網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「大下宇陀児「石の下の記録」(1)」で検索した結果

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  • 大下宇陀児「石の下の記録」(1)
    青い石 一  その石は、公園にあるベンチほどの大きさがあり、形も ベンチに似ていて、人が二人ならんで腰かけられるほどの ものだった。  庭石としては、わりに上等とされる伊予の青石だったか ら、昔でもかなり多額な金を出して、この庭のうちに引か せたものだったのだろう。庭の広さや、所々にのこってい る基礎工事のコンクリートの配置などで、戦災前はこの家            せつちゅうしき が、かなりりっぱな和洋折衷式の屋敷であったということ が、うなずかれる。石はその屋敷の焼け跡の、半分は附近 の人の手でたがやされた家庭菜園になっている庭のうち の、枯れて黒くなった桜の木のそばに、どつしりすえてあ った。  表面には、ほこりをかぶっているし、陽が射して乾いて いる時は、見向く気もしないほど白茶けた汚い石に見える けれど、雨がふって濡れて、ほこりが洗い流されたと...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(3)
    血の部屋 一  夜の空気の中で、貴美子夫人の顔や姿は、光る絹か、透 明な、そして柔かいガラスで作った生物のような感じをあ たえた。  何時何分という、ハッキリした時刻を、あとで思ってみ ても残念なことに、誰も記憶していない。が、ともかく、 午前一時半に近いか、もしかしたら、それをもう過ぎてい る。  二人は、びっくりして門の前に立ちどまったままだった が、驚きは、向うでも、大きい風だった。 「あら、どうしたのよ、有吉ちゃんも友杉さんも……」  そうして、貴美子夫人は、こっちの二人を、頭から爪の 先きまで、吟味する眼つきで見なおし、それから抱いてい た白いエナメル塗りのハンド。バッグから、白い小さなハン ケチを出した。  疲れたという表情であり、顔の汗をそのハンケチでおさ えている。 げ 「電車がなくなっちゃったの。しかたがないから歩いた 、わ。 一時間もl」 「どこへ行ってらしたんで...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(2)
    群盗  その同じ晩1。  というのは、代議士藤井有太の留守宅へ、中正党代議士 の諸内達也が訪ねてきて、バヵバカしいほど大きな果物の 籠を、手土産としておいて行った晩に、不良少年有吉の仲 間は、午後八時キッカリ、省線池袋駅前のパチンコ屋でせ いぞろいした。  彼らは、その日四谷の麻雀クラブへあつまって打合せを すました。ちょうどそこへ友杉がやってきて、有吉だけを つれ去ったが、あとに五人の仲間がのこった。そうしてこ の五人で相談して、ともかく『あれ』を、思い立った今佼 のうちに、決行しようということになったのである。『あ れ』というのは、隠語で言えば、トントンとか、タタキと か、言うのであろう。強盗をやるということを、さすがに 彼らは、そのまま口へ出していうのが恐ろしく、こういう あいまいな代名詞で、間に合わしていたわけだった。それ に『あれ』は、もし飼か都合のよいことが起って、しない で...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(4)終
    絶壁       一                へきぎよくろう  M県S海洋という町の温泉旅館碧玉楼へ、ある日の夕 方、二つの大型トランクを携帯した、男女二人つれの奇妙 な客がぎて泊った。  男は五十歳ぐらい、女はずっと若くて三十歳ぐらい ー。  彼等は、駅からまっすぐに自動車でやってきた。  しかし、その自動車からおりたばかりの時は、まことに みすぼらしい服装をしていて、男の方は、ところどころつ ぎ目のあたっている白麻のズボンに汚れきった開襟シャ ツ、古びたカンカン帽に軍隊靴といういでたちだったし、 女がまた、顔立ちだけは整っていながら、着ているワンピ ースの服が、仕立も柄合もひどくじみで不恰好で、その上 むきだしの足に、ズックの運動靴をはいているという有様 だったから、はじめ宿ではこの二人をすっかりと軽蔑し、 ほかに空いた部屋もあったのに、彼等を宿としては最下等 の一室に通したほど...
  • 大下宇陀児「老婆三態」
    その一 老婆と水道  「おばあちゃん、おばあちゃんてば!」  ぐいぐいと肩を揺すられて、村井家の老婆はふっと眼を覚ました。七十五になる中風のお 婆さん、膝の上に本を開いて眼鏡を掛けたまま居眠っていた。  「おばあちゃん、あたちにめがねかちて」  孫娘の君ちゃんは、祖母の肩に両手を置いて言った。 「どうします、眼鏡などを──」 「あたちね、おはりしごとするの。いとがはりにとおらないのよう」 「ホ、ホ、ホ、ホ──」  老婆は笑まし気な声を立てた。右半身が中風でよくいうことを利かない。辛うじて歩けるが 使うのには左手が便利だ。左手を不器用に動かして眼鏡を外した。  「あらおばあちゃん、このめがねこわれてる?」  「どうしてなの」  「あたち、おめがいたいの。みえないわ」  鼻のとっ端へ老眼鏡をかけて、一生懸命糸を針のめどに通そうとする孫娘に、老婆はも一度 声を立てて笑った。 「ホ、ホ、ホ、ホ─...
  • 大下宇陀児「偽悪病患者」
      (妹より兄へ)  ××日付、佐治さんを接近させてはいけないというお手紙、本日拝見いたしました。  いつもどおり、いろんなことに気を配ってくださるお兄様だけれど、喬子、こんどのお手紙だ けはよくわかんない。佐治さんは、喬子が接近したのでもないし、接近させたんでもないの。お 兄様だって御承知のとおり、お兄様や漆戸と同期生だったんですって。アメリカから帰られると、 すぐ漆戸を訪ねていらっしゃって、漆戸は、病気で退屈で、話し相手が欲しいもんだから、佐治 さんが来てくださるのを、ずいぶん楽しみにしているんですわ。  そういえば思い出すけれど、漆戸が一度いいました。「佐治という男は、学校時代からちょっ と変わったところがあって、他人からずいぶん誤解されたものだが、芯は、気の弱い正直な男 さ」って。喬子、まだ佐治さんがどんなふうに変わっている人か知らないけれど、お兄様が何か きっと誤解しているんじゃ...
  • 大下宇陀児「ニッポン遺跡」(抄)
    人間の価値  時間がきていた。  人間について知りたいことはまだたくさんあるが、たっ た一回の会見ではその全部をつくすわけにはいかず、それ にはまた日を改めて会見をくりかえすほうが得策だったし、 他面には人間観覧希望老が引きもきらずやってきていると いう実情があって、あたしだけが人間を、いつまでも独占 していることはできない。  残念ながらあたしは、そのへんで第一回の会見を打切る よりほかなかったが、そのとき思いついて人間に、 「あなたは、まだ十分に自分のおかれている立場を理解し ていらっしゃらないと思うわ。あなたは冷凍されたってお っしゃった。冷凍から六十七万年たっちゃったの。いまの あなたを包む事情が、まるっきり変ってしまっているのだ から・きっとたいへんにお困りね・困ることは・あみ亡に掬 まかしとけばいいの。ずっとこれから、あたしがパトロン になってあげる。どう、いまどんなことをして...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三十二
     鳥羽のつくり道というのは・鳥羽殿が応徳三年に建てられて以来にできたのではない。昔からの名前である。元良親王が元日の奉賀の声がすこぶるすぐれていたので式場の大極《だいごく》殿から鳥羽のつくり道まで聞えたということが、式部卿重明親王の記録にあるということである。
  • 柳田国男「島々の話」
    一  昨年の夏、瑞西などで専ら人の噂になつて居たことは、南太平洋の東南端に、最も美しい離れ小島として又神秘の国として、世に聞えて居たイースターの島が沈んでしまつて見えなくなつたと言ふ話であつた。南島今日の造船技術では、とても通はれぬやうな遠い境に、歌と物語に富んだ静かな民が住んで居て、島には住民の全部が働いても、とても完成することの出来ぬ程の大きな石の色々の工作物があつた。其不思議の島が、或船長の報告に依ると、もと在つた海上に、どうしても見えぬと言ふことであつた。西洋人はローマンスを喜び、又或意味に於ては島の生活を愛借するが、それは只燈の光で花を見るやうな、遙かなる咏歎であつた。さうして後の智利《チリイ》からの電報で、島は依然として元の如しと伝へられると、なんの事だと舌を打つやうな人ばかり多かつた。  大正八年の八月九月には怖しい流行感冒がタヒチ・サモァ其他の島々を非常に荒した。ゴーガン...
  • 尾崎士郎「中村遊廓」
    「古き城下町にて」──、と私はノートのはしに走り書きをした。幻想のいとぐちが、そんなところからひらけて来そうな気がしたからである。彦根の宿で、その部屋は数年前、天皇陛下が行幸のとき、御寝所になったということを宿の女中が、もったいをつけた調子でいった。その言葉が耳にこびりついていた。  何気なくいった女中の言葉が、あるいは、明治の末にうまれて、天皇という言葉の威厳にうたれる習慣のついている私の耳にそうひびいたのかも知れぬ。ほかの連中はまだ眠っているらしい。昨夜は、いよいよ旅の終りだというので気をゆるして度はずれに飲んだせいか、おそろしく長い廊下を雪洞を持った女中に案内されて、この部屋へ入ったことだけをおぼえている。あとの記憶は、もうごちゃごちゃに入りみだれていた。  伊吹の周辺をめぐる、というB雑誌社の計画で、関ヶ原を中心に中山道を自動車でうろつき廻っているうちに、同じ場所を何度も行きつ戻り...
  • 三好達治「萩原朔太郎詩集あとがき」
     萩原さんが生前上刊された詩集を刊行の年次に従って列記してみると次の如くである。  「月に吠える」(大正六年二月十五日 感情詩社 白日社出版部共同刊)  「青猫」(大正十二年一月二十六日 新潮社刊)  「蝶を夢む」(大正十二年七月十四日 新潮社刊)  「純情小曲集」(大正十四年八月十二日 新潮社刊)  「萩原朔太郎詩集」(昭和三年三月二十五日 第一書房刊)  「氷島」(昭和九年六月一日 第一書房刊)  「定本青猫」(昭和十一年三月二十日 版画荘刊)  「宿命」(昭和十四年九月十五日 創元社刊) 別に「月に吠える」の再版(大正十一年アルス刊)、「現代詩人全集」第九巻(昭和四年新潮社刊)、その他の重版本合著選抄等数種があるが本文庫本の編輯に当ってはそれらは全く関聯するところがないから略する。本書の編纂に底本として用いたのは右に挙げた初版本八冊であった。さてその八冊の刊行年次は先の順序であるが、...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十四
     人がものを問うた時、知らないわけでもあるまい。ありのままに答えるのも気がきかないとでも思うのか、曖昧な返事をするのはよくないことである。知っていることでも、もっと確実にしたいと思って問うのであろうし、また、本当に知らない人だって無いはずもなかろう。それ故、人の質問に対しては明白に答えるのが穏当であろう。人がまだ聞きつけないことを自分が知っているからというので、先方から問い合せがあった時などに、自分のひとり合点でただあの人のこともあきれかえったものですねというようなことだけを返事してやると、事件そのものを判然と知らないほうでは、どんなことがあったのだろうかとさらにおしかえして問いに行かなければならないのなどはまことに厭な次第である。世間周知のことだって、つい聞き洩す場合だってあるのだから、腑に落ちない節のないように知らせてやるのが、なんで悪いはずがあろうか。こんなやり方は、世事に馴れない人...
  • 亀井勝一郎「美貌の皇后」
                                             ふぴ  法華寺は大和の国分尼寺である。天平十三年光明皇后の発願されしところで、寺地は藤原不比 と 等の旧宅、平城京の佐保大路にあたる。天平の盛時には、墾田一千町の施入を受くるほどの大伽 藍であった。その後次第に崩壊し、現在の本堂は、慶長年間豊臣氏の命で旧金堂の残木を以て復 興されたものと伝えられる。円柱の腐蝕甚しく、荒廃の感は深い。平城宮の廃墟に近く、今はわ ずか七人の尼僧によって法燈が擁られるのみ。本尊は光明皇后の御姿を写したと云われる十一面 観音である。この二月久しぶりで拝観した。  私は「大和古寺風物誌」の中でもかいたが、この観音像についての有名な伝説をもう一度紹介 しておきたい。北天竺の轍階羅国に見生王という王様がいたが、どうかして生身の観音を拝みた く思い、或るとき発願入定して念じた。するとやがて、...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」3
    順ちゃんのタンカ 一番愉快な思い出  こうした当時の人々を思い出すたび、ことに私の胸になつかしくよみがえってくるものは、大正十年のアメリカ遠征である。私はいったい旅行がきらいだ。汽車というものを好かない。汽船には存外好感を持てるけれども、汽車は窮屈で、なんともからだを持てあます。だから、単独で遠い旅行をすることはほとんどないし、その意味から、遠征などに好印象を残しているのが少ない。  しかしこのアメリカ遠征だけは、私の一生の中でもっとも愉快な思い出である。ああした旅行をもう一度してみたいような気がする。このときのティームは、まえにもいったように大正十三、四年ごろのティームに比較すれば、ふぞろいであった。谷口はこの遠征に苦労したため、小野三千麿と併称されるまでになったのであって、この遠征の中途までは、さほどでなかったし、全体としての守備、打力とも決して充実したものとはいわれなかった。こ...
  • 小倉金之助「荷風文学と私」
     私のような自然科学方面の老人が、荷風の文学について語るのは、はなはだ僣越のように思われよう。けれども私は、青春時代における人生の危機を、荷風の小説を力として切りぬけた、とも言えなくないのであって、荷風に負うところ大なるものがあると、衷心から信じている。それで今ここに、主としてその事実について、ありのままに述べて見たいのである。尤もそれは、今から四十年ばかりも前のことで、その当時の私の読み方・味わい方は、恐らく小説の読み方ではなく、文学の味わい方でもなかったであろう。私のような主観的な見方をされては、作家その人にとってはなはだ迷惑なことであるかも知れないが、そういった点についてはーただ昔の思い出ばなしとしてーお許しを願いたいとおもう。  私が荷風文学に親しみだしたのは、明治三十九年のころからであるが、特にそれに熱中したのは明治四十二年から大正元年ごろまで(荷風が満で三+歳から三+三歳のころ...
  • 小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集』後語
     寅彦の随筆を選んで文庫本三冊程度の分量にまとめてくれないかと岩波書店から頼まれたのは、たしか昭和十九年の秋の事だった。私が仙台でその仕事を終え目次を岩波書店に送り届けたのは、翌年の二月だったが、ちょうどその時分から戦局はますます日本に不利となり、東京は絶えざる爆撃にさらされ、印刷所と製本所とは次々破壊されて行ったので、それはなかなか印刷には回されなかった。そのうち終戦という事になった。終戦になっても日本の印刷能力と製本能力とはすぐ復旧するはずもなく、用紙の入手さえ一層困難を加えて来たので、自然選集はそのままにしておかれないわけに行かなかった。文庫本出版の見通しが相当はっきりついて、いよいよ選集の印刷にとりかかるがさしつかえはないかと岩波書店から言って来たのは、その昭和二十年も押し詰まった、十二月のころだったかと思う。しかし私は|躊躇《ちゆうちよ》し出した。  初め私は、そのうち戦争がすん...
  • 服部之総「新撰組」
    新撰組 一 清河八郎 夫れ非常之変に処する者は、必ずや非常之士を用ふ──  清河八郎得意の漢文で、文久二年の冬、こうした建白書を幕府政治総裁松平春嶽に奉ったところから、新撰組の歴史は淵源するのだが、この建白にいう「非常之変」には、もちろん外交上の意味ばかりでなく、内政上の意味も含まれていた。さて幕末「非常時」の主役者は、映画で相場が決まっているように「浪士」と呼ばれたが、その社会的素姓は何であろうか。  文久二年春の寺田屋騒動、夏の幕政改革を経て秋の再勅使東下、その結果将軍家は攘夷期限奉答のため上洛することとなり、その京都ではすでに「浪士」派の「学習院党」が隠然政界を牛耳っている。時をえた浪士の「非常手段」は、このとし師走以来の暦をくってみるだけでも、品川御殿山イギリス公使館焼打ち、廃帝故事を調査したといわれた塙次郎の暗殺、京都ではもひとつあくどくなって、 「天誅」の犠牲の首や耳や手やを書...
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  • 永井荷風「監獄署の裏」
    われは病いをも死をも見る事を好まず、われより遠けよ。世のあらゆる醜きものを。ー『ヘッダガブレル』イプセン     兄閣下お手紙ありがとう御在います。無事帰朝しまして、もう四、五ヵ月になります。しかし御存じの通り、西洋へ行ってもこれと定った職業は覚えず、学位の肩書も取れず、取集めたものは芝居とオペラと音楽会の番組に女芸人の寫車と裸体画ばかヴ。年は己に三十歳になりますが、まだ家をなす訳にも行かないので、今だにぐずぐずと父が屋敷の一室に閉居しております。処は市ヶ谷監獄署の裏手で、この近所では見付のやや大い門構え、高い樹木がこんもりと繁っていますから、近辺で父の名前をお聞きになれば、直にそれと分りましょう。 私は当分、何にもせず、此処にこうしているより仕様がありますまい。一生涯こうしているのかも知れません。しかし、この境遇は私に取っては別に意外というほどの事ではない。日本に帰ったらどうして暮そう...
  • 辰野隆「露伴先生の印象」
     数年前の夏の一夜、「日本評論」の座談会に招かれて、僕は初めて幸田露伴先生の謦咳《けいがい》に接したのであった。少年時代から今に至るまで、一世の文豪、碩学《せきがく》、大通として仰望していた達人に親しく見《まみ》え、款語を交わし得た僕の歓びは極りなかった。殊にその夜は、一高以来の谷崎、和辻の両君をはじめ、露伴先生を繞《めぐ》って閑談するのを沁々《しみじみ》悦《よろこ》ぶ人々のつどいでもあったから、且つ飲み且つ語る一座には靄々《あいあい》たる和気が自ら醸し出された。斯《か》くて先生もいつもより酒量をすごされたらしく、座談の果てに、我等の請うがままに、酔余の雲烟《うんえん》を色紙に揮《ふる》われた。僕の頂戴した句は  鯉つりや銀髯そよく春の風  というのであった。句は素《もとよ》り、墨痕もあざやかに露伴と署《しる》された文字から、僕の記憶はいつしか、青年時代に愛誦《あいしよう》した『対髑髏』へ...
  • 妹尾アキ夫「本牧のヴィナス」
      そのころ――とある男が話しはじめた。そのころ、私は徹底的な嫌人病に冒されていた。ひとと話をするのが、ただわけもなく嫌で、大儀で、億劫で、まア、ちょっと例をあげると、自分の家の近くで、お隣の人に出会うと、ただちょっと会釈するだけで、それでいいのだけれど、それがどうも億劫でならないので、遠方から姿を見つけると、逃げるように横道へ折れるというありさまだった。そんなわけで、私は少々便利は悪くても、文明の雑音の響いてこない、隣近所のない、静かな一軒家で、しかも出入りすることに靴を脱いだり履いたりする煩わしさのない、粗末ながらも簡素な洋式生活のできる家を、長い間探していたのであるが、とうとうどうにかこうにか、まずこの条件にかなうと言っていい家を見つけたのである。それは横浜の本牧岬の、俗に八王子という村の西の海岸の谷間にある家で、一の谷という畑中の停留場から、右に山、左に森や畑の問の細道を海のほうへ...
  • 科学への道 part4
    !-- 十一 -- !-- タイトル -- 科学と芸術 !-- --  科学と芸術とは一見対蹄的位置に立つごとく見えるものであるから、科学者は芸 術を|遊戯《ゆうぎ》のごとくに|蔑《さげす》み、芸術家は科学をあらずも|哉《がな》の|所作《しよさ》と断ずる。しかし、こ れらはいずれも人間性に|立脚《りつきやく》した|崇高《すうこう》の所作であり、真と美に対する人間の創作た ることを信じて疑わず、かっ尊敬するに|躊躇《ちゆうちよ》しないのである。即ち人間性中、美を 対象として|憧《あこが》れる心も、理性的に自然に即さんとする心も、いかなる外力を以てし ても|圧《お》し|潰《つぷ》すことは出来ないのである。これらはいずれも本能に起因される所作で あるからである。  芸術家の養成については、その才能がまず問題となり、全く好きであるという出 発点があって、音楽家となり、画家となり、彫刻家...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」1
    父のこと、母のこと  私はすでに明治、大正、昭和の三時代にわたる野球に親しく接してきた。これからもまた幾年かの野球をスタンドからながめることであろう。ここで私の野球生活を合算するなら実に三十余年間となる。  選手時代から記者、コーチ時代から再び記者へと移り変ってはいるけれども、つねに辛抱強く野球につきまとって飽くことを知らなかった。  しかも私が野球に走ったころは、むろん今日のごときものではなかった。野球に直接関係あるもののほか、全部といっていいくらい、すべてのものが野球の反対者であり、排斥者であった。学校も家庭もこぞって忌みきらった。当時の選手というものは、教育者からまるで不良少年のごとき扱いをうけていた。こうした迫害の中に成長した私どもの野球に、いくた困難のまつわっていたのは想嫁するにかたくはないであろう。  ことに野球ぎらいな父を持った私などの野球に対する境遇というもの...
  • 永井荷風「元八まん」
    元八まん  偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆そうであろう。  わたくしが砂町《すなまち》の南端に残っている元《もと》八幡宮の古祠を枯蘆《かれあし》のなかにたずね当てたのは全く偶然であった。始めからこれを尋ねようと思い立って杖《つえ》を曳《ひ》いたのではない。漫歩の途次、思いかけずそのところに行き当ったので、不意のよろこびと、突然の印象とは思い立って尋ねたよりも遙かに深刻であった。しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫《そうぼう》たる暮烟《ぼえん》につつまれて判然としていなかったのも、印象の深かった所以《ゆえん》であろう。  ある日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の欄《てすり》には豊砂橋《とよすなばし》としてあった。橋向うには広漠たる空地《あきち》がひろがっていて、セメントのまだ生々《なまな...
  • 尾崎士郎「落葉と蝋燭」
    1  泥溝《どぶ》のような川の水が日ましに澄んできて、朝、二階の雨戸をあけると落葉の沈んだ川床がはっきり見えるのであった。それもほんの朝のうちの数時間だけで午後になると八方からながれおちる下水のためにすっかり濁ってしまうのであるが、それがひと晩でまたこんなに澄みとおってくるのも大気の爽かなせいであろう。夜中に小さい女房が眼をさまして、「だれかきたような気がする」とふるえ声でささやくことがある。じっと耳をすましていると、ささやかなせせらぎが人のあし音のように聞えるかと思うと、こんどは忍びやかなひそひそ声のようにちかづいてくるのである。晴れた日には榎《えのき》の老木の梢からすけて見える空の、キメのこまかさが眼にしみとおるような蒼《あお》さにかがやいている。川向うの街すじをとおる荷車のひびきや自動車の警笛にまじって、からんからんと鳴る下駄の音がまるで大気の底へ吸いこまれてゆくようだ。ホテル、ア...
  • 小杉未醒「西遊記 一 孫悟空生る」
    昔、傲来国と云う国があった、その国の海岸に花果山と云う山があった、その山の上で石が石の卵を産んだ、石の高さは三十六尺。 その石の卵が割れて、石の猴が飛び出した。石の猴に血が通いだして、独でに駈け廻り、自ら天地四方を拝して喜びの声を揚げた。両眼の金色の光り、直ちに雲霄を射て、天上の玉皇上帝を驚かした。 玉皇とは、世界の善悪を判っ天上の政府の主宰者だそうだ。その上帝が千里眼将軍順風耳将軍に命じてこの怪光を査べしめる。二人の復命には、 「成程不思議の石猴ではありますが、矢張り普通の獣の如き飲食を為しまするから、程なく光りも熄むで御座ろう」とあった。 石猴が生れてから、幾年経ったか分らぬ、何時の間にか他の凡猿共と相馴れて遊んでいた。ある日谷川の源の瀑布の前で、猿共が斯う云った、 「この滝壺を見とどけて来る者があるか、あったら我等の王にしよう」すると忽ち、 「己が行こう」と、叫んで石猴が飛び込んだ。...
  • 江戸川乱歩「日記帳」
     ちょうど初七日《しょなのか》の夜のことでした。わたしは死んだ弟の書斎にはいって、何かと彼の書き残したものなどを取り出しては、ひとりもの思いにふけっていました。  まだ、さして夜もふけていないのに、家じゅうは涙にしめって、しんとしずまりかえっています。そこへもって来て、なんだか新派のおしばいめいていますけれど、遠くのほうからは、物売りの呼び声などが、さも悲しげな調子で響いて来るのです。わたしは長いあいだ忘れていた、幼い、しみじみした気持ちになって、ふと、そこにあった弟の日記帳を繰りひろげて見ました。  この日記帳を見るにつけても、わたしは、おそらく恋も知らないでこの世を去った、はたちの弟をあわれに思わないではいられません。  内気者で、友だちも少なかった弟は、自然書斎に引きこもっている時間が多いのでした。細いペンでこくめいに書かれた日記帳からだけでも、そうした彼の性...
  • 江戸川乱歩「心理試験」
    1  蕗屋《ふきや》清一郎が、なぜ、これから記すような恐ろしい悪事を思い立ったか、その動機についてはくわしいことはわからぬ。また、たといわかったとしても、このお話には、たいして関係がないのだ。彼がなかば苦学みたいなことをして、ある大学に通っていたところをみると、学資の必要に迫られたのかとも考えられる。彼はまれに見る秀才で、しかも非常な勉強家だったから、学資を得るために、つまらぬ内職に時を取られて、好ぎな読書や思索がじゅうぶんでぎないのを残念に思っていたのは確かだ。だが、そのくらいの理由で、人間はあんな大罪を犯すものだろうか。おそらく、彼は先天的の悪人だったのかもしれない。そして、学資ばかりでなく、ほかのさまざまな欲望をおさえかねたのかもしれない。それはともかく、彼がそれを思いついてから、もう半年になる。その聞、彼は迷いに迷い、考えに考えたあげく、結局やっつけることに決心したのだ。 ...
  • 楠田匡介「脱獄を了えて」
    第四十八号監房 「よし! これで脱獄の理由がついたぞ1」  六年刑の川野正三は、こう心の中で呟いていた。正三の 前には、一本の手紙があった。  内縁の妻から来たもので、それには下手な字で、こまご まと、正三と別れなければならない理由が書かれていた。  今度の入獄以来、正三には、こうなる事は判っていたの である。  終戦後、これで三回目の刑務所入りである。罪名は詐 欺、文書偽造。  三回目の今度と云う今度は、妻の領子もさすがに、愛想 をつかしていた。 「畜生!」  正三は声を出して云った。 「どうしたい?」  同じ監房の諸田が、雑誌から顔をあげて訊いた。 「うんー」 「細君《ばした》からの手紙だろう?」 林が訊いた。 「うん」 「そうか……」  諸田が判ったように頷いた。  その川野の前にある手紙の女名前から、別れ話である事 に、察しがついたからである。十二年囚の諸田にも、その 経験があっ...
  • 亀井勝一郎「古塔の天女」
     この春東大寺の観音院を訪れたときは、もう日がとっぷり暮れていた。星ひとつない闇夜で あった。老松の並木に沿うて参道を行くと、ふいに、まるで巨大な怪物のような南大門に出っく わした。いかにも突然の感じで、昼間は幾たびも見なれて気にもとめないこの門の、異様な夜景 に驚いた。昼間よりはずっと大きくみえる。地にうずくまりながら、頭をもたげ、大きな口を開 いて咆号する化物じみたすがただ。仁王の顔面はみえないが、胴体はさながら節くれだった巨大 な古木であった。夜の寺は凄くまた底しれぬ深さを感じさせるものである。  大仏殿はなおさらのことで、廻廊が長々とつづいて闇に消える辺りを見ていると、建物が地上 全体を蔽うているようだ。形の実にいいのに感心した。大和の古寺の中では新しい方だが、こう して夜眺めるとなかなか風格が出来たといった印象を与えられる。人影もなく、あたりは森閑と して物音ひとつ聞えない。廻廊...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」2
    懐しの球友 野球との心中  野球と心中、それが前世からの約束ごとでもあろう。生きてきた七十余年、ふりかえりみるなら、野球のほかになにものも残らない。女房子供のあるのがふしぎにも思える。少年時代人なみに描いていた希望も野心も、一度野球に対面したが最後、すべて雲散霧消、きれいさっばり、空想にも英雄豪傑と別れを告げてしまった。大臣大将の夢とボールの現実とを、いさぎよく引きかえにした、穂洲庵忠順愛球居士の末路が、さていかに落ち着くかは、熱球三十年にして終るか、四十年、五十年に生きのびるか、その心中たるや悲愴をきわめるか、はなやかではなくとも、得心のいくものとなるか、むろん穂洲庵自身にもわからないし、世間のだれにもそれを占うことができまい。ただ、この鍵を握っているものは、つれそうてきたボールのみであろう。  磯節に明ける大洗小学校の巣立ちから、老松に暮れる水戸佐竹城趾のグラウンド、目白の若葉を...
  • 江戸川乱歩「夢遊病者の死」
     彦太郎が勤め先の木綿《もめん》問屋をしくじって、父親のところへ帰って来てから、もう三カ月にもなった。旧藩主M伯爵邸の小使いみたいなことを勤めて、かつかつその日を送っている五十を越した父親のやっかいになっているのは、彼にしても決して快いことではなかった。どうかして勤め口を見つけようと、人にも頼み、自分でも奔走しているのだけれど、おりからの不景気で、学歴もなく、手にこれという職があるでもない彼のような男を、雇ってくれる店はなかった。もっとも、住み込みなればという口が一軒、あるにはあったのだけれど、それは彼のほうから断った。というのには、彼にはどうしてもふたたび住み込みの勤めができないわけがあったからである。  彦太郎には、幼い時分からねぼける癖があった。ハッキリした声で寝言をいって、そばにいるものが寝言と知らずに返事をすると、それを受けてまたしゃべる。そうして、いつまででも問答をくり返すの...
  • 亀井勝一郎「中尊寺」
                            せきやま  平泉の駅から北へ約八丁の道を行くと、中尊寺のある関山の麓に達する。さほど高くはない が、相当に嶮しそうな一大丘陵で、その全体が寺域となっている。麓から本坊への登り道は、月 見坂と呼ばれ、かなりの急坂だ。全山を蔽うのは鬱蒼たる数丈の杉の巨木、根もとには熊笹が繁 り、深山へわけ入った感が深い。天狗が出て来そうな風景である。彼岸には大雪が降ったとい う。私の出かけたのは数日後だが、快晴にもかかわらず至るところ残雪があり、道もまだ凍りつ いていた。  急坂を登りつめて稍ー平坦になったところに、昔の仁王門の址がある。その傍に東の物見がある が、ここへ来て、眼前に突如として展けた広漠たる風景に驚いた。平泉の東北方深く、一望のも                                     たはしねやま とに眺められるのである。稲株の...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二十二
     何事につけても昔がとかく慕わしい。現代ふうはこの上なく下品になってしまったようだ。指物《さしもの》師の作った細工物類にしても昔の様式が趣味深く思われる。手紙の文句なども昔の反古《はこ》が立派である。口でいうだけの言葉にしたところが、昔は「車もたげよ」「火かかげよ」と言ったものを、現代の人は「もてあげよ」「かきあげよ」などという。主殿《とのも》寮の「人数《にんじゆ》立て」というべきを、「たちあかししろくせよ」(松明《たいまつ》を明るくせよ)と言い、最勝講《さいじようこう》の御聴聞所《ちようもんじよ》は「御講の盧」というべきを「講盧《こうろ》」などと言っている。心外な事であると、さる老人が申された。
  • 仲原善忠「私たちの小学時代」
    一  「日清だんぱん破裂して」とか「けむりも見えず雲もなく」とか、そんなふうな軍歌がさかんにうたわれていた明治三十年代が私たちの小学時代です。  「小学時代の思い出」というのが編集者の課題だが、一平凡人の私的な思い出よりも、私の記憶に残る当時の教育風情というようなことに焦点をむけるようにしよう。  とはいうものの、往事は茫々として夢の如し、自分の記憶にあざやかな印象として残っているものは、すべて子供らしい、また自分中心のことでしかなかったことも、読者よ、許したまえと、お断りしておく。  生れた家は久米島の真謝石垣の屋号でよばれていた。兄が二人、下には数人の弟妹が次々と生れつつあった。小学校は生れ村にあった。私は多分四つぐらいから学校に通ったらしい。一年で二回らくだいし、三度目にやっと二年に進級した。今度は大丈夫だろうと母もいっていたが、またらくだいで、泣きさけびながら家に帰って来た。つま...
  • 中谷宇吉郎「霜柱と凍上の話」
      私は二、三年前に「霜柱と白粉の話」というのを書いたことがある。  一寸妙な題目であるが、その話というのは、私の同窓の友人の物理学者が、大学卒業後、寺田寅彦先生の下で霜柱の実験をしていたが、その時の研究の体験が、後になって、その友人が白粉の製造をするようになった時に大変役に立ったという話なのである。  私は勿論大真面目にかいたつもりなのであるが、何ぶん取り合わせが少々突飛なもので、中には信用しない人もかなりあったようである。それで今度は霜柱と凍上の話というのを書いてみることにする。  ところで凍上という現象であるが、この問題で一番手をやいているのは、寒地の鉄道局の人たちである。  冬になって気温が零下十度以下くらいになる土地では、大抵は地面はかなりの深さまで凍ってしまう。もっとも零下十度程度ならば、大したこともないが、北海道でも零下三十度くらいまで気温が低下するところは珍しくないし...
  • 佐藤春夫「殉情詩集自序」
    殉情詩集自序  われ幼少≪えうせう≫より詩歌≪しいか≫を愛誦≪あいしよう≫し、自≪みづか≫ら始≪はじ≫めてこれが作≪さく≫を試≪こレろ≫みしは十六歳の時なりしと覚≪おぼ≫ゆ。いま早くも十五年の昔とはなれり。爾来≪じらい≫、公≪おほやけ≫にするを得≪え≫たるわが試作≪しさく≫おほよそ百章≪しやう≫はありぬべし。その一|半≪ぱん≫は抒情詩≪じよじやうし≫にして、一半は当時のわが一|面≪めん≫を表はして社会問題に対する傾向詩≪けいかうし≫なりき。今≪いま≫ことごとく散佚≪さんいつ≫す。自らの記憶≪きおく≫にあるものすら数へて僅≪わづか≫に十|指≪し≫に足≪た≫らず。然≪しか≫も些≪いささか≫の恨≪うらみ≫なし。寧≪むし≫ろこれを喜ぶ。後≪のち≫、 志≪こころざし≫を詩歌に断≪た≫てりとには非≪あら≫ざりしも、われは無才≪むざえ≫にして且≪か≫つは精進≪しやうじん≫の念にさへ乏≪とぼ≫しく、自ら省...
  • 中谷宇吉郎「硯と墨」
      東洋の書画における墨は、文房四宝の中でも特別な地位を占めていて、古来文人墨客という言葉があるくらいである。従って墨に関する文献は、支那には随分沢山あるらしく、また日本にも相当あるようである。しかしそのうちには、科学的な研究というものは殆ど無い。或いは絶無と言っていいかもしれない。それは東洋には、昔は科学がなかったのであるから致し方のないことである。  墨と硯の科学的研究は、私の知っている限りでは、寺田寅彦先生の研究があるだけのようである。飯島茂氏の『硯墨新語』なども墨の科学的研究と言われているが、この方は方向は一部科学的研究に向いており、面白いところもあるが、まず文献的の研究というべきであろう。  寺田先生は晩年に理化学研究所で、墨と硯の物理的研究に着手され、墨を炭素の膠質《コロイド》と見る立場から実験を進め、最後の病床に就かれるまで続けておられた。研究の内容は三部から成っている。...
  • 江戸川乱歩「踊る一寸法師」
    「オイ、緑《ろく》さん、何をぼんやりしているんだな。ここへ来て、お前も一杯お相伴《しようばん》にあずかんねえ」 肉襦袢《にくジバン》の上に、紫繻子《じゆす》を金糸でふち取りをした猿股をはいた男が、鏡を抜いた酒樽の前に立ちはだかって、妙にやさしい声で言った。  その調子が、なんとなく意味ありげだったので、酒に気をとられていた一座の男女が、いっせいに緑さんの方を見た。  舞台の隅の、丸太の柱によりかかって遠くの方から同僚たちの酒宴の様子を眺めていた一寸法師の緑さんは、そう言われると、いつものとおり、さもさも好人物らしく、大きく口を曲げて、ニヤニヤと笑った。 「おら、酒はだめなんだよ」  それを聞くと、少し酔いの廻った軽業師《かるわざし》たちは、面白そうに声を出して笑った。男たちの塩辛声と、肥《ふと》った女どものかんだかい声とが、広いテント張りの中に反響した。 「お前の下戸は言わなく...
  • 佐藤春夫「西班牙犬の家」
    夢見心地になることの好きな人の為めの短篇  フラテ(犬の名)は急に駆け出して、蹄鍛冶屋の横に折れる岐路のところで、私を待っている。この犬は非常に賢い犬で、私の年来の友達であるが、私の妻などは勿論大多数の人間などよりよほど賢い、と私は言じている。で、いつでも散歩に出る時には、きっとフラテを連れて出る。奴は時々、思いもかけぬようなところへ自分をつれてゆく。で近頃では私は散歩といえば、自分でどこかへ行こうなどと考えずに、この犬の行く方へだまってついて行くことに決めているようなわけなのである。蹄鍛冶屋の横道は、私は未だ一度も歩かない。よし、犬の案内に任せて今日はそこを歩こう。そこで私はそこを曲る。その細い道はだらだらの坂道で、時々ひどく曲りくねっている。私はその道に沿うて犬について1景色を見るでもなく、考えるでもなく、ただぼんやりと空想に耽って歩く。時々空を仰いで雲を見る。ひょいと道ばたの草の...
  • 村雨退二郎「地獄舟」
    美男子の相婿 地獄舟  参政白井伊豆と用談をすまして、使番の堀田市左衛門が、御用部屋から出てきた時、ちょうどそこの廊下を、相婿の望月富之助が通りかかった。  富之助は、おなじ水戸藩の家中、富田小平太の弟で、ふつうなら同格の二一二百石内外の家に、養子にでもやられるところを、美貌のおかげでまず児小姓《こごしょう》に召出され、去年十九歳で家禄千石の望月家の婿養子になり、市左衛門の妻の妹を妻にして、その家を相続した。現在の役目は小姓である。  色白で中高な、ちょっと苦味ばしったこめ美貌の相婿と顔を合わせた瞬間、市左衛門の頭にあるかんがえが、電光のように閃《ひら》めいた。  如才のない微笑を見せ、かるく会釈して通りすぎようとする富之助を、彼は呼びとめた。 「富之助殿」 「は?」 「ちょっとお手前に、たのんでおきたいことがありますから」 (向うまで)と目配《めくば》せして、じぶんが先に立った。  別棟...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」六十六
     岡本の関白家平公が、満開の紅梅の枝に鳥を一|番《つがい》添えて、この枝につけて来いと鷹飼の下毛野《しもつけの》武勝に申しつけられたが、「花に鳥をつける方法は存じません。一枝に一番つけることも存じません」と言ったので料理方にもお尋ねがあって人々に問うてから、ふたたび武勝に「それでは其方の思う通りにつけて差出せ」と仰せられたので、花のない梅の枝に、鳥は一つだけつけて差し上げた。武勝が申しますには、「柴の枝、梅の枝の、蕾みのあるのと散ったのとにはつけます。五葉の松などにもつけます。枝の長さは七尺か六尺、そぎ取ったのをかえし刀で五分に切ります。枝の中ほどに鳥をつけ、つける枝、踏ませる枝があります。つづら藤の割らないままので、二ヵ所結びつけます。藤のさきは火打羽の長さにくらべて切り、それを牛の角のように曲げておきます。初雪の朝枝を肩にかけて、中門から様子を整えて参り、軒下の石を伝い、雪には足跡をつ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六十三
     陰暦九月の異名、太衝《たいしよう》の太の字は点を打ってはいけないということを陰陽寮の連中が議論したことがあったものだ。もりちか入道が申しておられたのには、天文博士安倍|吉平《よしひら》が自筆の占文の裏に記録をしてあるものが近衛関白家にある。点を打った「太」が書いてあったとの話であった。
  • 亀井勝一郎「吉野の山」
     吉野を訪れたのは四月なかばすぎである。今年の花は例年より十日ほど早く開いたそうで、私 の行った頃は、下千本と中千本はすでに散り、上千本にいくらか残花をとどめる程度であった。 やや遅かったわけだが、何しろ満開の時は十万の人が出たというので、おそれをなしたのであ る。しかし残花を追う遊覧客はまだ絶えなかった。酔漢も多い。現代の花見気分は一応味い得ら れたのである。  夕方近く、宿に着いたが、谷あいに霧が深くたちこめてきて、何ものも見えぬ。欄に寄って霧                                       ほら を眺めていた。三年前の初夏、ここを訪れたときも霧が深く、その霧の中から山伏の法螺貝を聞 いたことがある。桜がすぎて、ほととぎすの鳴きはじめる頃から、山伏の姿がぽつぽつあらわれ るという。今は茶店の拡声器から「銀座のカンカン娘」がしきりに響いてくる。風流も変ってき ...
  • 江戸川乱歩「木馬は回る」
    「ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の……」  ガラガラ、ゴットン、ガラガラ、ゴットン、回転木馬はまわるのだ。  今年五十幾歳の格二郎《かくじろう》は、好きからなったラッパ吹きで、昔はそれでも、郷里の町の映画館の花形音楽師だったのが、やがてはやりだした管絃楽というものにけおとされて、 「ここはお国」や「風と波と」では、いっこう雇い手がなく、ついには、ひろめやの徒歩楽隊となり下がって、十幾年の長い年月《としつき》を、荒い浮世の波風に洗われながら、日にち毎日、道行く人の嘲笑《ちようしよう》の的となって、でも、好ぎなラッパが離されず、たとい離そうと思ったところで、ほかにたつきの道とてはなく、一つは好きの道、一つはしようことなしの、楽隊暮らしを続けているのだった。  それが、去年の末、ひろめやから差し向けられて、この木馬館へやって来たのが縁となり、今では賞雇いの形で、ガラガラ、ゴットン、ガラ...
  • 宇野浩二「枯木のある風景」
     紀元節の朝、目をさますと、珍しい大雪がつもっていたので、大阪でこのくらいなら奈良へ行けば五ロぐらいは大丈夫だろうと思いたつと、島木新吉は、そこそこに床をはなれて、なれた写生旅行の仕度にかかった。家を出る時、島木は「四五日旅行する」と書いた浪華《なにわ》洋画研究所あての葉書を妻にわたしながら、「研究所には内証やで、」と云い残した。  浪華洋画研究所というのは、六年前、島木が、その頃、もっとも親しくしていた古泉《こいずみ》圭造と相談して創設したもので、二人だけでは手がたりないので、彼等の共通な友だちで、おなじ土地(大阪市内外)に在住する八田《やた》弥作と入井市造とを講師にたのみ、以来今日までつづいている大阪唯一の新画派の洋画研究所である。新画派というのは、この四人の画家が、この研究所が創設される前の年、同時に新興協会(反官学派画家の団体)の会員に推選されたという由来があるからである。  奈良...
  • 科学への道 part3
    !-- 六 -- !-- タイトル -- 科学者と先入主 !-- --  科学者というものは|偏《かたよ》らずして平静な心の持主であろうと想像するが、実は決し てさようでなく、先入主の|凝《こ》り|固《かたま》りとしか見えぬ人にも接することがある。しかし、 この人達は決して大なる科学者とは思えないのである。  科学者に|成《な》る資格の中には、先人が自然現象の中から苦心して取り上げた事実を 記憶していなくてはならない。またそれらの事実を根底として組み立てられた系統 --即ち法則とか定理とかと呼ばれるもの--を知っていなくてはならない。即ち 事実と系統とが教えられてしまうと、今度新しい事実が出て来ても両立しない場合 に於ては新事実の出現を知らぬことにするか、認めない態度に出る学者がいる。こ れは全く先入主が心の中にあまり幅をきかしておる結果にほかならない。  学校に在学中は極めて...
  • 亀井勝一郎「佐渡が島」
     佐渡が島は新潟を去る三十二浬の海上にある。四年前の初夏の頃であった。新潟に旅行して、 偶々寄居の浜を散歩したとき、日本海の紺碧の波の涯に横たわるこの島を私ははじめて見た。 「あれが佐渡だ。」そう言って連れの友人が指さす。彼方に、菅笠を二つ伏せたようなすがたの 島が低く横たわっている。私はそのとき、異邦人に接するような、一種の惧れを伴った好奇心を 抱いていた・絶海の孤島、瀞痘の島、死ぬほど淋しいところ、そういう観念を以て眺めていたよ うである。現実の佐渡よりも、芭蕉の「銀河序」を通してみた幻の佐渡の影響を私はつよく受け ていたらしい。                                おも 北陸道に行脚して越後国出雲崎といふ処に泊る。かの佐渡が島は海の面十八里滄波を隔てて、                      くまぐま 東西三十五里に横折り臥したり。峰の嶮難、谷の隈々まで...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百二
     十月を神無月と呼んで神事には憚るということは、別に記したものもなければ、根拠とすべき記録も見ない。あるいは当月、諸社の祭礼がないからこの名ができたものか。この月はよろずの神々が大神宮へ集まり給うなどという説もあるが、これも根拠とすべき説はない。それが事実なら伊勢ではとくにこの月を祭る月としそうなものだのに、そんな例もない。十月に天皇が諸社へ行幸された例はたくさんにある。尤もその多くは不吉な例ではあるが。
  • 永井荷風「雪解」ルビなし
    雪解 兼太郎は点滴の音に目をさました。そして油じみた坊主枕から半白の頭を擡げて不思議そうにちょっと耳を澄した。 枕元に一問の出窓がある。その雨戸の割目から日の光が磨硝子の障子に幾筋も細く糸のようにさし込んでいる。兼太郎は雨だれの響は雨が降っているのではない。昨日午後から、夜も深けるに従ってますます烈しくなった吹雪が夜明と共にいつかガラリと晴れたのだという事を知った。それと共にもうかれこれ午近くだろうと思った。正月も末、大寒の盛にこの貸二階の半分西を向いた窓に日がさせば、そろそろ近所の家から鮭か干物を焼く匂のして来る時分だという事は、丁度去年の今時分初めてここの二階を借りた当時、何もせずにぼんやりと短い冬の日脚を見てくらしたので、時観を見るまでもなく察しる事が出来るのであった。それにつけても月日のたつのは早い。また一年過ぎたのかなと思うと、兼太郎は例の如く数えて見ればもう五年前株式の大崩落に...
  • @wiki全体から「大下宇陀児「石の下の記録」(1)」で調べる

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