網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「佐藤春夫訳「徒然草」八十四」で検索した結果

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  • 佐藤春夫訳「徒然草」八十四
     法顕《はうけん》三蔵が印度に渡って古郷《ふるさと》の扇を見ては悲しんだり、病気にかかると、支那の食物をほしがったりしたことを、あれほどの人物でありながらひどく女《め》々しい態度を外国人に見せてしまったものだとある人が言ったのを、弘融僧都がまことに人情に富んだ三蔵であったなあと言ったのは、法師にも似合わしくないことをよくも言ったと感じ入った。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」八十
     誰も彼も、自分に縁の遠いことばかりを好くようである。坊主が軍事に心がけ、田舎武士が弓術を心得ないで仏法を知った様子をしたり、連歌をしたり、音楽を好んだりしている。それでも、至らぬ自分の道でよりも、別の道楽のおかげで人から馬鹿にされるものである。坊主ばかりではない。身分の高い公卿や、殿上人など.上流の人たちまでも、大方は武を好む人が多い。  百戦して百勝したからと言ってまだ武勇の名誉は許されない。というのは、運に乗じて敵を粉砕する場合は、何人とて勇者のようで無い人もあるまい。兵士は尽き、矢種が絶えて後でも敵には降らず安らかに死について、そこではじめて名誉をあらわすことのできるのが武道である。生きているほどの人は、まだ武を誇ってはなるまい。武道はそもそも人倫に遠く禽獣に近い行為なのだから、その家柄でもない者が好むのは無益のことである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」八十二
    羅《うすもの》の表紙は早く損じて困るとある人が言ったら、頓阿が、羅の表紙なら上下がほぐれ、螺鈿《らでん》の軸は貝が落ちてしまって後が結構なのであると言ったのは、頓阿に敬意を感ぜしめる。数冊を一部としたとじ本の類の揃っていないのを不体裁なというが、弘融僧都が、なんでもきっと完全に揃えようとするのは未熟な人間のすることである。不揃いなのがよいのだと言ったのも、さすがはと思った。いったい、何につけても、事の完備したのはよくないものである。でき上らないのをそのままにしてあるのも面白く、気持がのんびりするものである。内裏を造営せられるにも、きっと完成せぬところを残しておくものであるとある人が話していた。古の聖賢の作った儒仏経典にしても章や段の欠けていることが多い。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」八十一
     屏風や襖などが絵にしろ文字にしろ拙劣な筆致でできているのは、そのものが見苦しいよりも、その家の主人の趣味の至らぬのがなさけないのである。いったいその所有の日用品によっても、その人柄を軽蔑することはあるものである。それほど上等のものを持つべきであるというのではない。破損しては惜しいというので品格のない見にくいものにしておいたり、珍奇なのがよいというので無用な装飾があったり、繁雑な好みをしているのをよくないというのである。古風に大げさでない高価にすぎぬもので品質のすぐれたのが好もしいのである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」八十五
     人間の心というものは素直なものではないから偽がないとは言えない。けれども自然と正直な人だって無いと断言できようか。自分は素直ではなくて人の賢を見て羨むのが世間の常態である。それを最も愚な人が賢い人を見たりすればこれを悪《にく》むものである。大きな利益を得ようと思って小さな利益を受けないとか虚飾をして名声を博しようとするのだとか謗《そし》る。自分の心と賢者の行為とが違っているのでこんな非難をする者の正体は察せられる。これらの人は愚中の愚で、とうていつける薬もない。彼らはいつわりにもせよ小利を解することもできまい。うそにも愚者の真似はしてならない。狂人の真似をして大通りを走ったら、つまりは狂人である。悪人の真似だといって人を殺したら、悪人である。千里の駿馬に見ならうのは千里の駿馬の仲聞である。大聖舜を学ぶ者は舜の一類である。上べだけにしろ賢者を手本にするのを賢者といっていいのである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」八十六
     惟継《これつぐ》中納言は詩歌の才能に富んだ人である。生涯仏道に励んで一心に読経して、三井寺の円伊という法師といっしょに住んでいたが、文保年間三井寺の焼けた時坊主の円伊を見かけると「あなたを今までは寺法師とお呼びしていましたが、寺が無くなってしまいましたから、今後は法師と言いましト"う」と言った。すばらしいしゃれであった。(訳者蛇足)この段古来の解みなせんさくに過ぎてかえっておぼつかなく思われる。敢て愚解を加えれば中納言の酒々磊々たる風貌を伝えんとするものであろう。寺の焼け落ちるや、別段の見舞いをいうでもなく一片の常談としてしまう。兼好はこの際のこの言葉を「いみじき秀句」と評したのであろう。単に「寺法師」「法師」の語だけに拘泥して全文を見ることを忘れてはなるまい。軽い常談にまぎらしたようで一場の笑に必ずしも情味がないでもない、まことにいみじき秀句である。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」八十七
     下僕に酒を飲ませることは注意すべきである。宇治に住んでいた男が京都にいた具覚《ぐがく》坊といって風流な脱落した僧が小舅《こじゆうと》であったので常に仲のよい相手であった。ある時迎え馬をよこしたので、遠方の所を来たのだからまあ一杯やらせようというので、馬の口を曳いている男に酒を出したところが、杯をうけて垂涎しながら何杯も飲んだ。この下僕は太刀を佩いて威勢がいいので、頼もしく思いながら引き従えて行くうちに、木幡《こはた》の辺へ来た頃、奈良法師が兵士をたくさん引きつれたのに出逢ったので、この男が立向って日の暮れた山中に怪しいそ止まれといって太刀を引き抜いたので向うの人々もみな太刀を抜き弓に矢をつがえなどしたのを具覚坊が見て、揉み手をしながら本性もなく酔っております者です、まげてお宥《ゆる》し願いたいと言ったので人々は嘲りながら通りすぎた。この男は今度は具覚坊に向って来て貴公は残念なことをしてく...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」八十九
     奥山に、猫又というものがあって人を食うものであるとある人がいうと、山でなくともこの辺にも、猫の年功を経たものが猫又に成り上って人を取ることはあるものですよというものもあったのを、何阿弥陀仏とかいう連歌をする法師が、行願寺の附近に住んでいたのが聞いて、ひとり歩きをする身分だから、用心しなければと思っていたところから、ある所で連歌で夜更かしをしてただ一人で帰って、小川の端を通りかかっていると、噂に聞いていた猫又が果してこの坊主の足許へふと寄って来るとすぐさま掻きのぼり、頭のあたりに喰いつこうとした。胆をつぶして防ぐ力さえ失せ、足も立たず小川へ転び入って、助けてくれ猫又だ、助けてくれと叫ぶので、あたりの家々から松明《たいまつ》などつけて駆けつけて見ると、近所に顔見知りの坊主であった。これはどうなされたと川の中から抱き起して見ると、連歌の賭物《かけもの》に取って来た扇や小箱などを懐中していたのも...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」八十三
     竹林院入道左大臣殿(西園寺公衡公)は太政大臣にのぼられるのはなんの差しつかえも無かったけれど、「太政大臣も別に珍らしくもない。左大臣の位でやめよう」と言って出家せられた。洞院《とういんの》左大臣殿もこのことをわが意を得たことに思って太政大臣の望みは抱かなかった。亢龍《こうりよう》に悔《くい》があるとやら言うこともある。月も満つれば欠け、物も盛りになると衰える。何事につけても、この上なしというのは破滅に近い道理である。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」八
     人間の心を惑《まど》わすものは色情に越すものがない。人間の心というものはばかばかしいものだなあ。匂いなどは、仮《か》りのものでちょっとのあいだ着物にたき込めてあるものとは承知の上でも、えも言われぬにおいなどにはかならず心を鳴りひびかせるものである。  久米《くめ》の仙人が、洗濯していた女の脛《はぎ》の白いのを見て通力《つうりき》を失ったというのは、まことに手足の膚《はだ》の美しく肥え太っていたので、外の色気ではないのだけに、ありそうなことではある。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」八十八
     ある人が小野道風が書いた和歌朗詠集を所有していたのを、さる人が御相伝のお品でいいかげんなものとも存ぜられませぬが、四条大納言が選ばれたものを道風が書いたのでは時代に錯誤がございましょう。変なものですなと言ったところが、それだからこそ珍重なのでございますと一そう大切に保管した。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八十四
     相模守北条時頼の母は松下禅尼といった。ある時時頼を請待《しようだい》されることがあったが、その準備に、煤けた紙障子の破れたところばかりを、禅尼は手ずから小刀で切張りをしておられた。禅尼の兄の秋田|城介《じようのすけ》義景が、その日の接待役になって来ていたが、その仕事はこちらへ任せていただいて何の某にさせましょう。そういうことの上手な者ですからと言ったところが禅尼はその男の細工だってわたしよりは上手なはずはありますまいよと答えて、やはり一問ずつ張っておられたので、義景がみな一度に張りかえたほうがずっと面倒くさくないでしょう。斑《まだら》に見えるのも不体裁でしょうしと重ねて言ったので、尼は、わたしも後にはさっぱりと張り代えようとは思っていますが、今日だけはわざとこうしておきたいのです。物は破れたところだけ修繕して使用するものであると若い人に見習わせ、心得させるためですと言われた。誠に結構なこ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二
     むかしの聖代の政治を念とせず、民の困苦も国の疲労をもかえりみず、すべてに豪華をつくして得意げに、あたりを狭しと振舞っているのを見ると、腹立たしく無思慮なと感ぜられるものである。 「衣冠から馬、車にいたるまでみな、有り合せのものを用いたがいい、華美を求めてはならない」とは藤原師輔《もろすけ》公の遺誠にもある。順徳院が宮中のことをお書き遊ばされた禁秘抄《きんぴしよう》にも「臣下から献上される品は粗末なのをよいとしなくてはならぬ」とある。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」六
     わが身の富貴《ふうき》と、貧賎とにはかかわらず、子というものは無くてありたい。  前《さき》の中書王兼明《ちゆうしよおうかねあきら》親王も、九条《くじよう》の伊通《これみち》太政大臣、花園の有仁《ありひと》左大臣などみな血統の無いのを希望された。染殿《そめどの》の良房太政大臣に「子孫のなかったのはよい。末裔の振わぬのは困ることである」と大鑑《おおかがみ》の作者も言っている。聖徳太子が御在世中にお墓をおつくらせなされた時も「ここを切り取ってしまえ、あそこも除いたほうがいい。子孫を無くしようと思うからである」と仰せられたとやら。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」一
     何はさて、この世に生れ出たからには、望ましいこともたくさんあるものである。  帝の御位はこの上なく畏《おそれ》多い。皇室の一族の方々は末のほうのお方でさえ、人間の種族ではいらせられないのだから尊い。第一の官位を得ている人のおんありさまは申すにおよばない。普通の人でも、舎人《とねり》を従者に賜わるほどの身分になると大したものである。その子や孫ぐらいまでは落ちぶれてしまっ、ていても活気のあるものである。それ以下の身分になると、分相応に、時運にめぐまれて得意げなのも当人だけはえらいつもりでいもしようが、つまらぬものである。  法師ほどうらやましく無いものはあるまい。「他人には木の片《はし》か何かのように思われる」と清少納言の書いているのも、まことにもっともなことである。世間の評判が高ければ高いほど、えらいもののようには思えなくなる。高僧増賀《ぞうが》が言ったように名誉のわずらわしさに仏の御教え...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」七
     あだし野の露が消ゆることもなく、鳥部山に立つ煙が消えもせずに、人の命が常住不断のものであったならば、物のあわれというものもありそうもない。人の世は無常なのが結構なのである。  生命のあるものを見るのに入間ほど長いのはない。かげろうの夕を待つばかりなのや、夏の蝉の春や秋を知らないのさえもあるのである。よくよく一年を暮してみただけでも、この上もなく、悠久である!  飽かず惜しいと思ったら千年を過したところで一夜の夢の心地であろう。いつまでも住み果せられぬ世の中に見にくい姿になるのを待ち得てもなんの足しになろうか。永生きすれば恥が多いだけのものである。せいぜい四十に足らぬほどで死ぬのがころ合いでもあろうか。  その時期を過ぎてしまったら、容貌を愧《は》じる心もなく、ただ社会の表面に出しゃばることばかり考え、夕日の・落ちて行くのを見ては子孫のかわいさに(一)、益々栄えて行く日に逢おうと生命の欲望...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」三
     万事に傑出していても、恋愛の趣を解しない男は物足りない。玉でつくられた杯《さかずき》に底がないような心持のするものである。露や霜に濡れながら、当所《あてど》もなくうろつき歩いて、親の意見も世間の非難をも憚っているだけの余裕がないほど、あちらにもこちらにも心定まらず苦しみながら、それでいてひとり寝の時が多く、寝ても熟睡の得られるという時もないというようなのがおもしろいのである。そうかと言ってまるで恋に溺れ切っているというのではなく、女にも軽蔑されているというのでないのが理想的なところである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」十
     住居の身分に相応なのはうぎ世の仮りの宿りではあるがと思いながらも楽しいものである。  身分のある人がゆったりと住んでいるところへは、照らし入る月光までが一そう落ちついて見えるものである。現代的に華美ではないが植込みの木々が古色を帯びて天然に生い茂った庭の草も趣をそえて縁側や透垣《すいがい》の配置もおもしろく、座敷の内のおき道具類も古風なところがあって親み多いが奥ゆかしく思われる。多くの細工人が工夫を凝《こ》らして立派に仕上げた唐土《もろこし》やわが国の珍奇なものを並べ立てておき、庭の植込みにまでも自然のままではなく人工的につくり上げたのは、見た目にも窮屈に、苦痛を感じさせる。これほどにしたとこちでどれほど永いあいだ住んでいられるというものだろうか。また瞬くひまに火になってしまわないともかぎらない。と一見してそんなことも考えさせられる。たいていのことは住居から推して想像してみることもできる...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」五
     不運にも憂いに沈んでいる人が髪などを剃《そ》って、世をつまらぬものと思い切ったというのよりは、住んでいるのかいないのかと見えるように門を閉じて、世に求めることがあるでもなく日を送っている。  というほうに自分は賛成する。  顕基中納言《あぎもとのちゆうなごん》が「罪無くて配所《はいしよ》の月が見たい」と言った言葉の味もなるほどと思いあたるであろう。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」九
     女は髪の毛のよいのが、格別に、男の目につくものである。人がらや心がけなどは、ものを言っている様子などで物をへだてていてもわかる。ただそこにいるというだけのことで男の心を惑わすこともできるものである。一般に女が心を許す間がらになってからも、満足に眠ることもせず、身の苦労をも厭《いと》わず、堪えられそうにもないことによく我慢しているのはただ容色愛情を気づかうためである。実に愛着の道は根ざし深く植えられ、その源の遠く錯綜したものである。色《しき》、声《しよう》、香、味、触、法の六塵の楽慾も多い。これらーはみな容易に心からたち切ることもできないではないが、ただそのなかの一つ恋愛の執着の、抑え難いのは老人も青年も智者も愚者もみな一ようのように見受けられる。それ故、女の髪筋でつくった綱には大象もつながれ、女のはいた下駄でこしらえた笛を吹くと秋山の鹿もきっと寄って来ると言い伝えられている。みずから戒め...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」序
     欝屈のあまり一日じゅう硯にむかって心のなかを浮かび過ぎるとりとめもない考えを.あれこれと書きつけてみたが、へんに気違いじみたものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」十四
     和歌となると一だんと興味の深いものである、下賎な樵夫《きこり》の仕事も、歌に詠《よ》んでみると趣味があるし、恐ろしい猪なども、臥猪《ふすい》の床などと言うと優美に感じられる。近ごろの歌は気のきいたところがあると思われるのはあるが、古い時代の歌のように、なにとなく言外に、心に訴え心に魅惑を感じさせるのはない。貫之《つらゆき》が「糸による物ならなくに」と詠んだ歌は、古今集の中でも歌屑だとか言い伝えられているが、現代の人によめる作風とは思えない。その時の歌には風情《ふぜい》も旬法もこんな種類のものが多い。この歌にかぎって、こう貶《おと》しめられているのも合点がゆかぬ。源氏物語には「ものとはなしに」と書いてはいる。新古今では、「残る松さへ峯にさびしき」という歌をさして歌屑にしているのは、なるほど幾分雑なところがあるかも知れない。けれどもこの歌だって合評の時にはよろしいという評決があって、後で後鳥...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」四
     死後のことをいつも心に忘れずに、仏教の素養などがあるのが奥ゆかしい。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百
     久我相国(太政大臣源雅実公)は殿上で水を召上る時、主殿司《とのもつかさ》が土器《かわらけ》を差上げると、わげものを持って参れと仰せられて、わげもので召し上った。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」三十四
     甲香《かいこう》は、螺《ほらがい》のようなものが、形が小さく、口の所が細長く出ている貝の蓋である。武蔵《むさし》の金沢という浦で取れたのを、土地の人は「へたなり」と呼んでいるということであった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」七十四
     蟻のように集まって、東西に急ぎ、南北に奔走している。高貴の人もあれば卑賤の人もある。老人もいるし、若者もいる、出かけて行く場所があり、帰って来る家庭がある。みな、夜には寝て、朝になれば起きて働く。営[々と労苦するのはなんのためであるか。死にたくない。儲けたい。休息する時もない。身を養って何を待つのであろうか。待つのはただ年をとって死ぬだけのことではないか。死期の来るのは速いもので、一秒一秒の間でさえ近づいて来ているのである。これを待つ間にどんな楽しみがあり得るか。眩惑されている者はこれを恐れない。名聞や利慾に惑溺して冥途の近づくことを顧慮しないからである。愚人はまた徒《いたず》らに死の近づくのを悲しむ。人生をいつまでもつづけたいと願って変化の法則を悟らないためである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六
     高野の証空上人が京へのぼろうとしていると、細い道で馬に乗っている女に行きあったが、馬の口引きの男が馬の引き方を誤って上人の馬を堀のなかへ落してしまった。上人はひどく立腹して「これは狼藉《ろうぜき》千万な。四部の弟子と申すものは、比丘《びく》よりは比丘尼が劣り、比丘尼よりは優婆塞《うばそく》が劣り、優婆塞より優婆夷《うばい》が劣ったものだ。このような優婆夷|風情《ふぜい》の身をもって、比丘を堀の中へ蹴入れさせるとは未曽有の悪行である」と言われたので、相手の馬方は,「何を仰せられるのやらわかんねえよ」と言ったので、上人はますます息巻いて「なんと吐《ぬか》すか非修非学《ひしゆひがく》の野郎」と荒々しく言って、極端な悪口をしたと気がついた様子で、上人はわが馬を引返して逃げ出された。尊重すべき、天真爛漫、真情流露の喧嘩と言うものであろう。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二十四
     斎宮《いつきのみや》が野宮《ののみや》におらせられるおん有様こそ至極優美に興趣のあるものに感ぜられるではないか。経、仏などは忌《い》んで、「染め紙」「中子《なかご》」などと言うのもおもしろい。元来が、神社というものはなんとなく取柄のある奥ゆかしいものだ。年を経た森の景色が超世間だのに、玉垣をめぐり渡して榊《さかき》に木綿《ゆう》をかけてあるところなど堂々たらぬはずはない。わけてもすぐれているのは伊勢、加茂、春日《かすが》、平野、住吉、三輪、貴船、吉田、大原野、松の尾、梅の宮である。  (一) 伊勢の大神宮に奉仕される内親王が嵯峨の有栖《ありす》川の御殿で潔斎される時のことをいうのである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」六十四
     車の簾につける五緒《いつつお》の飾は、決して人によってつけるものではなく、何人《なんぴと》でもその分際として最高の官位に到達したら、それをつけて乗るものであると、ある人の話であった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」九十四
     常磐井《ときわい》の太政大臣(西園寺実氏公)が出仕された際に、勅書を捧持している北面の武士が、実氏公に出会って馬からおりたのを、実氏公は後になって「北面の某は勅書を捧持しながら自分に下馬した者である。こんな者がどうして、主上のお役に立つものか」と申されたので北面を免職になった。勅書の捧持者は、勅書を馬上のままで捧げて示ぜばよい。馬からおりてはいけないそうであった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十四
     今出川の太政大臣菊亭兼季公が嵯峨へお出かけになられた時、有栖《ありす》川の附近の水の流れているところで、さい王丸が牛を追ったために足掻《あがき》の水が走って前板のところを濡らしたのを、お車の後に乗っていた為則|朝臣《あそん》が見て「怪《け》しからぬ童だな。こんな場所で牛を追うなんてことがあるか」と言った。すると大臣は顔色をかえて「お前は車の御《ぎよ》し方をさい王丸以上に心得てもいまい。怪しからぬ男だ」と言って為則の頭を突いて車の内側でこつんとやらせた。この牛飼の名人のさい王丸というのは太秦殿《うずまさどの》、信清内大臣の召使で、天子の御乗料の牛飼であった。この太秦殿につかえている女房にはそれぞれに膝幸《ひざさち》、特槌《ことづち》、胞腹《ほうばら》、乙牛《おとうし》などの牛に縁のある名がつけられていた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」五十四
     御室《おむろ》(仁和寺)に非常に美しい児《ちこ》があったのを、どうかしておびき出して遊ぼうとたくらんだ法師どもがいて、芸のある遊び好きの法師どもと相談して、気のぎいた弁当のようなものを、念入りに用意して箱のようなものに入れておいて雙岡《ならびがおか》の具合のよさそうなところへ埋め、その上に紅葉を散らしかけたり、思いがけないようにしておいて、仁和寺の御所へ行ってその児を誘い出して来た。うれしがってあちらこちらを遊び廻って来たあげく、そこらの苔の莚《むしろ》に並んで「ひどくくたびれた。誰か紅葉を焼いて一杯あたためないか。効験のある僧たち一つ祈ってみてはどうだ」などと言い合って、埋めてある木の根もとに向って数珠《じゆず》をおし揉んで、もったいらしく印を結んだりして、気取られないように振舞いながら、木の葉を掻きのけて見たがいっこう何も見えない。場所を間違えたろうかと、掘らぬ場所などないほど山中を...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三
     後宇多院の御所の大覚寺殿でおそばつかえの人々がなぞなぞをこしらえて解いているところへ、医師の忠守が参ったので、侍従大納言|公明《きんあきら》卿が「わが朝のものとも見えぬ忠守や」となぞなぞにせられたのを「唐瓶子《からへいし》」と解いて笑い合ったので、忠守が気を悪くして出て行ってしまった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」十一
     十月の頃、栗栖野《くるすの》という所を過ぎてある山里へたずね入ったことがあったが、奥深い苔の細道を踏みわけて行ってみると心細い有様に住んでいる小家があった。木の葉に埋れた筧《かけひ》の滴《したたり》ぐらいよりほかは訪れる人とてもなかろう。閼伽《あか》棚に菊紅葉などを折り散らしているのは、これでも住んでる人があるからであろう。こんなふうにしてでも生活できるものであると、感心していると、向うの庭のほうに大きな蜜柑の木の、枝もたわむばかりに実のなっているのがあって、それに厳重に柵をめぐらしてあるのであった。すこし興がさめて、こんな木がなければよかったのになあと思った。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百五
     家屋の北側の日かげに消え残った雪が固く氷りついたのに、差し寄せた車の轅《ながえ》にも雪が凝ってきらきらしている。明け方の月は冴え切っているが、隈無く晴れ渡ったというほどの空でもない。と見るあたりに人目に遠い御堂の廊下に、身分ありげに見える男が女と長押《なげし》に腰をかけて話をしている有様は、何を語り合っているのやら、話はいつ果てるとも思えない。髪、かたちなどすこぶる美しいらしい。言うに言われぬ衣の香が、さっと匂って来るのも情趣が深い。身動きのけはいなどが、時たまに闢えてくるのもゆかしい。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百九
     木のぼりの名人と定評のあった男が人の指図をして高い木にのぼらせて、梢を切らせたのに、非常に危険そうに思われたあいだは何も言わないでいて、おりる時、軒端ぐらいの高さになってから「怪我をするな、気をつけておりよ」と言葉をかけたので「これぐらいなら、飛びおりてもおりられましょうに。どうして注意しますか」と言ったところが「そこがですよ。目のまうような、枝の危いほどのところでは、自分が怖ろしがって用心していますから申しません。過失は、なんでもないところで、きっとしでかすものですよ」と言った。いやしい下層の者であったが、聖人の訓戒にも合致している。鞠《まり》もむつかしいところを蹴ってしまって後、容易だと思うときっとし損じると申すことである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」四十四
     粗末な竹の編戸の中から、ごく若い男が、月光のなかでは色合ははっきりしないが、光沢のある狩着に、濃い紫色の指貫《さしぬき》を着け、由緒ありげな様子をしているが、ちいさな童子をひとり供につれて遠い田の中の細い道を稲葉の露に濡れながら歩いて行くとき、笛をなんともいえぬ音に吹きなぐさんでいた。聞いておもしろいと感ずるほどの人もあるまいにと思われる場所柄だから、笛の主の行方が知りたくて見送りながら行くと、笛は吹きやめて山の麓に表門のある中に入った。榻《しじ》に轅《ながえ》を載せかけた車の見えるのも市中よりは目につくような気がしたので、下部《しもべ》の男に聞いてみると「これこれの宮様がおいでになっていられるので、御法事でも遊ばすのでしょうか」と言う。  御堂の方には法師たちが来ていた。夜寒の風に誘われて来る空薫《そらだき》の匂も身にしみるようである。正殿から御堂への廊《ろう》を通う女房の追い風の用...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」十七
     山寺に引き籠っていて仏に仕えているのこそ、退屈もせず、心の濁りも洗い清められる気のするものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」五十
     応長の頃、伊勢の国から女が鬼になったのを引き連れて都へ来たということがあって、当時二十日ばかりというものは毎日、京白川辺の人が、鬼見物だというのであちらこちらとあてもなく出歩いていた。昨日は西園寺に参ったそうであるし今日は院の御門へ参るであろう。今しがたはどこそこにいたなどと話し合っていた。確実に見たという人もいなかったが、根も葉もない嘘だという人もない。貴賤みな鬼のことばかり噂して暮した。その時分、自分が東山から安居院《あぐいん》のほうへ行ったところ、四条から上のほうの入はみな北をさして走って行く。一条室町に鬼がいると騒ぎ立てていた。今出川附近から見渡すと、院のおん棧敷の附近はとうてい通れそうもない群集であった。まったく根拠のないことでも無いようだと思って、人を見させにやったが、誰も逢って来たという者もない様子であった。夜になるまで、こんなふうに騒ぎ、果ては喧嘩がおっぱじまって、怪我人...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」九十
     大納言法印の石使っていた乙鶴丸《おとつるまる》という童がやすら殿という者と知り合いになって常によく訪ねていたが、ある時やすら殿の家から乙鶴丸が出て帰るところを法印が見つけて「どこへ行って来たか」とたずねると「やすら殿のところへ行っていました」という。法印に「そのやすら殿というは、男か法師か」と重ねて問われて、乙鶴丸は袖かき合せて、てれながら「さあ法師ですか知ら、頭は見ませんでした」と返事をした。どうして頭だけ見えなかったものやら。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」四十
     因幡《いなば》の国に何の入道《にゆうどう》とかいう者の娘が美貌だというので、多くの人が結婚を申しこんだが、この娘はただ栗ばかり食べて、米の類はいっこう食べなかったので、こんな変人は人の嫁にはやれないといって、親が許可しなかった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八
     寸陰を惜しむ人は無い。これは悟り切っての上でのことか。馬鹿で気がつかないのであろうか。馬鹿で懈怠《けたい》の人のために言いたいが、一銭は軽いがこれを積み上げれば貧民を富豪にさせる。それ故金を志す商人が一銭を惜しむ心は切実である。一刹那は自覚せぬほどの小時間ではあるが、これが運行しつづけて休む時がないから命を終る時期が迅速に来る。それ故道を志す道人は漠然と概念的に月日を惜しむべきではない。ただ現実に即して、現在の一念、一瞬時がむなしく過ぎ去ることを惜しむべきである。万一誰かが来て我らの命が明日はかならず失われるであろうと予告したとすれば、今日の暮れてしまうまで、何事を力とし、何事に身を委ねるか。我らの生きている今日の一日は、死を予告された日と相違はあるまい。一日のうちに飲食、便通、睡眠、談話、歩行、などの止むを得ないことのために多くの時間を消失している。その余の時間とては、いくらもないのに...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」十二
     同じ心を持った人としんみり話をして、おもしろいことや、世のなかの無常なことなどを隔てなく語り慰め合ってこそうれしいわけであるが同じ心の人などがあるはずもないから、すこしも意見の相違がないように対話をしていたならば、ひとりでいるような退屈な心持があるであろう。無いから、すこしも相手と違わないようにと対座しているとしたら、ひとりぽっちでいるような退屈な気持がするであろう。  双方言いたいだけをなるほどと思って聞いてこそ甲斐もあるものであるから、すこしばかりは違ったところのある人であってこそ、自分はそう思われないと反対をしたり、こういうわけだからこうだなどと述べ合ったりしたなら、退屈も紛《まぎ》れそうに思うのに、事実としてはすこしく意見の相違した人とはつまらぬ雑談でもしているあいだはともかく、本気に心の友としてみると大へん考え方がくいちがっているところが出て来るのは、なさけないことである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百
     呉竹は葉が細く、河竹は葉が広い。禁中の御溝《みかわ》のそばに植えられているのが河竹で、仁寿殿《じじゆうでん》のほうへ近くお植えになったのが呉竹である。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」十三
     ひとり燈下に書物をひろげて見も知らぬ時代の人を友とするのがこの上もない楽しいことではある。書ならば文選《もんぜん》などの心に訴えるところの多い巻々、白氏文集、老子の言説、荘子の南|華《か》真経だとか、わが国の学者たちの著書も、古い時代のものには心にふれることどもが多い。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十
     双六《すごろく》の上手と言われた人に.その方法を訪うたことがあったが、「勝とうとおもってかかってはいけない。負けまいとして打つのがいい。どの手が一番早く負けるかということを考えて、その手を避けて、一目だけでも遅く負けるはずの手を用いよ」と言った。この道に通じたものの教えである。身を治め国を安泰ならしめる道とてもまたこの通りである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百四
     荒れた家の人目に立たないあたりへ、女が世間を憚る節《ふし》があって、退屈そうに引き籠っている頃、ある方が御訪問なさろうというので、夕月夜のほのぐらい時刻に忍んでおいでになったところが、犬が大げさに吠えついたので、下女が出て、どちら様からと聞いたのに案内をさせておはいりなされた。心ぼそげな様子はどんなふうに生活していることかと気の毒であった。へんな板敷の上にしばらく立っていると、しとやかな若々しい声で「こちらへ」と言う入があったので、明け立ても窮屈に不財由な戸を明けておはいりになった。室内の様子はそんなにひどくもない。奥ゆかしくも燈は遠くうすぐらいほどではあるが物の色合などもよく見え、にわか仕込みでないにおいが大へんにものなつかしく住んでいた。門をよく気をつけさせて、雨も降りそうですよ、御車は門の下へ入れてお供はどこそこへ案内なさいと腰元が下女に言うと、「今夜こそ心丈夫に落ちついて寝られる...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百二
    尹大納言光忠入道が憂の上卿(幹事に相当)をつとめられたので、洞院右大臣殿に式の次第を教えて下さいと申し入れたところ、「あの又五郎という者を師にするよりほかに良策もあるまい」とおっしゃった。この又五郎というのは老人の衛士《えじ》でよく朝廷の儀式に馴れた者であった。近衛殿が着席せられた時|膝着《ひざつき》(敷物)を忘れて外記(太政官記録係)を召されたのを、火を焚いていた又五郎が「式はじめにまず膝着のお召しだ」と小声で呟いていたのはまことに面白かった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八十
    「さぎちょう」は正月に毬《まり》を打って遊んだ毬杖《ぎじよう》を真言院から神泉苑へ出して焼き上げたのがもとである。「法成就《ほうじょうじゆ》の池にこそ」と囃すのは、神泉苑の池をいうのである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」七十
    元応(後醍醐天皇御即位の時)の清暑堂の御遊に、名器の玄上《げんじよう》が失われていた時分、菊亭右大臣が牧馬《ぼくば》を弾じたが、座についてまず柱《じゆう》を触ってみると、一つ落ちた。けれども大臣は懐中に続飯《そくい》を持って来ていたのでつけたから、神饌の来る頃にはよく乾いて、なんの不都合もなしによく弾くことができた。  どういう訳であったか、見物人のなかの衣被《ぎぬかつぎ》の者が近づいてその柱をもぎ放して、もとのように見せかけておいてあったのだという。
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