梓「お願いしますよ……」
最近、澪の元気がない。
話しかけても反応が遅いし、常々なにか考え込んでいる。
特に軽音部が揃っているときにはそれがはっきり現れた。
ティータイムの時だけならいいけれど、
練習の間にも澪はボーッとしてミスを連発している。
それでも、私は澪から話してくれるまで待とうと思っていた。
軽音部の終わった後、梓に呼び出されてそんな風に言われるまでは。
梓「澪先輩、明らかに何か……調子が悪いみたいですし」
律「……」
どう答えるべきか悩む。
梓「……もう、最後の学園祭なんですよ。今のままじゃ、後悔が残ると思うんです」
澪は、たいていのことは私に話してくれる。
友達とした少し面白い話や、夜に読んだ小説のラストが納得いかないだのと言う小さなことから、
身体や声や性格に、ファンクラブのこと、進学といった重たいことまで。
わりと遠慮なく、澪は私に相談してくれた。
その澪がずっと黙っているのは、まだ私に話せる整理がついてないからだと思う。
だから今までみたいに、澪が自分から相談してくれるまで待つつもりだったんだ。
律「最後の学園祭ねぇ」
梓「……」
梓は無言で頷いた。
自覚したくないことだけれど、梓はそれに触れることも覚悟した上で私に言っている。
澪の抱えている悩みを解決してやってほしいと。
このままでは、私たちの最後の学園祭は失敗してしまうから。
律「……確かに、ここのところ澪はミスが目立つよな」
梓「ちがいます、そんなことじゃありません」
鋭い声で、梓は私のへっぴり腰な言葉をぴしゃりと打った。
梓「演奏がうまくいかなかったり、歌が出てこないだけなら……本番はちゃんと成功しますよ」
梓「でも、澪先輩は普段さえもあの調子じゃないですか」
律「……あー、あのな、あんまりそう言うなよ」
梓の肩をぽんぽん叩いてなだめる。
これ以上責められると、私は澪を問い質さなければいけなくなる。
律「澪なら大丈夫だって。それこそ、本番はきっちり決めてくれるよ」
私は長椅子に置いていたカバンをとり、「帰ろう」と言おうとした。
梓「それは律先輩がついてたからです!」
けれど、梓がいきなり大きな声を出したせいで、その声は封じ込められてしまった。
もしかしたら、声の大きさのせいだけではなかったのかもしれない。
梓「学園祭のときだって、小学校の作文発表のときだってそうじゃないですか」
梓「律先輩がいるから、澪先輩はしっかりできるんです」
律「やめろよ、むず痒いな……」
私はふだんのスタイルから外れて、カバンを持った左手をだらりとぶら下げた。
律「……わかったわかった、私も正直、目に余るものがあったんだ」
律「注意するなり、澪に何かあるならそれを解決するなりなんなりしておいたほうが良さそうだ」
梓「……すいません、押しつけてしまって」
律「いいよ、分かってる。私がやるのが一番いいし……私は、部長だからな」
顔を上げて、私は梓に笑いかけてみた。
こんなやる気のない作り笑顔で梓を安心させられたかは分からなかったけれど、
ひとまず梓は思い詰めた表情を解いてくれた。
梓「ありがとうございます。律先輩」
私もそれを見て、多少気のゆるい笑顔になれたと思う。
こんどこそ、カバンをいつものように背負った。
律「そんじゃ、帰るか」
律「……って」
違った。つい忘れるところだった。
梓「律先輩……唯先輩たちがいつものアイス屋で待ってるって言ってたじゃないですか」
律「わかってるっての! ちょっと忘れてただけ!」
梓「ほんとですかぁ?」
見下すような視線がさしてくる。
梓の前では隙を見せてはいけないと思うのだけれど、ほんの一瞬でも気を抜けばすぐこれだ。
とはいえ、相変わらずのかわいくないかわいい後輩に戻っている梓に、私は肩の荷がおりるような気分だった。
律「梓ぁ、お前だってあるだろ? ちょいとド忘れするくらいさ」
梓「えへへっ、律先輩ほど多くはありませんけどね」
律「おい。……まぁ確かに、忘れ物が多いのは認めるけどな」
ギターを背負った梓を連れて、準備室のドアを開ける。
この踊り場にも、いよいよ肌寒さが巣食うようになってきたらしい。
律「つぅ……この寒い中、アイス屋のことを覚えてろなんてのもなかなか無茶だろ」
唯なんかは寒がりを自称しているけど、
この季節の変わり目にさえペロリとアイスを食べてしまえる。
対する私は、もうこれだけ寒くなると、アイスなんて一口食べただけで腹を壊してしまうのだ。
梓「まあ、確かにそろそろアイスよりおでんや肉まんですよね」
律「だよなあ。なんつーかよ、唯と私ってやっぱ根本的に違うような気するんだよな」
律「澪なんかは、私と唯はそりが合うっていうけど……」
寒さひとつとってもそうだ。
唯は寒いところにいたって、手や足は冷たくなるかもしれないけれど、体の芯はいつだって温かい。
だけど私は、アイスで芯まで冷やされる。
律「なんっか違うって思うよなぁ」
梓「唯先輩とは合わないんですか?」
律「いやいや、そうじゃなくて。唯にはかなわないなあってさ」
階段を並んで下りつつ、私は弱音を吐く。
いつ梓に笑われるやら気が気ではないのに、暗い言葉が口元でとどまることはなかった。
梓「一緒だと思いますよ。唯先輩も律先輩も」
律「そりゃフザけるって意味でか?」
梓「……そんな感じです。少なくとも唯先輩は、律先輩みたいに色々考えてませんけど」
ほら言われた。
律「……ははっ」
軽い笑いは私の顔まで空へ向かせて、うっすらとほの白い息をあげさせた。
もうそんなに冷えるらしい。また、いやな季節が来たと思った。
梓「足元みないと落ちますよ?」
律「そこまで間抜けじゃないぞ」
仮に階段を踏み外したとしても、カメのいる手すりに手を置いているし、平気だろう。
律「そういう心配は唯にでもしてやれな」
梓「まったくそうですね」
梓は少し笑ったようだったけれど、言葉にトゲがまじっているような気もした。
律「おまえな……」
ふと、手すりがあたたかみを帯びる。
通りがかりで触れただけでなく、しばし手を置いていたような感じだ。
梓「どうかしました?」
律「ん、いや何でも。早く行ってやろう」
無意識に足を止め、わずかに暖かい木を撫でさすっていた。
明日も寒いようなら、手袋をはめてこようと決める。
階段をおりきって、下駄箱で一旦梓と別れる。
ローファーに履き替えて、昇降口ですぐ合流した。
三々五々帰っている他の生徒に紛れて、校門で待ち合わせをしている者も多くある。
律「……」
澪「おい」
その中に見覚えのある澪がいた気がしたが、気にせず校外へと出ていく。
澪「待ちなさい」
捕まった。
律「ハイ? なんでしょうか」
澪「気付いてたよな。どうして無視した?」
大した理由なんてない。
律「ふいにそうしたくなって」
梓「意地悪ですね」
そうだ。ただのちょっとした意地悪にすぎない。
律「でも、なんでここにいるんだ? 唯にムギは?」
澪「それは、その……」
私が尋ねると、澪は閉口した。
また例の、私にも話せないことのようだ。
梓「律先輩」
梓が小声で言う。わかってますとも。
律「ははーん、なるほど。私の顔が見たくなっちゃったのね?」
澪「ばか、そんなんじゃ……」
私は澪に見えない位置で、梓の背中を押しのけた。
律「しょうがないな梓、澪は私と二人きりがいいみたいだから」
澪「ちっ、違うぞ! ただ……ほら」
梓「あぁ、澪先輩って律先輩が大好きですもんねー」
澪「だからぁ!」
澪は顔を真っ赤にして怒鳴る。
だけど梓も、この1年と半年で澪が私以外に手を上げないことぐらいわかっている。
きゃーきゃー笑いつつくるくる回り、
お断りしまーすと言いながら奇妙な走法で去っていく。
どうやって動いてるんだ、あれ。
澪「見てろよ梓ぁ……」
いや、今はそんなことよりも。
律「まあいいじゃん。それより早く行こうぜ、澪」
澪「……うん、そうだな」
澪は浮かない顔で、ゆっくり歩き出す。
こうして見ていると、澪の悩みにもすこし見当がついてくる。
律「どうした? それとも私と二人きりでランデブーしたい?」
澪「……」
律「澪?」
澪「あぁ、ごめん……なに?」
律「アイス屋。行きたくないのか?」
澪「そういうわけじゃないんだけど……」
ばつ悪そうに口ごもる。
どうやら、そういうわけのようだ。
律「……澪」
私はなんでもない道端で、足を止めた。
律「はっきり答えてくれ。……澪、軽音部が嫌なのか?」
澪は驚いた眼をして、うつむいていた顔を上げた。
澪「そんな訳ないだろ! そりゃあ確かに、最初は文芸部が名残惜しかったけど……」
澪「今は軽音部がすごく大事なんだ。……ほんとうに、すごく」
噛みしめるように澪は言う。
でも、私にはその言葉をそっくり信用することはできなかった。
律「……じゃあ澪、訊き方を変える」
間違いなく、澪の気持ちを軽音部から遠ざけているなにかがある。
私が最近の澪を見ている限りでは、その何かとは。
律「澪。どうして唯を避けるんだ?」
澪「……」
澪は答えない。
しかしその表情には、明らかな不安が浮き彫りになっていた。
やっぱり、唯となにかあったに違いない。
私は澪の肩を掴んで、正面から両目と見つめ合う。
律「……」
澪「……」
ちょっと照れた。
律「なあ、唯になんか嫌なことされたんだったら、私から唯に言ってやるからさ」
澪「ちっ、違う! そうじゃなくて……」
律「じゃあムギか?」
澪「ちがっ……落ち着けって!」
肩を押し返されてしまう。
私だって、唯やムギがトラブルを起こしたまま放置するなんて思えないけれど、
澪はこうして現実に、問題の渦中にいる。
澪「別に誰のことも避けちゃいないし、なにも嫌なことなんてされてない」
澪「ただ……唯の目が見れないんだ」
金網を掴んですがりつくようにしながら、澪は苦々しげに言った。
律「目が見れない……?」
澪「……」
振り返った澪は、たぶん笑っていた。
澪「おかしいだろ。唯を見てると、胸が高鳴るんだ」
澪「目が合うときゅんとなって、一瞬だって合わせてられない」
律「……」
私はしばらく絶句した。
それじゃあ澪は、まさか。
澪「悪いな、心配かけて。ただそれだけのことなんだ……」
それだけのこと、なんて軽く言えるような問題じゃない。
澪は分かっているんだろうか。
律「……心配かけてる自覚はあるんだな」
澪「ごめん。だけど、どうすることもできないし……」
澪「もう忘れて。これからちゃんとするからさ」
私は大きく溜め息を吐く。
ぜんぜん変わらないな、澪は。
律「そうもいかないんだなー。怖い後輩からお前を更生するよう仰せつかってるんだ」
澪「更生って……」
律「梓にも心配かけて、これからちゃんとするってわけにもいかないだろ」
律「学祭ライブも近付いてる。言いたくないけど、これが学校でやれる最後のライブなんだぞ」
本当なら、繊細になってる澪にこんなことを言ってはいけないんだと思う。
澪のそばにいてやって、澪が自分の気持ちに分別をつけられるまでじっくり待つべきだ。
だけど私たちには、そこまで付き合ってやれる時間はない。
澪「分かってる、だから、頑張るよ……」
律「頑張るって、何をがんばるんだよ。澪の気持ちを諦めることか?」
唇をひきしめて、澪は頷く。
律「……馬鹿いってんじゃねーよ」
襟首を掴み、澪の目をじっと睨んだ。
律「いいか、学祭まであと2週間ないんだ。それまでに気持ちの整理つけられんのかよ」
澪「でも、じゃあどうしたら」
律「誰かに恋をした時、やるべきことは一つだろう」
澪「……告白?」
私は澪の顔をまねして頷く。
澪「……」
澪は何か言いたそうに口をもごもごさせ、結局黙っていた。
律「澪がそんなじゃ、ライブがうまくいかないからな」
律「今週中にもなんとかしよう。私も協力するし」
澪「り、律……ありがたいけどさ」
律「けどじゃない」
私だって、澪にこんなことは言いたくない。
でも軽音部は、私が高校でやりたかったことの、三年間の集大成なんだ。
律「自分のせいでライブが台無しになったら嫌だろ? ……唯だって失望するぞ」
澪「唯が……」
律「わかるだろ、澪。うじうじ悩んでる時間はもうない」
律「軽音部のために……澪自身のためにも。その気持ち、きちんと伝えような」
澪「……」
澪はゆらゆら首を振った。
澪「無理だよ……律だって同性から告白されたら気持ち悪いって思うだろ?」
律「思わないな。特別好きでもないならお断りするけどよ」
そう言った途端、胸の奥にじわりと熱いものが広がった。
まだ覚えてる。いや、忘れようもないか。
律「……私もさ、あるんだよ。女の子から告白されたこと」
澪「えっ、律が?」
口元を押さえ、澪は小さく驚いた。
澪「だ、誰に?」
律「……」
律「だから澪は怯えることなんかないんだって。案外よくあるんだよ、そういうの」
律「私も嫌だなんて思わないしさ。唯だって分かってくれる!」
澪「……分かってくれたってどうにもならないだろっ! 私は付き合いたいんだ!」
髪を乱して澪は叫んだ。
ここ、学校のすぐ外なんだけど。
律「おおー、その意気だぞ澪!」
澪「軽く言うな! どれだけ難しいことか……」
澪「……」
ビデオを停止したみたいに、ぴたりと澪が止まった。
律「明日は人が降るな」
最終更新:2010年12月18日 16:17