〝それ〟は、彼にとって初めて知る感情だった。
 生まれ落ちたその瞬間から人間の醜さを誰より理解し、それに親しむように生きてきた。
 あるがままに殺し、奪った命の感触をもって生を実感しながら人間らしく誰かを嘲笑う。
 そうして生きる以外の道を知らないから仕方なかったという話では片付けることの出来ない圧倒的な悪性を彼は生まれながらに宿していた。
 彼がその感情に逆らった試しは一度としてない。
 常に享楽のままに振る舞い、成功と失敗を屍という形で積み上げながら成長していく悪なる魂。
 故に彼という存在に救済の余地は皆無。よって当然のように、その末路は因果応報の中へと転がり落ちた。

 他者に悪意をぶつけるあらゆる行為が正当化されるのは自分が優位に立っている状況でのみだ。
 必死にあがく格下どもを見下しながら虐め、弄び、嬲る。
 もしもそれらの伸ばした手が、藁ではなく自身の足を掴んで転かすことに成功したのならば―――その後で待つのは所業に合った地獄である。
 彼はそれを思い知らされた。恐怖し、涙すら流して無様に這い蹲り、そして誰に顧みられることもなく一人で地獄に堕ちた。
 悪なる魂の物語はそこで終い。暴虐に満ちた生涯は過去のものとして消え逝き、もうその手が誰かに触れる機会は永劫に訪れない。


 その筈だった。しかしもしも、その醜い生涯に先と呼べるものが存在するのなら。
 絶望という大きな挫折を知った王の器は、果たして如何なる姿を描きあげるのだろうか。
 呪いの時代を統べる役割を任ぜられた、誰よりも人間に近い呪いは、何を―――



▼▼▼


 星野ルビーは冷静ではなかった。
 いや、冷静ではいられなかったと言う方が正しいだろう。
 B小町としてのライブを明日に控えているというのに突然拉致され、殺し合いをしろなどと言い渡されたのだから無理もない。
 この儀式がどう転がったとしてもライブは中止だろうし、事が事だから当分活動をすることすら難しいかもしれない。
 ようやくグループを結成して漕ぎ出せたところだというのに、本当に余計なことをしてくれたものだ。考えれば考えるほど腸が煮えくり返った。
 そしてルビーを何より怒らせたのは、加茂憲倫と名乗った儀式の主催者がルビー達兄妹にとっての地雷を無遠慮に踏み抜いていったことだ。
 名簿に刻まれたそこにある筈のない名前。
 母であり、推しであり、もう二度と会うことの出来ないあの人の名前。
 気付けばルビーは怒りのままに叫んでいた。その怒号が彼女の怒りを沈めてくれる他者を引き寄せたことは思わぬ収穫だったと言えるか。

「へえ……じゃあ、この星野アイって人はもう死んでるんだ」
「うん、絶対死んでる。それももう十年以上前に」

 顔面にツギハギ状の傷がある男だった。
 一見するとぎょっとするが、顔立ち自体は整っていて物腰も柔和。
 彼女自身元々明るい性格というのもあって、ルビーが心を許すまでに時間はかからなかった。
 お互いの名前を名乗り合ったところで、すわこの時を待っていたとばかりにルビーは自分の抱える一番の鬱憤を吐き出し始めた。

 一番星の生まれ変わりと持て囃され、一世を風靡したかつてのトップアイドル。
 ファンに刺されて命を落とした、ルビーとその兄アクアの実の母親。
 星野アイ。その名前をこの悪趣味な儀式の中で出されたことは、長い時間をかけて癒した心の傷に唾を吐かれたように不快なそれだった。

「ママの名前を書いて私やお兄ちゃんをやる気にさせようとしてるのかもしれないですけど、本当にやり口最悪すぎ。
 大体私達のこと馬鹿か何かだと思ってんのかって……死んだ人間が生き返るなんてあるわけないでしょ、今日びそんなの子供でも分かるっての」

 生まれ変わりならまだしも……と付け足した言葉は、彼女が言う場合に限っては冗談ではない。
 それは星野ルビーの秘密そのものだ。
 彼女はその昔、末期がんに冒された少女だった。
 アイドル・星野アイを生きる支えにしながら、しかし薬石効なく命を落とした娘。
 神が彼女の生涯を儚んだのか、少女はアイの実娘へと転生を遂げる。
 正確にはルビーだけでなくその兄もまた〝そう〟であるのだったが、ルビーがそれを知るのはまだ先の話だ。

 幸福に満ちた来世はある日突然、アイの死という形で終わりを告げた。
 【推しの子】として生まれた人生は予期せぬ形でジャンルを変え。
 そして今、回りまわってルビーはこんなことになっている。
 天国のアイも少しくらい守ってくれればいいのに! とルビーは心の中で嘆いていた。

 そんな彼女の話を興味深そうに聞いていたツギハギ顔の青年は、なるほどねえと口を開く。

「でもそれはどうだろうね。もしかしたら、そういうこともあるのかもよ」
「えー、真人さんって意外とそういうスピリチュアルな話信じる系なんですか? ないない、あり得ないですって」
「げ……加茂の話を覚えているかい?」
「…………願いを叶えるなんとかってアイテムを賞品に出すよー、みたいな話?」
「そうそうそれそれ。もしも加茂が本当にそんなとんでもない力なり道具なりを持ってるんだったら、案外蘇りくらいはカジュアルに叶えられる願い事なのかもなって思うんだ」

 げ? と首を傾げるルビーだったが、彼女の疑問には答えることなく真人と呼ばれた青年は続けた。

「死んだ人間の魂を何らかの形で現世に留められれば、後は肉体の再現をした上で魂を入れて受肉させればいい。
 俺は専門家じゃないけど、そういうやり方なら死者の擬似的な蘇生ってのは不可能じゃないと俺は思うよ」
「え、ええっと……」
「とはいえ此処までのことをやれる奴なんだ。多分実際は俺みたいな素人が想像してるよりずっとカッ飛んだ手段を使ってそうだけど」
「……な、何かの漫画の話ですか? あはは、ルビーちゃんちょっとチェックしてなかったなー」

 此処に来て安心に包まれていたルビーの心に不安の影が差す。
 これまでの好青年然とした言動とは打って変わって、今の真人は怪しげな単語をさも一般常識のように撒き散らしている。
 駅前で気のよさそうなおばさんに話しかけられたので対応してみたら、目が回るような胡散臭い宗教の説教をされた時のことを思い出した。
 ママの話は振らない方がよかったのかもしれない。もしかして私、地雷踏んだ?
 あからさまに引き気味の愛想笑いになっていることに気が付いたのか、真人は詫びるように笑ってみせた。

「ごめんごめん、別に講釈垂れようってわけじゃないんだ。いきなりこんな話されてもちんぷんかんぷんだよな」
「そうですね、まあ……」
「これは思考の整理さ。俺もこれで結構混乱してるんだ。ルビーちゃん、君とおんなじ理由でね」
「じゃあ―――真人さんも?」

 死んだ人の名前を名簿に書かれてたんですか。
 ルビーの質問に真人は頷き、そして答えた。

「ああ。俺の名前が書かれてた」
「……え?」

 ルビーの質問に対して真人は肯定したが、厳密に言うとそれは間違いである。
 ルビーは死んだ人の名前があったのかと問うた。
 死んだ人の名前など、真人の知る限りでは一つもなかった。死んだ〝人〟の名前は。


 加茂憲倫が儀式に招いた泳者達の中で、まともな人間はむしろ少数派だと言っていい。
 その中の数少ない例外が、ルビーを始めとした星野アイ及び彼女亡き芸能界から招かれている面々だ。
 彼女達にとって異能や死者の蘇生、願いを叶える力というものはフィクションの産物でしかなく、信じるに値しない戯言だった。
 だがその認識はこの島において、時に致命的な判断の遅れを生み出す。

「えっと、それって」
「てっきり加茂……しっくり来ないな、やっぱり〝夏油〟でいいや。
 夏油の術式で隷属させられてるのかと思ったけどどうやらそういうわけでもないらしい。
 かと言って目に見えて術式には改悪が加えられてる。自由なんだか不自由なんだか分からない。
 だからさ―――今はとにかくいろいろ試してみたいんだ。そんで考えたい。これからのことを、いろいろね」
「ま……」

 現実と虚構の区別が付くことは人間社会では人として最低限の分別とされるが、この島では単なる無知だ。
 此処では虚構の中にしか存在を許されない猛魚や海獣が我が物顔で泳いでいる。
 腕の一薙ぎで人体を粉砕し、手で触れることなく他人の命を奪い取れる化物達が闊歩しているのだ。
 そんな儀式場において常識とは美徳ではなく、むしろ枷である。
 そして多くの場合、それに気付いた時にはもう遅い。
 今のルビーはまさにその典型と言ってよかった。

「真人さんも、そうだってこと?」

 ルビーの言葉に、真人がニコリと微笑む。
 およそ害意というものを感じさせない表情だった。 
 誰であろうと安心して信用を預けるような、そんな顔。
 だがその口元から覗いてぬらぬらと唾液で輝いている白い歯だけが、そこに不気味な印象を与えていて―――

「正解」

 真人が呟いた瞬間、星野ルビーの運命は確定した。



「その人から離れてっ!」

 闇の中に突然響いた、自分以外の少女の声。
 金縛りに遭ったように固まっていたルビーはその言葉を受けてようやく我に返った。
 アイドルとしては落第だろうが緊急時の対応としては満点だろう、なりふり構わない飛び退き。
 それで真人から逃れた彼女の代わりとばかりに、彼の前に迫る金髪の少女の姿があった。

(女の子……?)

 ルビーよりも年下だろう、中学生ほどに見える少女だった。
 しかしその手には大振りの槍が握られており、迷いなく彼女は真人に対してそれを振るう。
 年齢と体格からは想像も出来ない鋭い刺突を真人はひらりと身を躱して避けたが少女も退かない。
 五月雨のように迸る突き、突き、突き……一気呵成を体現するような果敢の攻めに見ているルビーまで思わず圧倒されてしまう。
 頭の中は未だ混乱しっ放しだったが、彼女が自分を助けるために割って入ってくれたらしいことは辛うじて理解出来た。

「……なにこれ?」

 はて、どうしてこんなことになっているのだろう。
 ついさっきまで自分は明日のライブのために、振り付けの自主練へ勤しんでいたところだったというのに。
 しかし今ルビーの目の前では少女と青年が踊るように戦っており、そこでルビーはようやくこの儀式が今までの自分の人生とは明確にジャンルの違う異世界なのだと理解した。



 ―――乃木園子は勇者である。
 なればこそ、その光景を前にして行動しない理由は一つも存在しなかった。

 園子も未だ、自分が今置かれているこの状況を百パーセント理解出来ているわけではない。
 それどころか今も頭の中は疑問符でいっぱいだ。
 大赦の目を盗んで勇者である自分達を攫い、こんな儀式に参加させるなんて芸当が本当に可能なのか。
 そして、何故名簿に死んだ筈の友人の名前があるのか。神経を逆撫でするための嘘なのか、それとも本当に……。
 考えたいことは山ほどあったが、こうなった以上はすべて後回しだ。
 勇者として大切なものを守るため戦うことを決めた園子にとって、今まさに目の前で奪われようとしている命を見過ごす選択肢はなかったのだ。

(バーテックスじゃ……ないよね、やっぱり)

 勇者への転身を終え、人間を超えた身体能力を得ている園子。
 にも関わらず真人と呼ばれていたこの男は、そんな園子の猛攻に真っ向から付いてきていた。
 反応するし避けてくる。どういう理屈か手を変形させて反撃まで挟んでくる。
 勇者に対抗出来る存在など、それこそバーテックスくらいのものな筈なのにこれは一体どういう理屈が働いているのか。
 だが園子が困惑する一方で、勇者との戦いを飄々と演じている様に見える真人もまた想定外の事態を認めて現状への認識を改めていた。

(前より攻撃が痛いね、呪力まがいのエネルギーでコーティングされた攻撃ではあるみたいだけどそれにしたって喰らい過ぎだ。
 夏油の奴、マジでどういう手を使ったんだか……復讐を恐れるタマでもないだろうに、興の削げる真似しやがって)

 園子の刺突は、至近距離であれば真人でさえ完璧に見切れるものではない。
 致命傷こそ避けられても、身体の末端に多少の掠り傷を負うことまでは避けられなかった。
 単純な傷なら治してしまえばいいだけだが、問題はその際に伴う痛みが明らかに以前より膨れ上がっていることだった。
 攻撃を通じて肉体に蓄積するダメージが目に見えて上昇している……掠り傷程度なら支障はないが、以前のような調子で殴られ続ければ早々に限界を迎えてしまうだろうことは明らかだ。
 真人は背中から天使まがいの羽を生やして飛翔し、大鎌に変えた両腕で園子を挟撃する。
 これに対し園子は得物が長物であるのを活かし、回転させて弾くことで一挙に対処した。

「ひゃははははは! やるねえ!」

 アルカイックスマイルを浮かべながら、足を車輪に変えて振り下ろす真人。
 受け止めるのを前提とした大振り、その次に待つのは連撃だ。
 先程は鎌に変えた両腕を無数の指の集合体に変え、それを高速で伸縮させることで秒間百発以上の刺突に変える。
 槍使いのお株を奪う刺突の嵐に対しても、勇者はしかし流石だった。
 戦闘経験はまだ浅い。だとしても、世界を守るために最前線で戦ってきたその経験と勘は伊達ではない。
 事実、園子は未だ真人の真骨頂を見ていないにも関わらず彼と戦う上で最も重要な要素を見抜きつつあった。

 触れてはならない。
 この男は明らかに、相手に触れることを目指して戦っている節がある。
 戦いなのだから接触して殺そうとするのは当然だが、真人のそれには執拗なものが見えた。
 だから念には念を入れて、一見すると臆病に見えるほど丁寧にガードと回避を徹底している。そしてその判断はこの上なく正しい。

「カッコいいねえ、でかい武器持って戦う女の子。クールジャパンって奴だっけ? まさに漫画から抜け出してきたみたいじゃないか」

 真人の饒舌さには取り合わず、弾いて弾いて隙を見極め槍の穂先を走らせる。
 槍使いの理想とは硬い守りと鋭利な攻めだ。
 真人を相手にする上では、そのスタイルは驚くほど有効に働く。
 実際、真人は前線を上げられていない。しかし油断は禁物だ、何せこの呪いは変幻自在。

 今度は蛸のように、真人の身体から無数の触手が生えてきた。
 点ではなく面で、撓らせながら接触を狙っていく。
 園子はこれを受けて、ルビーとの射線上に立つことを忘れないようにしながらも距離を取った。
 引き際に槍で切り下げて触手を裂きつつ残りの手数に対処する。
 バーテックス相手とはまるで異なる変則的な戦闘だったが、園子は驚異的なセンスでそれに食い下がっていた。
 真人という呪霊の厄介さを知る者であれば、それがどれほど困難なことかは理解出来るだろう。

(長引かせたくないね、これは……っ)

 長期戦になればなるほど、こっちがどんどん不利になる。
 園子は真人戦の核心を既に掴んでいた。
 最低限の危険は承服する。その上で一撃も食らわず、最小限の回数の攻撃で押し破る。
 それが出来なければ死ぬと、勇者の背中に走った鳥肌が物語っていた。

 有言実行、一度は取った距離を勇者が自ら詰める。
 真人、魔手の波を形成してその判断を凶に変えようとする。
 これを容易に破る手は―――実のところをいえば一つある。だがそれは園子としては取りたくない手段だった。
 満開。勇者に与えられた、奇蹟を起こすにも等しい奥の手だ。

(その顔見るに、全力出せないのはお互い様みたいだね。〝出せない〟のか〝出したくない〟のかは解んないけど)

 そして真人もまた、眼前の勇者を瞬殺出来る手に心当たりがあった。
 しかし彼はそれを一向に使おうとしない。彼の場合は、本当に使えないからだ。

 領域展開。呪術を扱う者にとっての真髄であり、まさに一撃必殺の奥の手。
 真人のそれは、彼自身の術式の性質も合わさって最悪を地で行く。
 仮に真人が領域を展開したならば、如何に神樹の勇者と言えども防ぐ手立ては皆無だった。
 だがその力は今、この儀式を仕組んだ呪詛師の手によって封じ込められている。

(分からないよ夏油、何故縛る? 君としては俺は儀式の進みを促進させる体のいい駒の筈だ。
 オマエの腹の中はとうとう知れなかったけど―――元のプランは捨てたのか? だとしたら、何故そうした?)

 今度は身体を、棘の針山へと変える。
 ヤマアラシから着想を得た攻防一体の鎧は、近付くだけでも相手に死を迫らせる近接戦の反則技だ。
 園子も思わず足を止める。それを見た真人は、棘を伸長させることで不動に徹さず逆に攻め込んだ。

(それともそうしなければいけないほどのことがオマエの身に起きたのか?)

 園子は此処で、王手を掛けられたのだとすぐさま気付く。
 避けなければ自分が針山と化すが、避ければ後ろの星野ルビーがそうなってしまう。
 それは勇者にとって敗北にも等しく、従って退けない。
 ではこのまま黙って刺し殺されるしかないのか―――答えは否だ。
 神樹の勇者、後に大赦の神輿となる未来を持つ幼い神童は槍を点ではなく面で扱うことに活路を見出した。
 奇しくも先程真人が自分の攻略に用いたのと同じ発想だ。

 触れれば裂ける先端部は相手にせず、真横から衝撃を与えて砕き折る。
 これならば相手取る上での危険は最低限に抑えられ、攻めと守りを両立することが出来る。

「は――――――」

 此処が正念場と判断し、園子は裂帛の気合を込める。
 生きるか死ぬかの極限状況に心臓が冷たく戦慄するのを感じながらも堪えて踏み出す。
 その姿、その勇気、まさに勇者。勇者とは勇気を持って立つ者なれば。

「――――――あああああああああああああああああッ!!!!」

 根こそぎに棘を砕きながら猛追し、槍を振り抜くと共に真人の顔面を蹴り抜いた。
 武器を使っての猛攻ばかりを見せておいての突然の肉弾戦に反応出来ず、鼻血を噴きながら仰け反る呪霊。
 崩れ去った均衡を活用しない理由はない。園子は更に踏み込んで、中空に浮いた真人の顔面へ続けて槍の柄を叩き込んだ。
 岸壁を超えて漆黒を湛えた海中に、その肉体を叩き落とす。
 水飛沫の立つ音を確認するなり、園子は弾かれたように振り向いてルビーの身体を抱き上げた。

「……逃げるよ、お姉さん!」
「へ!? う、うん……!」

 負った手傷を自己再生させる性質さえなければ、園子は追撃していたかもしれない。
 だが後ろに非戦闘員を抱えながら、どうすれば倒せるのかも分からない相手と戦い続けるのはあまりに分が悪すぎた。
 よって此処が丁度いい切り時だと判断し、園子はルビーを連れての撤退を選んだのだ。

(本当に、何が起きてるのかなー……っ)

 頭が痛くなりそうな思いを抱えながら、園子は駆けた。
 後ろから羽ばたきの音が聞こえないことを祈りながらの撤退はぞっとしないものがあったが、幸いそれなりの有効打にはなったらしい。
 乃木園子は勇者である。彼女は初陣にてその務めを見事に果たした。


▼▼▼


「は~あ、しんどいしんどい」

 真人は夜の海に浮かびながら、勇者との初戦をそう締め括った。
 純粋に相手の腕が立つというのもあったが、これまでとの戦いの感覚の違いに追い付くことに労力を割きすぎた結果だった。
 追おうと思えば追うことは出来たが、明らかに奥の手を隠し持っている相手に対して領域を使えない身で深追いするのは愚策だろう。
 ましてや初戦。この先幾度戦うかも分からないというのに、無駄に消耗するのは得策とは思えなかった。

(……俺の場合は特にそうだ。俺の存在を知ったら目の色変えて追っかけてくる奴がいるからね)

 虎杖悠仁―――その名前を名簿で見つけた時、情けなくも動悸を感じたことを真人は否定しない。
 真人は彼に完膚なきまでに敗北し、それまで感じたことのなかった恐怖と絶望を味わされた。
 捕食者から被食者へ堕ちる屈辱と、それを補って余りある恐怖。あれは二度と味わいたくない。
 だがそうも言っていられない。真人には確信があったからだ。虎杖が、自分を決して放っておかないだろうという確信が。


『俺はオマエだ』
『ただオマエを殺す。また新しい呪いとして生まれたらソイツも殺す。
 名前を変えても、姿を変えても、何度でも殺す。もう意味も理由もいらない』




「――――――はっ」

 今思い出しても背筋が寒くなり、身体が自然と震える。
 これが恐怖。死に続いて、虎杖は自分にそれまでも教えてくれた。
 あの男は自分を決して許さないだろう。地の果てまででも追いかけて、探し出して必ず殺しに現れるだろう。

「ああ……怖いな。人間の感情は余すところなく知ってるつもりだったけど……これは確かに、あんまり味わいたいものじゃないや」

 真人にとってこの儀式は、その時にどう備えるかの道程でしかなかった。
 領域を使えず、改造人間のストックもないこの有様であれに勝てるとは思えない。
 だから備えなければならない。いつか必ずやってくるその時までに、今度こそもうひとりの自分を殺せる力と作戦を。
 その点、真人は初っ端から改造人間の確保に失敗したことになる。

「さて……どうなるかね。まあどっちに転んでも、俺にとっては悪くない未来だ」

 自分が最初に出会った泳者と、それを守るために現れた槍持ちの勇者。
 その行く末に思いを馳せながら、真人はもうしばらく浮かんでいることを選んだようだった。
 何しろ考えなければいけないことは無数にあるのだ。
 これまでのことも、これからのことも。夏油傑改め加茂憲倫が何をしたいのかについても。

「二度目の生……存分に堪能させて貰うよ、夏油。俺はもう誰の思い通りにもならない。虎杖も、オマエも……全員出し抜いて、掻っ攫ってやる」

 人の呪いは再誕した。
 死を知り、恐怖を知って花咲く呪いの貴公子は不敵に微笑む。
 彼は成長する。強くなるのだ、かつて死地にて領域を会得しそれを跳ね返してみせたように。


【一日目/G-4/海面/未明】
【真人@呪術廻戦】
【状態】頭部にダメージ(中)
【装備】なし
【道具】基本支給品一式、ランダム支給品1~3
【思考・行動】
0:全て殺す。
1:虎杖との再戦に備える。
2:どうなるかなー。どっちに転んでもおいしいなー。
【備考】
※死亡後からの参戦です
※領域の展開が出来ません。
※肉体の再生は可能ですが、蓄積するダメージの度合いが増しています。


▼▼▼


「お姉さん、大丈夫~? 怪我はない?」
「あ、うん。えっと、ありがと……?」
「えへへ、どういたしまして~」

 乃木園子は近くの廃屋に逃げ込み、そこでやっと抱えていた星野ルビーを下ろした。
 追撃があったならどうするかは頭の痛いところだったが、幸い今のところその気配はなかった。
 ちゃんと倒せたとは正直思えない。だが、それなりのダメージを与えてやれた手応えはあった。
 それが功を奏したと思っておくことに決め、今はなんとか助け出せた歳上の少女の心配をすることにした。

「私は乃木園子っていいます。お姉さんのお名前も、よかったら教えてほしいなー」
「ん……星野ルビー。一応アイドルやってるんだけど―――まあ知らないよね、デビューしたてだし」
「あははー……」
「あ、その反応で知らないってわかった。もうっ、これから有名になってやるぞー!ってとこだったのになあ……!」

 見たところ、ルビーに怪我らしい怪我はない。
 そのことに安堵しつつ、ルビーの言葉に園子は愛想笑いを返した。
 消沈した様子を見せる彼女の頭を撫でてあげる姿には年相応の可愛らしさがある。

「…………」
「……ルビーさん、本当に大丈夫? もし痛いところとかあったらすぐに言ってね~……?」
「大丈夫、ほんとに大丈夫。ただちょっと、あんまりすごいもの見せられたから腰が抜けちゃって」
「ならいいけど……、そうだ。ルビーさんは、〝勇者〟って言って……分かる?」
「勇者? あー……ドラクエとかクロノトリガーに出てくる、ああいう……?」

 その言葉を聞いて園子は疑問を確信へと変えた。
 園子のいた世界で、勇者の存在を知らない人間はいないと言っていい。
 ましてやルビーのように、ちゃんとした環境で日常生活を送れているのが明らかな人物なら尚更だ。

 にも関わらず、彼女は勇者のことを知らないという。
 真人との戦いの最中でも思っていたことが真実味を帯びてきた。

(やっぱり、私達〝泳者〟は……違う世界同士から呼ばれてるってことになるのかな)

 幼い園子だが、それでも並行世界(パラレルワールド)という言葉に聞き覚えはある。
 その理屈を適用しなければこの状況はあまりにも辻褄が合わなかった。
 真人という異常な存在のことも、勇者の名前にずれた答えを返してくるルビーの無知さも、出身の世界が違うと考えれば理屈は通る。
 一体何をどうすれば違う世界同士から人を集められるのかという疑問はあるが、この考えはそれなりに信憑性があると園子は感じていた。
 何にせよひどく厄介なことになっている。
 この儀式を平定して加茂憲倫を倒す道程は思っていたよりも長く、そして大変なものになるだろうことはもはや確定的だった。

「……ごめん園子ちゃん、ちょっと今頭の中がこんがらがっちゃっててさ。
 真人さんのこともそうだし、いろいろあって―――もうちょっとだけ待っててほしいかも…………」
「うん。もちろん大丈夫だよー……私の方こそごめんね、いきなり変な話しちゃって。
 もしさっきの人が追いかけてきたらその時も私が戦うから、ルビーさんは安心して休んでー?」
「あはは、しっかりしてるね園子ちゃん。中学生でしょ? すごいなー、JCの頃の私園子ちゃんほどしっかりしてなかったよ」

 あ、そうだ。
 そう言ってルビーは園子に名簿を取り出し、見せてくる。
 探してる人でもいるのかなと思い、園子はそれを覗き込んだ。

「最初はさ、ただの悪ふざけだと思ったんだけど……」
「うん」
「この、〝星野アイ〟って名前……園子ちゃん、知ってたり、するー……?」
「……ルビーさん? 大丈夫……?」
「大丈夫大丈夫。それより、アイの……ママのこと知ってるか、教えてほしい……」

 結論から言うと―――答えは〝知らない〟以外にはない。
 だがそれよりも、ルビーの様子の方が気がかりだった。
 冷や汗をかいて言葉も途切れ途切れになり、見るからに不穏な様子だ。
 しかしそれを軟弱と責めるのはあまりに酷だろう。
 恐らくはついこの間まで、危機に瀕することもなく安穏と過ごしていた少女が突然殺し殺されの世界に放り込まれたのだ。
 なんとか諭して眠ってでももらった方がいいだろうか。
 そんなことを考えながら、園子は申し訳なさそうな顔でルビーへと言う。


「ごめん、ちょっと力になれないかも。でもルビーさんの大切な人なら、私もルビーさんと一緒に探すよー」
「そっ、かぁ……あのね、この人……私のママなんだぁ。
 ずっと前に死んだ、殺されたはずなんだけどね。でもなんでかここに名前があって、なんでかなあってなんでかなあって思って思って」
「……うん、うん。ルビーさん、今は一回休もう? 起きるまで待っててあげるから、だから―――」
「なんでかなあって。あんなに死んじゃって悲しかったのになんでかなあって、ほんとにママなのかなって、
 なんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでかなって
 なんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでかなって
 なんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでかなってなんでなんでなんでなんで」




 咄嗟に園子が反応できたことは、やはり大したものだと言わざるを得ない。
 ルビーが突然に振るった、右手。
 さっきまでとは明らかに違う、鋭く尖って大きく肥大化したそれをおかげで園子は避けることが出来た。
 とはいえ何が起こったのか、何が起こっているのかはまったく分からないままだ。
 そんな園子の目の前で星野ルビーは変貌していく。
 言葉の綾ではなく、文字通りの〝変貌〟だ。

「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでアイアイアイアイアイアイアイあいあいあいああいあいあ」

 目玉が巨大に歪んで、今度は腕だけでなく全身が肥大化する。
 顎が外れるほど大きく開いた口から垂れた唾液が、じゅうと音を立てて床板を溶かした。
 アイドルというきらびやかな職業に似合わない醜い姿への変容は明らかに人体の構造を無視している。

「る、ルビーさんっ」
「あいあいあいああいあいあいあいあいあいあいああいあいあいあいあいああいあああああいああいあいあああああああああああ」
「……っ!」

 園子の動揺を無視してルビーが、ルビー〝だったもの〟が掴みかかってくる。
 それを咄嗟に振り払って、園子は槍を構え直した。
 その姿こそ勇ましいが、彼女の顔に浮かぶ表情に真人と戦っていた時の面影はない。

(いったい、何が……まさか……っ)

 星野ルビーが最初から自分を騙すつもりだった可能性も考えはした。
 だがそれよりも最悪な可能性が、園子の脳裏に浮かび上がった。

 自分は間に合ったと思っていた。
 間一髪で助けに入り、無事に命を守れたと根拠もなくそう信じていた。
 しかしややもするとそれは違ったのではないか。自分は彼女を助けられてなどいなかったのではないか。


 自分が助けに入ったあの時点でもう、真人という悪鬼の魔の手は彼女に触れ終えていたのではないか―――



「あいあいあいあいあいあいああいあいあいあいああああああああああ、あああああああああああ――――――!!!!!」



 ……乃木園子の推測は正しかった。
 真人があの時これみよがしにルビーへ触れようとしたのは、彼が園子の存在を感じ取っていた故の行動だったのだ。
 近くにどうもただならぬ気配を滲ませた存在がいる。
 だからそれをおびき出すために、あえて見え透いた加害行動の予備動作を見せた。
 つまりあの時、真人はルビーをどうこうするつもりなどなかったのだ。
 何故ならそれはもう、とっくの昔に完了していたから。
 殺すにしろ改造(かえ)るにしろ、やろうと思えばいつでもそれが叶う状況を彼は園子が現れる前に整え終えていたから。


▼▼▼


『俺は真人。この儀式に乗るつもりは……まあ今のところないよ』
『そこは乗らないって断言して安心させてほしかったなあ』
『はは、逆にこの方が信用出来ない? 人間の心なんてちょっとしたことで変わるものなんだから。
 今はこうでもいずれ変わるかもしれないって示して貰えた方が、俺だったら安心出来るんだけどね』
『……真人さんってもしかして人付き合い下手?』
『かもね。何しろ始めたてだから』
『……確かに逆に信用できる気してきた。信じてもいい? 大丈夫?』
『大丈夫大丈夫。ほら、〝よろしくね〟の握手』
『じゃあ信じよっかな。よろしくお願いします、真人さん』
『うん。よろしくね、ルビーちゃん』


▼▼▼


 襲いかかってくるルビーだったものをいなしながら、園子は逡巡する。
 どうする、どうする―――どうすればいい。
 どうすればこの人を助けられる。いや、そもそも助けられるのか。

「……ルビーさん! しっかりして、お願い―――!」

 だがその言葉は届かない。
 もう、ルビーの発する声は言葉になっていなかった。
 肥えて歪に伸びた腕を振り回しながら襲いかかってくる。
 それを捌くことは園子にとって決して難しいことではなかったが、見かけ以上の負担を彼女に与えていた。

 さっきまで目の前で普通に喋っていた人間の豹変をどう対処すればいいのか。
 見るからに人間ではなくなっている彼女へ、自分はどうやって臨めばいいのか。
 それは園子にとって間違いなく初見の状況であり、人類の敵へ果敢に挑む勇者の心をこれでもかとばかりに掻き乱す作用を果たしていた。
 この場で鎮圧すればいつかは元に戻ってくれるのか、それとも何か特殊な手立てが必要なのか。
 そもそも元には戻らないのか―――最後の可能性だけは意図的に脳裏から排しながら、園子は槍を振るう。

 園子の判断は決して間違いではない。
 改造人間への変化という初見の事象に対してよく反応したほうだと言えるだろう。
 生かさず殺さずの状態を維持しながら、自分が真に為すべきことを混乱した脳髄で懸命に判断しようとしている。
 園子は正しい。彼女は人の命を救う勇者として、真に正しい働きを果たそうと最大限の努力をしていた。

「―――アイイイイイイイイイイッ!!!」
「っ……!」

 だから、その時起こったことについても彼女を責めることは出来なかった。
 園子は明らかに正気を失って向かってくるルビーを前にしても、それでも希望を失っていなかった。
 彼女を救う方法を考え、必死に頭を回転させていたのだ。
 あるいはそれがいけなかったのか。目の前で無法に暴れ狂う存在を前に、〝考える〟という行動そのものが悠長だったのか。
 覆い被さる勢いで迫ってきたルビーに園子は咄嗟に槍を構え、そして。


「あ」


 そんなもの知ったことか、と猛進してきたルビーの胸に、構えていた槍の穂先が突き刺さった。


「あ、え……ご、ごめん。ルビーさん、あ」


 人間の域を明らかに越えた変形。
 まるで、あの真人の力を再現したような人外ぶり。
 それを園子に対して見せていたルビーだが、終わりはあまりにも呆気なかった。
 胸に刺さった槍が抜けるなり、ごぼごぼと口及び胸の穴から血を噴き出して倒れ伏す。

「ぁ………い、アイ……ママ……おにいちゃ、アクア……」

 慌てて駆け寄る園子だが、既にルビーの視界に彼女の姿は入っていない。
 自分の知っている名前を繰り返しながら、叩き潰された虫のように痙攣する。

「……せん……せ、ぇ………………」

 〝それ〟が動かなくなるまでの時間も、胸を貫かれた人間のようにあっという間だった。
 最後、先生、と呼んで一度大きく震えてからはもう二度と動かない。
 昔動物番組か何かで見た、肉食獣に狩り殺されたシマウマの姿を園子は思い出していた。
 違うのは息絶えたそれが曲がりなりにも人間の形をしていたこと。
 そして―――それの命を奪ったのが他でもない自分自身だということだけ。




 乃木園子は勇者である。
 神樹に選ばれ、世界を守る資格を得て戦う勇者である。
 勇者とは勇気を持って立つ者。その命に代えても世界を、守るべき誰かを守り通すもの。
 その点園子は間違いなく勇者の務めを果たしていた。
 真人という討つべき巨悪に立ち向かい、そしてこれから誰かの命を脅かすだろう魔物を討ち果たしたのだから異を唱えられる者は誰もいまい。
 どの道彼女に星野ルビーを救うことは出来なかった。それが出来る可能性は存在しなかった。
 真人がルビーに触れた、園子が彼女を発見する前のその時にすべては終わっていたのだから。


 問題は、彼女がRPGの勇者のように選択肢の有無だけで動く存在ではなく。
 一つ一つの犠牲を認識して足を止めてしまう、心優しい人間だったことだろう。




【星野瑠美衣@推しの子 死亡】


【一日目/G-5/廃屋/未明】
【乃木園子@結城友奈は勇者である-鷲尾須美の章-】
【状態】疲労(中)、精神的動揺(大)
【装備】槍
【道具】基本支給品一式、ランダム支給品1~3
【思考・行動】
0:この儀式を止める。
1:――――――
【備考】
※三ノ輪銀死亡後からの参戦です。



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- 真人 :[[]]
- 星野瑠美衣 死亡
- 乃木園子 :[[]]

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最終更新:2024年01月04日 21:15