こんな場所で笑うだなんて思ってもいなかった。
静寂とまではいかなくとも緩やかな空間に二人の声が強調されていた。
場違いだと怒られてしまうかもしれないが、私にとっては大きな救いだった。
まだ判明していない私が持っているだろう特異なものも笑い飛ばせるようになるのだろうか。
律と私の笑顔で淡い期待が温かく広がっているのを感じていた。
律「んじゃ、保護者じゃなきゃ診察室入れないから」
澪「分かった。行ってくる」
病室に入ると、大きな椅子に深々と腰掛ける白衣のおじさんが迎えてくれた。
澪「はい。よろしくお願いします」
医「どうぞ、話して下さい」
澪「はい。最初はなんでもなかったことなんですけど、ある日友達に指をさされて」
澪「そしたら指が飛んでくるような、突き刺ってくるような感じがして」
澪「全然向こうはそんなつもりないんですけど、どうしてかそんな風に思えて」
澪「気になりだしてから、何かに付けて……。あの、続けていいんですか?」
医「ん? ああ、お気になさらず」
こういった心療系の機関を受診するのは初めてなのだけれど、けれど違和感を覚えた。
先生と銘打たなくとも紛れも無い医者であるその人物は私の方を見ることなくタイピングに勤んでいた。
打ち込んでいる内容が光の反射でギリギリ見ることがきないのが非常にもどかしい。
何かこう詰問を受けているような窮屈さがあった。
これなら入力に立ち入る人間が医者でなくても成立するのではないか。
時折相槌をくれるものの、どこか他人事に見られているような気がしてならない。
実験のモルモットとして扱われているような、非常に厭な気分だ。
医「どうしました。そこまでしか話せませんか?」
澪「いえ、大丈夫です。それから――」
律「おかえり。どうだった」
澪「あんまり相手にされなかった気がした」
律「ふぅん。他には?」
澪「一回じゃ分からないからまた来てくれって。私から話しただけだった」
律「まぁ当日駆け込みでこの人じゃあな」
澪「律はこういうの詳しいのか?」
律「それは、あれだ、丁度この前テレビで特集やってたんだよ」
期待していた何かしらの特効薬を得られぬまま、始めての受診は終わってしまった。
正直期待はずれだったけれど、連れ添ってくれた律に申し訳が立たないのでこれ以上の毒舌は控えることにした。
次回の予約をすると早々に二人で家路についた。
帰宅途中、常に律は私と肩を擦らせていた。
摩擦に乗せられて律の気遣いが伝わってくるのだが、それくらいで不安の氷は溶けてくれそうにない。
非常に悪い予感に苛まれていた。
律「新歓ライブの件なんだけどさ」
いつものティータイムの最中、突如として律が話題を提供した。
律「申請書まだ提出してないんだ。期限に余裕あったから」
紬「あら、そうだったの」
唯「あれ? 珍しく澪ちゃん怒らないね」
澪「ああ、そうだな」
気力をいくら絞っても、元気の芽が出てこない。
律「でだな、ライブをしない選択肢を考えるべきだと思う」
唯「りっちゃんそれ本気で!?」
紬「唯ちゃん落ち着いて。ほら、ね」
そう言ってムギは唯を宥めにかかる。
こちらから本心を尋ねたわけではないが、ムギは大よそを見抜いているようだ。
薄々感付いていたのだろう、私が引き起こした不安が種を植えつけたのだ。
そして成長したヤドリギの木は確実に軽音部に根付いてしまっている。
原点である種を撒き散らしたのは紛れもない私である。
唯「あっ、えと、ごめんね澪ちゃん」
唯は正直ないい子だ、それが残酷でもあるのだけど。
澪「みんなごめんな。私のせいで」
律「澪、そんな言い方すんなよ」
紬「そうよ。困った時は助け合わなくちゃ」
優しさがとても辛い。
口に苦味を覚えるけれどそれが良薬かどうかまでかは分かりそうにない。
どちらにしても、私が感けてばかりでは周りまで渋顔にさせてしまう。
痛みに慣れてきた者から言い出すべきなのだろうか。
多分そうだ、皆もそれを待っている。
澪「期限まで後三日だよな。少しだけ時間を貰えないかな」
唯「それってどういうこと?」
澪「我が侭になるけど、自分の体と向き合う時間を貰いたい。本当に無理ならその時にまた謝りたい」
律「私は異論なし。ムギはどうだ」
紬「私も構わないわ」
唯「だったら私も!」
軽音楽のような部活動は発表の場があってこと成り立つ。
演劇部しかり、ダンス部しかり、舞台上で最も輝くことを約束されている。
そして高校生という縛りあれば、その機会も当然少なくなるものである。
桜ヶ丘高校では文化祭と新歓活動、この二つで講堂ステージを使うことを許可される。
文化祭はお祭りだ、校内校外問わず様々なお客さんが訪れる。
であれば、必然ながら音楽に興味のある者が集まりやすいものである。
対して新歓では聞いてくれる人が大まかに決められている。
高校という青春に熱中できる何かを探しに見に来てくれる一年生ばかりだ。
そんな卵達を目の前にして自分達が今ある精一杯を放出する。
新入部員の確保もそうだけれど、こんなに輝いている先輩がいるんだ、なんて思ってくれるほうがよっぽど嬉しい。
そんな想いを高校生活への希望の糧にしてくれることが、先輩として何よりの喜びなのだ。
私は自らの失態でこの機会を逃したくはない。
軽音部の他の三人からも大切な青春を奪いたくない。
澪「もしもし。はい、予約の件なんですけど。出来れば早めてもらえないかと」
澪「診察時間が短くてもいいんです。どうにかお願いします――」
―― ッピ
滑舌のいい返事ではなかったけれど、どうにか予約だけは取り付けることに成功した。
必死に考えたのだけれど解決法はこれしか浮かばなかった。
自分の力で捻じ曲げることのできない、揺るがない存在が憎い。
澪「――――それで、ライブに出たいんです。何か即効性のあるものは」
私は自論を含めた主張を言葉のマシンガンとして連射していた。
澪「大そうなものでもなくても、何かしら薬を飲んでいれば気から病を抑えてくれることもありますよね」
医「まぁそれは、無きにしも有らずですが……」
私の熱意を真正面から受け止めようとしない姿勢に苛立ちを覚えていた。
この医者に疑心を抱いていることに変わりはないのだが、国が定めた専門医であるから仕方がない。
私は藁をも掴む思いで何度も縋っては訴えていた。
医「そうですねぇ、こういう薬があるにはあります」
風邪薬に似た小さな錠剤を取り出してきた、どんな効果があるのだろうか。
医「ナルコレプシー治療薬とも呼ばれるもので、中枢神経を刺激する作用があります」
医「一時的に気分を高揚させる時に使われるものです。喜の感情の着火剤と言えば分かりやすいでしょう」
澪「これを飲めば気分が良くなって、舞台に立っても平気なんですね」
医「まぁ簡単に言えばそうなのですが――」
それから医者は言葉を濁す場面もあったが、私は一方的にでも求め続けた。
救われる道が提示されたのだ、早くその道を走って進んでみたかった。
根負けをしたのか、程なくして鈍いペン先が処方箋をなぞっていった。
薬局でその薬を手にした時、私は勝利した気分に包まれていた。
翌朝、早速一粒飲んでみた。
この感じはどうやって表現すれば良いのだろう。
一切の負の感情が消し飛ばされて、爽やかな風が吹いていた。
薄い朝日が真夏のストーブのごとく肌を焦がしにかかる。
先ほどまでの憂鬱な朝の情景がガラリとその姿を変えていた。
一見変わらない風景だけれど、最高級の色眼鏡を通して見ているようだった。
澪「おはようりーつ!」
律「んなっ、なんだそのテンションは」
澪「なんだか気分がいいんだよ。向かうところ敵なしって感じだな」
澪「そうだ。忘れないうちにもう一度アレやってくれよ」
律「え。アレって、アレのことだよな?」
律はもう一度確認を取ってからごそごそと鞄の中を探り始めた。
素朴なペンケースを取り出してボールペンを一本摘むと、やはり躊躇ってしまう。
澪「実験しなきゃ結果は分からないだろ」
律「それはそうだけどさぁ」
しぶしぶ了解した律はボールペンの尻を耳の上に乗せる、あの時のデジャブだ。
またももう一度躊躇うので、私は真剣な目で見返した。
ハァと分かりやすい溜息を吐いてから、私の目前にボールペンを放った。
一切の衝撃がないと言えば嘘になる、けれど常識の範疇だった。
有り触れた防衛本能が瞬きを促すると若干だけれど後頭部が後ろに引かれる。
それでもあの時のような貫通性はなく、ピタリと動きを止めてしまった。
律「平気か? 何とも無いのか?」
澪「ああ、もうなんともないぞ。何度でもやってくれ」
律「いや、これきりにしたいんだけど」
澪「まーともかく学校に行こう。遅刻しても知らないぞ」
律「……なぁ澪、変な薬掴まされたわけじゃないよな」
澪「医者が変な薬出すわけ無いだろ。ほーら行くぞっ」
促進された気分が高血圧を保ったまま登校に励んだ。
律が二階の教室に行ってしまう瞬間も寂しくなんてない。
気分は上々のまま教室の扉に手をかけて思い切り引いた。
澪「みんなおっはよーう!」
―― ざわ ざわ
細い目で見られてしまったけれど私自身への影響は微塵もない。
やはりあの薬は素晴らしいものだ、目覚しい医療技術の発達と言えるだろう。
こんなにも陰口を叩かれているのに全く気が滅入る様子がない。
和「えーっと、澪?」
澪「ん、どうかした」
和「どうかっていうか、人が変わったみたいだったから」
澪「まぁ確かに変わったかもな。リニューアル澪ってところかな」
和「まぁ、元気なのは何よりなんだけど」
和はいらない心配をし過ぎなんだ、もう無理に構ってくれなくても問題ない。
そうだ、これからは逆に私が相談に乗ってあげよう。
今ならば聖徳太子もビックリの入れ知恵が沸いてきてもおかしくは無い。
そんな事を考えていたら授業が始まった。
一限目があっという間に過ぎて。
二限目にバリバリ発言して評価点を稼いで。
三限目のちょっとつまらない授業が終わって。
四限目は珍しく隣の子とお喋りなんかして。
昼休みを迎える頃に死にたくなってきた。
ジェットコースターを転げ落ちるみたく、勢いをつけて感情の最下層に沈み込んだ。
昼休みとは最も生徒が賑わい、食事を摂りながら、喋り散らかして過ごす時間である。
仲のいい者同士が固まると学校のあちこちで四方山話を繰り広げる。
他の教室の生徒も混ざって適当な話題を掘り起こしては、さも面白おかしい話に花を咲かせていた。
じわり陰口が蘇ってきた。
指を指され視線に視されて、私は一切の動きを止めると席に貼り付けられていた。
あの上機嫌さはどこに消え失せてしまったのか、今は絶望しか浮かんでこない。
これは文化祭のライブでモロパンした時以上の羞恥心だ。
鏡を見ずとも顔面蒼白になっているのが分かる。
和「あのさ澪、凄い顔色悪そうだけど。保険室行く?」
澪「ぃく。つれてって」
恥ずかしいことに早退してしまった。
自宅に戻ると、手のひらにコロコロと転がしながらその薬を見ていた。
何の変哲も無い白くて丸い錠剤である、問題はその成分にあるのだけれど。
医者は、瞬間的に気分を高揚させる、と言っていたが正にその通り過ぎていた。
爆発が済んでしまえば後にチリしか残らない、感情の残骸と言えるだろう。
それでも作用している間は確かな効果を実感していた、やはり強い薬なのだ。
あれから多少の喉のイガイガと吐き気が伴っている。
聞かされていた副作用だ、能力を得るにはそれなりの対価が必要となる。
それでも我慢できないほどではないのだから気軽に受け入れていい。
明日は早退しないように頑張ろう。
少し多めに薬を持っていけばいいだけのことだ。
律「昨日早退したって聞いたけど」
澪「ああ、気分はよくても腹痛には勝てなかった、ってだけだよ」
律「本当にそれだけか?」
澪「律は心配しすぎだぞ。親友の言う事が信じられないのか?」
律「その言い方はずりーよ」
それから私は薬を常備するようになった。
刺されるような感覚が蘇った時に一粒だけ流し込む、すると暫くは晴れやかな気分でいられた。
その代わり後から襲ってくる渇きや吐き気を我慢した、対価なら受け入れるしかなかった。
律「澪。本当にライブ大丈夫なんだな」
澪「平気だって。本人がそう言ってるんだから」
軽音部の活動の前には欠かさずに摂取していた。
講堂の使用申請書は半ば強引にだったけれど生徒会に提出させた。
その為のティータイム兼話し合いの最中、三人は何度も私を気遣う言葉をかけてくれた。
私の反論に肩透かしを食らう律の表情は見ていて辛かったが、目を瞑って受け流していた。
全ては新歓ライブの成功にかかっているのだ。
私一人が耐えてどうにかなるのなら、それで正しいに決まっている。
そんな毎日を繰り返すこと数日、新歓ライブを翌日に控えた朝のことだった。
澪「うぉぁぁ――っぺ」
吐き気が酷い、何度押し込んでも胃液が外に出たがっていた。
鼻の奥に付着したツーンという酸っぱい臭いが一向に剥がれてくれない。
長い髪を便器に纏わりつかせながら、もう三十分はこうして喘いでいた。
嗅覚に刺激されるように、鳥肌がざわざわと堰き立っては震わせてくる。
恒例の儀式は日に日に激しさを増していたのだった。
薬の摂取量は増加の一途を辿ってきていた。
始めこそ一日に一粒か二粒で満足できたものの、今では五粒ほど飲まなければ気が済まない。
瞬間的に気分は押し上げられるのだけれど、すぐに力を失っては下降してしまう。
効能としての支柱がスプリングと化していた、上下差が激しすぎる。
そんな気分ごと有耶無耶にしてしまえ、と流し込んではまた少し経って吐く。
自分でもおかしな事をしている自覚はあった。
これでは根本的な解決には繋がらないのだと。
しかしライブまでの苦労なのだから、終わってから正しい治療法に変えればいいのだと本気で思っていた。
澪「律、今朝は先に行かせちゃってごめんな」
律「え? っああ、流石に遅刻したくはないからな」
唯「あれ、確かりっちゃん」
律「りっちゃんは明日が楽しみだなぁ。なんたってライブだからなぁ」
澪「調子付きすぎてテンポ押すなよな」
律「わあってるって。それじゃ最後の練習始めますか」
紬「……マドレーヌ、おうちに持って帰ってね」
最終更新:2010年01月26日 00:40