「あ……和ちゃん、おはよう」
彼女はいつも屈託の無い笑顔を私に見せる。
十数年間一緒に登校して来た、そして、去年から別々の高校に通う彼女は、相変わらず、明るく笑う。
「ええ、おはよう。朝に会うのは久しぶり、かしらね」
朝に、とは言ってみたものの、それ以外のときは会っているのかと聞かれると、そうでもない。
ああ、じゃあ、今のは嫌味ったらしく聞こえやしないだろうか。
そんな私の心配を他所に、相変わらず、彼女は明るく笑う。
「久しぶりだねえ。あのねえ、軽音楽部に後輩が入ってきたんだあ」
少し間延びした口調で話す彼女は、去年から、多分何一つ変わっていない。
だから、きっと、変わったのは、私のほう。
彼女の姿はいまでもはっきりと私の目に映っているのに、私の姿は、薄い霧の中にある。
多分、彼女が見ているのは、去年の私の残像だろう。
「そうなんだ、ごめんね、急がないと電車が出ちゃうのよ。また、メールしてね」
あ、そっか、ごめんね、と、唯は寝ぐせのついた髪の毛を揺らして、頭を下げた。
別に、謝らなくたっていいのに。
私、和ちゃんと一緒の高校に行きたいなあ、なんて、唯が言ったのは、
そういえば、もう一年と半年ほど前の事になる。
分厚い参考書が詰まった鞄を持って、家から駅、駅から学校までを往復するばかりの毎日で、
いつのまにか、時間感覚は狂ってしまっていたらしい。
もう少し、最近のことだと思っていた。
『次は、……駅。今話題のスポーツクラブ……はこちらです……』
駅名を聞き逃しても、その後の、駅の近場案内で、ここが降りるべき駅だと分かる。
これが、県内一の進学校に通う私が、一年間かけて身につけた特技。
駅から出ると、私の家の近くとは随分と違う、騒がしい街並みが、偉そうに私を迎える。
パチンコ店の広告を睨みつけてみても、喧騒は収まらない。
本当に、たまったもんじゃない。
多分、唯なら、耳がおかしくなっちゃうよお、なんて言って、大袈裟に耳を抑えることだろう。
「The sun comes up. Another day begins and I don't even worry about the state I'm in......」
車のクラクションだとか、下品な笑い声だとかよりはずっとマシだから、私はイヤフォンを耳に付ける。
そこから流れてくるノイズの間に、ふわふわと漂うメロディラインを拾って、口ずさむ。
日が登って、新しい日が始まって、自分がどんな状態にあるのかも、興味がない……
素敵な生き方だと思う。けれど、思うだけ。
私は今日も、自己の成績と、将来のことを気にして、やけに広い敷地を持つ進学校へと通うのだ。
「Why don't you take a second and tell me what you see?」
流石進学校。駅から降りてすぐの場所に陣取った高校の、自分のクラスの教室まで、一曲口ずさむ時間もありはしない。
ただ、この時間、授業開始まで一時間、幸いなことに同じ階には誰も来ていない。
「The things I see you only disagree.You never understand that's what I want to be......
相変わらず、イヤフォンから流れてくる歌は気だるそうな響きだった。
小さく口ずさみながら、私は、日課の黒板消しを始めた。
進学校だから、かは知らないけれど、自由な校風で有名なこの高校には、変な人が多い。
今日も、黒板には訳の分からない落書きがしてある。
こいつは蛇です!
という文字の傍には、犬の体に人間の顔と、鶏冠がついた妙な生き物が描かれていた。
気味が悪いなと思いつつも、私はそれを消した。
「Wishing hide but you just can't see me」
「うぃしんぐ はい ばちゅ じゃす きゃん しい み」
たどたどしい発音で、私の歌に加わる女性がいた。
声のしたほうを向くと、細い目をした、優しそうな女性が立っていた。
制服を見る限り、どうやら上級生のようだ。
「……あら、歌うのを止めなくてもいいのに」
私は、部活に入っていない。
純粋な帰宅部である私は、こうしたとき、先輩に対してどのように接すればいいのか、迷ってしまう。
「ええ、と……」
そんな私を見かねたのか、ふふ、と小さく笑いながら、その女性は、自分の胸に手を置いて言った。
「曽我部、曽我部 恵よ。よろしくね、黒板消し魔さん」
黒板消し魔。なんだか妖怪みたいな名前だ。
「なんですか、それ」
「あら、有名よ。朝早くから来て気が狂ったみたいに黒板を消してる女の子がいるって」
一旦間を空けて、曽我部さんが続けた。
「溝に落ちた粉まで執念深く掃除してるって。ティッシュまで使ってるって」
「いや、もうその話は結構です」
私が止めると、曽我部さんはくつくつと笑った。
「ふふ、そう。まあ、ちょっとどんな娘か気になったから観に来てみたんだけどね、それ、JMCかしら」
自分の耳を指さして、曽我部さんは私に尋ねた。
多分、私のイヤフォンを指すジェスチャーだろう。
「ええ、そうです。Psycho Candyです」
「へえ、嬉しいわ。シューゲイザーが好きな人って、あまりいないから」
シューゲイザー。演奏者が、自分の靴先ばかり見ているようだから、名付けられたらしい。
靴を見つめる人。
話題が一区切りしたところで、私は、曽我部さんと向き合っているのも気まずいから、黒板を消す作業に戻った。
「本当に、黒板消し魔」
曽我部さんが、呆れたように呟いた。
「crack of dawn......」
僥倖の亀裂……夜明け?
そんなことを歌いながら、曽我部さんは教室を出て行った。
早い。一日が終わるのが、早い。
授業を受けていたら、いつの間にか下校時間になってしまった。
部活に急ごう。
「帰宅部なのねえ」
階段を急いで降りていると、上のほうから声がした。
今朝と同じような、優しい顔で、曽我部さんが笑っていた。
「私も、なのよ。帰宅部、電車部門出場選手なの」
そう言って、先輩は声を殺して笑った。
そして、私の傍まで駆け寄って、さも当たり前のことのように言った。
「一緒に、帰ろうか」
彼女の眼の中に、一点の疑いもなかったから、私は、その眼を濁さないように、頷く他なかった。
「はあ、別に、構いませんよ」
「ふふ、ありがとう」
自分からついてきた割に、曽我部さんは何も喋らなかった。
ただ、私の隣を歩くだけ。けれど、駅の手前まで来たところで、ぎゅっと、私の制服の袖を掴んだ。
「……なんですか」
振りほどこうとしたけれど、思ったよりも力が強かったので、私が諦めて尋ねると、
曽我部さんは、くすくす笑って、言った。
「寄り道、しない?」
私は、相変わらず、はあ、と頷くことしか出来なかった。
「この辺り、あまり歩いたことないでしょう、真鍋さん?」
さっと記憶を確認してみるけれど、確かにそうだ。
というか、学校以外の場所に行った記憶がない。
私が頷くと、曽我部さんは微笑んだ。
「ホント、エリート帰宅部なのね」
「あれ、曽我部さん、そう言えば、私の……」
私の口に人差し指を立てて、曽我部さんは、いたずらっぽく笑った。
「ふふ、この辺り、面白いお店があるのよ。店、というか、人が面白いんだけどね」
ふんふんと鼻歌を歌いながら歩く曽我部さんの後について、繁華街をふらふらと歩きまわり、
ようやく、私たちは廃れた居酒屋に着いた。
「きつね……この店の名前を考えた人は、なにを考えていたんでしょうね?」
ぼろっちい看板に、きつね、と大きく書いてある。
さあ、ね。と、曽我部さんは笑った。
「まあ、そんなのはどうでもいいわ。ちょっとだけ、道を踏み外してみる準備はいいかしら?」
曽我部先輩は、大儀そうに、たてつけの悪い扉を開いた。
「高校生がそんなにしょっちゅう来るもんじゃねえぞ」
私たちを迎えたのは、言葉とは裏腹に、嬉しそうな、太い男の人の声だった。
店内は、やけに酒臭い。思わず鼻をつまんだ。
「ん、そっちの眼鏡の女の子は、恵ちゃんの友達かい?」
太った男の人――どちらかというと、きつねより、狸のように見える――は、豪快に笑った。
「いやっはっは、進学校ってのは、意外と不良が多いのかね。恵ちゃんも、お酒はほどほどにしときな」
おっさんからの注意だ、と言いながら、その男の人は、自分の腹を叩いた。
どうやら、ビール腹らしい。
なんだか不安になって、曽我部さんのほうを見ると、優しく微笑んでいた。
「大丈夫、お酒なんて飲んじゃいないわよ」
曽我部さんは、出鱈目言わないでよね、と男性に言って、肩をすくめた。
そして、少し胸をはって、ジュースと軽食を注文する。
自分の口に人差し指を当てて、自慢気に笑った。
「私の奢りだから、ちょっと食事していきましょう?」
「別に、構いませんけど」
私がそう言うと、曽我部さんは少し怒ったような顔をした。
「真鍋さん、そればかりね」
すみません、と謝って、私は、がらがらの店内の、奥のほうにある古びた席に腰掛けた。
ゆったりとした動きで、曽我部さんが私の隣りに座る。
「真鍋さん、毎日楽しい?」
遠慮がちに私の眼をのぞき込みながら、曽我部さんは言った。
探るような眼が怖くて、どこまでも深い、奥の見えない眼が不快で、私は、目を伏せた。
「さあ、どうでしょうね」
「はっきりしない物言いね」
目を開けると、まだ曽我部さんが私のことを見つめていたから、私は首を振った。
「でも、そんなものでしょう。はっきりしたことなんて、あまり無いんですから」
そうかもね、と曽我部さんは寂しそうに呟いた。
「もうそろそろよ」
何を喋るでもなく、ぼうっと時間を潰していると、曽我部さんが唐突に言った。
店に来てから、既に一時間程が経っていた。
「なにがですか?」
曽我部さんは、くすっと笑った。
「変な人が、来るのが」
それから数分後に来た人は、本当に変な人だった。
その女性は、荒々しく、大声で意味のわからないことを言いながら、店に入ってきた。
「恵ちゃんのためにメイド服を作ってきたわ!」
とても変な人だったけれど、店の扉を開けたとき、外の街灯の光を浴びた、その女性の髪は、不必要なほど輝いていて、
体の輪郭線は、嫉妬してしまうほどの曲線美を備えていた。
曽我部さんは、その女性を見て、目を輝かせた。
「あらあら、それはどうも。山中さん、こちら、後輩の真鍋さんです」
山中さん、と呼ばれた女性は、目をぱちくりさせて私を見た後、にやりと笑った。
「ふうん、じゃあ、今度はタキシード作ってこようかな」
店の扉が閉まると、髪は私の目を潰してしまいそうな程の輝きを失ったけれど、
それでもまだ、その艶やかさを示すには十分なほどの光を反射していた。
きらきらと光る髪を揺らしながら、山中さんは、曽我部さんの隣りに座った。
「真鍋さんの、下の名前は?」
柔らかい唇が、優しく空気を震わせた。
「のどか、です。真鍋、和」
しどろもどろになりながら私が言うと、山中さんは、びっくりしたように曽我部さんを見た。
「あの、和ちゃん?」
「多分そうだと思いますよ」
ふうん、と山中さんは息を吐いて、一瞬だけ、寂しそうな顔をした。
まあ、そりゃ、そうよね、と、掠れた、歌うような調子で言った。
かと思うと、次の瞬間には、あっけらかんと笑って、パン、と手を叩いた。
「これ、恵ちゃんに作ってきたメイド服なんだけど、和ちゃん、着てみる?」
山中さんの手には、ひらひらした華美な服がつままれていた。
私は、ゆっくりと首を振った。
「遠慮しておきます」
「変な人でしたねえ」
電車の窓から見える外の風景は真っ暗だけれど、近くと遠くを過ぎ去っていく街頭が、
なにかを訴えかけるように、鬱陶しいくらいはっきりと軌跡を残していた。
「そうねえ、でも、あの人あれで高校の教師なのよ」
曽我部さんは、片手でつり革を掴んで、もう片方の手に、紙切れをつまんで、へらっと笑って言った。
紙切れには、ぎらぎらとした配色で、ライブイベントの日時、場所が書いてある。
私のひいきのバンドが出るから、よければ観に来てね、なんて言って、山中さんが私たちに押し付けてきたものだ。
「変な人だけど、楽しい人じゃない?」
私のほうをちらと見て、曽我部さんは微笑んだ。
そうですね、と、私は曖昧にごまかして、ただ、視界の端から端へと流れていく街頭の光の残像が、
山中さんの髪の輝きのように、私の中の何かを満たしてくれないことに、不満を覚えるばかりだった。
『次の駅は――』
はふがはほかん。
アナウンスは、確かにそう言った。
すごく曖昧な発音で、それが心地良くもあるのだが、けれど、聞き取りづらい発音で、
桜が丘、と、言った。はふがはほかん……
「ちゃんと発音してほしいわよね」
曽我部さんが苦笑して、電車の天井を眺めながら言った。
そこに、誰かがいるわけでもないというのに。
叫び声のような、金属が軋む音がして、電車が止まった。
つん、と肩を突かれたので振り返ってみると、曽我部さんが、眉を下げて笑っていた。
「ぎいい、ですって。うるさいわよね」
私が返事をするよりも前に、曽我部さんは、開いた電車のドアから外へと降りていった。
結局、私が曽我部さんに言った言葉は、先程の言葉への返事ではなかった。
「曽我部さんも、桜が丘に住んでるんですね」
エスカレーターの手すりで手を遊ばせながら、曽我部さんは、まあね、と言った。
「知らなかったでしょう、真鍋さん」
ええ、そりゃあ、と私が答えると、曽我部さんは、そう、とだけ言って、それきり黙ってしまった。
ピッ、と、改札機がICカードを認識する音が鳴った。
がやがやと騒ぐ人ごみの中で、私と曽我部さんの間にだけは、しじまが流れ続けていた。
それが私を責め立てるように感じられて、私は、喧騒に耳をすました。
同年代の、つんつんと激しい調子の、女の子の声が聞こえてきた。
「今度のライブ、私も出ていいんですか!?」
続いて、何言ってんだ、と少し男の子のような喋り方。
「うちはお前入れても五人だからな。技術面は問題ないんだし、入れといたほうが良いだろうさ。
あ、これ、みんなで話し合って決めたことだからな、拒否権はない」
それを聞いて、先程の女の子の声は、おお、と喜ぶような調子に変わった。
楽しそうだ。随分と、楽しそう。
ついその二人の会話に気を取られていると、どん、と曽我部さんにぶつかった。
「あまり余所見しないほうがいいわよ」
人差し指を立てて、曽我部さんが口を尖らせた。
ごめんなさい、と言いながら、やはり私は、あの、和気あいあいとお喋りをする女子高生の集団から目を離すことが出来なかった。
曽我部さんが、あからさまに苦笑して、私の額を指で弾いた。
「余所見って、言葉の意味、分かってるのかしら、あなたは」
すみません。私は、ただそう呟いた。
それから、道中、気を遣ってくれたのか、曽我部さんは急に饒舌になった。
真鍋さんは、メガネ似合うわね
ジーザスアンドメリーチェインで、一番好きな曲は何?
週末はどうやって過ごしてる?
曽我部さんはにこやかに笑っていたけれど、私には、それが尋問のように思われて、辟易する他なかった。
そういえば、無言の時間が苦にならない友人が、浴びせられる質問がむしろ心地良いとすら思える関係にある友人が、
私には居たはずなのだけれど、今の私には……
「じゃあ、ね。真鍋さん、また明日」
交差点に差し掛かったところで、曽我部さんが言った。
背を向けた私を呼び止めて、曽我部さんは言った。
「そうだ、携帯のアドレス、教えてもらってもいいかしら?」
「別に構いませんけど」
なんども言った台詞、けれど、このときは、曽我部さんは怒ったような、寂しそうな顔をせずに、
ふふっ、とただ息を漏らすように笑って、ありがと、と明るく言った。
不慣れな手つきで連絡先を交換しあうと、曽我部さんは、私とは反対方向の帰路についた。
街頭がぎらぎらと光って、曽我部さんの姿をはっきりと照らしていた。
私は、住宅街から漏れる光だけに暴かれた、輪郭線のはっきりしない体を揺らしながら、私の帰路に着いた。
たまらなく五月蝿い、耳をつんざくような悲鳴をあげる静寂が、私を包んだ。
きん、と鳴る耳の奥の、金属音のようなノイズが不快で、不安で、私はイヤフォンを取り出した。
すぐに、イヤフォンが吐き出したノイズに、金属音は飲み込まれた。
ざー、ざー……
かつかつ、かつかつ。
しばらく、シャープペンシルの無機質な音を聞いた後で、私が携帯電話に表示されている時刻を確認したのは、十一時半のことだった。
まだ今日が終わるまで、三十分ある。
けれど、とくに今日はなにも起こりそうにないから、私は携帯電話を机の上にほっぽり出して、床に着いた。
最終更新:2010年12月18日 04:07