網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「佐藤春夫訳「徒然草」百」で検索した結果

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  • 佐藤春夫訳「徒然草」百
     久我相国(太政大臣源雅実公)は殿上で水を召上る時、主殿司《とのもつかさ》が土器《かわらけ》を差上げると、わげものを持って参れと仰せられて、わげもので召し上った。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六
     高野の証空上人が京へのぼろうとしていると、細い道で馬に乗っている女に行きあったが、馬の口引きの男が馬の引き方を誤って上人の馬を堀のなかへ落してしまった。上人はひどく立腹して「これは狼藉《ろうぜき》千万な。四部の弟子と申すものは、比丘《びく》よりは比丘尼が劣り、比丘尼よりは優婆塞《うばそく》が劣り、優婆塞より優婆夷《うばい》が劣ったものだ。このような優婆夷|風情《ふぜい》の身をもって、比丘を堀の中へ蹴入れさせるとは未曽有の悪行である」と言われたので、相手の馬方は,「何を仰せられるのやらわかんねえよ」と言ったので、上人はますます息巻いて「なんと吐《ぬか》すか非修非学《ひしゆひがく》の野郎」と荒々しく言って、極端な悪口をしたと気がついた様子で、上人はわが馬を引返して逃げ出された。尊重すべき、天真爛漫、真情流露の喧嘩と言うものであろう。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三
     後宇多院の御所の大覚寺殿でおそばつかえの人々がなぞなぞをこしらえて解いているところへ、医師の忠守が参ったので、侍従大納言|公明《きんあきら》卿が「わが朝のものとも見えぬ忠守や」となぞなぞにせられたのを「唐瓶子《からへいし》」と解いて笑い合ったので、忠守が気を悪くして出て行ってしまった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百五
     家屋の北側の日かげに消え残った雪が固く氷りついたのに、差し寄せた車の轅《ながえ》にも雪が凝ってきらきらしている。明け方の月は冴え切っているが、隈無く晴れ渡ったというほどの空でもない。と見るあたりに人目に遠い御堂の廊下に、身分ありげに見える男が女と長押《なげし》に腰をかけて話をしている有様は、何を語り合っているのやら、話はいつ果てるとも思えない。髪、かたちなどすこぶる美しいらしい。言うに言われぬ衣の香が、さっと匂って来るのも情趣が深い。身動きのけはいなどが、時たまに闢えてくるのもゆかしい。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百九
     木のぼりの名人と定評のあった男が人の指図をして高い木にのぼらせて、梢を切らせたのに、非常に危険そうに思われたあいだは何も言わないでいて、おりる時、軒端ぐらいの高さになってから「怪我をするな、気をつけておりよ」と言葉をかけたので「これぐらいなら、飛びおりてもおりられましょうに。どうして注意しますか」と言ったところが「そこがですよ。目のまうような、枝の危いほどのところでは、自分が怖ろしがって用心していますから申しません。過失は、なんでもないところで、きっとしでかすものですよ」と言った。いやしい下層の者であったが、聖人の訓戒にも合致している。鞠《まり》もむつかしいところを蹴ってしまって後、容易だと思うときっとし損じると申すことである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八
     寸陰を惜しむ人は無い。これは悟り切っての上でのことか。馬鹿で気がつかないのであろうか。馬鹿で懈怠《けたい》の人のために言いたいが、一銭は軽いがこれを積み上げれば貧民を富豪にさせる。それ故金を志す商人が一銭を惜しむ心は切実である。一刹那は自覚せぬほどの小時間ではあるが、これが運行しつづけて休む時がないから命を終る時期が迅速に来る。それ故道を志す道人は漠然と概念的に月日を惜しむべきではない。ただ現実に即して、現在の一念、一瞬時がむなしく過ぎ去ることを惜しむべきである。万一誰かが来て我らの命が明日はかならず失われるであろうと予告したとすれば、今日の暮れてしまうまで、何事を力とし、何事に身を委ねるか。我らの生きている今日の一日は、死を予告された日と相違はあるまい。一日のうちに飲食、便通、睡眠、談話、歩行、などの止むを得ないことのために多くの時間を消失している。その余の時間とては、いくらもないのに...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十
     双六《すごろく》の上手と言われた人に.その方法を訪うたことがあったが、「勝とうとおもってかかってはいけない。負けまいとして打つのがいい。どの手が一番早く負けるかということを考えて、その手を避けて、一目だけでも遅く負けるはずの手を用いよ」と言った。この道に通じたものの教えである。身を治め国を安泰ならしめる道とてもまたこの通りである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百四
     荒れた家の人目に立たないあたりへ、女が世間を憚る節《ふし》があって、退屈そうに引き籠っている頃、ある方が御訪問なさろうというので、夕月夜のほのぐらい時刻に忍んでおいでになったところが、犬が大げさに吠えついたので、下女が出て、どちら様からと聞いたのに案内をさせておはいりなされた。心ぼそげな様子はどんなふうに生活していることかと気の毒であった。へんな板敷の上にしばらく立っていると、しとやかな若々しい声で「こちらへ」と言う入があったので、明け立ても窮屈に不財由な戸を明けておはいりになった。室内の様子はそんなにひどくもない。奥ゆかしくも燈は遠くうすぐらいほどではあるが物の色合などもよく見え、にわか仕込みでないにおいが大へんにものなつかしく住んでいた。門をよく気をつけさせて、雨も降りそうですよ、御車は門の下へ入れてお供はどこそこへ案内なさいと腰元が下女に言うと、「今夜こそ心丈夫に落ちついて寝られる...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百二
    尹大納言光忠入道が憂の上卿(幹事に相当)をつとめられたので、洞院右大臣殿に式の次第を教えて下さいと申し入れたところ、「あの又五郎という者を師にするよりほかに良策もあるまい」とおっしゃった。この又五郎というのは老人の衛士《えじ》でよく朝廷の儀式に馴れた者であった。近衛殿が着席せられた時|膝着《ひざつき》(敷物)を忘れて外記(太政官記録係)を召されたのを、火を焚いていた又五郎が「式はじめにまず膝着のお召しだ」と小声で呟いていたのはまことに面白かった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百一
     ある人が大臣任命式の内弁(式場内準備委員ともいうべき役柄)を勤められたが、内記(詔勅宣命類の起草官)の持っていた辞令を持たずに、式場に入ってしまった。この上なしの失態であるが出直して持って来るというわけにも行かぬ。当惑し切っていると、持っていた六位内記中原康綱が衣かつぎの女官と相談をしてこっそりと内弁に渡させた実に立派な仕打ちであった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七
     女の話しかけた言葉にすぐさまいい工合な返事というものは滅多にないものである。というので亀山院のおん時に、洒落な女房どもが若い男が来るたびに、「ほととぎすをお聞きなされましたか」と問い試してみたところ、某の大納言とかは「わたくし風情《ふぜい》は聞くこともかないません」と返事をされた。堀川内大臣は「岩倉(額)で聞いたことがあるようです」と言われたのを、「これは無難である。わたくし風情はと来ては困ったものだ」などと批評していた。いったい、男というものは、女に笑われないように育て上げるべきものであるということである。「浄土院前関白殿は御幼少から安喜院様がよくお教えなされたのでお言葉づかいなどもいい」とある人が申された。山階《やましなの》左大臣殿は「下賤な女に見られても大変に羞《はずか》しくて気がおける」とおっしゃった。女のない世界であったら衣紋《えもん》も冠も、どうなっていようが引きつくろう人も...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百九十
     妻というものこそ男の持ちたくない者ではある。いつも独身でなどと噂を聞くのはゆかしい。誰某の婿になったとか.またはこういう女を家に入れて同棲しているなどと聞くのはとんとつまらぬものである。格別でもない女を好い女と思って添うているのであろうと軽蔑されもするだろうし、美人であったら男はさだめし可愛がって本尊仏のように勿体ながっているであろう。たとえばこんなふうになどと滑稽な想像もされて来る。まして家政向きな女などは真平《まつびら》である。子などができてそれを守り育て愛しているなどはつまらない。男が亡くなって後尼になって年を老っている有様などは死んだ後までもあさましい。どんな女であろうと、朝夕いっしょにいたら、疎ましく憎らしくもなろう。女にとっても夫の愛は足らず自由はなく中ぶらりんな頼みすくないものであろう。別居して時々通うて住むというのがいつまでも永つづきのする問がらともなろう。ちょっとのつも...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十五
     宿《しゆく》河原という場所で虚無僧《ぽろぽろ》が多数集合して九品《くほん》の念仏をとなえていたところへ、外から虚無僧が入って来て「もしや、このなかにいうおし坊と申す梵論僧《ぼろぼろ》はおられますまいか」とたずね,たので、群集のなかから「いろおしはわたくしです。そう言われるのはどなたですか」と答えた。すると虚無僧は「自分はしら梵字というものです。わたしの師匠の某という人が、東国でいろおしという人に殺されたと聞いておりますから、そのいろおしという人に会って仇をとりたいとたずねております」という。すると、いろおしは「よくもたずねて来た。たしかにそんなことがありました。ここでお相手をいたしては、道場をけがす虞《おそ》れがありますから前の川原でたち合いましょう。どうぞ、みなの衆、どちらへもお加勢は御無用に願いたい。多人数の死傷があっては仏事の妨害になりましょうから」と言い切って、二人で川原へ出かけ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十七
     友達にするのによくないものが七つある。一には高貴な身分の人、二には年少の入、三には無病頑健の人、四には酒の好きな人、五には武勇の人、六には虚言家、七には慾の深い人。善い友は三つある。一にはものをくれる友、二には医者、三には智恵のある人。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百四十
     死後に財宝をのこすようなことは智者のせぬところである。よくないものを蓄えておくのも品格を下げるし、立派なものは執蒼のほどを思わせるので趣味性ならぬ、人生観を浅薄に思わせる。ましてさまざまなものがごたごたとあるのはいよいよいけない。自分が手にいれたいという人々が現われて、争いになるのは不体裁である。後に誰に譲りたいと思うものがあるなら、生存中に譲るべきである、毎日欠くべからざるものは無くてはなるまい。それ以外のものはなに一つ持たないでいたいものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十二
     明日は遠国へ旅行すると聞いている人に対って、落ちついてしなければならない用事を、頼む者があろうか。切迫した大事に着手しているとか、切実な悲歟に暮れている人などは、他人のことなど耳に入れず、他人の喜びや悔みごとにも行かない。行かないからといってうらみとがめる人もあるまい。それ故、年もだんだんとって来たり、病身になっていたり、ましてや出家している人などももちろん、同じことであろう。人間の礼儀、何が無視できないものがあろうか。世間がうるさいからといって何事も、義理で仕方がない、これを果そうと言っていたら、願望は増すし、身体は苦しむ、心は忽忙になる、 一生涯は世俗の些雑な小さな義理に妨害されてむなしく終るであろう。日が暮れたが前途がまだ遠い、わが生ももはやよろめく力なさである。一切の世俗関係をうっちゃらかしてしまうべき時機である。約束も守るまい。礼儀をも気にかけまい。この心持を感じない人は、われ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十六
     寺院の称号や、その他何ものにでも名をつけるに、昔の人はすこしも凝《こ》らないで、ただありのままに、簡単につけたものであった。この頃では考えこんで学識を衒《てら》って見せたふうのあるのはすこぶる気障《きざ》なものである。人の名でも、見なれない文字をつけようとするのはつまらぬことである。万事に奇を求め、異説を好むのは才の足りない人物がよくやることだそうな。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十四
     今出川の太政大臣菊亭兼季公が嵯峨へお出かけになられた時、有栖《ありす》川の附近の水の流れているところで、さい王丸が牛を追ったために足掻《あがき》の水が走って前板のところを濡らしたのを、お車の後に乗っていた為則|朝臣《あそん》が見て「怪《け》しからぬ童だな。こんな場所で牛を追うなんてことがあるか」と言った。すると大臣は顔色をかえて「お前は車の御《ぎよ》し方をさい王丸以上に心得てもいまい。怪しからぬ男だ」と言って為則の頭を突いて車の内側でこつんとやらせた。この牛飼の名人のさい王丸というのは太秦殿《うずまさどの》、信清内大臣の召使で、天子の御乗料の牛飼であった。この太秦殿につかえている女房にはそれぞれに膝幸《ひざさち》、特槌《ことづち》、胞腹《ほうばら》、乙牛《おとうし》などの牛に縁のある名がつけられていた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十八
     鯉の羮《あつもの》を食べた日は鬢《びん》の毛が乱れないということである。膠《にかわ》にさえ製造するほどの物だからねばりけのあるものにちがいない。鯉ばかりは主上の御前でも料理されるものであるから、貴い魚である。鳥では雉《ききじ》が、無類の結構なものである。雉や松茸などはお料理座敷の上にかけてあっても差つかえはないが、その他のものは入れるわけには行かぬ。中宮の東二条院のお料理座敷の黒棚に雁のおかれてあったのを、中宮のおん父の北山入道殿が御覧になって、御帰邸の後すぐお手紙で、このような品がそのままの形でお棚におりますことは異様に感じられました。無作法のことと思われます、識見のある侍女がおそばにおつかえしておられないためかと思われます。と書き送った。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十九
     鎌倉の海で、鰹《かつお》という魚は、あの辺では無上のものとして近来は賞美されている。これ も鎌倉の老人が話したのだが、「この魚は自分らの若年の時代までは相当な人の前へは出なかったものである。頭は下男でさえ食べず切って捨てていたものである」ということであった。このようなものでも世が末になると上流へも入りこむものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六十
     門に額《がく》を掛けることを額を打つというのはよくないらしい。世尊寺行忠卿は額をかけると仰せられた。見物の棧敷をうつというのもよくないらしい。平張の幕ならばうつというのが通常いうところであるが、棧敷は構えるというべきである。護摩《ごま》をたくというのもよろしくない。護摩を修するとか護摩をするとかいうべきである。「行法《ぎようぽう》も法の字を清音に発音するのではない。濁音でぼうというのである」と清閑寺の道我僧正が仰せられた。臼用語にさえこんな間違いばかり多いのである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百二十
     唐の物は薬のほかは無くとも不自由はあるまい。書物にしたって、わが国に多くひろまっているから筆写することもできよう。唐船の困難な航海に、無用なものばかり積荷してどっさり持ちこんで来るのは、馬鹿馬鹿しいことである。「遠方の物を宝としない」とも、また、「手に入れにくい宝は尊重しない」とも書物に書いているということである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十
     さしたる用事もなくて人のところを訪問するのはよくないことである。用事があって訪問してもそのことがすんだら、早く帰るのがいい。長くいるのはこまる。人と応対すると、言葉も多く、体もくたびれ、心も旛ちつかず、万事にさしつかえが多くて時間をつぶす。双方にとって無益なことである。客を嫌うようなことを言うのもよくない。気|急《ぜわ》しいことでもある場合などはかえってこのわけを言ったほうがよかろう。会心の人で、対談を希望する人が、退屈して「もう少し」、「今日はゆっくりと」など言うような場合はこのかぎりではなかろう。常に白眼の阮籍《げんせき》が気に入った客を迎えた時にした青眼の場合も誰しもあるものである。なんのためということもなく、人が来て、のんびりと話して帰るのは、よいものである。また、手紙も「あまり御無沙汰していますから」とだけ、言ってよこしたのなど大へんに嬉しいものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百五十
     芸能を身につけようとする人は、それに達しない間はなまなかに人には知らせないで、内々によく習い覚えてから人中へ出るのが奥ゆかしくてよいとは人のよくいうところではあるが、こんな考えの人は一芸も習い得るものではない。まだぎごちなく未熟な中から上手な人の問に雑って嘲笑をも恥じずに構わずやり通して行く人が、生れつきにその器用がなくても途中で停滞することもなく、放慢に流れることもなしに年期を入れたら、器用でも不勉強なのよりはかえって上手になり、徳もおのずと備わり、人にも許されて、無比の名声を博することがあるものである。天下に知れ渡った上手でも、はじめは下手という評判もあり、ひどい欠点もあるものである。しかしその人がその道の道筋を正しく守って身勝手をつつしみ、努力して行ったなら世の物識りともなり、万人の師として仰がれるようになるのは、諸道みなその軌を一つにしている。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三十
     物事を人と争わず、自分の意志を屈して人の意向に従い、自分の身のことは後にして、人のことを先にするのが何よりである。  いろいろの遊戯でも、勝負を好む入は勝って愉快を得んがためである。自分の技のまさっていることに満悦するのである。それだから、負けるとつまらぬ思いがするのは、もちろんである。自分が負けて人を喜ばせようと考えたら一向《いつこう》に遊戯の興味はあるまい。人につまらぬ思いをさせて、自分が愉快を感ずるなどは徳義にかなわない。  親しい間がらでふざける場合にも、人をたぶらかして自分の智のすぐれているのを面白がることがある。これも非礼である。それだから、はじめは座興に起ったのに長い恨みを結ぶようなことがよくあるものである。これらはみな、勝負を好むところから起る失策である。人に勝《まさ》ろうと思うならば、学問をしてその智で人に勝ろうと考えたらよかろう。道を学んだならば、善に誇らなくなり...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十一
    「囲碁、双六を好んで、これに耽って夜を明し日を暮す人は四重五逆の重罪にもまさる悪事であると思う」とある高僧が申されたのが、今に忘れず、結構な言葉と感じられた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八十
    「さぎちょう」は正月に毬《まり》を打って遊んだ毬杖《ぎじよう》を真言院から神泉苑へ出して焼き上げたのがもとである。「法成就《ほうじょうじゆ》の池にこそ」と囃すのは、神泉苑の池をいうのである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十三
     四十の坂を越した人が好色の心をひそかに抱いているのは致し方もなかろう。言葉に出して男女の情事を他人の身の上にもせよ言い戯れているのは、歳にも似合わず見ぐるしいものである。だいたい見ぐるしく聞きぐるしいものは、老人の青年らにうち雑って、面白がらせるつもりで話をすること。つまらぬ身分でありながら、世にときめいた人を懇意らしく言いふらしていること。貧家のくせによく酒宴をもよおしお客を呼んで派手にやっていること。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三十三
     天子の御寝所は、東の御枕でおわせられる。すべて東方を枕にすると陽気を受けてよいというので、孔子も東を枕にされた。一般に寝所の設備は、東枕でなければ南枕にするのが普通であろう。白河院は北枕でおやすみ遊ばされた。北は粛殺の気のある方角で、忌むべきものである。そのほかにまた、「伊勢は南である。北枕をなされば白河院は御足を大神宮に向けられたわけでこれはいかがなものか」と申した人があった。しかし、朝廷で大神宮の御遙拝の場合は東南に向って遊ばしておられる。南方ではない。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八十三
     人を突く牛は角を切り、人に食いつく馬は耳を切ってこれに印をしておく。印をつけないで人に怪我をさせた時は飼主の科《とが》になる。人に喰いつく犬は養ってはならない。これらは皆罰せられるところで刑法に戒めてある。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十六
     禁中の黒戸という御間は小松の蠶(光孝天皇)が御即位以前に、おん幼いお戯れにお手料理などを遊ばされたのを、御即位のおん後も、お忘れ遊ばされず、常に、お手料理を遊ばされたその御間である。薪の煙でそこの戸が煤けたので黒戸と申すとのことである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百九十一
     夜になると物の光彩が失われると説く人のあるのははなはだ心外である。万物の光彩、装飾効果、色調なども夜みてこそ始めて立派にも見えるのである。昼は簡素に地味な姿でレてもよいが・夜は燦然たる華麗な装束がすこぶる好い。人の様子も夜の燈火の下が、美しい人は美しさを発揮するし、物を言う声も暗いところで聞いて、たしなみのあるのが奥ゆかしい。匂いも物の音色も夜が一段と好もしい。べつに何の儀式とてもない夜、更けて参内した人が立派な装束を着ているのはまことに好いものである。若い友人の間がらでたがいにその容姿を観察し合うような間がらでは見られる時機が定っているわけではないから、特別に改まらぬ場合に、ふだんも晴着も区別なく周到な用意をしておきたい。晶のよい男が日暮れてから髪を洗うのや、女が夜更けになった時席をはずして局《つぼね》で鏡を取り出し化粧などを直して来るのは趣のあるものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三十二
     鳥羽のつくり道というのは・鳥羽殿が応徳三年に建てられて以来にできたのではない。昔からの名前である。元良親王が元日の奉賀の声がすこぶるすぐれていたので式場の大極《だいごく》殿から鳥羽のつくり道まで聞えたということが、式部卿重明親王の記録にあるということである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六十二
     遍照寺の承《しよう》の役に服していた僧が、広沢の池に来る鳥を毎日餌をやって飼い馴らして、戸を一つ開けると無数に飛びこんで堂内に一ぽいになったところへ、僧自身も入って行って閉め切って捕えては殺した様子が、物音すさまじく聞えたので近所にいた草刈の童が聞きつけて人に知らせたので、村人どもが集まって来て堂の申に入ってみると、大雁などがばたばた驚き騒いでいる中に僧がまじっていてねじ伏せ、ひねりつぶしていたから、この僧を捕えてその場から検非違使《けびいし》庁へつき出したが、検非違使庁ではこの法師が殺した鳥どもを頭のまわりにかけさせて獄舎に入れた。これは基俊大納言が別当をしておられた時のことである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十七
     鎌倉の中書王《ちゆうしよおう》(鎌倉将軍中務卿宗尊親王)の御邸で蹴鞠のもよおしがあったのに、雨降り上りで庭まで乾かなかったので、どうしたものであろうかと相談があった時、佐佐木入道真願が鋸屑を車に積んでたくさん奉ったので、庭中に敷きつめて、泥の気遣《きつかい》もなかった。これなどたくさん蓄えておいた用意のほどが珍らしい心がけであると人々が感心し合った。このことをある人が話したところ、藤原藤房卿が聞かれて、「さては乾いた砂の準備がなかったのだね」とおっしゃったのは、恥かしい思いがした。結構なと思った鋸屑とは下品で変なものであった。庭を司る者は乾いた砂を用意しておくのが慣例的な作法だそうである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三十七
     花は満開を月は明澄なのをばかり賞すべきものではあるまい。雨に対して月にあこがれたり、家に引き籠っていて気のつかぬうちに春が過ぎてしまっていたなども情趣に富んだものである。もう咲くばかりになっていた梢だの、散り凋《しお》れた庭などこそ見どころが多いのである。歌の詞書きにも「花見に行ったらもう散り果てていたので」とか「差つかえがあって見にゆけないで」などと記してあるのは、花を見てというのに決して劣ろうや。花が散り、月が入るのを名残り惜しく思うのは尤もなことであるが、無風流な人に限って、あの枝もこの枝も散ってしまった。もう見る値打ちもないなどと言いたがるものである。すべてなんにつけ初めと終りとが趣の多いものである。男女の情にしてもただ逢うばかりが恋愛の趣味ではあるまい。逢えないで苦しんだことを思ってみたり、心変りをしたのを歎いたり、永い夜をひとりで恋い明かしたり、遠い空に愛慕の思いを馳《は》せ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十三
     小野小町の事蹟は甚だ不明確である。衰えた時の有様は、玉造という本に見えている。この文章は三好|清行《きよつら》が書いたという説があるけれど、弘法大師の著作目録にも入っている。大師は承和の初年に亡くなられた。小町が全盛時代はその後のことのように思われるが、やっぱりよくわからない。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六十四
     世上の人間は会いさえすればすこしの間も黙っていることはない。きっと何か喋べる。その言葉を聞いてみると、たいていは無駄な談話である。世間の噂ぱなし、人の品評、自分にとっても他人にとっても損多く益が少い。しかもこれを語っている時、当人たちたがいに無益なことも気づいていない。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百九十二
     神社仏寺へも人の多く参詣せぬ日、夜分に参るのがよろしい。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百九十八
    揚名介《ようめいのすけ》(名誉職として名ばかりの長官)があるだけではなく揚名目《ようめいのさかん》(目名ばかりの事務官)というものもある。政治要略に出ている。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百四十四
     栂尾《とがのお》の明恵《みようえ》上人が道を通うておられると、川で馬を洗っていた男が「あし、あし」と言っていたので、上人は立ち止って「ああ、有難い。前世の功徳《くどく》を現世で現わされた方だ。阿字阿字と称えていらっしゃる。どなた様の御馬でございましょうか。異常にもったいなく存ぜられます」とおたずねになると、その男は「府生殿《ふしようどの》のお馬でございます」と答えたので「これはこれは、有難いことです。阿字本不生《あじほんぶしよう》ですからなあ。この結縁《けちえん》はまことに有難い一日でございました」と上人は感涙を拭われたということです。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百五十九
     みなむすびという結び方は、糸を結び重ねた形が蜷《みな》という貝に似ているからそう呼ぶのであると、ある貴人のお話である。ついでに蜷を「にな」というのは誤りである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六十五
     関東の人で都に来て、都人といっしょに生活する人、または都の生れで、関東へ行って身を立てているのや、また出家で本寺本山を離れ、宗旨を変えている顕教密教の僧など、総体に自分の習俗を廃棄して他の習俗の人々のあいだにまじり加わっているのは見苦しいものである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三十一
     貧しい者は財力を用いて礼儀をつくそうとし、老いた者は体力を用いて礼儀とする。ともに非である。自分の身のほどを知って、でぎそうもないことは、さっそく廃止するのが上分別というものでなければならない。これを許さないのは、許さぬ人の心得違いである。身のほどをわきまえないで無理な努力をしようとするのは、する人の心得ちがいである。貧者が身のほどをわきまえない場合は盗みをし、力が衰えて、身のほどをわきまえない場合は病気をする。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百四十九
     鹿の袋角を鼻にあてて嗅《か》いではいけない。小さな虫がいて鼻から侵し入って脳を蝕《むしば》むという。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百二十四
     是法《ぜほう》法師は浄土宗で何人《なんぴと》にも恥じない人であるが、学者ぶらないで、ただ朝夕念仏をして気楽に世を渡っている有様は、じつにわが理想的な境涯である。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百四十五
     御随身《みずいじん》の秦重躬《はたのしげみ》は北面武士の下野《しもつけの》入道信頼のことを「落馬の相《そう》のある男です、注意しなければなりませんな」と話したが誰も信じる人もなかったが、信頼はほんとうに馬から落ちて死んだ。道を通じた人の一言は神のようだと人々は感心して、「それにしてもどういうところに現われていた相でしたか」と人が質問すると、「非常に据りの悪い尻で、そのくせ悍馬が好きと来ていたから、落馬の相と判断しました。言い間違ってはおりませんよ」と言われたとのことです。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百九十七
     定額《じようがく》というのは何も諸寺の僧とばかりはかぎったものではない。定額の女嬬《によじゆ》という言葉が現に延喜式に見える。本来はすべて数の定まった公儀の人には一般に通じた呼び方なのである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八十一
    「降れ降れこ雪.たんばのこ雪」という歌の意味は、米を搗《つ》いて篩《ふる》う時のように雪が降るから粉雪というのである。溜れ粉雪というぺきを間違えて、「たんばのこ雪」といったのである。そのつぎの句は、「垣や木のまたに」と唄うのであるとさる物識りが言った。昔から言ったものであったらうか鳥羽天皇が御幼少のおん頃雪の降った時にこう仰せられたというおん事を、讃岐典侍《さぬきのすけ》が日記に書いている。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六十三
     陰暦九月の異名、太衝《たいしよう》の太の字は点を打ってはいけないということを陰陽寮の連中が議論したことがあったものだ。もりちか入道が申しておられたのには、天文博士安倍|吉平《よしひら》が自筆の占文の裏に記録をしてあるものが近衛関白家にある。点を打った「太」が書いてあったとの話であった。
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