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 すっかり訊くのを忘れていたけど、私は木Gという役を与えられていたらしい。

 ただ立っているだけの役で稽古はいらないというから、

 それを信じて私は作業に打ちこむ。

 稽古よりも「木G」がいらないのではないかと思う。

 そういえば澪は、案外すんなりとロミオ役を板につけてきていた。

 澪自身の適応力もあったんだろうけれど、

 練習風景を見ていると、やはり唯がうまくリードしているように感じる。

 ほんといいカップルだよ。

 さすがに付き合ってることは内緒にしているみたいだけれど、勘付いてる人もいそうだな。

 私から皆に言ってやろうか。

 まあ二人が付き合ってるって聞いて発狂してた和みたいな奴もいるし、やめておこう。

 さて、大道具もそろそろ完成の段階だな。


 あぁ、疲れた。

 労働自体は大したことじゃないけれど、その後のドラムの練習が響いているのかもしれない。

 全身くたくただ。

 倒れこんだらもう一日中動けない気がする。

和「大道具もみんな仕上がってるわね」

紬「うん。準備はだいたい整ってるみたい」

和「衣装は?」

紬「昼ごろにさわ子先生が届けてくれたけど……」

和「そう、なら大丈夫ね。あとは……あれ、唯と澪は?」

紬「二人は部室で練習してるわよ。なにかあったの?」

 澪め、いないと思ったらそういうことか。

和「いえ、練習してるならいいのよ。……私たちも、すこし休憩しようかしら」

紬「賛成。ちょっと頭がふらふらするの」


 すでに学祭は明日に控えている。

 1日目が劇の公演、2日目がライブ。

 澪は目前に迫った主役の舞台に、さぞ緊張していることだろう。

 それを唯が二人きりでほぐしてあげているんだ。

 しかし唯のことだから、どうもそういう展開になると……

紬「……りっちゃん!」

律「うあっ!?」

 突然頭上から声が降ってきて、心臓がきゅっと絞めつけられた。

 見上げると、ムギが心配そうに私を見つめていた。

律「あ、ごめん……ちょっとボーっとしてた。何?」

紬「一緒に購買に行かないかって。お菓子とかまだ売れ残ってるかわからないけど」

律「あぁ、行く、行くよ」

 顔が熱い。私は右手で首元に風を送りながら立ちあがった。

 なんつーことを考えてるんだ、私は。


――――

 かくして、学祭の当日。

 空はぽつぽつと雲が浮かぶ程度で、雨の心配はなさそうだった。

 気持ちのいい天気だ。

 私はといえば、茶色の地味っこい全身タイツを無理矢理ムギに着せられて、曇天の心模様だけれど。

 こんなものまで用意して、木の役8人にムギは何をさせたいのだろうかと思う。

 みんなに出番をあげたい、とかだったらいいんだけど。

澪『……笑いたければ笑え。僕は痛みを知っている』

澪『恋する痛み……この胸の甘い疼きを!』

 舞台袖でぼんやり待機していると、澪の声が講堂に力強く通っているのが聞こえてくる。

 すごいじゃん、澪。

 思わず頬を緩ませて、小さく拍手を送る。

和「次、また出番よ律」

律「……はいはい」

 出番という言い方にツッコミたい気もしたが、そんな暇はなさそうだった。

 裏に「木G」と書かれた板を持ち上げ、顔をはめると

 カニ歩きで客席から見えないギリギリまで移動する。

 照明が落ちて、場面転換だ。

 ここに立つのも4度目、すっかり慣れた位置に板を置いた。

 両手に枝を持たされる。

 暗い中、慌ただしく、ただ静かにしようと努力している物音がする。

 私の横に澪が立ったのが分かった。

 私は何も言わない。

 澪も何も言わない。

 裏方たちが去っていく。

律「……」

 澪は私の横でひざまずくと、床をじっと見つめはじめた。

 薄暗い照明が戻ってきた。

 はかなげなピアノの音がする。

 場面は夜。どこか切ないように聞こえるBGMだ。

 ロミオとジュリエットは悲恋の話だと、澪に聞いたことがあったような、ないような。

唯「ああ、ロミオ……あなたはなぜロミオなの?」

澪「あの天使のような声は!」

 テラスの横に置かれた脚立をのぼっていく澪を、私はちょっぴり視線で追った。

 高きに立ち、唯と向かい合う澪の背中。

 ジュリエットの格好をした唯がちらちら見える。

唯「どうしてここに……屋敷の石垣は高くて越えられるはずはないのに!」

澪「高い石垣など、恋の軽い翼で飛び越えてみせましょう」

唯「ああ、ロミオ!」

澪「ジュリエット……」

 二人が、無言で見つめあう。

 ピアノの音は、二人の気持ちにまるで不釣り合いに思えた。

律「……」

 沈黙が長い。

 どうした澪、台詞が飛んだか。

 教えてやれよ、唯。

 私は首をさらに傾けて、唯を見上げた。

 「わあっ……」

 その瞬間だった。

 客席から歓声が上がる。

 私の角度からでは、澪の顔は見えない。

 でもきっと、いい顔をしていることだろうと思う。

 唯は目を閉じて澪と抱き合い、そこにあるだろう唇を重ね合わせていた。

律「……ははっ」

 何やってんだよあいつら。

 見せつけてくれるよ、まったく。

 歓声はしばらく止まなかった。

 指笛を鳴らす輩までいる。

唯「……ロミオ」

澪「……ジュリエット」

 ささやき合った名前は、たぶんせいぜい私の耳にしか届いていなかっただろう。

律「……」

 私は、客席に目を戻した。

 そこにいる奴らは全員、ロミオとジュリエットを手を叩いて祝福している。

 いやだ、もう何も見たくない。目を閉じても、歓声が耳に届く。

律「っう……」

 泣くんじゃない。

 そうだ、私は木だ。

 木は泣かない。木になって、こらえろ。

律「く、……」


 強く閉じた瞼から、溢れて頬を伝っていくあたたかな雫。

 声だけは出さないように、唇をかみしめる。

 手に持った2本の枝がぐらぐら揺れる。

 フッと照明が落とされた。

和「律!」

 同時に和が私に駆け寄って枝をひったくり、私の腕をとって舞台袖へ引っ込ませた。

 拍手が鳴りやまない。おまえら、クライマックスはまだだっつーの。

 気付けば私は、和に抱きかかえられて、埃っぽい講堂の隅でぐすぐす泣いていた。

和「……わかるわよ、律」

 和の手が、私の頭をやさしく撫でてくれている。

和「……わかるわ」

律「のどかぁ……」

澪『私たちは愛し合っているのです』

 澪の声が、とても遠くから聞こえてくる。


――――

 劇が終わった後、私は何食わぬ顔でジャージ姿になってから教室に戻った。

 ジュリエットの帽子やらエクステやらを取っ払い、いつものヘアピンだけつけた唯が、

 私を見るなり驚いた様子で近付いてくる。

唯「……りっちゃん、泣いてたの?」

律「……わりーかよ」

 にやにやしながら私は答えた。

唯「あっ、もしかして私たちの演技に感動して泣いちゃった?」

律「んなっ! ……まあ、そうなんだけどな」

律「名演技だったぞ、唯、澪」

 ぽんぽんと肩を叩き、ねぎらってやる。

澪「そ、そうだったかな……」

律「ほんとだぞ? 照れるなよー!」

 そんな顔をされると、ちょっと本気で頭にきちゃうからさ。

紬「もしかして、あれからりっちゃんがいなかったのって……」

唯「あーっ、そうだよ! 最後のシーン、りっちゃんいないしお墓もなくなるしで大変だったんだよ!」

 まだ木Gの出る幕あったのかよ。

律「なははー……ごめんごめん、あんな顔は見せたくなくてさ」

澪「今もけっこうひどい顔だけどな。……どれだけ泣いたんだ?」

律「うっ、うるさい! なんでもいいだろ!」

 私の心配なんかしなくていいから、唯の隣に行けっての。

律「さぁ、さっさと着替えて! 軽音部いくぞ! ライブも成功させなきゃいけないんだから!」

唯「だねっ!」

紬「うん!」

澪「……ああ。最後の学祭だからな。絶対悔いのないようにしよう!」

 みんなでジャージに着替えて、部室へ大挙する。

 今日は泊まり込みで練習に明け暮れようと、澪が提案したのだった。


 部室で先に待っていた梓を追いかけまわし、ほっぺたに「木」と書いてやる。

 それから何度も何度も演奏を合わせて、完璧な演奏を目指した。

 夜が深まって、確かにミスはなくなったと思う。

 でも、まだ何か足りない。

 すでに日付も変わっていたことだし、私たちは練習をそこで切り上げた。

 2日目は学祭の催し物を回る予定でもいる。

 練習は2時ごろ集合して、軽く最終調整をする、という程度だ。

 梓の言うように、たぶん本番では上手くやれる。それが私たちだ。

 信じてテンションを上げていこう。

律「……とは言ったものの」

 唯と澪はもちろん二人でデートに行ってしまい、

 梓は模擬店の担当だからと、

 ムギは隣のクラスの喫茶店にヘルプを頼まれているからといなくなってしまった。

 一人で回るのもなんだかなーと思う。

律「……ん」

 ふらふら歩きまわっていると、梓の教室の前に来ていた。

 峠の茶屋。まるで江戸時代みたいな赤い座席が廊下に置かれ、風情を醸している。

 ここで時間をつぶすか。

 私はのれんをくぐって、茶屋に入ってみた。

純「いらっしゃーい! ……って、律先輩じゃないですか」

 梓はいないようだ。厨房にまわっているとかだろうか。

 ただ少し見慣れた顔があって、私に話しかけてきた。

律「おう、鈴木さんじゃん」

純「ちょうどよかった。折角来たんですから、ゆっくりしてかれますよね?」

律「そのつもりだよ。どうかしたの?」

純「お話したいことがありまして。あ、注文受けますよ」

 慌ただしい子だなあと思いつつ、三色だんごと緑茶を頼んだ。

 並べた机に赤い布をかけただけの座席につき、運ばれてきた団子を口に入れる。

律「んで……お話とは」

純「はい。えっとあの、私じゃなくて、澪先輩の話なんですけど」

律「……澪の?」

 危うく団子を丸呑みしそうになって、胸を叩く。

 中にあんこが入った赤の団子をさっさと噛み砕き、飲みこんだ。

純「実は、3日くらい前なんですけど、澪先輩から相談を受けたんです」

律「相談って……」

 そもそも澪が鈴木さんと面識があったこと自体驚きだ。

 しかも、相談相手に選ぶほど信頼しているみたいだ。

純「あっ、違うんですよ。私が無理に聞き出したようなものです」

純「なんだか落ち込んでるみたいで、丁度いいからって話してくれました」

律「ちょうどいい?」

純「たぶんですけど、私がみなさんより一歩遠い関係だからかもしれませんよ」

純「言うなれば友達の友達って感じじゃないですか」

 要するに、自分の知り合いには相談できないような悩みだというのだろうか。

 鈴木さんもそれを分かっているみたいなのに、ちょっとデリカシーが足りなくないか。

律「なるほどね。……じゃあさ、それって私に話しちゃいけないんじゃないの?」

純「あ、いえ、そうではなくって……澪先輩から律先輩に、っていう相談だったんですよ」

律「……へえ」

 気の抜けた返事が出る。

 なんだろう。虫の居所が悪い。

 私は歯で串から団子を抜き取り、糖分を補給した。

律「どういう話だったわけ?」

純「……心当たりはないですか?」

 唯のことなら相談を受けたが、私はなにか澪をそんなに悩ませただろうか。

律「ないな。教えてくれよ」

純「えっと。律先輩が、このところ澪先輩のこと避けてるって……聞いたんですけど……」

 おずおずと鈴木さんが言った。

 口の中が甘い。

 私は湯気の立つ湯のみに口をつけ、緑茶をすすった。

 落ち着け、りっちゃん。

 この子が悪いんじゃない。

純「そんなことないですよね?」

律「……どうかな。分からない」

律「お茶、おいしいな。生粋のお茶リストたる私を唸らせるとはなかなかよ」

純「……葉っぱはコンビニで売ってますけど」

律「そうかい」

 熱いせいで、味がよく分からないのかもしれない。

 味わってみると、まずくない程度だというふうにも思う。


純「あの、分からないっていうのは、どういう……」

律「最近、澪と接する機会がなかったからな」

律「私自身も避けてるのかなんだかわかんないよ。……ただな」

 ふーっ、とお茶に息を吹きかけて冷ます。

律「これから澪と接する機会があったとしても、私は澪を避けてやる」

 どうしてこんなにも苛立つんだろう。

 そんなに怒ることもないだろ、覚悟してただろ。

純「な、なんでですか!?」

律「鈴木さんだってさ、いやだろうよ」

 お茶を飲む。まだ熱い。

 ほうっと息を吐いて、窓の外を見た。

律「大切な人の大事な言葉が……他の誰かから言伝で伝えられたらさ」

律「それこそ避けられてるって思うよ。どうして私に直接言ってくれないのか、ってな」

純「あ、その……」

律「私はもう澪とは話さない。……明日、明日以降、そう伝えといてくれ」

 緑のだんごと緑茶が残っていたが、私は居たたまれずに席を立った。

純「ま、待って下さいよ。それはいくらなんでもひどいですって」

純「澪先輩だって不安だったんですよ?」

純「避けられてると思う友達に、直接避けてるのかなんて訊けるはずないじゃないですか!」

 頭の中で、何かがプツンとはじけた。

律「私のほうが、よっぽど……」

純「なんですか?」

律「……さっきの伝言に追加だ。澪はずっと私の重荷だった。離れてくれてせいせいする」

律「そう言っておけ。明日になったらすぐ、電話でもして言うんだ」

純「……わかりましたよ」

 鈴木さんは歯噛みして、湯のみと団子の皿を集めた。

純「ふん」

 食べ残しである緑の団子をちゃっかり口にしまいこみ、奥へ下がっていく。

 もうここを出よう。


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最終更新:2010年12月18日 16:21