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「ひっく……うぅ……」
「もう……ほら、涙拭きなさい」
和ちゃんは、子供のように泣き出した私の背中を撫でていてくれました。
「……あ゛りがど……」
「鼻水も」
「う゛ん……」
醜態と言うより他にない私の姿は、静かな喫茶店から浮き出てしまっているでしょう。
ずびずびと洟をすすると、ようやく荒らげた息も落ち着いてきました。
「もう大丈夫かしら」
「……うん」
暖房が効きすぎている店内では、なかなか熱くなった顔は冷めません。
「……それで、どうするのかしら?」
「どうするって……」
先ほどとは打って変わって、和ちゃんは厳しい目を向けていました。
「憂に言うの?」
「そんなの……出来ないよ」
そのせいで私は尚更萎縮してしまって、膝に置いた拳をぎゅっと握ります。
「じゃあずっと秘密にしておくままなの?」
「これ以上は……出来るかわからない」
どっちつかずな私の返答に、和ちゃんも次第に眉を顰めていきます。
「じゃあどうするのよ」
「……わかんない」
すっかり冷めた私の紅茶には、もう飲む気すら失せてしまっていました。
「わかんないって、じゃあこれからどうするの」
優柔不断な私の性格に、私自身の中にも靄が掛かっていきます。
もう、これ以上考えていたくない。
「わかんないよ! そんなの……」
そう言うと和ちゃんは呆れ返ったような顔を見せました。
きっと、私のことを買いかぶっていたのでしょう。
どれほど私が情けない人間か、親友の彼女でも分かっていなかったのです。
「ならもういいわ。やめなさい」
「……え?」
「あなたが言っても憂に迷惑かけるだけよ。だからもうやめなさい」
そんな彼女は、きっと誰よりも私を考えていてくれたのでしょう。
「和ちゃんが勝手に決めないでよ!」
でも、そんな簡単な言葉で、私の心を知らない人に片付けられてほしくなかったのです。
「いい加減にしなさい。唯、あなたが……」
「うるさい! 和ちゃんに口出しされたくないよ!」
私がどれだけこの数えきれない感情に振り回されてきたか、私しか知らないのですから。
「……唯」
「もうやめてよ!」
私は、自分のことだけで精一杯だったのです。
「唯!」
そんななりふり構わない私に浴びせられた和ちゃんの声が、
「……へっ……?」
親友の怒声など予期すらしていなかった私の全身から力を抜きました。
「唯、あなた憂をどうしたいの!」
「え、わ、私は……」
しどろもどろになる私に、その眼鏡の奥の眼光が突き刺さります。
「憂がずっと心配してるのよ!」
もうやめて、私に、何も期待しないで。
「憂が大事なら……憂のことを考えてあげなさいよ」
自分ですら守ることの危うい私に、そんな厳しいことを言わないで。
「……もう、やめてよ……」
「なら……」
目を合わせたくなくて、窓の外に視線を投げると、
「……あ……」
「……唯?」
私が愛する、ただ一人の妹がいました。
「憂……」
「憂?ちょっと唯……」
その妹は、どうやら買い物に来ていたようで、馴染みの友人ふたりと歩いていました。
私がめっきり見ることのなくなった、楽しそうな笑みを浮かべて。
「……」
堪えることが出来ませんでした。
「唯?どこいくつもり?」
あんな笑顔を、私以外に見せるなんて耐えられないのです。
「唯ったら!」
強欲な私は、一刻も早くその元へ行かなくてはと、ただそれだけを思っていました。
「唯!」
袖を掴んだ和ちゃんの手を振りきって、徐々に私の足取りは早く、気持ちは重くなっていきます。
もう親友の声は聞こえていなくて、どす黒く胸が満たされていくまま、店を出ました。
私の目には既に憂しか写っていませんでした。
いつもなら一旦立ち止ってしまうような冬の寒さも関係ありません。
一秒でも、一瞬でも早く行かなくては。
憂が、私を忘れてしまわないように。
異常に心臓は速くなっていき、白い息は両頬にかかります。
湿気を含むそれに僅かな不快感を感じますが、そんなの関係ありません。
私は、憂の元へと行かなくてはならないのですから。
「……憂!」
私はいつの間にか駆け足になっていて、妹はびくりと小さく体を跳ねさせました。
「……お姉ちゃん……」
振り向いたその顔は、変わらず愛しいままでした。
「唯先輩? どうしたんですか」
「お、お姉ちゃんどうして……わっ!」
三人はどうしてか不思議なほど驚いていましたが、構わず私は妹の手を引っ張りました。
最近は触れることすら出来なかったその体でも、今はそんなことに執着していられなかったのです。
「お姉ちゃん!ちょっと……」
妹の苦しげな声が聞こえました。
「ちょっと先輩!」
でも、放すことは出来ませんでした。
和ちゃんが言った言葉が、私の不安を煽るのです。
とにかく憂を私の元へと。
「どど、どうして唯先輩が!? 梓!」
「し、知らないよ!」
傍らでどうやら慌てているらしい二人を横目に、私はその握った手を引きます。
「お、お姉ちゃんったら!」
きっと痛いほどに強く握っている私を、妹は不安に駆られた目で見ているのでしょう。
怖いなんて思われたくはありません。
けれど、私が掴んだこの腕を、どうしても離してしまいたくなかったのです。
「憂、こっち来て」
「お姉ちゃん……?」
ごめんね、憂。そんなふうに思わないで。
私は、行き先も決まらないで、街の道を進みます。
止まることは出来ません。
その瞳に、私以外を写してしまってはいけないから。
それほど経ってはいないはずですが、私と憂の息は肩を揺するほどに上がっていました。
「はぁ……はぁ」
「……ふぅ……」
憂は、ずっと引っ張られてきたからでしょう。
私は、きっと焦りの気持ちから。
ほとんど迷い込んだような路地裏には、いつの間にか降りだした雪が舞い込んでいました。
「お、お姉ちゃん……どうした、の?」
少しばかり息を切らせて私に尋ねる妹を、じっと見据えました。
目を離せなかったのは、おそらく私。
困ったように眉を顰めて、私を見つめ返すその瞳は本当に綺麗で
私は時を忘れてしまうような、脳を見透かされてしまうような、そんな感覚に陥ってしまいます。
「……お姉ちゃん?」
「……憂」
それはもう、本当に久しぶりのことでした。
私にはもう抑えることが出来ませんでした。
胸が張り裂けるくらいに詰め込まれたものを。きっと妹を見てしまったせいで。
それは、悍ましいほどの嫉妬だったり、もはや利己的なだけの愛情だったり、私を苦しめてきたものだけでした。
「……どうして」
「え?」
「どうして、憂は、平気なの?」
なにしてるの、私ったら。
「……平気……って?」
このままじゃ、きっと馬鹿な私は憂に酷いことを言ってしまう。
「私は、憂が、憂がいたから……」
「お、お姉ちゃん……?」
けれど、弱い弱い私には、せめぎ合うだけの理性もありませんでした。
「憂のせいで私はっ……こんなに、苦しい、のに……!」
「……お姉、ちゃん?」
困惑した妹の瞳には、歪んだ私の顔が映っていました。
「もう、嫌なの!憂がいなかったら私だって……」
その目はまるで深海のように輝きを無くしていて、とても、怖かったです。
その持ち主が自分だということを、俄には信じられなくなるほどに。
「おねえ……ちゃん、どうしたの……?」
憂は、今にも崩れ落ちそうでした。
私に焦点が合っているか分からないほど、その目に涙を湛えていました。
泣いてしまわないように堪えている妹を見ても、私は止まれませんでした。
「
私だって……ずっと幸せだったのに!」
「……え……?」
瞳の奥の私は、滲んだ涙に隠されて見えなくなってしまいました。
「……わ、わかんないよ。何言ってる、の……?……お姉ちゃん……」
目元をコートの袖で擦りながら、それでも妹はどうにか笑顔を作ろうとしていました。
「……あ……」
私がようやく目を覚ましたのは、そんな妹を見てからでした。
「ち、違うの!今のはね……」
「ごめんなさい……ごめん、なさい……」
小さくなって震える妹は、もうそれだけをただ呟くだけでした。
触れたら崩れてしまいそうなほど、脆い脆い妹の体。
動けないままの私には、手を伸ばすことすら出来ません。
立ち尽くす私を形取るのは、思考の止まった抜け殻の体。
「ごめんなさい……」
地面に、雫が一粒、ぽたりと落ちました。
雪の音だけが、人気のない路地裏に響いていました。
● ● ● ● ●
私がいなくても大丈夫な、しっかりものの妹。
大事な言葉は、私の口からは出てこない。
離れてしまう前に、言わなくてはいけないのに。
時折見せる悲しい顔は、私なんかには分からない。
平沢憂は私の妹。
● ● ● ● ●
いつの間にか、家のリビングにいました。
随分前のことのように感じられる路地裏での、あの自分の言葉が頭を離れません。
私の頭を巡るのは、大切な、大好きな、愛する妹を傷つけてしまった計り知れない後悔。
息が、上手にできません。
「……ゆい、唯!」
「……へ?」
肩を揺すられて、ようやくぼやけた視界が晴れていきました。
「しっかりしなさい!」
「あ……和ちゃん」
気づくとソファに座っていて、目の前で見たこともないような形相を作る和ちゃんがいました。
心に掛かった真っ黒な靄は、以前として晴れないままです。
あの後、私の周りは時が止まったように動かなくなったのを覚えています。
啜り泣く憂の声だけが今も耳にこびり付いていて、不安を駆り立てます。
「唯!」
その後どのくらい経ったか、視界に入ったのが和ちゃんだとも私には分かりませんでした。
「せ、先輩! 憂!」
「う、憂?どうしたの?」
「あ……和、ちゃん?」
目線を向けているのに、焦点が合いませんでした。
「唯、憂に……なにしたの」
「……」
私には、答えることが出来ませんでした。
「あれ……憂、は?」
はっきりとしない頭で辺りを見回しても、妹がいませんでした。
とにかく妹の姿を見ないと落ち着かなかったのです。
取り返しの付かないほど、きっと妹との間に、私は溝を作ってしまったから。
「ねぇ、憂は……?憂は?」
次第にそれが恐ろしくなっていき、確かめずにはいられなくなりました。
どうにか、妹の前に来れば、少しでもその溝を埋められるとでも思ったのでしょうか。
「……部屋よ」
呟いたように和ちゃんは言うと、私から目線を外しました。
「部屋……っ!」
でもそんなのは私にはどうでもよくて、ただ憂の元へ行かなくてはと、それだけしか頭にありませんでした。
「! ちょっと待ちなさい唯!」
「はなして!」
立ち上がって階段へ向かおうとする私を、和ちゃんが止めました。
「やめなさい!」
「うるさい! どいて!」
振り払った自分の手にはもう力がありませんでした。
それでもどうにか、この愚かな私を報いなければと、意識だけは前に、前に。
足元から、徐々に不安が私を蝕んでいくのです。
それは私の足を震えさせ、逃れようのない支配で私を動けなくしていきます。
とんでもなく恐ろしかったのです。
今まで私を追い詰めたそれらとは、まるで比べものにならないほどに。
「やだ、やだやだやだ……憂!」
震え上がった両足では、もう立つことも出来ませんでした。
「うい、憂……!」
「唯、落ち着きなさい」
「離して! 憂のところに行かなくちゃ、行かなくちゃ…」
とにかく今のままではいけないと、私の臆病な心はまた逃げ道を捜すのです。
もはや、なくなってしまった逃げ道を、それでも捜すのです。
「行ってどうするの!」
そうすれば、その時だけは逃げられるから。
どうしようもない絶望の淵に立たされることだけは、心を別の何かで満たしてにしてまで避けるのです。
「……わ、わたし、どうしよう……どうしよう」
最終更新:2010年12月17日 23:49