網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「宇野浩二「枯野の夢」」で検索した結果

検索 :
  • 宇野浩二「枯野の夢」
    一 旅に病むで夢は枯野をかけめぐる 芭蕉  汽車が大阪の町をはなれて平野を走る頃から、空模様がしだいに怪しくなって来た。スティイムの温度と人いきれで車内はのぼせるほど暖かであったが、窓ガラスひとえ外は如何にも寒そうな冬枯れの景色であった。青い物の殆んど見られない茶褐色の野の果てには、雪をかぶった紀伊の山脈、その手前に黒褐色をした和泉《いずみ》の山脈、汽車の行く手には、右側に、二上山《ふたがみやま》、葛城山《かつらぎやま》、金剛山、左側に、信貴山《しぎさん》、百足山《むかでやま》、生駒山《いこまやま》などが墨絵の景色のように眺められ、目の下の野には、ときどき村落、ときどき森林、などが走り過ぎるだけで、人の子ひとり犬の子一ぴき見えない。と、見る見るうちに、まず紀伊の山脈が頂上の方から姿を消しはじめ、つぎに和泉の山脈が、それから、右手は、金剛山、葛城山、二上山の順に、左手は、生駒山、百足山、...
  • 宇野浩二「枯木のある風景」
     紀元節の朝、目をさますと、珍しい大雪がつもっていたので、大阪でこのくらいなら奈良へ行けば五ロぐらいは大丈夫だろうと思いたつと、島木新吉は、そこそこに床をはなれて、なれた写生旅行の仕度にかかった。家を出る時、島木は「四五日旅行する」と書いた浪華《なにわ》洋画研究所あての葉書を妻にわたしながら、「研究所には内証やで、」と云い残した。  浪華洋画研究所というのは、六年前、島木が、その頃、もっとも親しくしていた古泉《こいずみ》圭造と相談して創設したもので、二人だけでは手がたりないので、彼等の共通な友だちで、おなじ土地(大阪市内外)に在住する八田《やた》弥作と入井市造とを講師にたのみ、以来今日までつづいている大阪唯一の新画派の洋画研究所である。新画派というのは、この四人の画家が、この研究所が創設される前の年、同時に新興協会(反官学派画家の団体)の会員に推選されたという由来があるからである。  奈良...
  • 宇野浩二「でたらめ経」
     むかし、あるところに、それはそれは正直なおばあさんが住んでいました。けれども、このおばあさんは子もなければ、孫もないので、ほんとうの一人ぽっちでした。その上、おばあさんの住んでいたところは、さびしい野原の一軒家で、となりの村へ行くのには、高い山の峠を越さねばなりませんでしたし、また別のとなり村へ行くには、大きな川をわたらねばなりませんでした。  だから、おばあさんは毎日々々ほとけ様の前に坐って、鉦ばかり叩いていました。きっとこのおばあさんにも、以前は子や孫があったのかも知れません。それがみんなおばあさんより先に死んで、ほとけ様になったのかも知れません。だから、さびしいので、そうして毎日ほとけ様ぽかり拝んでいたのでしょう。  それに、食べるものは裏の畑に出来ましたし、お米は月に一度か、二ヶ月に一度川向うの村へ買いに行くので用は足りましたし、水は表の森のそばに、綺麗な綺麗な、水晶のようなのが...
  • 亀井勝一郎「吉野の山」
     吉野を訪れたのは四月なかばすぎである。今年の花は例年より十日ほど早く開いたそうで、私 の行った頃は、下千本と中千本はすでに散り、上千本にいくらか残花をとどめる程度であった。 やや遅かったわけだが、何しろ満開の時は十万の人が出たというので、おそれをなしたのであ る。しかし残花を追う遊覧客はまだ絶えなかった。酔漢も多い。現代の花見気分は一応味い得ら れたのである。  夕方近く、宿に着いたが、谷あいに霧が深くたちこめてきて、何ものも見えぬ。欄に寄って霧                                       ほら を眺めていた。三年前の初夏、ここを訪れたときも霧が深く、その霧の中から山伏の法螺貝を聞 いたことがある。桜がすぎて、ほととぎすの鳴きはじめる頃から、山伏の姿がぽつぽつあらわれ るという。今は茶店の拡声器から「銀座のカンカン娘」がしきりに響いてくる。風流も変ってき ...
  • 江戸川乱歩「日記帳」
     ちょうど初七日《しょなのか》の夜のことでした。わたしは死んだ弟の書斎にはいって、何かと彼の書き残したものなどを取り出しては、ひとりもの思いにふけっていました。  まだ、さして夜もふけていないのに、家じゅうは涙にしめって、しんとしずまりかえっています。そこへもって来て、なんだか新派のおしばいめいていますけれど、遠くのほうからは、物売りの呼び声などが、さも悲しげな調子で響いて来るのです。わたしは長いあいだ忘れていた、幼い、しみじみした気持ちになって、ふと、そこにあった弟の日記帳を繰りひろげて見ました。  この日記帳を見るにつけても、わたしは、おそらく恋も知らないでこの世を去った、はたちの弟をあわれに思わないではいられません。  内気者で、友だちも少なかった弟は、自然書斎に引きこもっている時間が多いのでした。細いペンでこくめいに書かれた日記帳からだけでも、そうした彼の性...
  • 邦枝完二「女間者」
           一 「若菜《わかな》、予《よ》は久し振りに屋敷に落着いて、のびのびといたしたぞ。良い心持じゃ」  師走を前触れする町の慌しさも知らぬもののように、ここ本所松坂町の吉良左兵衛《きらさひょうえ》の屋敷では、今しも寒さに意気地のない隠居の上野介《こうずけのすけ》が、愛妾の若菜を傍に侍らせたまま、まだ頭上に日が高い真ツ昼間から酒盃《さかずき》を傾けていた。  丁度一年余りというもの、上杉家の上《かみ》、中《なか》、下《しも》の三屋敷と、わが屋敷との間を絶えず往復し続けて、腰の温まる暇もなかった上野介に取っては、この感慨めいた言葉も無理からぬことだった。 「矢張りわが屋敷に超《こ》したことはないの」 「大殿様には、何ゆえお屋敷にお落着遊ばして、お寛《くつろ》ぎなさらないのでございます」  今年《ことし》十九歳のあでやかな姿を擦り寄せた若菜は、銚子を傾けて満々《なみなみ》と酌をしながら...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」七
     あだし野の露が消ゆることもなく、鳥部山に立つ煙が消えもせずに、人の命が常住不断のものであったならば、物のあわれというものもありそうもない。人の世は無常なのが結構なのである。  生命のあるものを見るのに入間ほど長いのはない。かげろうの夕を待つばかりなのや、夏の蝉の春や秋を知らないのさえもあるのである。よくよく一年を暮してみただけでも、この上もなく、悠久である!  飽かず惜しいと思ったら千年を過したところで一夜の夢の心地であろう。いつまでも住み果せられぬ世の中に見にくい姿になるのを待ち得てもなんの足しになろうか。永生きすれば恥が多いだけのものである。せいぜい四十に足らぬほどで死ぬのがころ合いでもあろうか。  その時期を過ぎてしまったら、容貌を愧《は》じる心もなく、ただ社会の表面に出しゃばることばかり考え、夕日の・落ちて行くのを見ては子孫のかわいさに(一)、益々栄えて行く日に逢おうと生命の欲望...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三十八
     加茂の祭がすんでしまえば後の葵《あおい》は用もないと言ってある人が御簾《みす》にあったのをみな取り払わせたのを素気ないことに感じたことがあったが、立派なお方のなさったことであったから、そうするのがいいのであろうかと思っていたけれど、周防《すおう》の内侍《ないし》が「かくれどもかひなきものはもろともにみすの葵の枯葉なりけり』と詠んだのも、母屋《もや》の簾にかかっていた葵の枯葉を詠んだものだということを内侍の家集に記している。古歌の詞書きに「枯れたる葵にさしてつかはしける」というのもある。枕草子にも「来し方恋しきもの、枯れたる葵」と書いているのは大そうなつかしく思い当った。鴨の長明が四季物語にも「たまだれに後の葵はとまりけり」と書いている。自然と枯れて行くのでさえ惜しく思われるものを、どうして祭がすむかすまぬに後かたもなく取り捨てることに忍びようや。御帳にかけた薬玉《くすだま》も九月九日には...
  • 邦枝完二「曲亭馬琴」
            一  きのう一日、江戸中のあらゆる雑音を掻き消していた近年稀れな大雪が、東叡山の九つの鐘を別れに止んで行った、その明けの日の七草の朝は、風もなく、空はびいどろ[#「びいどろ」に傍点]鏡のように澄んで、正月とは思われない暖かさが、万年青《おもと》の鉢の土にまで吸い込まれていた。  戯作者《ぎさくしゃ》山東庵京伝《さんとうあんきょうでん》は、旧臘《くれ》の中《うち》から筆を染め始めた黄表紙「心学早染草」の草稿が、まだ予定の半数も書けないために、扇屋から根引した新妻のお菊《きく》と、箱根の湯治場廻りに出かける腹を極めていたにも拘らず、二日が三日、三日が五日と延び延びになって、きょうもまだその目的を達することが出来ない始末。それに、正月といえば必ず吉原にとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いている筈の京伝が、幾年振りかで家にいると聞いた善友悪友が、われもわれもと押しかけて来る接待に悩...
  • 江戸川乱歩「白昼夢」
     あれは、白昼の悪夢であったか、それとも現実のできごとであったか。  晩春のなま暖かい風が、オドロオドロと、ほてったほおに感ぜられる、むし暑い日の午後であった。  用事があって通ったのか、散歩のみちすがらであったのか、それさえぼんやりとして思いだせぬけれど、わたしは、ある場末の、見るかぎりどこまでもどこまでもまっすぐに続いている、広いほこりっぽい大通りを歩いていた。  洗いざらしたひとえもののように白茶けた商家が、黙って軒を並べていた。三尺のショーウインドウに、ほこりでだんだら染めにした小学生の運動シャツが下がっていたり、碁盤《ごばん》のように仕切った薄っぺらな本箱の中に、赤や黄や白や茶色などの砂のような種物を入れたのが、店いっぱいに並んでいたり、狭い薄暗い家じゅうが、天井からどこから、自転車のフレームやタイヤで充満していたり、そして、それらの殺風景な家々のあいだにはさまって、細い格...
  • 楠田匡介「脱獄を了えて」
    第四十八号監房 「よし! これで脱獄の理由がついたぞ1」  六年刑の川野正三は、こう心の中で呟いていた。正三の 前には、一本の手紙があった。  内縁の妻から来たもので、それには下手な字で、こまご まと、正三と別れなければならない理由が書かれていた。  今度の入獄以来、正三には、こうなる事は判っていたの である。  終戦後、これで三回目の刑務所入りである。罪名は詐 欺、文書偽造。  三回目の今度と云う今度は、妻の領子もさすがに、愛想 をつかしていた。 「畜生!」  正三は声を出して云った。 「どうしたい?」  同じ監房の諸田が、雑誌から顔をあげて訊いた。 「うんー」 「細君《ばした》からの手紙だろう?」 林が訊いた。 「うん」 「そうか……」  諸田が判ったように頷いた。  その川野の前にある手紙の女名前から、別れ話である事 に、察しがついたからである。十二年囚の諸田にも、その 経験があっ...
  • 亀井勝一郎「佐渡が島」
     佐渡が島は新潟を去る三十二浬の海上にある。四年前の初夏の頃であった。新潟に旅行して、 偶々寄居の浜を散歩したとき、日本海の紺碧の波の涯に横たわるこの島を私ははじめて見た。 「あれが佐渡だ。」そう言って連れの友人が指さす。彼方に、菅笠を二つ伏せたようなすがたの 島が低く横たわっている。私はそのとき、異邦人に接するような、一種の惧れを伴った好奇心を 抱いていた・絶海の孤島、瀞痘の島、死ぬほど淋しいところ、そういう観念を以て眺めていたよ うである。現実の佐渡よりも、芭蕉の「銀河序」を通してみた幻の佐渡の影響を私はつよく受け ていたらしい。                                おも 北陸道に行脚して越後国出雲崎といふ処に泊る。かの佐渡が島は海の面十八里滄波を隔てて、                      くまぐま 東西三十五里に横折り臥したり。峰の嶮難、谷の隈々まで...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百六
     高野の証空上人が京へのぼろうとしていると、細い道で馬に乗っている女に行きあったが、馬の口引きの男が馬の引き方を誤って上人の馬を堀のなかへ落してしまった。上人はひどく立腹して「これは狼藉《ろうぜき》千万な。四部の弟子と申すものは、比丘《びく》よりは比丘尼が劣り、比丘尼よりは優婆塞《うばそく》が劣り、優婆塞より優婆夷《うばい》が劣ったものだ。このような優婆夷|風情《ふぜい》の身をもって、比丘を堀の中へ蹴入れさせるとは未曽有の悪行である」と言われたので、相手の馬方は,「何を仰せられるのやらわかんねえよ」と言ったので、上人はますます息巻いて「なんと吐《ぬか》すか非修非学《ひしゆひがく》の野郎」と荒々しく言って、極端な悪口をしたと気がついた様子で、上人はわが馬を引返して逃げ出された。尊重すべき、天真爛漫、真情流露の喧嘩と言うものであろう。
  • 江戸川乱歩「人でなしの恋」
    1  門野《かどの》、ご存じでいらっしゃいましょう。十年以前になくなった先《せん》の夫なのでございます。こんなに月目がたちますと、門野と口に出していってみましても、いっこう他人さまのようで、あのできごとにしましても、なんだか、こう夢ではなかったかしら、なんて思われるほどでございます。  門野豕へわたしがお嫁入りをしましたのは、どうしたご縁からでございましたかしら。申すまでもなく、お嫁入り前に、お互いに好き合っていたなんて、そんなみだらなのではなく、仲人《なこうど》が母を説きつけて、母がまたわたしに申し聞かせて、それを、おぼこ娘のわたしは、どういなやが申せましょう。おきまりでございますわ、畳にのの字を書きながら、ついうなずいてしまったのでございます。  でも、あの人がわたしの夫になるかたかと思いますと、狭い町のことで、それに先方も相当の家柄なものですから、顔ぐらいは見...
  • 亀井勝一郎「千代田城」
     遠く離れた古典の地や風物に対しては憧れをもつが、自分の近くにある古蹟などには至って無 関心なものだ。皇居の前はよく通る。太田道灌以来、およそ六百年を経た古城であることは承知 している。自動車や電車の窓からすばやく見える二重橋、お堀端など、見あきた風景だ。そう思 いこんでいる。ところが実際は何も知らない。目をこらして見たことはない。私は桜田門の、屈 折ある一隅に立って、石崖の松や青く淀んだお堀の水を眺めてみた。自分がどんなに意味もなく 多忙で疲れているか。近代都市の誘惑はすさまじい。耳を聾する大音響のために、目の方はかす んでくるらしい。何か心がうつろだ。私は茫然と老松のすがたを求めた。  むさし野といひし世よりや栄ゆらむ千代田の宮のにはの老松 明治天皇のこういう御製が、自分の心にかすかながら一点の火をともすようだ。それは歴史の 火だ。戦災で廃墟と化した東京にとって、ここは江戸の最後の名残...
  • 江戸川乱歩「防空壕」
    一、市川清一の話  きみ、ねむいかい? エ、眠れない? ぼくも眠れないのだ。話をしようか。いま妙な話がしたくなった。  今夜、ぼくらは平和論をやったね。むろんそれは正しいことだ。だれも異存はない。きまりきったことだ。ところがね、ぼくは生涯《しようがい》の最上の生きがいを感じたのは、戦争のさいちゅうだった。いや、みんながいっているあの意味とはちがうんだ。国を賭《と》して戦っている生きがいという、あれとはちがうんだ。もっと不健全な、反社会的な生きがいなんだよ。  それは戦争の末期、いまにも国が滅びそうになっていたときだ。空襲が激しくなって、東京が焼け野原になる直前の、あの阿鼻叫喚《あびぎようかん》のさいちゅうなんだ。  きみだから話すんだよ。戦争中にこんなことをいったら、殺されただろうし、今だって多くの人にヒンシュクされるにきまっている。  人間というものは複雑に造られている。生まれな...
  • 亀井勝一郎「飛鳥路」
                        みささぎ  飛鳥路はすべて墓場だ。古樹に蔽われた帝王の陵、一基の碑によってわずかに知られる宮址、 礎石だけを残す大寺の跡、無数の古墳と、石棺や土器や瓦の破片等、千二百年以前の大和朝の夢 の跡である。畝傍、耳梨、香久山の三山を中心に、南は橘寺、岡寺から島庄に至る平原、東寄り の多武の山の麓に沿うて北は大原の丘陵地帯になっている。更に一里ほど北へ歩むと、三輪山を 背景とした桜井の町があり、鳥見山山麓一帯もまた大和朝にゆかり深い地だ。この周辺を克明に 歩いたら十数里はあるだろう。広大な地域とは云えないが、ここに埋れた歴史は広大である。こ こに成立した宗教芸術は世界的である。即ち日本書紀の事跡の殆んど全部を含む。とくに欽明朝 より持統朝にかけて、飛鳥は政治文化の中心として隆盛を極めた。この間権勢を誇り、また流血 の悲劇をくりかえした大氏族は蘇我家である。  ...
  • 江戸川乱歩「空気男」
    「二人の探偵小説家」改題 一  北村五郎《きたむらごろう》と柴野金十《しばのきんじゆう》とが、始めてお互《たがい》の顔を、というよりは、お互の声を聞き合ったのは、(もう出発点からして、この話は余程《よほど》変っているのだ)ある妙な商売のうちの、二階においてであった。  それがあまり上等の場所ではないので、壁などもチャチなもので、一方の、赤茶けた畳《たたみ》の四畳半に寝ている北村五郎の耳に、その隣の、恐らく同じ構造の四畳半で、変な小うたを口吟《くちずさ》んでいる、柴野金十の声が聞えて来たのである。北村が想像するには、あの隣の男も、北村自身と同じ様に、相手の一夜妻はとっくに逃げ出してしまって、彼もまた退屈し切っているのであろう。そして、あんな変な、何の節《ふし》ともわからない、ヌエの様な小うたをうなっているのであろう。一つこっちから声をかけて見ようかな。北村は、そこで、そういう場合のこ...
  • 緒方竹虎『人間中野正剛』「中野正剛の回想」
    ~三田村武夫中野正剛の回想   中野の碑文   現状打破の牢騒心   東洋的熱血児   竹馬の友   悍馬御し難し   打倒東条の決意   自刃・凄愴の気、面を撲つ  中野の碑文 「おれが死んだら、貴様アおれの碑文を書いてくれ、その代り、貴様が先に死んだらおれが書くから」中野君はよく冗談にこういうことを話していた。それで、昭和十八年十月、中野君が自刃した時、一応のショックがおさまると同時に、何よりも先に私の頭に浮んだことは、この旧約に基く中野君の碑文のことであった。二人が生きていて冗談を言い合っている時には、必ずしも真面目に碑文を書くつもりでもなかった。中野君も同様であったろうと思う。しかし目の当り中野君の死、しかも非命の死にぶっつかってみると、多少とも中野君が当てにしていたであろう碑文を書くことが、自分の責任のように思われ出した。  当時は戦局がだんだんに悪くなるとともに、世相はなはだ険...
  • 三好達治「豊中時代など」
     全国中等学校野球大会は今年から全国高等学校野球大会と名称が改まることになった。ごの大会の歴史はもう三十年を越えることであろう。その第一回は阪急《はんきゆう》沿線の豊中《とよなか》グランドで行われた。  阪急もまだ宝塚《たからづか》ゆき電車であったし、豊中のグラウンドなるものが、ただのっべらぼうの平地に、粗末な観覧席がホームの背後にあるだけの、田舎の中学校の校庭かなんぞのよグにぽうぽうと草のはえた、周囲はどこからということもなくそのまま畑につながっている、しごくそぼくなものであった。スコアボールドはセンターのずっと奥の方にあって、それがあの大礼帽《たいれいぼう》に美しいひげをたくわえた美男子の仁丹《じんたん》の看板になっていた。それだけがペンキの塗りたてでまっさらだったのが今も眼にのこっている。  当節の中学生ははかまなどというものをはかないだろうが、私らの時分には外出にはいつも制帽をかぶ...
  • 小倉金之助「荷風文学と私」
     私のような自然科学方面の老人が、荷風の文学について語るのは、はなはだ僣越のように思われよう。けれども私は、青春時代における人生の危機を、荷風の小説を力として切りぬけた、とも言えなくないのであって、荷風に負うところ大なるものがあると、衷心から信じている。それで今ここに、主としてその事実について、ありのままに述べて見たいのである。尤もそれは、今から四十年ばかりも前のことで、その当時の私の読み方・味わい方は、恐らく小説の読み方ではなく、文学の味わい方でもなかったであろう。私のような主観的な見方をされては、作家その人にとってはなはだ迷惑なことであるかも知れないが、そういった点についてはーただ昔の思い出ばなしとしてーお許しを願いたいとおもう。  私が荷風文学に親しみだしたのは、明治三十九年のころからであるが、特にそれに熱中したのは明治四十二年から大正元年ごろまで(荷風が満で三+歳から三+三歳のころ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十八
     御随身《みずいじん》の近友の自讃といって、七ヵ条書きつけていることがある。馬術に関したつまらぬことどもである。その先例に見ならって自分にも自讃のことが七つある。  一、人を多く同伴して花見をして歩いたが、最勝光院の附近で、ある男の馬を走らせているのを見て「もう一度あの馬を走らせたら、馬がたおれて落馬するでしょう。ちょっと見ていてごらん」と言って立ちどまっているとまた馬を走らせた。それをとめようとするとろで馬をひき倒し、男は泥のなかへ転び落ちた。自分の言葉の的中したのに、人々はみな感心した。  一、今上の帝が、まだ東宮であらせられた頃、万里小路《までのこうじ》殿藤原宜房邸が東宮御所であった。堀川大納言殿東宮大夫藤原師信が伺候しておられたお部屋へ、用事で参上したところが、論語の四五六の巻を繰りひろげていられて「ただ今東宮御所で、紫の朱《あけ》をうばうをにくむ」という文を御覧遊ばされたいこ...
  • 谷崎潤一郎「「カリガリ博士」を見る」
    谷崎潤一郎 「カリガリ博士」を見る 大正十年八月號「活動雜誌」 上 淺草のキネマ倶樂部でやつて居る「ドクトル・カリガリのキヤビネツト」を見た。評判が餘りえらかつたので多少期待に外れた感もしないではないが、確かに此の數年來見たものゝうちでは傑出した寫眞であつた、純藝術的とか高級映畫とか云ふ近頃流行の言葉が、何等の割引なく當て篏まるのは恐らくあの映畫位なものであらう。 第一に話の筋がいゝ。狂人の幻想をあゝ云ふ風に取り扱ふと云ふこと、それは私なども始終考へて居たことであるが、單なる一場の思ひつきでなくあれまでに纒めるには多大の努力を要したであらう、さうして幻想の世界と現實の世界との關係が大變面白く出來て居る。 作者は先づ物語りの始めにフランシスと云ふ狂人の收容されて居る癲狂院を置き、それからそのフランシスの妄想の世界に移つて奇怪なる事件の發展を描き、最後に再び癲狂院...
  • 江戸川乱歩「ざくろ」
    1  わたしは以前から『犯罪捜査録』という手記を書きためていて、それには、わたしの長い探偵生活中に取り扱っためぼしい事件は、ほとんど漏れなく、詳細に記録しているのだが、ここに書ぎつけておこうとする『硫酸殺人事件』はなかなか風変わりなおもしろい事件であったにもかかわらず、なぜか、わたしの捜査録にまだしるされていなかった。取り扱った事件のおびただしさに、わたしはつい、この奇妙な小事件を忘れてしまっていたのに違いない。  ところが、最近のこと、その『硫酸殺人事件』をこまごまと思い出す機会に出くわした。それは実に不思議干万な驚くぺき「機会」であったが、そのことは、いずれあとでしるすとして、ともかく、この事件をわたしに思い出させたのは、信州のS温泉で知り合いになった猪股《いのまた》という紳士、というよりは、その人が持っていた一冊の英文探偵小説であった。手ずれでよごれた青黒いクロース表紙の探偵小説...
  • 小原一夫「水納の入墨」
     一九三一年八月九日、十日と私の滞在中の宮古島は、未曾有の暴風雨に襲われた。風速五十四米、人も獣も木も草もその猛威の前には皆生色はなかった。思出しても物凄い台風で、住家のほとんどが形もなく吹き飛ばされ、危く命を助かった私の北から南へ島伝いにと定めた旅程は、たちまち妨げられて変更せざるを得なくなった。  あるかなきかの如き小さな多良間島、水納島に行く発動機船は皆難破してしまって、交通は絶え、入重山と宮古島とをつなぐこの島の入墨を見る機会が失われたように思わされた。私は、不本意にも先きに八重山に行かざるを得なくなった。多良間島の婦人で入墨をしている人が、宮古島にいないかと八方尋ねる内に親切な宿の主人は心掛けて、私に一人の婦人を紹介して呉れた。それは汽船が八重山に向う十三日の朝のことであった。まだ三十才そこそこに見える整った美しい容姿の人で、小さな男の子を傍に、あまり楽でない生活のように見えた。...
  • 中谷宇吉郎「霜柱と凍上の話」
      私は二、三年前に「霜柱と白粉の話」というのを書いたことがある。  一寸妙な題目であるが、その話というのは、私の同窓の友人の物理学者が、大学卒業後、寺田寅彦先生の下で霜柱の実験をしていたが、その時の研究の体験が、後になって、その友人が白粉の製造をするようになった時に大変役に立ったという話なのである。  私は勿論大真面目にかいたつもりなのであるが、何ぶん取り合わせが少々突飛なもので、中には信用しない人もかなりあったようである。それで今度は霜柱と凍上の話というのを書いてみることにする。  ところで凍上という現象であるが、この問題で一番手をやいているのは、寒地の鉄道局の人たちである。  冬になって気温が零下十度以下くらいになる土地では、大抵は地面はかなりの深さまで凍ってしまう。もっとも零下十度程度ならば、大したこともないが、北海道でも零下三十度くらいまで気温が低下するところは珍しくないし...
  • 菊池寛「弁財天の使」
    弁財天の使  江戸初期の寛永年間、人の心が、まだおだやかで素朴であった頃の話である。  本郷四丁目の丁度加賀様の赤門前に住んでいた住吉屋藤兵衛は、この界隈《かいわい》切っての豪商であった。  当主の藤兵衛は、六十を越していたが品《い》のよい好《こうこう》々|爺《や》で、永年加賀様にお出入りをしていた。  加賀からお伴をして来た町人の一人で、名字《みようじ》帯刀までお許しになっていたが、加賀様へお出入りをする時以外、刀など帯びたことがない。もうとっくに隠居すべきなのだが、男の子が二十になったばかりなので、まだ家業を見ていたが、仕事は大抵番頭まかせであった。  藩地と江戸の間の通信金融に当る飛脚問屋であったから、店間口はそんなに大きくはなかったが、店の裏手にある住居は立派で間数も多く、庭は一丁四方もあり、深い水を湛《たた》えた池があつた。  池の汀《みぎわ》に添うて、五ツ戸前の蔵が並んで、...
  • 永井荷風「散柳窓夕栄」
     天保十三壬寅の年の六月も半を過ぎた。いっもならば江戸御府内を湧立ち返らせる山王大権現の御祭礼さえ今年は諸事御倹約の御触によってまるで火の消えたように淋しく済んでしまうと、それなり世間は一入ひっそり盛夏の奏暑に静まり返った或日の暮近くである。『偐紫田舎源氏』の版元通油町の地本問屋鶴犀の主人喜右衛門は先ほどから汐留の河岸通に行燈を掛ならべた唯ある船宿の二階に柳下亭種員と名乗った種彦門下の若い戯作者と二人ぎり、互に顔を見合わせたまま団扇も使わず幾度となく同じような事のみ繰返していた。  「種員さん、もうやがて六ッだろうが先生はどうなされた事だろうの。」  「別に仔細はなかろうとは思いますがそう申せば大分お帰りがお遅いようだ。事によったらお屋敷で御酒でも召上.、てるのでは御ざいますまいか。」  「何さまこれア大きにそうかも知れぬ。先生と遠山様とは堺町あたりではその昔随分御眤懇であったとかい...
  • 太宰治「津軽」四五(新仮名)
    https //w.atwiki.jp/amizako/pages/629.html (から、つづき) [#5字下げ][#中見出し]四 津軽平野[#中見出し終わり] 「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越《コシ》の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田《アキタ》(今の秋田)渟代《ヌシロ》(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連|石布《イワシキ》、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳《ユキノムラジハカトコ》、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷《ニギエゾ》、次を麁蝦夷《アラエゾ》、遠きを都加留《ツガル》と名くと。其他の蝦夷は、おのずから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」3
    順ちゃんのタンカ 一番愉快な思い出  こうした当時の人々を思い出すたび、ことに私の胸になつかしくよみがえってくるものは、大正十年のアメリカ遠征である。私はいったい旅行がきらいだ。汽車というものを好かない。汽船には存外好感を持てるけれども、汽車は窮屈で、なんともからだを持てあます。だから、単独で遠い旅行をすることはほとんどないし、その意味から、遠征などに好印象を残しているのが少ない。  しかしこのアメリカ遠征だけは、私の一生の中でもっとも愉快な思い出である。ああした旅行をもう一度してみたいような気がする。このときのティームは、まえにもいったように大正十三、四年ごろのティームに比較すれば、ふぞろいであった。谷口はこの遠征に苦労したため、小野三千麿と併称されるまでになったのであって、この遠征の中途までは、さほどでなかったし、全体としての守備、打力とも決して充実したものとはいわれなかった。こ...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」1
    父のこと、母のこと  私はすでに明治、大正、昭和の三時代にわたる野球に親しく接してきた。これからもまた幾年かの野球をスタンドからながめることであろう。ここで私の野球生活を合算するなら実に三十余年間となる。  選手時代から記者、コーチ時代から再び記者へと移り変ってはいるけれども、つねに辛抱強く野球につきまとって飽くことを知らなかった。  しかも私が野球に走ったころは、むろん今日のごときものではなかった。野球に直接関係あるもののほか、全部といっていいくらい、すべてのものが野球の反対者であり、排斥者であった。学校も家庭もこぞって忌みきらった。当時の選手というものは、教育者からまるで不良少年のごとき扱いをうけていた。こうした迫害の中に成長した私どもの野球に、いくた困難のまつわっていたのは想嫁するにかたくはないであろう。  ことに野球ぎらいな父を持った私などの野球に対する境遇というもの...
  • 亀井勝一郎「桂離宮」
     桂離宮は日光のもとに見るべきものではない。月光のもとに見るべきものである。それも満月 の折は欠陥をあらわす惧れがある。下弦の月の頃、長夜の宴でも張ったとき、はじめてこの離宮 は真珠のような微光を人心に通わせるかもしれない。これは離宮の全景を綜合的に見た上での私 の予想である。  四季のいずれの時間を選ぶかは、極めて大切なことだ。御殿と林泉と茶室と人の心が、おのず から融けあう刹那は、古人においてもそう屡ーあったとは思われない。それでいいのだ。離宮と は元来、「贅沢な時間」のために構想されたものであるから。人は日常性から意識的に遊離した かたちでここに遊ぶ。 *  洛西の郊外、桂川は嵐山をめぐって東南に流れ、.淀川に注いでいる。その流域のほぼ中ほど に、離宮の地は設定された。周囲はすべて田野である。自然として利用すべきものは、桂川の水 以外にはない。この平坦で平凡な場所に、一万三千坪の庭園...
  • 江戸川乱歩「目羅博士の不思議な犯罪」
    1  わたしは探偵小説の筋を考えるために、ほうぼうをぶらつくことがあるが、東京を離れない場合は、たいてい行く先がきまっている。浅草公園、花やしき、上野の博物館、同じく動物園、隅田川の乗合蒸汽、両国の国技館。(あの丸屋根が往年のパノラマ館を連想させ、わたしをひきつける)今もその国技館の「お化け大会」というやつを見て帰ったところだ。久しぶりで、 「八幡《やわた》のやぶ知らず」をくぐって、子どもの時分のなつかしい思い出にふけることができた。  ところで、お話は、やっぱりその、原稿の催促がきびしくて、家にいたたまらず、一週間ばかり東京市内をぶらついていた時、ある日、上野の動物園で、ふと妙な人物に出会ったことから始まるのだ。  もう夕方で、閉館時間が迫って来て、見物たちはたいてい帰ってしまい、館内はひっそりかんと静まり返っていた。  芝居や寄席なぞでもそうだが、最後の幕はろくろく見もしない...
  • 亀井勝一郎「古塔の天女」
     この春東大寺の観音院を訪れたときは、もう日がとっぷり暮れていた。星ひとつない闇夜で あった。老松の並木に沿うて参道を行くと、ふいに、まるで巨大な怪物のような南大門に出っく わした。いかにも突然の感じで、昼間は幾たびも見なれて気にもとめないこの門の、異様な夜景 に驚いた。昼間よりはずっと大きくみえる。地にうずくまりながら、頭をもたげ、大きな口を開 いて咆号する化物じみたすがただ。仁王の顔面はみえないが、胴体はさながら節くれだった巨大 な古木であった。夜の寺は凄くまた底しれぬ深さを感じさせるものである。  大仏殿はなおさらのことで、廻廊が長々とつづいて闇に消える辺りを見ていると、建物が地上 全体を蔽うているようだ。形の実にいいのに感心した。大和の古寺の中では新しい方だが、こう して夜眺めるとなかなか風格が出来たといった印象を与えられる。人影もなく、あたりは森閑と して物音ひとつ聞えない。廻廊...
  • 江戸川乱歩「心理試験」
    1  蕗屋《ふきや》清一郎が、なぜ、これから記すような恐ろしい悪事を思い立ったか、その動機についてはくわしいことはわからぬ。また、たといわかったとしても、このお話には、たいして関係がないのだ。彼がなかば苦学みたいなことをして、ある大学に通っていたところをみると、学資の必要に迫られたのかとも考えられる。彼はまれに見る秀才で、しかも非常な勉強家だったから、学資を得るために、つまらぬ内職に時を取られて、好ぎな読書や思索がじゅうぶんでぎないのを残念に思っていたのは確かだ。だが、そのくらいの理由で、人間はあんな大罪を犯すものだろうか。おそらく、彼は先天的の悪人だったのかもしれない。そして、学資ばかりでなく、ほかのさまざまな欲望をおさえかねたのかもしれない。それはともかく、彼がそれを思いついてから、もう半年になる。その聞、彼は迷いに迷い、考えに考えたあげく、結局やっつけることに決心したのだ。 ...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」2
    懐しの球友 野球との心中  野球と心中、それが前世からの約束ごとでもあろう。生きてきた七十余年、ふりかえりみるなら、野球のほかになにものも残らない。女房子供のあるのがふしぎにも思える。少年時代人なみに描いていた希望も野心も、一度野球に対面したが最後、すべて雲散霧消、きれいさっばり、空想にも英雄豪傑と別れを告げてしまった。大臣大将の夢とボールの現実とを、いさぎよく引きかえにした、穂洲庵忠順愛球居士の末路が、さていかに落ち着くかは、熱球三十年にして終るか、四十年、五十年に生きのびるか、その心中たるや悲愴をきわめるか、はなやかではなくとも、得心のいくものとなるか、むろん穂洲庵自身にもわからないし、世間のだれにもそれを占うことができまい。ただ、この鍵を握っているものは、つれそうてきたボールのみであろう。  磯節に明ける大洗小学校の巣立ちから、老松に暮れる水戸佐竹城趾のグラウンド、目白の若葉を...
  • 片岡鉄兵「綱の上の少女」
     街の夏祭りを当て込んで、このごろ来ていた軽業師の中に、私の妹がいるという事実は、私をひどい憂欝に陥し入れてしまった。  生まれつき空想家の私は、これまでの二三年間、幾たび、妹をそうした境遇から救い出そうと考えただろう……けれども、私はどうすることも出来なかった。私は貧しい少年職工にすぎなかったし、彼女はいつも旅から旅を放浪して歩く巡業団の中のひとりだったのだからー私は、どれだけ彼女に逢いたくても、いつどこで彼女たちが興行しているのかも知らなかったし、また、この三年足らずの間には、たまには彼女が属する「山谷興行部」の巡業先を知る機会があったとはいうけれども、私にはその土地まで行く旅費のあろう道理がなかったのだ。  彼女はそんな身の上にならなければならなかったーこれは、彼女が誘拐されたというようなことがあったわけではない。私の父が、そうした興行師に、彼女を売ったのである。私の父は、どうい...
  • 吉川英治・五島慶太対談「文学と事業」
    吉川 相変らずお元気のようで結構ですね。健康法としてはどのようなことをなさっておりますか。 五島 毎朝六時半に起きまして九時まで歩きます、多摩川ぶちを……。帰ってきて、樫の棒を百回振るのです。 吉川 そうですか。 五島 それから昼寝をするのです。 吉川 昼寝はいいですね。しかし、樫の棒を振るというのは長く続いておりますか。 五島 百回毎日振ります。そうでなければ手が弱ってくるし、また歩かないと足が弱る。われわれぐらいになると、歩く以外に健康法はありません。樫の棒は必ずしも振らなくてもいいかもしれないが、しかし、振ったほうがいいですな。 吉川 昼寝は……これは久原さんがそうです。昼寝自慢みたい。 五島 昼寝自慢と熊胆《くまのい》を飲むことです。私も教わって熊胆を毎日飲んだ。あれを飲みますと、まず第一に澱粉の消化を助ける。だから胆汁が多少少くてもいい。肝臓及び胆嚢の弱ったのを助ける。また肝嚢と...
  • 江戸川乱歩「人間椅子」
     佳子《よしこ》は、毎朝、夫の登庁を見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館のほうの、夫と共用の書斎へ、とじこもるのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせるための、長い創作にとりかかっているのだった。  美しい閨秀作家《けいしゆうさつか》としての彼女は、このごろでは、外務省書記官である夫君《ふくん》の影を薄く思わせるほども、有名になっていた。彼女のところへは、毎日のように未知の崇拝者たちからの手紙が、幾通となくやって来た。  けさとても、彼女は書斎の机の前にすわると、仕事にとりかかる前に、まず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。  それはいずれも、きまりきったように、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女のやさしい心づかいから、どのような手紙であろうとも、自分にあてられたものは、ともか...
  • 谷崎潤一郎「「門」を評す」
    谷崎潤一郎? 「門」?を評す 明治四十三年九月「新思潮」第一號 僕は漱石先生を以て、當代にズバ拔けたる頭腦と技倆とを持つた作家だと思つて居る。多くの缺點と、多くの批難とを有しつゝ猶先生は、其の大たるに於いて容易に他の企及す可からざる作家だと信じて居る。紅葉なく一葉なく二葉亭なき今日に於いて、僕は誰に遠慮もなく先生を文壇の第一人と認めて居る。然も從來先生の評到は、其の實力と相件はざる恨があつた。それだけ僕は、先生に就いて多くの云ひたい事論じたい事を持って居る。「門」を評するに方りて、先づこれだけの斷り書きをして置かないと、安心して筆を執ることが出來ない。 「それから」は代助と三千代とが姦通する小説であつた。「門」は姦通して夫婦となつた宗助とお米との小説である。此の二篇はいろいろの點から見て、切り放して讀む事の出來ない理由を持つて居る。勿論先生は其の後の代助三千代を書く積で...
  • 江戸川乱歩「夢遊病者の死」
     彦太郎が勤め先の木綿《もめん》問屋をしくじって、父親のところへ帰って来てから、もう三カ月にもなった。旧藩主M伯爵邸の小使いみたいなことを勤めて、かつかつその日を送っている五十を越した父親のやっかいになっているのは、彼にしても決して快いことではなかった。どうかして勤め口を見つけようと、人にも頼み、自分でも奔走しているのだけれど、おりからの不景気で、学歴もなく、手にこれという職があるでもない彼のような男を、雇ってくれる店はなかった。もっとも、住み込みなればという口が一軒、あるにはあったのだけれど、それは彼のほうから断った。というのには、彼にはどうしてもふたたび住み込みの勤めができないわけがあったからである。  彦太郎には、幼い時分からねぼける癖があった。ハッキリした声で寝言をいって、そばにいるものが寝言と知らずに返事をすると、それを受けてまたしゃべる。そうして、いつまででも問答をくり返すの...
  • 永井荷風「牡丹の客」
     小れんと云ふ芸者と二人連、ふいとした其の場の機会で・本所の牡丹を見にと両国の橋だもとから早船《はやふね》に乗つた。  五月も末だから牡丹はもう散つたかも知れない。実は昨日の晩、芝居で図らず出会つたま撫地の待合へ泊つて、今朝は早く帰るつもりの処を、雨に止められたなり、其の霽れるのをば昼過ぎまで待つてゐたのだ。一日小座敷に閉籠《とちこも》つていたゴけに、往来へ出ると覚えず胸が開けて、人家の問を河から吹き込む夕風が、何とも云へぬほど爽に酔後の面を吹くのに、二人とも自然と通りか」る柳橋の欄干にもたれた。  雨霽《あまあが》りの故《せゐ》でもあるか、日は今日から突然永くなり出したやうに思はれた。丁度寺院の天井に渦巻く狩野派《かのうは》の雲を見るやうな雨後の村雲が空一面|幾重《いくへ》にも層をなして動いて居る。其の間々に光沢《つや》のある濃い青空の色と、次第に薄れて行く夕炎《ゆふばえ》の輝きが際立つ...
  • 江戸川乱歩「二廃人」
     ふたりは湯から上がって、一局囲んだあとをタバコにして、渋い煎茶《せんちや》をすすりながら、いつものようにポッリポッリと世間話を取りかわしていた。おだやかな冬の日光が障子いっぱいにひろがって、八畳の座敷をほかほかと暖めていた。大きな桐《きり》の火バチには銀瓶《ぎんびん》が眠けをさそうような音をたててたぎっていた。夢のような冬の温泉場の午後であった。  無意味な世間話がいつのまにか、懐旧談にはいって行った。客の斎藤氏は青島役《ちんたおえき》の実戦談を語りはじめていた。部屋のあるじの井原氏は火バチに軽く手をかざしながら、だまってその血なまぐさい話に聞き入っていた。かすかにウグイスの遠音が、話の合の手のように聞こえて来たりした。昔を語るにふさわしい周囲の情景だった。  斎藤氏の見るも無残に傷ついた顔面はそうした武勇伝の話し手としては、しごく似つかわしかった。彼は砲弾の破片に打たれてできたとい...
  • 江戸川乱歩「恐ろしき錯誤」
    「勝ったぞ、勝ったぞ、勝ったぞ……」  北川氏の頭の中には、勝ったという意識だけが、風車のように旋転していた。ほかのことは何も思わなかった。  かれは今、どこを歩いているのやら、どこへ行こうとしているのやら、まるで知らなかった。だいいち、歩いているという、そのことすらも意識しなかった。  往来の人たちは妙な顔をして、かれのへんてこな歩きぶりをながめた。酔っぱらいにしては顔色が尋常だった。病気にしては元気があった。  ちょうどあの気違いじみた文句を思い出させるような、一種異様の歩きぶりだった。北川氏は決して現実の毒グモにかまれたわけではなかった。しかし、毒グモにもまして恐ろしい執念のとりことなっていた。-  かれは今全身をもって復讐《ふくしゆう》の快感に酔っているのだった。 「勝った、勝った、勝った……」  一種の快いリズムをもって、毒々しい勝利のささやきが、いつまでも、いつま...
  • 尾崎士郎「桑名の宿」
         一  幕府の軍艦、「咸臨丸《かんりんまる》」が品川湾を出航してサンフランシスコに向ったのは、万延元年二月十八日の朝である。艦長は時の海軍奉行木村摂津守ハ指揮官は勝麟太郎(安房)で、九十六名の幕臣が、随従員として乗込んでいた。名目は井伊大老の命を奉じた幕府の遣米使節、新見豊前守を迎えるためにアメリカ本国から特派されたポータハン号の護衛ということになっているが、実情をいえば咸臨丸はイギリスから、ほとんど廃船にちかい老朽船を高く売りつけられたという代ものである。それも沿海航路ならば千石船のあいだに伍して堂々たる威容を示すということになるとしても、百馬……力の補助蒸気機関附きの小帆船を日本人だけで操縦して太平洋横断をするなぞということは開闢《かいびやく》以来の大壮挙というべきものであろう。もちろん誰ひとり自信はなかった。  幕府の内部にも硬軟両意見が対立して、独立国である日本が使節を派...
  • 江戸川乱歩「鏡地獄」
    「珍らしい話とおっしゃるのですか、それではこんな話はどうでしょう」  ある時、五、六人の者が、怖い話や、珍奇な話を、次々と語り合っていた時、友だちのKは最後にこんなふうにはじめた。ほんとうにあったことか、Kの作り話なのか、その後、尋ねてみたこともないので、私にはわからぬけれど、いろいろ不思議な物語を聞かされたあとだったのと、ちょうどその日の天候が春の終りに近い頃の、いやにドソヨリと曇った日で、空気が、まるで深い水の底のように重おもしく淀んで、話すのも、聞くものも、なんとなく気ちがいめいた気分になっていたからでもあったのか、その話は、異様に私の心をうったのである。話というのは、  私に一人の不幸な友だちがあるのです。名前は仮りに彼と申して置きましょうか。その彼にはいつの頃からか世にも不思議な病気が取りついたのです。ひょっとしたら、先祖に何かそんな病気の人があって、それが遺伝したのかもしれ...
  • 尾崎士郎「ホーデン侍従」
    1  ペニス笠持ち  ホーデンつれて  入るぞヷギナの  ふるさとへ  謹厳をもって知られた前の鉄道病院長H博士が晩年、酔余にまかせてつくった即興詩の一節である。おそらく高踏乱舞、談論風発の後、ようやく歓楽極って、成ったものであろう。そのとき、座に今は亡き北原白秋翁あり、詩人白秋は剛直、苟《いやし》くもせざる人柄であるにもかかわらず、おのずからにして湧くがごとき感興を禁じ得ざりしもののごとく、たちどころに筆をとって次韻《じいん》を付した。すなわち次のごときである。    来たかヷギナの  このふるさとヘ  ペニス笠とれ  夜は長い  これを私(作者)に伝えた人は共に席を同じうしていた歌人の岡山巌博士であるが、これを聴いて微吟すること数回。──妖しくも、ほのかなる幻覚の世界はたちまち縹渺《ひょうびょう》として私の眼の前にうかぴあがってきた。読者もまた志あらば端坐して威儀を正し、心しずか...
  • 柳宗悦「沖繩人に訴ふるの書」
    一  沖繩学の先駆者は、彼の著書の一つに題して「孤島苦の琉球史」と名づけた。誰か此の言葉に胸を打たれないであらう。切々たる想ひが迫るではないか。  識名の名園を訪ふ者は、勧耕台へと案内を受ける。何処を眺めるとも丘又丘であつて少しも海が見えぬ。こんな場所の発見は、孤島に住む者のせめてもの慰めである。だが心もとない慰めではないか。  沖繩は小さな島々に過ぎない。それも中央からは幾百海里の遠い彼方の孤島である。昔は往き来にさぞや難儀を重ねたであらう。今だとて親しく此の島を訪ふ者はさう沢山はない。だから県外の者の此の島に対する概念は多くの場合いとも杜撰である。疎んずる者は何か蕃地の続きでゴもある如く想像する。沖繩人は長い間此のやうな屈辱を受けた。遺憾ではあるが、今も此の不幸な事情は全く拭はれておらぬ。  だから沖繩人は沖繩に生れたことを苦しむ。さうして琉球人と呼ばれることを厭ふ。私が沖繩を訪はう...
  • 亀井勝一郎「美貌の皇后」
                                             ふぴ  法華寺は大和の国分尼寺である。天平十三年光明皇后の発願されしところで、寺地は藤原不比 と 等の旧宅、平城京の佐保大路にあたる。天平の盛時には、墾田一千町の施入を受くるほどの大伽 藍であった。その後次第に崩壊し、現在の本堂は、慶長年間豊臣氏の命で旧金堂の残木を以て復 興されたものと伝えられる。円柱の腐蝕甚しく、荒廃の感は深い。平城宮の廃墟に近く、今はわ ずか七人の尼僧によって法燈が擁られるのみ。本尊は光明皇后の御姿を写したと云われる十一面 観音である。この二月久しぶりで拝観した。  私は「大和古寺風物誌」の中でもかいたが、この観音像についての有名な伝説をもう一度紹介 しておきたい。北天竺の轍階羅国に見生王という王様がいたが、どうかして生身の観音を拝みた く思い、或るとき発願入定して念じた。するとやがて、...
  • 亀井勝一郎「中尊寺」
                            せきやま  平泉の駅から北へ約八丁の道を行くと、中尊寺のある関山の麓に達する。さほど高くはない が、相当に嶮しそうな一大丘陵で、その全体が寺域となっている。麓から本坊への登り道は、月 見坂と呼ばれ、かなりの急坂だ。全山を蔽うのは鬱蒼たる数丈の杉の巨木、根もとには熊笹が繁 り、深山へわけ入った感が深い。天狗が出て来そうな風景である。彼岸には大雪が降ったとい う。私の出かけたのは数日後だが、快晴にもかかわらず至るところ残雪があり、道もまだ凍りつ いていた。  急坂を登りつめて稍ー平坦になったところに、昔の仁王門の址がある。その傍に東の物見がある が、ここへ来て、眼前に突如として展けた広漠たる風景に驚いた。平泉の東北方深く、一望のも                                     たはしねやま とに眺められるのである。稲株の...
  • @wiki全体から「宇野浩二「枯野の夢」」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

記事メニュー
目安箱バナー