「あなたは朝、何時に学校に行くのかしら?」
私をたたき起こしたのは、携帯電話の振動音。
画面には、短い文章が表示されていた。
差出人は、曽我部さん。
早朝の五時にメールを送ってこなくてもいいだろうに。
眠りを邪魔されたから、私は少し、意地悪をしてみた。
ほんの、少しだけ。
「六時にでも行きましょうかね」
ただの意地悪のはずだったのだけれど、生来の生真面目な私の性格は、その嘘を私に実行させた。
曽我部さんからすぐに、こんなメールが返ってきたものだから。
「わかった。じゃあ、待ってるから早く来て」
私は急いで登校の準備をし、こんな朝から忙しないわね、とぶつぶつ言う母親を後にして、家を出た。
とにかく走った。もしかして、本当に曽我部さんが既に学校にいたら、と思うと、
下らない冗談が、冗談ではすまなくなるような気がして、ただその不確かな予感と、
きっと曽我部さんはいる、という確信めいた予想に急かされて、走った。
だから、曲がり角で急に姿を表した女性、しかも、音楽を聞きながら鼻唄を歌っているような女性を避けることなど出来るはずもなかった。
一瞬、吐き気をもよおすほどのスピードで世界が回って、その後、腰に衝撃が走った。
私が呻き声を上げると同時に、相手も小さく声を上げた。
「うう……調子にのって朝早くから歩きまわるんじゃなかった、朝から碌でも無い一日になるだろうな」
その女性は私の方をじっと見て、はっきりとそう言った。
私はしばし、あっけに取られてしまった。
すると、その女性は慌てて言った。
「い、いや、別にあなたを批難しようと思ってこんなこと言ってるわけじゃないんですけど、あの、いや、ほんとに、
いろいろと悩んでいることとかありまして、それでですね、ほんとに」
あたふたと、はっきりしない、要領を得ない話し方で彼女は釈明した。
だから、私は安心した。
「私も怪我をしたわけではありませんから、お気遣いをしていただく必要はありません」
私がそう言うと、その女性は、そうですか、と小さく言った。
肩をすくめて、こちらこそ、と言わんばかりに頭を下げたが、そのくせ、私が立ち上がって走りだそうとすると、私の手を掴んだ。
「あ、あああ、あの、できればちょっとお話を聞かせて頂けませんか」
私は口を開いたけれど、その時、何故だか彼女はすごく一生懸命で、街頭の光を浴びた瞳は若干湿っていたから。
瞳の中の水分が、光を乱反射して、そこだけ、満たされた世界を造っていたから。
私は間抜けな声を出した。
「別に、構いませんけど」
そうですか、とその女性は言って、唐突に、勝手に自分のことを語り始めた。
彼女は少し背の高い、綺麗な黒髪の女性で、目は幾らかつり上がっていた。
未だ暗いままの空にぼんやりと浮かぶ月を眺めて、その女性は言った。
「えっと、あの、私、作詞してるんです……私、学校の軽音楽部所属なんですよ」
はあ
「それでですね、今度ライブがあるんですが、その時に演奏する曲は、去年作ったものばかりなんですね」
ほう
「それというのも、私の作詞が出来ていないのが原因でして……あ、作詞と作曲は分担してるんです」
へえ
「それで、この日も登らない早朝に、普段寝ている時間に、外を歩きまわってみれば、何か良い詩が思いつくかと思ったんですけど、ね」
ふうん。
曖昧な返事を繰り返しながら、私は、先ほど否定されたにも関わらず、なんとなく、彼女が私を非難しているような気がした。
けれど、彼女の瞳は、未だ月ばかり見つめていた。
「でも、ぶつかってしまったわけです、あなたに。
あ、非難するわけじゃありませんよ。ただ、あなたに、この早朝の街は、空は、どう映りましたか?
それを聞かせて欲しいんです」
一瞬逡巡して、私は搾り出すように答えた。
「大気は必要以上に澄んでいて、鼻を刺して、肺を引き裂いてしまいそうです。
空は星に満ちていて、それなのに、光は弱くて、その詐欺まがいの美しさに、憤怒すら感じます。
そんな中で、月だけが、ただぼんやりと光る月だけが――」
女性は、私を見つめて、笑った。
面白い詩が、書けそうな気がします、と言った。
そして、一枚の紙切れを私の手に押し付けた。
それは、山中さんからもらったライブチケットと同じものだった。
女性は、耳をそぎ落としそうなほどに空気を揺らす、澄んだ声で言った。
「私たちのバンドが出るんです。地元の小さなイベントですけど……できれば観に来てください」
そして、長い髪を揺らして私から遠ざかっていく途中、一度だけこちらを振り返って、大きな声で言った。
「ところで、もしかして、あなた、和さん?」
私が頷くと、彼女は笑った。
「はは、やっぱりな。そうだと思ったよ」
彼女は、街頭の光のなかで、笑った。
髪の毛が一本一本見えるほど、眩しい光のなかで、ほかの全てを影にしてしまうほど、明るく笑った。
「六時に来るっていったのに……」
学校についたのは六時半ほどで、校門の傍に立っていた曽我部さんは、私の顔を見るなり、頬を膨らませた。
そばには、腕を組んだ山中先生がいた。
「はあ、なんか、すみません」
曽我部さんは、一瞬顔をしかめた。
「あなたねえ……いえ、まあ別にいいわ。とりあえず、ちょっとついてきて」
そう言って、曽我部さんは、まだ暗い朝の街を、てくてくと歩いて行った。
街頭がぎらぎらと私たちを照らした。
ぶちまけた汚物のような灯りと、互いに互いを打ち負かすことしか考えていないような騒音が、私を飲み込むようだった。
「曽我部さん、ここって、なんだか嫌な街ですよね」
ふうん、とだけ、曽我部さんは言った。
曽我部さんが目指していたのは、商店街の外れにある、小さなスタジオだった。
入口の前には、山中さんと、寝ぼけ眼をこする女性がいた。
その女性は、大きく欠伸をして言った。
「勘弁してよね、こんな朝っぱらから営業させてさあ」
その女性は短い髪を揺らして、もう一度欠伸をした。
山中さんは、手を合わせて言った。
「本当にごめんね、ちょっとしたいことがあってね」
「なにを?」
一瞬黙って、山中さんは苦笑した。
「フィードバックノイズをね、ちょっと……」
女性は目をこすりながら、ため息を付いた。
「勘弁してよね、ほんとにもう……」
「またギターでアンプをぶっ叩いたりはしないでよね、したら私があんたを叩くから」
私たちをスタジオに案内した後、山中さんに指を突きつけて、その女性は出て行った。
曽我部さんがくすくすと笑いながら言った。
「いつもそんなことをしているんですか?」
「一度だけよ、一度だけ」
がちゃがちゃとコードやらよく分からない機械をギターに繋ぎながら、山中さんは言った。
スタジオの中には、ドラムやらキーボードやら、馬鹿でかいアンプやら、
あまりお目にかかれないような物ばかりが並んでいた。
「うん、これでよし。」
そうして、山中さんはギターを鳴らしながら、歌い始めた。
「...ice melts too fast, so notihing stays forever nothing's gonna last...」
しばらく綺羅びやかなギターの音色が続いて、一転、凄まじい轟音が私たちを包んだ。
けれどそのノイズは、示し合わせたように、山中さんの歌声だけを、埋め尽くされそうな波の中から浮き上がらせていた。
ざーざー……
「あーい、じゃあ今日はこれで終わり。お前ら、真っ直ぐ帰宅するように」
気だるげな声の担任の話を聞いている間も、ノイズはずっと耳の中で暴れまわっていた。
クラスの子が、とん、と私の肩を叩いた。
「真鍋さん、今日は掃除休みだよ。多分、話聞いてなかったでしょう?」
連絡用のホワイトボードに目を遣ると、掃除当番を示す、紙製のルーレットは、私の仕事が無いことを告げていた。
「そうなんだ、じゃあ、私……」
帰るね、と言いかけて、やめた。
周りを見渡すと、掃除をしているのはこの娘だけで、他の掃除当番の人は、恐らく部活にでも行ってしまったのだろう。
私も帰宅部の活動に勤しもうと思ったけれど、なにを血迷ったのか、こんなことを言った。
「手伝うわ」
自分でも、そんなことを言うなんて驚くくらいなのだから、目の前の、ショートカットの女の子は尚更のことらしかった。
目を真ん丸に見開いて、くすりと笑った。
「ありがとう、でもいいよ、こっちが気を遣っちゃうからね」
そうなんだ、と私が拍子抜けして帰ろうとすると、その女の子は、くぐもった笑い声を立てながら言った。
「でも、真鍋さんがそんなこと言うなんてね」
おかしかったかしら、と私が尋ねた私に、女の子は、優しく笑った。
「おかしいよ。でも、いいと思うよ、そういうの」
相変わらずにこにこと笑いながら、ホワイトボードのほうに向かっていく女の子に背を向けて、私は教室を出た。
なんだか恥ずかしい思いをしてしまった。
がたん、ごとんと、電車が揺れる音。
停車するときには、ぎいい、と金属が悲鳴をあげる。
この単調な音は好きなのだが、なんとなく眠気を誘われてしまう……
「あの、もう終点ですよ」
気づくと、電車はもう桜が丘についていた。
ふわふわと柔らかそうな、金色の髪をした女の子が、同じく柔らかい視線で、私を覗き込んでいた。
「ああ……どうもすみません」
「いえいえ」
目をこすって立ち上がり、電車を降りると、向かい側の乗り場で、大きな音を立てながら、電車が走っていった。
後ろで、あっ、という声が聞こえた。
「もしかして、今の電車に乗る予定でした?」
金髪の女の子は、少し照れた様子で答えた。
「乗る予定でした……」
「うわあ、私、友達に安いお菓子を奢ってもらうのが夢だったの」
安いって言った。きのこの山、結構高いのに。
それに、友達じゃない。
「あら、友達よ。友達の友達は、友達。数学的帰納法によると、世界の人はみんな友達よ」
休憩室で、売店で買ってきたスナック菓子を頬張りながら、金髪の女の子は言った。
この娘は数学的帰納法の意味を分かっているのだろうか。
「あなたの着ている制服は、S高校の制服よね、勉強得意なのねえ」
そう言う女の子の着ている制服は、多分、私の高校の近くでは見たことがないから、この辺りの高校のものだろう。
どうも、と私は答えた。
「ふふ、毎日電車に乗っていて、どう、どんなことを思う?」
随分と妙な質問をするものだ、と思った。
「どんなこと……そういえば、たまに、桜が丘のことを"はふがはほかん"て発音する車掌さんがいるわ」
「それだけ?」
「それだけ、かな」
「繰り返される車輪の音は、変化のない毎日は、辛くはない? 私は発狂しそうになるのだけれど」
がたんごとん、がたん、ごとん。
そんなに、辛くはない、というより、むしろ好きだ。
「そう、変わってるのね」
そう言って、その女の子は黙り込んだ。
私は何かを言おうと思った。
そのとき、きいい、と高い音がして、電車が止まった。
私の言葉は、その協調性のない雑音に飲み込まれてしまった。
「ばいばい、和ちゃん」
教えてもいない私の名前を声にして、明るく手を振る彼女の姿だけが、私の目に残った。
最近は妙なことばかり起きる。
私の名前は、いつからそんなに有名になったのだろうか。
イヤフォンから出るノイズが私の鼓膜を、脳髄を揺らす。
いつから、私はこんなに……
「あっ、和ちゃんだあ」
間抜けな声が私を呼んだ。
大きなギターを背負った幼馴染が、ぶんぶんと手を振っていた。
その傍には、小柄な女の子が二人と、長身の女の子が一人立っていた。
「あら、唯」
それだけ言って、私は黙った。特に話すことがない。
気まずい沈黙が流れるかと思ったけれど、唯はすさまじい勢いで話し始めた。
「あのね、この娘が新入部員のあずにゃん」
どうもです、と言って、そばにいる、小柄なツインテールの女の子が頭を下げた。
「こっちは、部長のりっちゃん」
カチューシャをつけた小柄な女の子が、うす、と言った。
「で、こっちは澪ちゃんだよ」
「今朝ぶり、だな」
そう言って、澪さんはくつくつと笑った。
その笑い方で、彼女が、今朝ぶつかった女性だと分かった。
同時に、さっきの金髪の女の子が着ていた制服は、この娘たちが着ているものと同じだということにも。
「澪ちゃん今朝会ったんだ、どんな感じだったのかな?」
「ああ、唯の話しているのとは少し違っていたかな」
唯は私のことを友達に話すらしい。
でも、実際の私とは、少し違うらしい。
それは、なんて、虚しいことだろうか。
唯からのメールが来ないのと同様に、それは、とても虚しいこと。
「じゃあね、ばいばい」
唯はそう言って、友人たちに手を振った。
どうやらここから先は、帰る方向が違うらしい。
二人きりになると、唯は、学校のこと、部活のこと、友人のことを話し始めた。
私は、ただ、気のない返事を繰り返す他なかった。
「でね、今度ライブやるから、出来れば……」
唯は、私が、私の知らない人の話を聴くのを、楽しんでいると思っているのだろうか。
だとしたら、それは、なんて身勝手なことだろう。
「……和ちゃん、聞いてる?」
「あ……ごめん、ちょっとぼうっとしていたわ」
むう、と唯は頬を膨らませた。
眉を下げて笑いながら、呟いた。
「酷いんだ、和ちゃん。変わっちゃったね」
今度は、私が苦笑する番だった。
「そりゃそうよ、変わってないのは、あなたぐらいなものよ」
「そういうこと言うなんて、前の和ちゃんだったらありえないことだったんだけどね」
「なにが、言いたいの?」
唯は、私には去年から何一つ変わらないと思われる、子どもっぽい仕草で、もういいもん、と言って、
足を絡ませそうな危うい足取りで走っていった。
「なんだってのよ……」
なんとなく、独りでそう呟いて、私はイヤフォンをつけた。
『ice melts too fast so nothing stays forever......』
ノイズにまみれて、気だるそうな声が私の耳を満たした。
ノイズにまみれて、そのまま、私は金曜日を迎えた。
ざーざー、と、すべてを締めだす、数字によって保存された音にうもれて、金曜日の放課後を迎えた。
「……べ……ん……」
ざー、ざー……
「真鍋さんったら!」
ショートカットの女の子が、思い切り私の肩を叩いた。
私の口から、妙な声が出た。
「あ……ごめんね、そんなに強く叩いたつもりはないんだけど」
「……ええ、別に構わないわ」
「ふうん、なんだか暗いね」
「そう、かしら?」
ショートカットの女の子は、そうだよ、と言いながら、連絡用のホワイトボードに向かっていった。
ペンのキャップをとって、キュッキュッと、なにやら楽しそうに描いている。
「……ホワイトボードの落書き、あなたが描いてたの?」
彼女がせっせと描いているのは、無表情の、擬人化された犬だった。
こちらを振り返って、女の子は笑った。
「うん。何に見えるかな?」
「そいつは蛇じゃなかったの?」
「犬だよ。こいつは、どんなことを考えてると思う?」
少し考えて、私は言った。
「寂しがってる、かな」
女の子は、目を細めた。
「そっか……」
それきり、何も言わなかった。
ただ、教室から出るときに、一言だけ、言った。
「人間が見てる物って、なんでも鏡だと思うよ……」
……
「ん……別に構わないけれどねえ」
電話越しに、曽我部さんが楽しそうに言った。
何だか気恥ずかしくなって、私は早々と話を切り上げた。
「とにかく、今日、あの居酒屋に来てください。できれば、山中さんにも来ていただければ」
「はいはい……ねえ、なんだか嬉しいわね?」
電話を切る直前に、くすくす笑う曽我部さんの声が聞こえた。
私は、騒がしい街を歩いた。
何度もイヤフォンに手が伸びそうになったけれど、何とかそれを制して、
真っ赤な夕日に照らされながら、街を歩いた。
最終更新:2010年12月18日 04:08