網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「佐藤春夫訳「徒然草」二百十一」で検索した結果

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  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十一
     一切の事物は信頼するに足りないものである。愚人はあまり深く物事を当にするものだから、怨んだり腹を立てたりすることが生ずる。権勢も信頼できない。強者は減びやすい。財産の豊富も信頼できない。時のまに無くなってしまう。才能があっても信頼できない。孔子でさえも不遇であったではないか。徳望があるからといって信頼はできない。顔回でさえも不幸であった。君主が寵遇も信頼はできない。たちまちに誅せられることがある。従者をつれているからと信頼することもできない。主人を捨てて遁げ出すことがある。人の厚意も信頼できない。きっと気が変る、約束も信頼できない。相手に信を守るのはすくない。相手ばかりか、わが身をも信頼しないでいれば、好い時は喜び、悪い時も怨まない。身の左右が広かったらなにも障らない。前後が遠かったならば行きづまることもない。しかし前後左右の狭い時には押しつぶされる。心を用いる範囲が狭小で峻厳な場合は物...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十
     呼子《よぶこ》鳥は春のものであるとばかり説いて、どんな鳥だとも確実に記述したものはない。ある真言の書のなかに、呼子鳥が鳴く時、招魂の法を行う式が書かれてある。これで見ると鵺《ぬえ》のことである。万葉集の長歌に「霞立つ長き春日の……」とあるところに「ぬえこ鳥うらなきをれば……」とある。この鵺子鳥と呼子鳥とは様子が似通うているようである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十九
     四条中納言藤原の隆資卿が自分に仰せられたには「豊原龍秋という楽人は、その道にかけては尊敬すべき男である。先日来て申すには、無作法きわまる無出78慮な申し分ではございますが、横笛の五の穴はいささか腑におちないところがあると、ひそかに愚考いたします。と申しますのは干《かん》の穴は平調《ひようじよう》、五の穴は下無調《しもむじょう》です。その間に勝絶調《しょうぜつじよう》を一つ飛んでおります。この穴の上の穴は双調《そうじよう》で、双調のつぎの鳧鐘調《ふしようじょう》を.一つ飛んで、夕《さく》の穴は黄鐘調《おうじぎじよう》で、そのつぎに鸞鏡調《らんけいじよう》を一つ飛んで、中の穴は盤渉調《ばんしきじよう》である。中の穴と六の穴とのあいだに神仙調を一つ飛んでいる。このように穴のあいだにはみな一調子ずつ飛ばしているのに五の穴ばかりはつぎの上の穴とのあいだに一調子を持っていないで、しかも穴の距離は他の...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十五
     平(北条)宜時朝臣《たいらののぶとぎあそん》が老後の追懐談に最明寺入道北秉時頼からある宵の口に召されたことがあったが「直ぐさま」と答えておいて直垂《ひたたれ》が見えないのでぐずぐずしていると、また使者が来て「直垂でもないのですか、夜分のことではあり、身装《みなり》などかまいませんから早く」とのことであったから、よれよれの直垂のふだん着のままで行ったところ、入道は銚子に土器《かわらけ》を取りそえて出て来て「これをひとりで飲むのがもの足りないので来て下さいと申したのです。肴《さかな》がありませんがもう家の者は寝たでしょう。適当なものはありますまいか、存分に探して下さい」と言われたので、紙燭《しそく》をつけて隅々まで探したところが小さな土器に味噌のすこしのせてあったのを見つけて「こんなものがありましたが」というと「それで結構」とそれを肴に愉快に数盃を傾け合って興に入られた。その当時はこんな質素...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十四
     想夫恋《そうふれん》という楽は女が男を恋い慕うという意味の名ではない。本来は、相府蓮というのが文字の音が通ずるので変ったのである。これは晋《しん》の王倹という人が、大臣としてその邸家に蓮を植えて愛した時の音楽である。これ以来大臣のことを蓮府ともいう。廻忽《かいこつ》という楽も廻鶻《こつ》がほんとうである。廻鶻国といって強い夷《えびす》の国があった。その夷が漢に帰服してから来て、自分の国の楽を奏したのである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十八
    狐は人の食いつくものである。堀川殿で舎人《とねり》が寝ていて足を狐にかまれたことがあった。仁和寺で、夜、本堂の前を通行中の下級の僧侶に狐が三疋飛びかかってくいついたので、刀を抜いてこれを防ぐうちに、狐二疋を突いた。その一疋は突き殺した。二疋は逃げた。僧はたくさんかまれはしたが、生命は別条もなかった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十七
     ある大富豪の説に「入は万事をさしおいて専念に財産を積もうとすべきものである。貧乏では生き甲斐も無い。富者ばかりが人間である。裕福になろうと思ったら、よろしくまずその心がけから修養しなければならない。その心がけとはほかでもない。入間はいつまでも生きておられるものという心持を抱いていやしくも人生の無常などは観じてはならない。これが第一の心がけである。つぎにいっさいの所用を弁じてはならない。世にある間はわが身や他人に関して願い事は無際限である。欲望に身を任して、その慾を果そうという気になると百万の銭があってもいくらも手に残るものではない。人の願望は絶え間もないのに、財産は無くなる時期のあるものである。局限のある財産をもって無際限の願望に従うことは不可能事である。願望が生じたならば身を亡ぼそうとする悪念が襲うたと堅固に謹慎恐怖して、些少の用をもかなえてはならない。つぎに、金銭を奴僕のように用いる...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十三
     天子のお前の火鉢に火を入れる時は、火箸で狭むことはしない。土器から直接に移し入れるのがよいのである。それ故炭を転ばさないように注意して積むべきである。上皇が石清水《いわしみず》八幡宮へ行幸の折にお供の人が白い浄衣《じようえ》を着ていて手で炭をついだのを、ある有職《ゆうそく》に通じた人が、白い物をきている場合は火箸を用いても悪くはないのだ、と言っていた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十二
    秋の月はこの上なくいいものである。いつでも月をこんなものであると思って、この季節の特別の趣に気がつかぬような人はすこぶる情けない次第である。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百
     呉竹は葉が細く、河竹は葉が広い。禁中の御溝《みかわ》のそばに植えられているのが河竹で、仁寿殿《じじゆうでん》のほうへ近くお植えになったのが呉竹である。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十六
     最明寺入道が鶴岡八幡へ参拝せられたついでに、足利左馬入道義氏のところへまず前触をつかわしてから立ち寄った。その時の御馳走の献立は第一献にのし鮑《あわび》、第二献に鰕《えび》、第三献に牡丹餅、これだけであった。その座には主人夫妻と隆弁僧上とが主人側の人であつた。宴が果ててから、「毎年下さる足利の染物はいただけましょうね」と言われたので、左馬入道は「用意しております」と種々の染物を三十種時頼の目の前で、召仕えの女どもに命じて小袖に截《た》たせ後から仕立てておくられた。この時、これを見た人が近ごろまで存生で、話して聞かせました。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百一
     退凡と下乗《げじよう》との卒都婆は紛らわしいものであるが、外側のが下乗で内側のが退凡である。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百二
     十月を神無月と呼んで神事には憚るということは、別に記したものもなければ、根拠とすべき記録も見ない。あるいは当月、諸社の祭礼がないからこの名ができたものか。この月はよろずの神々が大神宮へ集まり給うなどという説もあるが、これも根拠とすべき説はない。それが事実なら伊勢ではとくにこの月を祭る月としそうなものだのに、そんな例もない。十月に天皇が諸社へ行幸された例はたくさんにある。尤もその多くは不吉な例ではあるが。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百四
     犯罪者を笞《むち》で打つ時は拷器《こうき》へ近づけて縛りつけるのである。拷器の構造も、縛りつける作法も、今日ではわきまえ知っている人はないということである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百五
    比叡山にある大師|勧請《かんじよう》の起請文《きしようもん》というのは慈恵《じえ》僧上が書きはじめられたものである。起請文ということは法律家のほうでは無かったものである。古の聖代には、本来起請文などによって民を信用させた上で行う政治などは無かったはずのものを、近ごろになってこのことが流行になったのである。またついでながら、法令には水火には穢《けがれ》を認めていない。水火の入れ物には穢もあろう。水火それ自体に穢があるはずもない。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百九
     他人の田をわがものと論じ争ったものが訴訟にまけてくやしさに、その田を刈り取って亠米いと人をやったところが、これを命ぜられた者どもは、問題の田へ行く途中からよその田をさえ刈って行くので、そこは問題のあった田ではないと抗議されて、刈った者たちはその問題の田にしたところで刈り取る理由がないのに無茶をしに行くのだから、どこだって刈り取ってもかまうものですか、と言った。この理窟がすこぶるおかしい。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百六
     徳大寺右大臣公孝卿が、検非違使の別当であられた頃、検非違使庁の評定、すなわち裁判の最申に、役人|章兼《あきかね》の牛が車を放れて、役所の中に入り、長官の席の台の上へ登り込んで、反芻をしながらねていた。異常な怪事というので牛を占のところへやってト《うらな》わせようと人々が言っているのを、公孝卿の父の太政大臣実基公が聞かれて、牛にはなんの思慮もない、足があるのだからどこへだって登って行くのがむしろ当然である。微賎な役人が、偶然出仕に用いたつまらぬ牛を取り上げてよいものではなかろうー・しいうので、牛は持主に返し、牛がしゃがんだ畳はとりかえられた。別段なんらの凶事も起らなかったということである。怪事を見ても怪しいと思わない時は、怪事が逆に壊れてしまうともいわれている。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百七
     亀山殿を建設せられるために地ならしをなされたところが、大きな蛇が無数に寄り集まっている塚があった。この土地の神だと言って顛末を奏上したところが、どうしたものであろうかとの勅問があったので、衆議は昔からこの土地を占領していたものだから無闇に掘り捨てることはなるまいと言ったけれど、この太政大臣(前項の実基公)だけは王者が統治の地にいる虫どもが皇居をお建て遊ばすのになんの崇りをするものか。鬼神も道理のないことはしないから崇りはないはずである。みな掘り捨ててしまいさえすればよろしいと申されたので、塚を破壊して蛇は大井川へ流してしまった。果していっこうに祟りもなかった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二
     むかしの聖代の政治を念とせず、民の困苦も国の疲労をもかえりみず、すべてに豪華をつくして得意げに、あたりを狭しと振舞っているのを見ると、腹立たしく無思慮なと感ぜられるものである。 「衣冠から馬、車にいたるまでみな、有り合せのものを用いたがいい、華美を求めてはならない」とは藤原師輔《もろすけ》公の遺誠にもある。順徳院が宮中のことをお書き遊ばされた禁秘抄《きんぴしよう》にも「臣下から献上される品は粗末なのをよいとしなくてはならぬ」とある。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百八
     経文などの紐を結ぶのに上下から襷《たすき》のように交錯させてその二筋のなかからわなの頭を横へひっぱり出しておくのは普通のやり方である。しかるに華厳《けごん》院の弘舜僧正はこの結び方を見て解《と》いて直させ、この結び方は近頃の方法ですこぶるぶざまである。いいのは、ただくるくると巻きつけて上から下へわなのさきを押しはさんでおくのであると申された。老人でこんなことに通じた人であった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三
     勅勘を蒙った家に靱《ゆぎ》をかける作法は、今では知っている人がまるで無い。天子の御病気のおん時とか疫病の流行する時には、五条の天神に靱をお掛けになる。鞍馬に靱の明神というのがあるのも靱をかけられた神である。看督長《かとのおさ》(検非違使の下役、巡査部長の類)の負うていた靱を勅勘の者の家に掛けると人がその家へ出入りしないようになるのである。このふうが絶えてから後は封を門戸につけることとなって今日におよんでいる。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十
     五条の内裏《だいり》には化物《ぱけもの》がいた。藤大納言殿のお話しなされたところでは、殿上人たちが黒戸の間に集合して碁を打っていたら、御簾を上に持ち上げて見るものがある。誰だとふり向いて見ると、狐が入間のようにちゃんと坐って.のぞいていたので、やあ、狐だと騒がれて逃げまどうていた。未熟な狐が化けそこなったものと見える。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百二十一
     建治弘安の頃は、賀茂の祭の放免、言ってみれば検非違使《けびいし》の雑役の遷物《ぬりもの》には、変な紺の布四五反で馬の形をつくり、尾や髪を燈心でつくって、蜘蛛《くも》の巣をかいた水干をきた上へこれを引っかついで、この意匠をそこから取った和歌ー蜘蛛のいの荒れたる駒はつなぐとも二道《ふたみち》かくる人はたのまじーを口ずさんだりしながら渡って行ったのは、以前はよく見かけたもので興味のある趣向だなあと思っていたのにと今日も年とった遣潔(検非違使庁の下役人)連と話し合ったものである。近年はこの遵物《ぬりもの》が年々に贅沢の度がひどくなって、さまざまな重いものなどを身につけて左右の袖を人に持たせ、自分は当然持つべき鉾《ほこ》さえ持てないで、息づかい苦しげの様子ははなはだもって醜悪である。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百二十
     何事も地方のは下品で不作法であるが、天王寺の舞楽だけは、都の舞楽にくらべて遜色がないと言ったら、天王寺の伶人が言うには当寺の楽はよく標準律に則《のつと》って音を合せるので、音の立派に調っていることは他所の楽よりすぐれている。というのは聖徳太子のおん時の標準律が現存しているのでそれによるのです。この標準律というのは、あの六時堂の前にある鐘です。あの鐘の声は黄鐘調のまん中の音(イ調の四なりとか)です。もっとも気候によって音の高低がありますから二月十五日の涅槃会《ねばんえ》から、同月二十二日の聖霊会までのあいだの音を標準にするのです。これは大切な秘伝です。この一音調をもとにして他の音をととのえるのです」と言った。一たい鐘の声というものは黄鐘調であるべきものである。これは無常の音調で、天竺《てんじく》の祇園精舎《ぎおんしようじや》の無常院の鐘の声がこれである。西園寺の鐘は黄鐘調に鋳ようというので...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百四十
     忍ぶ恋ゆえ憚る人目の窮曲さに心のままならず暗夜にまぎれて通うのに、周囲にはつき守る人の多いのを、無理にも通おうとする心の、深く痛切なのに感動させられて、忘れられないことなども多くなるのであろう。親兄弟が認めて、 一途に迎え取って家に据えておくようなのはあまり公然すぎ露骨にいとわしく、天下晴れてはまぶしく恥かしかろうではないか。世に住みあぐんだ女が不似合いな年寄坊主や卑しい東国人、なんでもよいから、景気のよさそうなのに気をひかれて、さながらに根のない浮ぐさの誘う水にまかせてどこの岸にでもという気になっているのを、媒介人が双方へうまく持ちかけて見も知らず、知られもせぬ人をつれてくる。愚劣千万な話。おたがいに何を話題のいとぐ.ちにすることやら。年来慕って逢うすべもなかった憂さつらさ、恋路の峠をなど語り合ってこそはじめて話の種も趣もつきぬものではあろうに。 一切を他人が取計らってくれたのなどは気...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百四十一
     十五夜の月の円満な形も一刻も固定的なものではない。すぐ欠けてくる。注意深くない人は一夜のうちにだって月の形がそれほど変化して行く状態などは目にもとまらないのであろう。病が重るのもある状態で落ちついている隙もなく、刻々に重くなって行ってやがて死期は的確に来る。しかし病勢がまだあらたまらず、死に直面しないあいだはとかく人間は人生が固定不動という考えが習慣になって生涯のうちに多くの事業を成就して後静かに仏道を修行しようなどと思っているうちに病にかかって死の門に接近する。その時かえりみれば平生の志は何一つ成就していない。この度命をとりとめて全快したら昼夜兼行このこともあのこともつとめて完成しようという念願を起すようであるが、ほどなく病が昂じては我を忘れて取り乱して終る。人間は誰しもこんなふうである。なん人《びと》もこの一事を痛切に念頭におくべきである。欲望を成就して後に、余暇があったら道を修しよ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十一
     園《そのの》別当入道藤原基氏は料理にかけては無比の名人であった。ある人のもとで立派な鯉を出したので、衆人は別当入道の庖丁《ほうちよう》を見たいと思ったが、こともなげに言い出すのもはばかられるので遠慮していたのに、別当入道は如才のない人で「このあいだから、百日つづけて鯉を切ることにしていましたのに、今日だけ休みたくないものです。ぜひともそれをいただいて切りましょう」と言って切られたのはすこぶる好都合で面白いとみなは感じました。と、ある人が北山太政入道殿西園寺公経に話したところがそんなことを自分はまことに小うるさいと思います。切る人がないなら下さい切りましょうと言ったらもっとよかったでし,軌うに。なんだって、百口の鯉を切るなんて、ありもしないこしらえごとを、と仰せられたのは、いかにもと存じましたとある人が言ったのに自分もすこぶる共鳴した。一たい、いろいろ趣を凝らして面白味をそえたのよりは、わ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十五
     持主のある家へは、用のない人聞などが気ままに入って来ることはないが、主のいない家へは、通りがかりの人でも無闇に入りこんで来る。狐や梟《ふくろう》のようなものでも主のない家は人気に妨げられないから、得意然と入りこんで住み、木魂《こだま》などという怪異などまで現われるものである。また鏡には色や形がないから、種々の物の影も映る。もし鏡に定住のものともいうべき色や形があったなら、外物の影は映らないのであろう。空虚なところへはよく物が入りこむ。雑多な慾念が勝手に思い浮かんで来るのも、本心というものがないからであろう。心に一定の主体さえあったなら、胸中かように雑多なことが入っては来ないのであろう。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十七
    「柳箱《やないばこ》におくのは、縦向きにしたり、横向きにしたり、物品によるものでしょうか、巻物などは縦において、木の間からこよりを通して結びつけます。硯も縦におくと、筆が転ばないでよい」と三条右大臣殿が言っておられた。世尊寺家のお方たちは、かりにも縦におくことはなく、きっと横向きに据えられたものでした。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二十一
     すぺてのことは月を見るにつけて慰められるものである。ある人が月ほどおもしろいものはあるまいと言ったところが、別の一人が露こそ風情《ふぜい》が多いと抗議を出したのは愉快である。折にかないさえすればなんだって趣のないものはあるまい。  月花は無論のこと、風というものがあれで、人の心持をひくものである。岩にくだけて清く流れる水のありさまこそ、季節にかかわらずよいものである。「洗湘《げんしよう》日夜東に流れ去る。愁人のためにとどまることしばらくもせず」という詩を見たことがあったが、なかなか心にひびいた。また岱康《けいこう》も「山沢《さんたく》にあそびて魚鳥を見れば心|慰《たの》しむ」と言っている。人を遠ざかって水草の美しいあたりを遣遙するほど、心の慰められるものはあるまい。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百四十三
     八歳になった時、自分は父にたずねて仏とはどんなものでしょうかというと、父は仏には人間がなったのだという。またたずねて人間がどうして仏になったのでしょう。すると父が答えて仏に教えられてなるのです。さらにたずねてその教える仏は何が教えて仏にしたのでしょう。父が答えてそれもまたその前になっていた仏の教えによっておなりなすったものです。そこでさらにたずねて、それではその一番はじめに教えた第一番の仏は、どうしてできた仏でしょうと言うと、父は、さあそれは天から降ったかも知れない地から湧いたのかも知れないと言って笑った。後で子供に問いつめられて返答ができなくなりました、といろんな人に話して面白がっておられた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百二十六
     後鳥羽院のおん時、信濃前司行長は学問において名誉のあった人であったが、この人が楽府の御議論の中に召し加えられた際、七徳の舞の中の二徳を忘れたので、五徳冠者という仇名をつけられた。それを苦にして学問をやめて出家したのを叡山の慈鎮和尚は一芸のある者は、たとい下僕でも召し抱えて寵遇したのでこの信濃入道行長をも養っておかれた。この行長入道が平家物語を作って、これを生仏《しようぶつ》という盲人に教えて語らせた。それで自分の世話になった延暦寺のことをとくべつに立派に書いているのである。九郎判官のことはくわしく知って記載してある。蒲冠者《がまのかんじや》のことはじゅうぶん知らなかったものを書き洩らしている事蹟が多い。武人、兵馬のことは生仏が関東の出身者であったので、武士に問わせて記入したのである。あの生仏の性来の音声を、現代の琵琶法師はまねているのである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百二十七
     六時礼讃《ろくじらいさん》は法然上人の弟子の安楽という僧が、経文を集めてつくり、日没、初夜、中夜、後夜、晨朝、午時の六時にこれを誦して勤行したのである。その後、太秦《うずまさ》の善観房という僧がそれに節を決めて梵唄としたものであった。一念義流の念仏の最初である。これを唱えることは、後嵯峨天皇の御代から始まった。法事讃も同じく善観房がはじめたものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十三
     万端、過失のないようにと心がけるなら、何につけても誠実に、相手を問わず恭謙の態度をもって言葉数の少いのに越したことはない。老若男女を問わず、何人《なんぴと》も、そういう人が好いけれど、なかんずく、青年で風采のあがった人が言葉のよいのは忘れ難く感銘するものである。すべての過失というものば馴れ切った様子で上手ぶり、巧者らしい態度に、人を呑んでかかるので起るものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十一
    「囲碁、双六を好んで、これに耽って夜を明し日を暮す人は四重五逆の重罪にもまさる悪事であると思う」とある高僧が申されたのが、今に忘れず、結構な言葉と感じられた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十二
     総じて、人間は無智無能な者のようにしているのがよろしい。ある人の子で、風采なども立派な人が、父の前で人と話をするのに史籍の文句を引用していたのは、賢こそうに聞えはしたが、目上の人の前では、そんなでない方だと感じたものだ。  またある人のもとで、琵琶法師の物語を聞こうと琵琶を取り寄せたところ、その柱《じゆう》の一つが落ちていたので、すぐに柱を作つてつけておいたらよかろうというと、一座にいた相当なふうをした男が、古い檜杓《ひしやく》の柄がありますかというので、その男を見ると爪を長くはやして琵琶などを弾く男だなと思えた。盲法師のひく琵琶は音楽のもの同様に取扱うにもおよばぬ沙汰である。自分がその道の心得があるというつもりで、きいたふうを言ったのかと思うと冷汗ものであった。檜杓の柄は、ひもの木とかいうもので好くないものだのに、と後にある貴人が言っておられた。若い人の場合はちょっとしたことでも、好...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十四
     人がものを問うた時、知らないわけでもあるまい。ありのままに答えるのも気がきかないとでも思うのか、曖昧な返事をするのはよくないことである。知っていることでも、もっと確実にしたいと思って問うのであろうし、また、本当に知らない人だって無いはずもなかろう。それ故、人の質問に対しては明白に答えるのが穏当であろう。人がまだ聞きつけないことを自分が知っているからというので、先方から問い合せがあった時などに、自分のひとり合点でただあの人のこともあきれかえったものですねというようなことだけを返事してやると、事件そのものを判然と知らないほうでは、どんなことがあったのだろうかとさらにおしかえして問いに行かなければならないのなどはまことに厭な次第である。世間周知のことだって、つい聞き洩す場合だってあるのだから、腑に落ちない節のないように知らせてやるのが、なんで悪いはずがあろうか。こんなやり方は、世事に馴れない人...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十八
     御随身《みずいじん》の近友の自讃といって、七ヵ条書きつけていることがある。馬術に関したつまらぬことどもである。その先例に見ならって自分にも自讃のことが七つある。  一、人を多く同伴して花見をして歩いたが、最勝光院の附近で、ある男の馬を走らせているのを見て「もう一度あの馬を走らせたら、馬がたおれて落馬するでしょう。ちょっと見ていてごらん」と言って立ちどまっているとまた馬を走らせた。それをとめようとするとろで馬をひき倒し、男は泥のなかへ転び落ちた。自分の言葉の的中したのに、人々はみな感心した。  一、今上の帝が、まだ東宮であらせられた頃、万里小路《までのこうじ》殿藤原宜房邸が東宮御所であった。堀川大納言殿東宮大夫藤原師信が伺候しておられたお部屋へ、用事で参上したところが、論語の四五六の巻を繰りひろげていられて「ただ今東宮御所で、紫の朱《あけ》をうばうをにくむ」という文を御覧遊ばされたいこ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十九
     八月十五日、九月十三日は婁宿《ろうしゆく》の日である。この婁宿は清明な宿であるから、月を賞するのに絶好の夜としてある。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十六
     丹波に出雲《いずも》という所がある。名にちなんで杵築大社をうつして立派に社を造営している。志太の某という人が、知行しているところだから、この人が、秋の頃、聖海上人をはじめ、数多の人々を誘い、さあどうぞ、出雲の社へ御参詣かたがた牡丹餅でも召し上って下さいというので、案内して行ってくれたので、人々は参拝して大いに信心を起したが、ふと見ると神前の獅子や狛犬《こまいぬ》が反対に、うしろ向きに立っていたので、上人がひどく感心して、ああ有難い。この獅子の立ち方がじつに珍らしい。深いわけがあろうと感涙をもよおして.「どうですみなさん、有難いことが、お気づきにはなりませんか。仕方のない人たちだ」と言ったので、人々も不思議に思って「なるほど、他処《よそ》とは変っていますね。都への土産話にしましょう」などと言ったものだから、上人は一そうゆかしく思って、おとなしくて物わかりのしそうな顔をした神官を呼んで「ここ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百二十五
     楽人|多久資《おおのひさすけ》が話したのに、通憲《みちのり》入道信西が舞の所作の中からおもしろいのを選んで磯の禅師という女に舞わせた。その姿は白い水干に鞘巻《さやまき》という刀をささせ、烏帽子《えぼし》をかぶらせたから男舞とよんだ。禅師の娘の静《しずか》というのがこの芸を伝承した。これが白拍子の起源である。仏神の由来縁起を歌ったものであった。その後源の光行が多くの歌曲を作った。後鳥羽院の御製になったのもある。院はこれを亀菊という遊女にお教えになったということである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二十
     何某とやらいった世捨人がこの世の足手まといも持たない自分にとっては、ただ空の見納めがこころ残りであると言ったのは、なるほどそう感じられたであろう。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百二十四
     陰陽師の安倍有宗入道が鎌倉から上京して訪問してくれたが、まず入りがけにこの庭が無闇と広すぎるのはよくないことで感心できない。もののわかった人は植物の養成を心がける。細い道を一筋残しておいて、みな畠にしてしまいなさいと忠告したものであった。なるほどすこしの土地でも打ち捨てておくのは無益なことである。食料になる野菜や薬草などを植えておくのがよかろう。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百二十八
     千本の釈迦念仏は、文永の頃、如輪《によりん》上人が始められたものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百二十三
     九条基家公を鶴の大殿と申したのは、幼名がたず君であったのである。鶴をお飼いになったからというのは誤りである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百二十二
     竹谷の乗願坊という坊さんが、後深草院の后《ぎさぎ》東二条院のおんもとへ参られた時、亡者の追善には何が一番|利益《りやく》がすぐれているかとおたずねがあったので、乗願坊は、光明真言の宝篋印陀羅尼《ほうぎよういんだらに》でございますと答えたのを、後で、弟子どもがなんであんなことを仰せられましたか、念仏こそ第一等でこれにおよぶものはございますまいとどうしておっしゃらなかったのですかと言ったところが、乗願坊の答えるには、わが宗派ではあり、そう答えたいものではあったが、たしかに念仏が追善に大きな利益があると書いてある経文は見たことがないので、そのことは何経に出ているかと重ねておたずねのあった時、なんとお答えできようかと案じて、根拠になるたしかな経文に従ってこの光明真言宝篋印陀羅尼と申し上げたのであると言われた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百二十九
     よい細工人は、いくぶん鈍い刀を使用する、ということである。光仁朝の名仏工妙観の刀もあまり鋭利ではない。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二十九
     静かに思うと、何かにつけて過去のことどもばかり恋しくなって来て仕方がない。人の寝静まってのち、夜長の退屈しのぎにごたごたした道具など片づけ、死後には残しておきたくないような古|反古《ほこ》などを破り棄てているうちに、亡くなった入の手習や絵など慰みにかき散らしたものを見つけ出すと、ただもうその当時の心持になってしまう。今現に生きている人のものだって、いつどんな機《おり》のものであったろうかと考えてみるのは身にしみる味である。使い古した道具なども、気にもとめず久しいあいだ用いなれているのは、感に堪えぬものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二十四
     斎宮《いつきのみや》が野宮《ののみや》におらせられるおん有様こそ至極優美に興趣のあるものに感ぜられるではないか。経、仏などは忌《い》んで、「染め紙」「中子《なかご》」などと言うのもおもしろい。元来が、神社というものはなんとなく取柄のある奥ゆかしいものだ。年を経た森の景色が超世間だのに、玉垣をめぐり渡して榊《さかき》に木綿《ゆう》をかけてあるところなど堂々たらぬはずはない。わけてもすぐれているのは伊勢、加茂、春日《かすが》、平野、住吉、三輪、貴船、吉田、大原野、松の尾、梅の宮である。  (一) 伊勢の大神宮に奉仕される内親王が嵯峨の有栖《ありす》川の御殿で潔斎される時のことをいうのである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二十三
     衰えた末の世ではあるが、それでも雲の上の神々しい御様子は世俗を離れて尊貴を感じるのである。  露台、朝飼《あさがれい》、何殿、何門などは立派にも聞えるであろう。下々《しもじも》にもある小蔀《こじとみ》、小板敷、高遣戸《たかやりど》などでさえ高雅に思われるではないか。「陣に夜のもうけせよ」というのはどっしりしている。夜御殿《よんのおとど》をば「かいともし、とうよ」などというのもまた、有難い。上卿《しようけい》の陣で事務を執《と》っておられる様は申すにおよばぬこと、下役の者どもが、得意振った容子《ようす》で事務に熟達しているのも興味がある。すこぶる寒い頃の徹夜にあちらこちらで居睡をしている者を見かけるのがおかしい。「内侍所の御鈴の音はめでたく優雅なものです」などと、徳大寺殿の基実太政大臣が申しておられる。  (一) 節会の折の諸卿の席ハ陣)に燈火の用意を命令する言葉である。  (二) 主上...
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