──妹の顔を見られなくなりました。
ただ妹の存在に触れるだけで、胸に異物感に似た何かが現れるのです。
布団に潜ってひたすらそれを打ち消そうとするほど、それは大きくなってしまいます。
どうしてか、自分が気持ち悪くて仕方がありませんでした。
いつだったか、憂と同じ布団で眠れなくなった時。
その時は、心の中に理由もわからない罪悪感があって、私から憂のもとを離れたのです。
この気持ちの悪い感情が、せめて大切な憂にまで移ってしまわぬようにと。
どうしてかは今でもわかりません。
でも確かに、今と同じその気持ちが嫌で嫌でどうしようもなかったのです。
布団に潜ったままの私の部屋に、乾いた木の音が響きました。
「お姉ちゃん、入るよ」
ああ、憂が入ってきてしまう。でも私はそれを止められません。
それは私のこの気持ちを少しでも悟って欲しいからか、
それとももはや憂に声を掛けることすら億劫になってしまったのか、それは分かりません。
ただ、たった一人の妹を私のせいで汚してはいけないという想いだけは、ずっと胸にありました。
「お姉ちゃん?」
部屋の扉が開く音がしました。
返事をしない私に、純粋な妹はただ純粋な心配だけをするのです。
「寝てるの、かな?」
部屋に響かないくらいの声で妹が呟きます。
そして、枕に顔をうずめて動かない私の捲れた布団を優しく直しました。
ふと妹の指が私の足首に触れ、信じられないくらいの緊張が私を襲いました。
「……っ」
でも、これも何度目か分かりません。
朝起こしてくれるとき。学校へいくとき。忘れ物を届けてくれるとき。ご飯を渡してくれるとき。
憂がそばにいるほど、私の精神は乱されて狂ったように混乱していくのです。
「……おやすみなさい」
そう呟いて、また扉が閉じました。
自分の為に妹に残酷な私は、ただ全部自分のせいだということを理解していました。
そうして、自分を罵る頭を、今度はどうにか眠れるように目をきつく閉じました。
● ● ● ● ●
掃除だって料理だって、勉強だってできる妹。
いつも私のそばで笑っていてくれて、いつも元気を分けてくれる。
私が手を握ると、憂も握り返してくれる。
そんな妹が、私は大好き。
平沢憂は、私の妹。
● ● ● ● ●
──
朝が来たと分かったのは、カーテンから漏れる朝日が目に入ったのと、同時に跳ねるようなスリッパの音が聞こえたからです。
また憂が私を起こしにくる。
私はどうすればいいか分からない。
体を揺すられて平気な顔でいられるのか、自分で起きておはようと言えるのか。
想像を絶する不安に苛まれて、凍えた体は更に固まります。
「お姉ちゃんおはよー」
また扉が開きます。
嫌、こっちに来ては駄目。
言葉にできない言葉を必死に心の中だけで叫んでも、一歩先の妹には届きません。
「朝だよ、起きてお姉ちゃん」
布団越しに手と体が触れたのがせめてもの救いでした。
「お姉ちゃん」
優しく私を揺する妹に、また何度目か分からない返事の仕方を考えます。
傷つけてはいけない。でも、私が壊れてしまわないように。
「……起きてる、から」
まるで言い訳を、それも独り言のように発しました。
「あ、うん」
無垢なだけの妹はそんなことは気にも掛けないで、ようやく触れた手を離してくれました。
返事をしたまま動かない私を、妹はどんな顔で見ているのでしょう。
ひょっとしたら、ただ呆れているだけかもしれません。
どうせならそうであってくれて構いません。
憂の心に私がないのなら、苦しむのは私だけなのですから。
「じゃあ……着替えてきてね。ご飯できてるから」
やっと布団から覗いた私が見たのは、寂しそうに部屋をでる妹の背中。
いや、きっと寂しそうに見えたのは私の願望なのでしょう。
笑顔を見せたかったけれど、今の私にはそんな余裕なんてありませんでした。
階段を降りると、パンの焼けるいい香りが漂ってきました。
でも、そこから先に足が進みません。
なんと言ってまた顔を合わせたらいいのか、冷や汗が頬を濡らしました。
「お姉ちゃん?なにしてるの?」
エプロン姿で食器を運んでいた妹が、階段で燻っている私を見つけました。
「え、えっと……」
床を見たままの私は、この場からどうにか逃れようと言葉を返そうとします。
「ご飯食べよ」
「……うん」
私を待たずに誘ってくれた妹の言葉が、私にはどれだけありがたかったか分かりません。
食事は味が分かりませんでした。
妹の料理は確かに美味しかったはずなのに、今ではもう分からないのです。
目の前に妹がいるだけで、私の心はそれだけに囚われて身動きがとれなくなってしまいます。
早く、ここから逃れたい。
どこか、妹と離れられる所へ。
このままでは、私は更におかしくなってしまうから。
「私……もう、行くから」
「えっ?」
堪えきれず、焼かれただけのパンを手にとって椅子を立ちました。
驚いた様子の妹の口元が目に入りましたが、その程度で思い止まることは出来ません。
「あっ、お姉ちゃん待っ……」
妹の言葉は、最後は強く閉めた扉の音に掻き消されてしまいました。
胸に残るのは一層肥大化した罪悪感。虚無感。そして自分への嫌悪感。
打ち寄せる怒涛の如く私を追い詰めるそれらを、私は見て見ぬ振りをして堪えてきました。
いや、堪えるというのは間違いです。
私は、逃げているだけなのです。
嫌な自分から。逃げ場の無い何処かへと。
やめてしまったら、そこで私は崩れてしまう。
だから、弱い私はこれからもそれを延々と続けていくのでしょう。
いつか二人で通っていた通学路は、一人になってから随分気の重くなるものになっていました。
思い出す過去は、妹の笑顔を見てただただ幸せだった毎日の朝。
二度と戻らないように感じられるのは、きっと自分の情けなさを諦めきっているからでしょう。
繋いで暖かかった掌も、今やポケットの中。
顔の前に出して見てみると、それがどうしようもなく汚れたものに見えました。
「ゆーい!」
そんな折りに聞こえたのは、僅かでも私に元気を与えてくれるりっちゃんの声。
「あ……おはよう」
「おはよう唯」
振り向くと、案の定その幼なじみの澪ちゃんがいました。
二人が隣に居合わせる姿はとても自然で、私は羨ましさを見る度に感じてしまいます。
私も、またいつか妹の隣に、と。
「おーい、また一人かー?」
そんな私の心の内を知ってか知らずか、心配そうに聞かれてしまいました。
「……うん」
でも、自分勝手な私はそんな心配を振り払いたくて仕方がありませんでした。
「憂ちゃんきっと寂しがってるぞー」
放っておいて。私の問題なんだから。
「そんなこと……」
これ以上私を追い詰めないで。
「あるって。だって梓も憂ちゃんが……」
「やめてっ!!」
そして訪れたのは、沈黙よりも耐え難い静寂。
頬を冷やす風は、やけに冷たく感じられました。
「……ごめん」
やっと言えたそんな一言で、馬鹿な私が生み出した溝を埋められるようもありません。
「……あはは、いいっていいって。気にすんなー」
「ほら唯、食べ滓が付いてるぞ」
でも、気のいい二人は私を傷付けないようにと、またいつものように振る舞います。
「うん……ありがと」
口元に当てられるハンカチを、私には拒むことが出来ません。
二人の優しい心遣いが、また私の胸を締め付けるのです。
学校へ着くと、ようやくの安心感を感じられました。
これで、憂とはしばらく顔を合わせないでいいんですから。
「ふふ、唯疲れてるのか?」
そんな間の抜けた私の顔を見て勘違いしたのか、澪ちゃんがそんな言葉をかけてきました。
「うん。ちょっと夜更かししちゃって」
でもまた余計な心配をされないように話を合わせておきました。
「しっかりしろよー。受験生なんだから」
「うん、わかってるよー」
いつも通りの会話に、これ以上詮索されることはないとまた胸を撫で下ろしました。
授業は、ただの逃避の時間です。
それは、妹から逃れる為の時間。
その時間が惜しくて、でも早く過ぎ去って欲しくて、私にはもう何が何だか分かりません。
妹から逃れている間は、自分から逃げることが出来ないのです。
教師の口から紡がれる専門用語は頭には入らなくて、後悔と焦燥が頭を巡ります。
妹に挨拶も交わせないで家を出たこと。
親友を自ら遠ざけたこと。
また家で顔を合わす妹のこと。
じっとしているとそれらのことが次から次へと浮かんではまた浮かび、私を苦しめます。
いつになったらこの負の連鎖から逃れられるのでしょうか。
ひょっとしたら、私が自分の身を投げ打たないと何も変らないのでしょうか。
考えたくはありません。
今までの私は、自分の身を守るためだけにこんなにも苦しんできたのですから。
それを無下にしてしまうようなことは、今更出来るはずもないのです。
四時限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響きました。
苦悶に囚われていた私は、やっと嫌な思考から覚めることが出来ました。
「お昼……」
気づくと、空腹を感じていました。
朝はパン一枚だけしか食べてないので当然といえば当然なのでしょう。
「……あ」
鞄を漁っていと、お弁当を忘れていることに気が付きました。
きっと、妹はいつものように作っていてくれるはず。
「……うそ」
親切な妹は、きっと私のもとまで届けに来てしまう。
どうしよう。どうしようどうしよう。
妹に合ってしまったら、またどうなってしまうか分からない。
けれどわがままな私は、お弁当はいらない、なんて連絡を送ることも躊躇ってしまいます。
私の為に朝早く起きて、一生懸命作って、そして学校まで持ってきてくれたお弁当。
それを突き放すようなことは、私の憂が傷ついてしまうから。
何より、嫌われたくなかったのです。
今まで散々嫌われるようなマネをしてきたのに、実感が沸くといきなり臆病になってしまうのです。
殻に篭って怯えるだけの私には、どうすればいいのか分かりません。
だから、お願い憂。
「……来ないで」
私を、嫌わないで。
「お姉ちゃーん」
そして、妹が私を呼びました。
机に臥せったままの私を見ているのでしょう。
けれども私は動けません。
寝てるふりでこの場を乗り切れれば、なんて甘い考えをそれでも真剣に考えていたのです。
「おーい、お姉ちゃん!」
「唯ちゃん、憂ちゃん来てるわよ?」
いつの間にか私の横に立っていたらしいムギちゃんが私を促します。
でも、私には憂のもとへ行けないのです。
「……憂ちゃん、唯ちゃんに用事?」
足音と共に小さくなっていくムギちゃんの声が聞こえました。
どうやら私を諦めて妹のもとへと行ってくれたらしいです。
そして私は、その場限りの逃避にとてつもない安堵を覚えるのです。
「唯ちゃん、唯ちゃん」
また足音が帰ってきて、ムギちゃんが私の肩を揺すります。
その声がどこか呆れたように感じられたのは、私の負い目によるものでしょう。
「……んー、なあに?」
わざとらしく起きた私を、ムギちゃんは分かっているのでしょうか。
「憂ちゃんからお弁当。唯ちゃんにだって」
「ああ、ありがとムギちゃん」
渡されたお弁当の持ち手からは、おそらく憂のものである温もりが残っていました。
私は、長く触れてしまわないようにと机に置きます。
「憂ちゃんにもね」
「うん、分かってる」
分かっているのは、きっと妹にお礼も言えない自分の情けなさ。
少しだけ口を閉ざしたムギちゃんは、
「お弁当とってくるね」
そう言って自分の席へと戻って行きました。
その時、私の席へと向かってくるりっちゃんと澪ちゃんに目配せをしたように見えたのは、きっと気のせいでしょう。
午後の授業も退屈なものでした。
また苦しいだけの煩悶に頭を悩まされるのです。
憂、憂、憂。
ただ妹のことだけが頭を離れなくて、苛々が次々と募ります。
「唯、部活だぞ」
そして現実へと引き返されたのは、また友達の声に。
「あ、そうだね」
「唯ちゃん大丈夫?顔色悪いけど」
「えーと、昨日夜更かししちゃってね」
「ああ、朝も言ってたな」
「えへへ」
頭の良くない私がこんなことで誤魔化せているのでしょうか。
どんどん疑心暗鬼になっていく私に信じられるものは、今や数えられるほどしかありません。
果たして大切な親友は信じたままでいられているのでしょうか。
部室へと一緒に向かうみんなは、どこか神妙な面持ちに見えました。
せめて明るい話題を、と思ったのですが、悩まされてばかりの私には何もありませんでした。
この沈黙が、どうか私のせいではありませんように。
そう願いつつ、目の前の扉を開けました。
「あ、みなさんお疲れ様です」
そこにいたのは、後輩のあずにゃん。
「うん、あずにゃん待った?」
「いえ、特には……」
「……?」
口を噤んだままのみんなを見て、嫌な胸騒ぎがしました。
最終更新:2010年12月17日 23:46