その肩にぽんと手をのせ、小刻みに震える背中に声をかけてやる。
澪「はは……は」
大げさに咳払いをして、澪が立ち上がる。
澪「律」
くるりと振り返って、私を見据えるかすかに蒼い双眸。
ああ。彼女は今、空を翔けているよ。
澪「手を貸してくれるんだよな」
律「……もちろん」
これで失敗したら、澪を復帰させるのは時間がかかりそうだ。
それこそ学祭は悲惨なものになろう。
とばっちりを受けるのは私だ。また梓に呼び出されるだろう。
だがもはや引き下がれない。引き下がっても得はない。
いや、そもそも最初からこうする以外の道はなかったか。
澪「私やるよ。告白する」
澪の目は、私の大好きな真剣な光を宿している。
めったに見れないその顔なのに、私はまっすぐ見ていられなかった。
律「あ、あぁ」
私は曖昧に頷く。
澪と目を合わせられない。
まるで恋をしているような気分で、とてつもなく居心地が悪かった。
律「……」
胸がしめつけられる。
喉の奥に粘りが溜まって、息苦しさに似た感覚をおぼえた。
おかしいな。私はノーマルのはずなんだけど。
律「それじゃあ……まぁとにかく、唯のとこ行こうぜ。話はアイス屋に行った帰りにしよう」
澪「そうだな。唯を待たすといけないもんな」
律「……照れ臭いからって唯から逃げてきた奴の台詞とは思えん」
澪「あぁ、まずはそのことから謝らないとな」
律「お詫びのデートとかどうだ?」
ふつうの顔をしているのが辛いほど、心がきりきり痛んだ。
澪「ナイスアイデアだ。……一日休みをもらっちゃうけど」
私は何でもない顔をしながら、よたよたと歩き始めた。
澪も隣についてくる。
律「大事なのは練習だけじゃないってことだ。気にせず行ってこい」
澪「そうかもな。あとは唯の都合だけなんだけど……」
律「……こういうのは早いうちに予定を入れてやらないといけないぞ」
澪がごくりと唾を飲んだ。
澪「つまり、今日にでも誘ってやらないといけないのか」
律「だな。これからだし、ちょうどいいだろ」
澪「よ、よし……じゃあ今週の土曜でも」
律「いいんじゃないか?」
唯は日曜だけは外に出たがらない。
昼寝をして休むのを信条にしていると憂ちゃんは語っていたが、真偽のほどは分からない。
澪「……っと、唯、今週の土曜あいてるか? よかったら私とデートなんて」
律「いきなりデートっていうのも澪らしくないな。遊びにいくぐらいの感じのほうがよくないか?」
澪「えっとじゃあ、つ、つ付き合って遊びに行かないかっ」
律「なんていうか、お盛んだな」
唯たちが待つアイス屋に着くまで、私にアドバイスできることは全てした。
私だってそういうことに詳しいわけではないけれど、
澪よりは経験があると自負している。
たぶん、私の言ったことは間違っていない。
律「……」
唯がアイス屋の中から手を振っていた。
行かないと。
律「覚悟はいいか、澪」
澪「とっくに。まあ見ていてくれ」
からんからん、と乾いたベルの音。入り口のドアが開かれたようだった。
私は唯、ムギ、梓が囲んでいるテーブルまでやってきて、平静を装った顔で後ろ頭に手を当てる。
律「いやー、遅れて悪いねー」
唯「いいよ、あずにゃんから聞いてたし」
唯はにこりと笑って、私の腕に抱き着いて引っ張ってくる。
座席に腰から落ちていきながら、私はほんの少しどきりとした。
この甘え上手め。
それとも、私が余計な意識をしてしまっているだけだろうか。
唯「それよりも、澪ちゃんだよー!」
澪「うっ……ご、ごめん」
私は苦い顔をして立っている澪を見上げ、すっと席を立ち、向かいに座りなおした。
隣にムギ、向かいに梓と唯。
唯「はいここ、お座り!」
唯は私にしたのと同じように澪に抱き着き、強引に座らせた。
……澪、顔真っ赤じゃないか。どうして今まで気付かなかったんだろう。
澪の覚悟によって、いままで嫌悪にも見紛えた表情が、純粋な照れに変わったのか。
唯「澪ちゃん、私たちを置いていきなり学校に引き返してどうしたの?」
澪「えっと、いや、それは……」
違うよな。
澪の気持ちを知ったから、もう「嫌がっている」なんて風には見ることが出来ないんだ。
ずっとそうやって誤魔化してきたのに、あれだけはっきり言われたら認めざるを得ない。
唯「私さぁ、悲しかったんだよ。澪ちゃんが理由も言わずに行っちゃって」
唯「そっちのけにされたみたいで、寂しかった」
澪「……ごめん、そんなつもりじゃなかった」
澪は唯が好きで、でもそれを認めたくない気持ちが私の中にある。
私はむずむずする。膝に置いた指先が小刻みなタップダンスを踊る。
澪「……その。そういうことで、唯が寂しかったっていうなら」
途中まで言って、澪はぎゅっと目をつぶり、首を振った。
がんばれ、澪。
澪「ごめん、違うな……それは関係ないんだ」
唯「……澪ちゃん?」
澪「唯、あのさ。今週の土曜ってあいてる?」
唯「土曜? うん、ヒマだよ。えっと、」
唯がひるんだように見える。
私はこぶしを固めて、せわしない指先を押し込めた。
澪「な、なら、デートしないか? 唯がよければだけど」
梓から視線が送られているのを感じる。
私はそれをまるきり無視して、気分のいい時の顔で唯と澪を見つめている。
唯「でっ、でーと!?」
こくりと頷く澪。唯の左耳が、弱い暖房のかかった店内でほんのり赤くなった。
唯「……わかった、さっきのことの埋めあわせだねっ。いいよ、行こう!」
澪「ほんとうに!?」
澪はきらきらした目をして、ちらりと私を見た。
澪「……り、律! やったぞ!」
私に振るなよ。
律「あーうん、よかったな」
気のない答え。だけど、別におかしくはないはずだ。
律「……さてと。お前らもうアイスは食べたの?」
唯「あ、うん」
紬「ごめんなさい。先に食べちゃったわ」
唯とムギが、ちょっと肩をすくめて頷く。
何も頼まずに居座るわけにもいかないだろうし、そりゃ仕方ないか。
律「そっか。じゃ澪、一杯やろーぜ」
澪「いいけど、みんなを待たせちゃうだろ。持ち帰りにしよう」
律「バッカ! よせよ、外でアイス食べるなんて考えただけで凍る!」
私は強引に澪をカウンターへ連れて行こうとする。
澪「……そうか、律は寒がりだもんな」
くすりと笑って、澪は席を立った。
唯「私たちは待ってるね」
律「おう。……」
唯の後ろに梓がいる。
一瞬だけ目が合った気がしたけど、すぐにムギの方に視線をそらしてくれた。
到着時間からして、梓はたぶんまだアイスを食べていないはずだった。
問い質したってきっと寒さのせいにするんだろうけど、梓が何を思っているかは分かった。
澪「律、いくぞ」
律「あぁ、うん」
澪と二人でアイス屋のカウンターに並べるのはこれで最後だろう。
だからといって、どうというわけでもないけれど。
なんとなく二人でいたくて、頭の中にそれ以外のことを入れたくなくて、
梓はきっとアイスなんていらないよな、なんて勝手に推測しながら私はテーブルを離れていった。
律「みお、何がいい?」
澪「んーと……やっぱり、ぶどうかな」
律「またかー? いっつもそれじゃんか」
澪「いいだろ、別に。律は?」
律「そりゃあもちろんオレンジだな」
澪「律だって毎度それじゃないか」
律「いーじゃんか、別に」
私たちは笑い合って、それぞれのアイスを注文する。
席に戻るとテーブルをはさんで向かい合い、みんなで話をしながらアイスを齧った。
澪は唯の隣で、幸せそうに笑っていた。
――――
その帰り道で、私は案の定お腹を壊すことになった。
お腹をさすりつつ、それでも制服の前は留めない。
似合わないし、澪に心配させてしまうから。
律「うぅー……さーむいなぁ」
澪「あぁ、アイスなんて食べることなかったよな」
律「……お前、ほとんど唯に食われてたけどな」
澪「……」
澪の足元がふらついた。
律「唯は気付いてなかった……や、気にしてなかったけど」
律「口をつけたとこをあんなベロベロするのはさぁ……なんか卑屈っていうか」
まだ付き合ってもいないんだから、そういうのは自重しなさい。
といっても、そうやってガス抜きしなきゃ、こらえきれなくなってしまうんだろうけれど。
爆発するまで我慢して、とんでもない事態になるよりはよほど良い。
澪「ひ、ひひっ」
律「うわ、きもちわりい」
でも、あんまり澪にそういう卑しいことはして欲しくないから、
私は汚いものを見る目で澪を睨んでおいた。
律「まあ、あれだ。そんな変態行為は慎んでおいたほうがいいぞ」
澪「う……だよな。律だったからいいけど、唯にバレてたら……」
いや、澪がよくても私はよくないんだけど。
澪「付き合えるまで我慢しなきゃな」
律「……そういうこったな」
なにか間違っている気もするが、どうせ私に止められるものでもない気がした。
二人が付き合ったとしたら、いずれそういうこともするようになる。
そしたらもう、唯と澪の関係に私は口出しできなくなるんだ。
だったら今のうちに?
……違うな。
律「さみぃさみぃ……」
澪「……」
私はポケットに手を突っ込んで肩を縮めた。
夕陽もとっくに落ちて暗くなっている。やけに寒さが身にしみた。
律「よし、それじゃ」
澪の家の前で、私は手を振った。
澪「あぁ。また明日な」
律「ちゃんと唯にメールしろよな」
澪「わかってる。土曜日の予定を決めないとな」
律「それ以外のことも話すんだぞ」
澪「……うん。頑張るよ」
律「がんばれ、な」
門の前から離れられない。
澪との会話が途切れてしまうのが怖い。
それなのに、なにも言葉が出てこなかった。
律「じゃあ……さよなら」
澪「ああ。またな」
澪が小さく笑顔を浮かべて、玄関を開けて家に入ってしまう。
ただいま、と言う声はやけに明るかった。
私はしばらくそこに棒立ちになって、澪の部屋の窓を見上げていた。
律「……」
また、なんてない。
もう私たちに、今までのような一日は訪れないよ。
私は心の中で呟いて、静かに足を我が家へ向けた。
――――
翌日からの澪は、昨日までが嘘のように調子を取り戻していた。
会話の受け答えなんかはもちろんで、演奏もしっかり合っているしミスもない。
むしろ以前の澪より、よっぽど好調だった。
帰り道で、ご満悦の梓に礼を言われる。
どうやら、もう全部が済んだと思っているらしい。
私は笑っておいた。
律「まあな、私にかかればこんなもんよ」
梓「1日で解決されるなんてびっくりしました」
律「これでも小学校のころは解決りっちゃんと呼ばれたほどだからな」
実際のところ何も解決してはいないのだけど、この不安を梓に伝播させても仕方ない。
梓「……字が違いますよね、それ」
律「小学生なんだからそこはしょーがないって」
梓「ですね。……ふふ」
どうにか笑い話で終わったようだ。
私は、唯とムギに挟まれて談笑している澪の背中を見ながら、少し笑った。
唯「澪ちゃん、明日の遊園地楽しみだね!」
澪「そうだな。天気もいいみたいだし、思いきり遊ぼう」
律「……」
土曜日は学祭に向けて練習に打ちこむことにした。
正確なリズムを刻むことを意識すると、余計な思いは頭から消し飛んでいく。
いい調子だ。
でも少し音が負けてしまいそうだ。
もっと強く、と思うとリズムが走る。
律「……っふー」
なんだか叩き方から間違っているような気がする。
とん、とんとゆっくり雑誌の塔を打つ。
なにかおかしい。ここに来てスランプだろうか。
あと1週間なのに、まずいな。
律「ああーくそっ!」
腹立たしくなって、スティックを投げる。
乾いた木がカンカン打ち鳴らされて、ベッドに落ちた。
ごまかすのはやめよう。
気になるのは当たり前じゃないか。
人生の半分以上をつき合ってきた幼馴染が、私とそいつ共通の友達、
しかも同性と下心満載のデートをしているんだから。
時計は2時過ぎを示している。
10時ぐらいに出発する予定だと言っていたから、今ごろアトラクション3つ目くらいか。
澪のことだから、唯に振り回されているんだろうな。
絶叫マシンに乗せられたり、お化け屋敷に引っぱりこまれたり。
でも、それがきっと澪にも楽しいんだろうな。
律「……」
無性に悲しくなった。
そういう時は大抵、楽しんでいるのは私だけだったから。
2人で楽しめる唯が、うらやましい。
練習を再開しなきゃいけない。
でも、スティックが遠い。取りに行くのが面倒くさい。
その場にごろりと転がる。
こんな時に憂ちゃんがいれば、スティックを取ってきてくれるんだろうな。
律「ん?」
そう思った矢先、携帯電話が震えた。
手の届く範囲にあったから、どうにか手をのばして取る。
律「そこは憂ちゃんの流れだろ、むぎぃ」
自分でもよく意味の分からない独り言をつぶやきながら、電話に出る。
一体何の用だろうか。
最終更新:2010年12月18日 16:19