紬『もしもし、りっちゃん?』
電話口の向こうのムギは、なんだか急いている様子だった。
律「ムギ、どうしたんだ?」
紬『りっちゃん、今日いまから大丈夫?』
律「ん、ああ」
紬『実は今、学校で和ちゃんと学祭の劇についてお話してて』
学祭の劇。
そういえば、うちのクラスは演劇をやることになっていたんだっけ。
澪のことで手一杯ですっかり忘れていたけれど、ムギが脚本を引き受けていたような覚えがある。
律「あー、劇ね。それで?」
紬『ちょっと相談したいことがあって。学校に来れないかしら』
動くのは少し面倒くさい。
けれど、別のことに頭を使えそうなのは良い。
律「相談? わかった、できるだけ急ぐよ」
紬『ありがとうりっちゃん。お休みなのにごめんね』
気にするな、と男らしく言ってやり、私は電話を切った。
――――
和「悪いわね、律。わざわざ来てもらっちゃって」
教室に入ると、ムギをと和が机を挟んでぼんやり座っていた。
律「いいっていいって。で、私に相談とは何事かな?」
紬「ええっと……まずはこれを見てほしいの」
ムギが机に置いていた紙をめくり上げ、私に差し出した。
目次のように縦書きの字が並ぶそこには、見知った名前がいくつもある。
律「なになに、ロミオとジュリエット配役表、と」
夢の共演だな。
和「投票の結果で演目はロミジュリに決まったし、台本もほぼ仕上がってるんだけど」
和がため息を吐いた。
和「配役でちょっとモメちゃってね。律に決めてもらおうと思うのよ」
律「ほおう……」
正直、ロミオとジュリエットはよく知らないから、配役の相談なんてされても困る。
ロミオが王子でジュリエットがお姫さまだよな、という認識で配役に目をやり、
律「ぶふぉんっ!」
噴き出した。
紬「どうかしら、りっちゃん」
律「いや、あのさ。モメた結果がこれか……?」
和「ほらムギ、普通はこういう反応よ」
ロミオが澪。ジュリエットは私。
私の認識が間違っているんじゃないかとも思ったが、和の言葉からしてそう言う訳でもないらしい
。
律「明らかなミスキャストだろ、アホムギ」
紬「適役だと思うのにー」
ライブもあるのに、合わない役の練習で手間を費やすわけにはいかない。
私は配役表を丸めてムギを引っぱたいた。
律「和は誰を推薦するんだ?」
ムギじゃ話にならない。
私は和に向き直って、再度配役表を広げる。
やたら役が多いと思ったが、「木」が8人分もある。
裏方に回せよ。さり気なく唯が「木G」だし。
和「そうね。まず、ジュリエットは唯にすべきだわ」
律「唯か。まぁ似合わないわけでもない……か?」
すこし微妙だけど、演技力と胆力は保証できるし悪くはない。
和「それでロミオは、律にやってもらおうと思うの」
律「……」
紬「それじゃ普通すぎるんだってば!」
和「普通で良いのよ。奇抜より余程ましだわ」
言葉がなぜか出てこない。
紬「せっかくの学祭なんだから、色々挑戦したらいいじゃない」
和「それを押し付けるのが駄目なのよ。澪は裏に回すべきだわ」
和「この配役じゃ反対が多くて、結局決め直すことになるわよ」
私は配役表を放り上げていた。
頭の上で、ぺらっぺらっと薄い紙がはためく音がしている。
右手がぎゅっと握られていた。
腕が、まっすぐに和の頬を目がけている。
私はどこか遠いところから、その一部始終を観察しているつもりになっていた。
幽体離脱ってこんな感じかなぁ、とか。
けれど、拳が和の横っ面を殴りつけた瞬間、やっぱり私の手には強い衝撃が返った。
私はびりびり痺れる腕を今さらになって押さえつけ、首だけ傾いた和の姿を呆然と見つめる。
紬「りっちゃん……?」
信じられない、とでも言いたげにムギが口を半開きにしている。
私だって信じられない。
どうしようもなく腹が立って、気がつけば手が上がっていた。
和「……ごめんなさい」
私がぼんやり立っていると、和が予想外の言葉を放つ。
律「え……」
和「律が気を悪くして当然よね……澪のことひどく言ったりして」
律「あ、いや。いいんだよ。私こそごめん」
ようやく、和を殴った理由に見当がつく。
「澪は裏に回すべき」。この発言がきっと、私の逆鱗に触れたんだ。
和「……お互いさまね。これっきりにしましょう」
律「……そうだな」
私はすっかり平静を取り戻して、こくりと頷いた。
紬「よかった……ごめんなさい、変なことで争って」
律「いや、ムギは気にするな。……それより、配役のことだけど」
床に落ちた配役表を拾い上げ、机に伸す。
律「私は……唯をジュリエット、澪をロミオにするのがいいと思う」
紬「間を取るの?」
律「そうじゃない。この配役がいいんだ」
唯はさすがに王子って柄じゃない。対して澪は見かけで行くなら男装もいけるはずだ。
そして何より、唯なら澪を楽しませてくれる。
私よりずっと、澪の力になってくれる。
裏に回るべきなんて言わせないくらい、かっこいいロミオを引き出してくれるはずだ。
律「これじゃなきゃ、だめなんだ」
紬「りっちゃん……」
和「確信があるみたいね。もともとそのつもりで呼んだわけだし……律を信頼しましょ」
紬「そうね。澪ちゃんを一番わかってるのはりっちゃんだし」
おかしな決め付けだ。
律「……私はただ、長く澪のそばにいただけだよ」
紬「? だから、私たちの中では一番よく理解してると思うわよ?」
ムギは不思議な顔をする。
普通はそう思うよな。
長い付き合いなら、人よりよく理解しているはずだって。
私だって、そう思っていた時期もあった。
律「そんなことはないさ。幼馴染ってだけじゃ、長い時間を共にするだけじゃあ……」
律「その人のことなんて、たいして理解出来やしないんだ。ただ、知ってるだけ……」
紬「りっちゃん?」
和「ちょっと律、平気?」
私は駆け寄ってきた二人に、首を振って返した。
律「悪い、私帰るわ。学祭に向けて練習しときたいんだ」
律「……劇のほう、頑張っておくれ」
和「え、ええ。……帰り、気をつけなさいよ」
手を振ると、私は急いで教室を後にした。
あんな場所で弱音を吐くなんて、どうかしてる。
何より二人は今、学祭の成功のために努力している所なのに。
律「……唯に澪、どうしてるかな」
もうすっかり太陽も沈んできて、空いっぱいに茜色がさしていた。
肩を並べて夕日を眺め、いい雰囲気になってたりするんだろうか。
律「……」
想像すると悲しくなるのは、私に恋人がいないからだろうか。
彼氏とか、つくってみるかなぁ。
あるいはなんかもう、彼女っていうのもありかもしれない。
同性愛に走っちゃうなら、アテもあることだし。
……ばかなこと考えてないで帰らないと。
まだお腹が本調子じゃないんだから。
太陽が沈んでいくなあ。
――――
澪から報告の電話があったのは、結局晩ご飯を食べ終わった後のことだった。
耳障りなノイズが澪の鼻息だと気付くまで、しばらく時間がかかる。
まともな会話ができるようになるのと澪の興奮がおさまるのが、だいたい同時だった。
律「……じゃ、改めまして。もしもし澪さんですか」
澪『みっ、澪さんです』
律「今日のデートがどんな具合にいったかご報告に上がりたい。そういうことですね?」
澪『うんっ、うん、そうなんだ、あのなあのなっ』
話はまず、待ち合わせの時間ぴったりに唯が来たことから始まった。
遅刻しそうで、少し走ってきたらしい。
朱に染まった頬と荒く吐かれる息、整えたのにあちこち乱れてしまっている髪型。
すべてが可愛かった、と澪は叫んだ。
やかましいなコイツ。
午前中は澪の好きなファンシーメルヘンなアトラクションを、
午後からは唯好みのジェットコースターやコーヒーカップ等の慌ただしい乗り物に次々と。
慣れなくて疲れたけど、とても楽しかったと語ってくれた。
律「そっか、よかったな」
今の澪に、前に一緒に行った遊園地の話をしても私が空しいだけだから、
いろいろ抑え込んで相槌を打つだけにした。
澪『それで、その後……なんだけどな』
ごくりと唾をのむ音がする。
澪『日も暮れてきたくらいに……唯が、観覧車に乗ろうって言ったんだ』
律「デートの締めっぽい感じだな」
澪『だろう!? ……だから、私さ。言おうって決めたんだよ』
律「……告白か?」
澪の高揚ぶりから、大きな進展があったことは分かっていた。
そして今なお収まらぬ澪の興奮が示す答えはひとつだろう。
澪『すごくいい雰囲気だったんだ。おっきな観覧車が夕日に照らされてさ』
澪『今日しかない、今しかないって思ったよ』
澪『唯も手を握ってきて……我慢できなかったっていうのが正しいのかもしれない』
律「……うん」
私はその情景を頭に浮かべる。
沈みゆく太陽。
オレンジ色の逆光に焦がされて、二人の姿は真っ黒なシルエットにしか見えない。
右手と左手で、シルエットは1つに結ばれていた。
律「……それで」
澪『観覧車に乗って……半分くらい上がった時にさ』
澪『それまで向かい合って座ってたんだけど、唯が急に、隣に来たいって言ったんだ』
律「……へぇ?」
なるほどな。
そんな展開、澪がこれだけ興奮するのも頷ける。
澪『そっ、それで……寄り添ってきて。……好きだって言われちゃった』
律「……先手打たれちまったな」
澪『ははっ、まあそうなんだけどさ。やっぱり、単純に嬉しかった』
律「だろうな」
ふやけきった澪の声。
幸せなんだろうなぁ。
澪『だから、私からもちゃんと好きって言ってあげて……そしたらさぁ!』
急に大声を出すんじゃない。
澪『えへへ……へへ。律、ファーストキスは私の方が先だったぞ』
律「……なんだってぇ?」
つまり、告白の姿勢のままキスまで済ましてしまったと。
そう言うんですね澪さん。
律「はぁー……恐ろしいご両人ですよ、あんたら」
つーかそういうのは観覧車が一番上まで行ってからやれよな。
とにもかくにも、唯と澪は両想いだったということだ。
これで二人は付き合う事になった。
澪は私から離れていく。
でも、これでいいんだろう。
私よりも唯の方が、澪を幸せにしてやれる。
幼馴染とか長い付き合いとかじゃなくて、二人の相性なんだ。
唯の方が、澪のことを分かってあげられる。
私は、澪をいじめるだけの、だめな幼馴染だから。
澪から離れなきゃいけない。
律「おめでとう、澪……ほんとうに」
澪『律のおかげだよ。律が背中を押してくれたから、唯をデートに誘えたんだしさ』
それはそうかもしれないな。
私が澪にしてやれた、唯一のことだ。覚えておこう。
律「あ、そうそう。実は今日、学祭の劇について話し合ってきたんだけどさ」
澪『ん?』
律「学祭の劇。唯がお姫さまで、澪が王子様役だってさ。いやぁ、こんなことってあるんだなー」
それを推したのは自分だということは伏せて、私はからから笑った。
澪『……はああああぁぁ!?』
律「がんばれよっ、唯の王子さま!」
言うだけ言って、電話を切ってやる。
すぐさま携帯が震えるが、無視して布団の上に置いた。
私に頼るのはやめて、唯からパワーをもらいなさい。
巣立つときがきたのですよ。
律「……」
ああ喪失感。
やっぱり付き合い長かったからかな。
分かり合えていなかったとしても、さすがに切ないものがある。
いいや、いいや。さよならだよ。
私が未練がましく思っちゃだめだ。
すっぱり離れて、澪を唯に引き渡そう。
不貞寝するしかないな、もう。
――――
翌週からは学祭の準備でてんやわんやだった。
澪は人目もはばからず唯といちゃついている。
いや、唯がむりやり捕まえているのか。
どっちでもいいから作業してくださいよ。
このペースじゃ終わりませんよ。
紬「りっちゃんはこの役をお願いね」
律「ん?」
なにか言われた気がしたが、ムギは和と一緒にすでに別のやつに指示を出していた。
後で聞いておけばいいか。
1日じゅうトンカチを持っていたせいで右腕がふいふい上がってきてしまう。
それを梓が小馬鹿にするものだから、30分ほど追いかけまわしてやった。
くたくたになりながら、ライブに向けた最終調整を行う。
私はやっぱり、少しばかりスランプみたいだ。
みんなには、本番までになんとかすると言っておいた。
どうにもなりやしない。
せめてうまくごまかさないとな。
そのためには、ばっちり練習しないといけない。
明日の作業は休ませてもらおうかな。
澪が安心して私を置いていけるように、しっかり演奏できるようにならなきゃいけないんだ。
なんか独りよがりっぽいな。
情けないし寂しいよ。
この感情を澪に話せないってことが、余計に辛い気持ちを増幅させる。
最終更新:2010年12月18日 16:20