりなんてしないだろうか。
だったら私が異常なのだと断定される方がまだ楽になれると思う。
それ程までに私は律を失うのが怖い。

律「ちょっと時間頂戴。私の頭じゃすぐに追いつかない」

澪「うん。分かった」

そのままベッドに寝転がると真剣な表情を崩さないまま思考だけを回している律は、何を思うのだろう。
喚問を受けているような、無意識下の私を呼び出して律が脳内会議に招いているような。
はたまた車検やら点検やら超えなくては是とされない一級の査定を受けているような。
流れる時間がとても遅い、しかし結果が悪いのならばいくら続いたって構わない。
あの感覚を一とするならば無限とまで表現しても誇大に値しないほどに長い時間だった。


律「私は澪を捨てるような白状者じゃないぞ」

そう告げて、ゆっくりと近づき、私を軽く抱いた。

澪「それは、どういう意味で?」

律「全部ひっくるめて親友を見捨てたりなんてしないってことだ」

澪「本当に?」

律「親友の言葉が信じられないってんなら、その事にだけ怒ってやる」

澪「ごめん」

律「いいさ、それから――」

オブラートで覆われるように律に包まれていた私は、突如として収束感を味わった。
律の手と触れている肌と髪先までもが固くなって全身に纏わりつく。
密着して擦れた部分から私より激しい律の鼓動が伝わっていた。
これから律は何を言い出すのか、予想すれば百パーセント当たるだろう。
しかし、考えることすら中断したくなるほど鋭敏な部分が億劫になってしまう。
自分から危惧することもあったが決断にまでは程遠く、今に至るまで廃案となってきたものだ。
辛いけれど誰かに言われる方が、言ってくれる相手がいるのなら、その方が断然いいのだろう。
私は目を閉じて律の言葉を待った。

律「病院行こう」



私はプライドの高い人間だ。
一に努力、二に努力で、人生において積み重ねてきたことに誇りを持っていたし当然のことだだと思っていた。
だから始めは軽音部において浮いた存在になっていたのかもしれない。
ティータイムと銘打たれた時間にお菓子や紅茶を賞味する事が堪らなく不条理だった。
目的と行動が一致していない、なんて自堕落な連中なのだ、と渇を入れたかった。
そんな愚痴を一方的に溢しても律はウンウンと聞いてくれた。
冗談混じりに駄目出しされることもあったが頑固な私の心を揺らす正論をくれる時もあった。
次第に私は軽音部に、律の引率によって四人の輪に入れたのだと確信していくこととなる。
今では皆の良い所をすらすらと言葉で伝えることができる。
話しているだろう私の顔は、きっと傍から見ても分かる程のニヤケ面だろう。
今回もそうだ、律の優しさが固い鱗を剥がしてくれている。

私は力を込めて抱き返した。

律「一緒に行ってやる。一緒にだ」

澪「ごめん。ありがとう」

いざ建物を正面に対峙すると周囲の目が酷く気になった。
周りの人間が私達だけを見つめている、という錯覚を覚えてしまうほどに。
それでも律を大きく視界に入れることでどうにか耐えようとしていた。
看板にハッキリと『心療内科』と書かれていることが最も大きな抵抗だった。
誰かに見られているのでは、あの秋山澪が精神病を発祥している、裏でこそこそと笑われるのでは。
社会の道から外れた者として『池沼者』のレッテルを貼られるのでは。
どうしようもない小さな可能性だったが、確実に自尊心を煽っていた。
心を強く持とうにも指の隙間からすり抜けてしまうほどに危なげだ。

胸を張る律の背中にくっ付いて建物内に入った。

澪「なんか普通の病院みたいだな」

律「そりゃそうだろ」

澪「普通のサラリーマンっぽい人もいる」

律「あのヤーサン見てみろよ。背景が清潔すぎて違和感あるぞ」

澪「ぷふっ。コラ律、こんなとこで笑わせるな」

律「ごめんごめん」


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最終更新:2010年01月26日 00:38