網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「室生犀星「寂しき魚」」で検索した結果

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  • 室生犀星「寂しき魚」
    寂しき魚  それは古い沼で、川尻からつづいて蒼くどんよりとしていた上に、葦やよしがところどころに暗いまでに繁っていました。沼の水はときどき静かな波を風のまにまに湛えるほかは、しんとして、きみのわるいほど静まりきっていました。ただ、おりおり、岸の葦のしげみに川蝦が、その長い髭を水の上まで出して跳ねるばかりでした。  その沼はいつごろからあったものか誰も知らない。涸れたこともなければ、減ったこともなく、ゆらゆらした水がいつも沼一杯にみなぎっていた。そのうえには、どんよりした鉛筆でぽかしたような曇った日ざしが、晩い秋頃らしく、重く、低い雲脚を垂れていたのです。  そこには非常に古い一匹の魚が住んでいて、岸の方の葦のくらやみに、ぼんやりと浮きあがっていました。かれは水中の王者のように、その大きなからだを水面とすれすれにさせながら、いつも動かず震えもしないで、しずかに、ゆっくりと浮きあがっていた...
  • 三好達治「萩原朔太郎詩集あとがき」
     萩原さんが生前上刊された詩集を刊行の年次に従って列記してみると次の如くである。  「月に吠える」(大正六年二月十五日 感情詩社 白日社出版部共同刊)  「青猫」(大正十二年一月二十六日 新潮社刊)  「蝶を夢む」(大正十二年七月十四日 新潮社刊)  「純情小曲集」(大正十四年八月十二日 新潮社刊)  「萩原朔太郎詩集」(昭和三年三月二十五日 第一書房刊)  「氷島」(昭和九年六月一日 第一書房刊)  「定本青猫」(昭和十一年三月二十日 版画荘刊)  「宿命」(昭和十四年九月十五日 創元社刊) 別に「月に吠える」の再版(大正十一年アルス刊)、「現代詩人全集」第九巻(昭和四年新潮社刊)、その他の重版本合著選抄等数種があるが本文庫本の編輯に当ってはそれらは全く関聯するところがないから略する。本書の編纂に底本として用いたのは右に挙げた初版本八冊であった。さてその八冊の刊行年次は先の順序であるが、...
  • 永井荷風「榎物語」
    市外荏原郡世田ケ谷町に満行寺という小さな寺がある。その寺に、今から三、四代前とやらの住職が寂滅の際に、わしが死んでも五十年たった後でなくては、この文庫は開けてはならない、と遺言したとか言伝えられた堅固な姫路革の篋があった。 大正某年の某月が丁度その五十年になったので、その時の住持は錠前を打破して篋をあけて見た。すると中には何やら細字でしたためた文書が一通収められてあって、次のようなことがかいてあったそうである。 愚僧儀一生涯の行状、懺悔のためその大略を此に認め置候もの也。愚僧儀はもと西国丸円藩の御家臣深沢重右衛門と串候者の次男にて有之候。不束ながら 行末は儒者とも相なり家名を揚げたき心願にて有之候処、十五歳の春、父上は殿様御帰国の砌御供廻仰付けられそのまま御国詰になされ候に依り、愚僧は芝山内青樹院と申す学寮の住職雲石殿、年来父上とは眤懇の間柄にて有之候まゝ、右の学寮に寄宿仕り、従前通り江...
  • 三好達治「萩原さんという人」
     映画俳優のバスター・キートンというのはひと頃人気のあった喜劇俳優だ。近頃の若い人はもうご存じでないかもしれぬ。額が広く、眼玉がとび出て、長身痩驅《ちようしんそうく》、動作は何だかぎくしゃくしていてとん狂で無器用らしく、いつも孤独な風変りな淋しげな雰囲気を背負っている、一種品のいい人物だった。萩原さんの風つきは、どこかこのキートン君に似通った処があった。それはご本人も承認していられたし、またそれがいくらかお得意の様子で、よくその映画を見物に出かけられた後などそれをまた話題にもされた。先生にはあの俳優のして見せる演技のような、間抜けた節がいつもどこかにあって、妙にそれが子供っぽくて魅力があり、品がよかった。突拍子もない  著想《ちやくそう》は、あの人の随筆や感想の随所にちらばってのぞいている呼びかけだし、あの人の詩の不連続の連続のかげにもたしかに潜んでいる。先生には、著想の奇抜で読者の意表に...
  • 江戸川乱歩「恐ろしき錯誤」
    「勝ったぞ、勝ったぞ、勝ったぞ……」  北川氏の頭の中には、勝ったという意識だけが、風車のように旋転していた。ほかのことは何も思わなかった。  かれは今、どこを歩いているのやら、どこへ行こうとしているのやら、まるで知らなかった。だいいち、歩いているという、そのことすらも意識しなかった。  往来の人たちは妙な顔をして、かれのへんてこな歩きぶりをながめた。酔っぱらいにしては顔色が尋常だった。病気にしては元気があった。  ちょうどあの気違いじみた文句を思い出させるような、一種異様の歩きぶりだった。北川氏は決して現実の毒グモにかまれたわけではなかった。しかし、毒グモにもまして恐ろしい執念のとりことなっていた。-  かれは今全身をもって復讐《ふくしゆう》の快感に酔っているのだった。 「勝った、勝った、勝った……」  一種の快いリズムをもって、毒々しい勝利のささやきが、いつまでも、いつま...
  • 谷崎潤一郎「詩と文字と」
    谷崎潤一郎 詩と文字と 大正六年四月號「中央文學」 詩人が、幽玄なる空想を彩《いろど》らんが爲めに、美しき文字を搜し求むるは、恰も美女が妖冶《えうや》なる肢體を飾らんが爲めに、珍しき寶玉を肌に附けんと欲するが如し。詩人に取りて、文字はまことに寶玉なり。寶玉に光あるが如く、文字にも亦光あり、色あり、匂あり。金剛石の燦爛《さんらん》たる、土耳古石《とるこいし》の艶麗なる、アレキサンドリアの不思議なる、ルビーの愛らしき、アクアマリンの清々しき、──此れを文字の内に索めて獲ざることなし。故に世人が、地に埋れたる寶石を發掘して喜ぶが如く、詩人は人に知られざる文字を見出して驚喜せんとす。 人あり、予が作物の交章を難じて曰く、新時代の日本語として許容し難き漢文の熟語を頻々と挿入するは目障りなりと。予も此の批難には一應同意せざるを得ず。されど若し、文字の職能をして或る一定の思想を代表し、縷述...
  • 川路柳虹「跋」
     先驅者の仕事はその當時にあつてはいつも不幸だ。故平戸廉吉君の詩集の如きもその一つである。君の詩に於ける建設は今日から見て單なる詩の手法上の新意以上の或るものを有つてゐたのである。君は最初伊太利藝術界に端を發した未來主義の名のもとにその創作を發表した。しかしそれは最も獨創に富む君自身の創設であつた。それから第四側面の詩、即ち詩に於ける第四次元的宇宙の展開を意圖する時から何人もが提唱するをえなかつた新しき詩論に立て籠つて『アナロジスムの詩』の樹立に向つた。不幸その創作半ばで君は肺患のために倒れた。がその新しき詩論はとりもなほさず君の新しき宇宙觀であり、そこに立脚する詩の創造である。アルス・ポエチカといふ語が單なる詩の技法を示すのでなく詩人の宇宙觀を示す意味に往古から使はれてゐる如く君のアルス・ポエチカも又單なる詩のテクノロジー以外の大きな背景から發足してゐる。それを回顧することは決して今日の...
  • 江戸川乱歩「目羅博士の不思議な犯罪」
    1  わたしは探偵小説の筋を考えるために、ほうぼうをぶらつくことがあるが、東京を離れない場合は、たいてい行く先がきまっている。浅草公園、花やしき、上野の博物館、同じく動物園、隅田川の乗合蒸汽、両国の国技館。(あの丸屋根が往年のパノラマ館を連想させ、わたしをひきつける)今もその国技館の「お化け大会」というやつを見て帰ったところだ。久しぶりで、 「八幡《やわた》のやぶ知らず」をくぐって、子どもの時分のなつかしい思い出にふけることができた。  ところで、お話は、やっぱりその、原稿の催促がきびしくて、家にいたたまらず、一週間ばかり東京市内をぶらついていた時、ある日、上野の動物園で、ふと妙な人物に出会ったことから始まるのだ。  もう夕方で、閉館時間が迫って来て、見物たちはたいてい帰ってしまい、館内はひっそりかんと静まり返っていた。  芝居や寄席なぞでもそうだが、最後の幕はろくろく見もしない...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」十四
     和歌となると一だんと興味の深いものである、下賎な樵夫《きこり》の仕事も、歌に詠《よ》んでみると趣味があるし、恐ろしい猪なども、臥猪《ふすい》の床などと言うと優美に感じられる。近ごろの歌は気のきいたところがあると思われるのはあるが、古い時代の歌のように、なにとなく言外に、心に訴え心に魅惑を感じさせるのはない。貫之《つらゆき》が「糸による物ならなくに」と詠んだ歌は、古今集の中でも歌屑だとか言い伝えられているが、現代の人によめる作風とは思えない。その時の歌には風情《ふぜい》も旬法もこんな種類のものが多い。この歌にかぎって、こう貶《おと》しめられているのも合点がゆかぬ。源氏物語には「ものとはなしに」と書いてはいる。新古今では、「残る松さへ峯にさびしき」という歌をさして歌屑にしているのは、なるほど幾分雑なところがあるかも知れない。けれどもこの歌だって合評の時にはよろしいという評決があって、後で後鳥...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」六十一
     后《きさき》などがお産の時に、甑《こしき》を落すのは、必ずしなければならないことではない。お胞衣《えな》が早くおりない時の咒《まじない》である。早くおりさえすれば甑落しはしない。本来下賤の社会からはじまったので、別だんに根拠のある説も無い。大原の里の甑をとくにお求めになる。古い宝物蔵の絵に、下賤の者が子を産んだ所で、甑を落しているのを描いていた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百八十五
     秋田城介兼陸奥守泰盛は無双の乗馬の名人であった。従者に馬を出させる時、その馬が一足飛びに門の閾《しきい》をゆらりと越えたのを見るとこれは過敏な馬だといってほかの馬に鞍をおきかえさせた。そのつぎの馬は足をあげず伸ばしたままで閾に当てたので、これは愚鈍な馬だから過失があるだろうと言って乗らなかった。その道の心得のない人物であったならばなんでこんなに怖れることをしようか。
  • 江戸川乱歩「毒草」
     よく暗れた、秋の一日であった。仲のよい友だちがたずねて来て、ひとしきり話がはずんだあとで、 「気持ちのいい天気じゃないか。どうだ、そこいらを、少し歩こうか」ということになって、わたしとその友だちとは、わたしの家は場末にあったので、近くの広っぱへと散歩に出かけたことであった。  雑草のおい茂った広っぱには、昼間でも秋の虫がチロチロと鳴いていた。草の中を一尺ばかりの小川が流れていたりした。ところどころには小高い丘もあった。わたしたちは、とある丘の中腹に腰をおろして、一点の雲もなくすみ渡っている空をながめたり、あるいはまた、すぐ足の下に流、れている、みそのような小川や、その岸にはえているさまざまの、見れば見るほど無数の種類の、小さな雑草をながめたり、そして「ああ、秋だなあ」とため息をついてみたり、長い間一つととろにじっとしていたものである。  すると、ふとわたしは、やはり小川の岸のじめじめ...
  • 江戸川乱歩「指」
     患者は手術の麻酔からさめてわたしの顔を見た。  右手に厚ぼったく包帯が巻いてあったが、手首を切断されていることは、少しも知らない。  かれは名のあるピアニストだから、右手首がなくなったことは致命傷であった。犯人はかれの名声をねたむ同業者かもしれない。  かれはやみ夜の道路で、行きずりの人に、鋭い刃物で右手首関節の上部から切り落とされて、気を失ったのだ。  さいわいわたしの病院の近くでのできごとだったので、かれは失神したまま、この病院に運びこまれ、わたしはでぎるだけの手当をした。 「あ、きみが世話をしてくれたのか。ありがとう……酔っぱらってね、暗い通りで、だれかわからないやつにやられた……右手だね。指はだいじょうぶだろうか」 「だいじょうぶだよ。腕をちょっとやられたが、なに、じきに直るよ」  わたしは親友を落胆させるに忍びず、もう少しよくなるまで、かれのピアニストとしての生涯...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」九
     女は髪の毛のよいのが、格別に、男の目につくものである。人がらや心がけなどは、ものを言っている様子などで物をへだてていてもわかる。ただそこにいるというだけのことで男の心を惑わすこともできるものである。一般に女が心を許す間がらになってからも、満足に眠ることもせず、身の苦労をも厭《いと》わず、堪えられそうにもないことによく我慢しているのはただ容色愛情を気づかうためである。実に愛着の道は根ざし深く植えられ、その源の遠く錯綜したものである。色《しき》、声《しよう》、香、味、触、法の六塵の楽慾も多い。これらーはみな容易に心からたち切ることもできないではないが、ただそのなかの一つ恋愛の執着の、抑え難いのは老人も青年も智者も愚者もみな一ようのように見受けられる。それ故、女の髪筋でつくった綱には大象もつながれ、女のはいた下駄でこしらえた笛を吹くと秋山の鹿もきっと寄って来ると言い伝えられている。みずから戒め...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」六十七
     賀茂の岩本、橋本は、業平《なりひら》.実方《さねかた》である。(岩本は在原業平、橋本は藤原実方である)世人がよくとり違えているから、ある年のこと、参詣をして、年寄りの宮司の通りかかったのを呼びとめて質問したところ、「実方は御水洗《みたらし》に影のうつる所と言われていますから、橋本のほうが一そう水に近かろうかと存じております。吉水《よしみず》の僧正(慈鎮和尚)が「月をめで花をながめしいにしへのやさしき人はここにあり原」とお詠《よ》みなされたのは岩本の社であったと聞きおよんでおりますけれど、私どもなどより、かえって、よく御存じでいらっしゃいましょう」と、大へん謹直な態度で言ってくれたのには感心した。  今出川院近衛といって撰集などに歌のたくさん入れられている人は、年の若かった頃に、いつも百首の歌を詠んで、前述の両神社社前の水で浄書して奉納していた。尊い名誉を得て、この歌は人口に膾炙《かいし...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」十九
     季節のうつりかわりこそ、何かにつけて興の深いものではある。  感情を動かすのは秋が第一であるとは誰しもいうけれども、それはそれでいいとして、もう一そう心に活気の出るものは、春のけしきでもあろう。鳥の声などは、とくに早く春の感情をあらわし、のどかな日ざしに、垣根の草が萠えはじめる時分から、いくぶんと春の趣ふかく霞も立ちなびいて花も追々と目につきやすくなる頃になるというのに、折から西風がつづいて心落ちつく間もなく花は散ってしまう。青葉の頃になるまでなにかにつけて心をなやますことが多い。花たちばなは今さらでもなく知られているが、梅の匂いには一しお過ぎ去ったことどもが思いかえされて恋しい思いがする。山吹の清楚なのや藤の心細い有様をしたのなどすべて春には注意せずにいられないような事象が多い。  仏生会《ぶつしようえ》のころ、加茂《かも》のお祭のころ、若葉の梢《こずえ》がすずしげに繁って行く時分こ...
  • 森鴎外「我をして九州の富人たらしめば」
    森鴎外「我をして九州の富人たらしめば」  我をして九州の富人たらしめば、いかなることをか為すべき。こは屡々わが念頭に起りし問題なり。今年わが職事のために此福岡県に来り居ることゝなりしより、人々我に説くに九州の富人多くして、九州の富人の勢力逈に官吏の上に在ることを以てす。既にしてその境に入りその俗を察するに、事として物として聞く所の我を欺かざるを証せざるはなし。こゝに一例を挙げんか。嘗て直方より車を倩《やと》ひて福丸に至らんとせしに、町はづれに客待せる車夫十余人ありて、一人の応ずるものなく、或は既に人に約せりといひ、或は病と称して辞《いな》みたり。われは雨中短靴を穿きて田塍の間を歩むこと二里許なりき。後人に問ひて車夫の坑業家の価を数倍して乗るに狃《な》れて、官吏の程を計りて価を償ふを嫌ふを知りぬ。九州に来るもの、富の抑圧を覚ゆること概ね此類なり。  われは此等の事に遭ふごとに、九州の富人の為...
  • 三好達治「堀辰雄君のこと」
     一身|憔悴《せうすい》花ニ対シテ眠ル、  いつどこで記《おぽ》えた句か前後は忘れてしまったのが近頃時たま唇にのぼってくるのを愛誦している、まったくそれは今の僕の境涯だからね、  堀は臥床の中から天井を見あげたままそういって淋しく笑った。一昨年秋のこと、それが最後の訪問となった折の話柄であった。その庭さきにはカンナやなんぞ西洋花らしいのが二三美しく咲いていた。大歴の才子司空曙の七絶「病中妓ヲ遣ル」というのの前半「万事傷心目前二在リ、一身憔悴花ニ対シテ眠ル」はまったくそのまま当時の堀にあてはめて恰好《かつこう》であった。詩の後半「黄金散ジ尽シテ歌舞ヲ教ヘシガ、他人ニ留与シテ少年ヲ楽シマシメン」というのは、年少のお妾《めかけ》さんを憐れんで適当な若者に遣わそうというのだよ、と私がうろ記えのつけ足しをすると、それも不思議に堀の気に入ったようであった。牀中《しようちゆう》の堀は言葉少なに応答も大儀...
  • 三好達治「朔太郎詩の一面」
      山に登る    旅よりある女に贈る  山の頂上にきれいな草むらがある、  その上でわたしたちは寝ころんでゐた。  眼をあげてとほい麓の方を眺めると、  いちめんにひろびうとした海の景色のやうにおもはれた。  空には風がながれてゐる、  おれは小石をひろつて口にあてながら、  どこといふあてもなしに、  ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。  おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。           『月に吠える」 「山に登る」は右のような主題のはっきりとした作品であるが、この作品の主格は最初の第二行目に於て「わたしたちは……」と複数であったのが、いつのほどにか「おれは小石をひろつて」と変化し、最後の一行でもまた「おれはいまでも……」という具合になっている。最初の「わたしたちは」草の上に寝ころんでいたのであるが、「おれ」の方はしぜんにその位置を離れて、「小石をひろつて口に...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百三十八
     加茂の祭がすんでしまえば後の葵《あおい》は用もないと言ってある人が御簾《みす》にあったのをみな取り払わせたのを素気ないことに感じたことがあったが、立派なお方のなさったことであったから、そうするのがいいのであろうかと思っていたけれど、周防《すおう》の内侍《ないし》が「かくれどもかひなきものはもろともにみすの葵の枯葉なりけり』と詠んだのも、母屋《もや》の簾にかかっていた葵の枯葉を詠んだものだということを内侍の家集に記している。古歌の詞書きに「枯れたる葵にさしてつかはしける」というのもある。枕草子にも「来し方恋しきもの、枯れたる葵」と書いているのは大そうなつかしく思い当った。鴨の長明が四季物語にも「たまだれに後の葵はとまりけり」と書いている。自然と枯れて行くのでさえ惜しく思われるものを、どうして祭がすむかすまぬに後かたもなく取り捨てることに忍びようや。御帳にかけた薬玉《くすだま》も九月九日には...
  • 江戸川乱歩「芋虫」
     時子は、おもやにいとまを告げて、もう薄暗くなった、雑草のしげるにまかせ、荒れはてた広い庭を、彼女たち夫婦の住み家である離れ座敷のほうへ歩きながら、いましがたも、おもやのあるじの予備少将からいわれた、いつものきまりきったほめことばを、まことにへんてこな気持ちで、彼女のいちばんきらいなナスのシギ焼きを、グニャリとかんだあとの味で、思い出していた。 「須永《すなが》中尉(予備少将は、今でも、あの人間だかなんだかわからないような癈兵《はいへい》を、こっけいにも、昔のいかめしい肩書きで呼ぶのである)須永中尉の忠烈は、いうまでもなく、わが陸軍の誇りじゃが、それはもう、世に知れ渡っておることだ。だが、おまえさんの貞節は、あの癈人《はいじん》を三年の年月《としつき》、少しだっていやな顔を見せるではなく、自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話をしている。女房としてあたりまえのことだといってしまえば...
  • 佐藤春夫「殉情詩集自序」
    殉情詩集自序  われ幼少≪えうせう≫より詩歌≪しいか≫を愛誦≪あいしよう≫し、自≪みづか≫ら始≪はじ≫めてこれが作≪さく≫を試≪こレろ≫みしは十六歳の時なりしと覚≪おぼ≫ゆ。いま早くも十五年の昔とはなれり。爾来≪じらい≫、公≪おほやけ≫にするを得≪え≫たるわが試作≪しさく≫おほよそ百章≪しやう≫はありぬべし。その一|半≪ぱん≫は抒情詩≪じよじやうし≫にして、一半は当時のわが一|面≪めん≫を表はして社会問題に対する傾向詩≪けいかうし≫なりき。今≪いま≫ことごとく散佚≪さんいつ≫す。自らの記憶≪きおく≫にあるものすら数へて僅≪わづか≫に十|指≪し≫に足≪た≫らず。然≪しか≫も些≪いささか≫の恨≪うらみ≫なし。寧≪むし≫ろこれを喜ぶ。後≪のち≫、 志≪こころざし≫を詩歌に断≪た≫てりとには非≪あら≫ざりしも、われは無才≪むざえ≫にして且≪か≫つは精進≪しやうじん≫の念にさへ乏≪とぼ≫しく、自ら省...
  • 江戸川乱歩「虫」
    1  この話は、柾木愛造《まさきあいぞう》と木下芙蓉《きのしたふよう》との、あの運命的な再会から出発すべきであるが、それについては、まず男主人公である柾木愛造の、いとも風変わりな性格について、一言しておかねばならぬ。  柾木愛造は、すでに世を去った両親から、いくばくの財産を受け継いだひとりむすごで、当時二十七歳の、私立大学中途退学者で、独身の無職者《もの》であった。ということは、あらゆる貧乏人、あらゆる家族所有者の、羨望《せんぼう》の的《まと》であるところの、このうえもなく容易で自由な身のうえを意味するのだが、柾木愛造は不幸にも、その境涯《きようがい》を楽しんでいくことができなかった。かれは世にたぐいもあらぬ厭人病者《えんじんびようしゃ》であったからである。  かれのこの病的な素質は、いったいぜんたい、どこからきたものであるか、かれ自身にも不明であったが、その徴候は、すでにすでにかれ...
  • 江戸川乱歩「木馬は回る」
    「ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の……」  ガラガラ、ゴットン、ガラガラ、ゴットン、回転木馬はまわるのだ。  今年五十幾歳の格二郎《かくじろう》は、好きからなったラッパ吹きで、昔はそれでも、郷里の町の映画館の花形音楽師だったのが、やがてはやりだした管絃楽というものにけおとされて、 「ここはお国」や「風と波と」では、いっこう雇い手がなく、ついには、ひろめやの徒歩楽隊となり下がって、十幾年の長い年月《としつき》を、荒い浮世の波風に洗われながら、日にち毎日、道行く人の嘲笑《ちようしよう》の的となって、でも、好ぎなラッパが離されず、たとい離そうと思ったところで、ほかにたつきの道とてはなく、一つは好きの道、一つはしようことなしの、楽隊暮らしを続けているのだった。  それが、去年の末、ひろめやから差し向けられて、この木馬館へやって来たのが縁となり、今では賞雇いの形で、ガラガラ、ゴットン、ガラ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十九
     四条中納言藤原の隆資卿が自分に仰せられたには「豊原龍秋という楽人は、その道にかけては尊敬すべき男である。先日来て申すには、無作法きわまる無出78慮な申し分ではございますが、横笛の五の穴はいささか腑におちないところがあると、ひそかに愚考いたします。と申しますのは干《かん》の穴は平調《ひようじよう》、五の穴は下無調《しもむじょう》です。その間に勝絶調《しょうぜつじよう》を一つ飛んでおります。この穴の上の穴は双調《そうじよう》で、双調のつぎの鳧鐘調《ふしようじょう》を.一つ飛んで、夕《さく》の穴は黄鐘調《おうじぎじよう》で、そのつぎに鸞鏡調《らんけいじよう》を一つ飛んで、中の穴は盤渉調《ばんしきじよう》である。中の穴と六の穴とのあいだに神仙調を一つ飛んでいる。このように穴のあいだにはみな一調子ずつ飛ばしているのに五の穴ばかりはつぎの上の穴とのあいだに一調子を持っていないで、しかも穴の距離は他の...
  • 小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集』後語
     寅彦の随筆を選んで文庫本三冊程度の分量にまとめてくれないかと岩波書店から頼まれたのは、たしか昭和十九年の秋の事だった。私が仙台でその仕事を終え目次を岩波書店に送り届けたのは、翌年の二月だったが、ちょうどその時分から戦局はますます日本に不利となり、東京は絶えざる爆撃にさらされ、印刷所と製本所とは次々破壊されて行ったので、それはなかなか印刷には回されなかった。そのうち終戦という事になった。終戦になっても日本の印刷能力と製本能力とはすぐ復旧するはずもなく、用紙の入手さえ一層困難を加えて来たので、自然選集はそのままにしておかれないわけに行かなかった。文庫本出版の見通しが相当はっきりついて、いよいよ選集の印刷にとりかかるがさしつかえはないかと岩波書店から言って来たのは、その昭和二十年も押し詰まった、十二月のころだったかと思う。しかし私は|躊躇《ちゆうちよ》し出した。  初め私は、そのうち戦争がすん...
  • 科学への道 part7
     しかしながら、一人の天才、一人の賢者によって、自然研究の大方針は樹てられ、 方向づけられることは古来の科学発展経過の我々に教えるところである。我々は万 骨の枯るるを|惜《おし》みながらも、一将功なる輝きをなお仰ぎ望むものである。  自然研究の大道が指示されて、その道に従って努力すれば、科学の発達が出来上 ると考えるものは|愚者《ぐしや》の意見である。自然研究に、いかなる事物が飛び出すかは誰 人も|臆測《おくそく》することは出来ない、ただ天才が出でてその方向を明示するのである。天 才は常人の考え得る以外の範囲を|思索《しさく》するのであ奄この思索の力は、幾人かかっ ても|比敵《ひてき》することは出来ない、全く一人一人の力の競争である。|毛利元就《もうりもとなり》が|臨終《りんじゆう》の 床に子息を呼んで与えた|教訓《きようくん》はこの場合、決してあてはめることは出来ないのであ る。天才は何...
  • 嵯峨の屋おむろ「くされたまご」
        くされたまご(上) 一輛の鉄道馬車京朧の辺にて止りぬ、見れば狭き昇降口に乗る人下る人入まじりて悶着せり、最少しお詰なされて、と罵るは御者の声。しばしば込合《こみあ》ふ様子なりしが、やう〳〵にして静りしは}同よきほどに居並びしなるべし。最後に入来るは若さ女。黒縮緬のおこそ頭巾に顔は半かく糺て見えねど、色の白さうっくしさ、頭巾の蔭よりさし覗くしめりを帯びし目の清しさ、いづれか見る人の心を惹ざらん。いづこに坐るべきかと躊躇ふ様にて、すツきりとして佇立か姿、朝日口背く女郎花のくねらで立てる風情あり誠に心の銷こそ人の目口止まらずらめ、姿の花の引力の強弓、車上の人の夥多の目はたゞ、この花口集りぬ。彼方の一隅に腰を掛で、たyゝ外の方を見詰ゐたる、十六、七の少年ありしが、それだに傍のけはひに誘はれ覚えずこなたを見かへりし、その顔だちの愛らし、目を見合はせし件の女はつか〳〵と歩み寄り、その傍...
  • 科学への道 part2
    !-- タイトル -- 科学者と理性 !-- --  科学者という者が社会からは別箇孤立の人間であるごとく考える人もあろうが、 彼らはもっとも理性に忠実で好んで自我を表現せんとする人間であるからでもあろ う。人間一般は時代の進歩に伴って、より多く理性生活をなす状態になったが、未 だ前途はほど遠いのである。即ち科学の進歩は絶えず行なわれておりながら、我々 今日の知識として自然現象を充分|闡明《せんめい》し得ることが出来ないからである。なかんず く、生命に関する問題は人生にとってもっとも重大な事件であるにもかかわらず医 学者の未だ触れることすら出来ない現象が暗黒の中に|潜《ひそ》んでいるからともいえるで あろう。即ちこの点で迷信が|跳梁《ちようりよう》することも致し方なき次第である。  世の中には|迷信《めいしん》的な|取《と》り|極《き》めがはなはだ多い。中にも|縁組《えんぐ》み、|...
  • 江戸川乱歩「幽霊」
    「辻堂のやつ、とうとう死にましたよ」  腹心《ふくしん》のものが、多少てがら顔にこう報告した時、平田氏は少なからず驚いたのである。もっとも、だいぶ.以前から、彼が病気で床《とこ》についたきりだということは聞いていたのだけれど、それにしても、あの自分をうるさくつけねらって、かたきを(あいつはかってにそうきめていたのだ)うつことを生涯の目的にしていた男が、「きゃつのどてっ腹へ、この短刀をぐっさりと突きさすまでは、死んでも死にきれない」と口癖《くちぐせ》のようにいっていたあの辻堂が、その目的を果たしもしないで死んでしまったとは、どうにも考えられなかった。 「ほんとうかね」  平田氏は思わずその腹心の者にこう問い返したのである。 「ほんとうにもなんにも、わたしは今、あいつの葬式の出るところを見とどけて来たんです。念のために近所で聞いてみましたがね、やっぱりそうでした。親子二人暮らしのおやじ...
  • 江戸川乱歩「黒手組」
    あらわれたる事実  またしても明智小五郎のてがら話です.  それは、わたしが明智と知り合いになってから一年ほどたった時分のできごとなのですが、事件に一種劇的な色彩があって、なかなかおもしろかったばかりでなく、それがわたしの身内《みうち》のものの家庭を中心にして行なわれたという点で、わたしにはいっそう忘れがたいのです。  この事件で、わたしは、明智に暗号解読のすばらしい才能のあることを発見しました。読者諸君の興味のために、かれの解いた暗号文というのを、まず冒頭に掲げておきましょうか。 一度お伺《うかが》いしたいしたいと存じながらつい 好《よ》いおりがなく失礼ばかり致しております 割合にお暖《あたた》かな日がつづいてますのね是非 此頃《このごろ》にお邪魔《じやま》させていただきますわさて日 外《いつぞや》×つまらぬ品物をおおくりしました処《ところ》御《ご...
  • 永井荷風「寐顔」
      竜子は六歳の時父を失ったのでその写真を見てもはっきりと父の顔を思出すことができない。今年もう十七になる。それまで竜子は小石川茗荷谷の小じんまりした⊥蔵付の家に母と二人ぎり姉妹のようにくらして来た。母の京子は娘よりも十八年上であるが髪も濃く色も白いのみか娘よりも小柄で身丈さえも低い処から真実姉妹のように見ちがえられる事も度々であった。 竜子は十七になった今日でも母の乳を飲んでいた頃と同じように土蔵につづいた八畳の間に母と寝起を共にしている。琴三味線も生花茶の湯の稽古も長年母と一緒である。芝居へも縁日へも必ず連立って行く。小説や雑誌も同じものを読む。学課の復習試験の下調も母が側から手伝うので、年と共に竜子自身も母をば婦か友達のように思う事が多かった。 しかし十三の頃から竜子は何の訳からとも知らず折々乙んな事を考えるようになった。母はもし自分というものがなかったなら今日までこうして父のなく...
  • 亀井勝一郎「吉野の山」
     吉野を訪れたのは四月なかばすぎである。今年の花は例年より十日ほど早く開いたそうで、私 の行った頃は、下千本と中千本はすでに散り、上千本にいくらか残花をとどめる程度であった。 やや遅かったわけだが、何しろ満開の時は十万の人が出たというので、おそれをなしたのであ る。しかし残花を追う遊覧客はまだ絶えなかった。酔漢も多い。現代の花見気分は一応味い得ら れたのである。  夕方近く、宿に着いたが、谷あいに霧が深くたちこめてきて、何ものも見えぬ。欄に寄って霧                                       ほら を眺めていた。三年前の初夏、ここを訪れたときも霧が深く、その霧の中から山伏の法螺貝を聞 いたことがある。桜がすぎて、ほととぎすの鳴きはじめる頃から、山伏の姿がぽつぽつあらわれ るという。今は茶店の拡声器から「銀座のカンカン娘」がしきりに響いてくる。風流も変ってき ...
  • 山口剛「南京新唱序」
       友あり、秋艸道人といふ。われ彼と交ること多年、淡きもの愈淡きを加へて、しかも憎悪の念しきりにいたる。何によりてしかく彼を憎む。暝目多時、事由三を得たり。  彼質不羇にして、気随気儘を以て性を養ふ。故に意一度動けば、百の用務も擲って、飄然去つて遠きに遊ぶ。興尽き財尽く、すなはち帰って肱を曲げて睡る。境涯真に羨むべし。かゝる身のほどは、駑馬われの如きも、つねに念じて、なほたえて果さゞるもの、彼遥にわれに先んじて、大に駿足を誇る。これ憎まざる可がらざる理の一つ。  彼客を好みて議論風発四筵を驚かす。されど多くは衷心の声にあらずして消閑一時の戯なるに似たり。彼が相対して真情を吐露せんと欲するは、ただ奈良の古き仏だちか。彼慈顔を仰ぎて大に語るあらんとす。諸仏何の意か、顧るところなし。彼悄然としてうたふらく『ちかづきてあふぎみれども、みほとけの、みそなはすともあらぬさびしさ」と。われ聞いて...
  • 科学への道 part3
    !-- 六 -- !-- タイトル -- 科学者と先入主 !-- --  科学者というものは|偏《かたよ》らずして平静な心の持主であろうと想像するが、実は決し てさようでなく、先入主の|凝《こ》り|固《かたま》りとしか見えぬ人にも接することがある。しかし、 この人達は決して大なる科学者とは思えないのである。  科学者に|成《な》る資格の中には、先人が自然現象の中から苦心して取り上げた事実を 記憶していなくてはならない。またそれらの事実を根底として組み立てられた系統 --即ち法則とか定理とかと呼ばれるもの--を知っていなくてはならない。即ち 事実と系統とが教えられてしまうと、今度新しい事実が出て来ても両立しない場合 に於ては新事実の出現を知らぬことにするか、認めない態度に出る学者がいる。こ れは全く先入主が心の中にあまり幅をきかしておる結果にほかならない。  学校に在学中は極めて...
  • 柳宗悦「沖繩人に訴ふるの書」
    一  沖繩学の先駆者は、彼の著書の一つに題して「孤島苦の琉球史」と名づけた。誰か此の言葉に胸を打たれないであらう。切々たる想ひが迫るではないか。  識名の名園を訪ふ者は、勧耕台へと案内を受ける。何処を眺めるとも丘又丘であつて少しも海が見えぬ。こんな場所の発見は、孤島に住む者のせめてもの慰めである。だが心もとない慰めではないか。  沖繩は小さな島々に過ぎない。それも中央からは幾百海里の遠い彼方の孤島である。昔は往き来にさぞや難儀を重ねたであらう。今だとて親しく此の島を訪ふ者はさう沢山はない。だから県外の者の此の島に対する概念は多くの場合いとも杜撰である。疎んずる者は何か蕃地の続きでゴもある如く想像する。沖繩人は長い間此のやうな屈辱を受けた。遺憾ではあるが、今も此の不幸な事情は全く拭はれておらぬ。  だから沖繩人は沖繩に生れたことを苦しむ。さうして琉球人と呼ばれることを厭ふ。私が沖繩を訪はう...
  • 江戸川乱歩「そろばんが恋を語る話」
     ○○造船株式会社会計係のTは、きょうはどうしたものか、いつになく早くから事務所へやって来ました。そして、会計部の事務室へはいると、がいとうと帽子をかたえの壁にかけながら、いかにも落ちつかぬ様子で、キョロキョロと室の中を見まわすのでした。  出勤時間の九時にだいぶ間がありますので、そこにはまだだれも来ていません。たくさんならんだ安物のデスクに白くほこりのつもったのが、まぶしい朝の日光に照らし出されているばかりです。  Tはだれもいないのを確かめると、自分の席へは着かないで、隣の、かれの助手を勤めている若い女事務員のS子のデスクの前に、そっと腰をかけました。そして、何かこう、盗みでもするような格好で、そこの本立ての中にたくさんの帳簿といっしょに立ててあった一丁のそろばんを取り出すと、デスクの端において、いかにもなれた手つきで、その玉をパチパチはじきました。 「十二億四千五百三十二万二千...
  • 科学への道 part5
    !-- 十五 -- !-- タイトル -- 研究と労作 !-- --  自然研究に当っては人々は極めて多くの労作に時を費さなければならぬ。一つの 事実を認めようとする場合においても、出来るだけ四囲の状況を確めてみてようや く一つの事が判明する場合が多くて、これだけの労力は決して|厭《いと》ってはならぬ。し かも事実の|穿整《せんさく》のみが科学の要素ではない。得られた事実を系統|統轄《とうかつ》することもも ちろんである。このためにはたえず考えていなくてはならぬ。すべての事実を系統 立てる行為は頭の中の仕事であって、決して目には見えない。したがって外観的に 遊んでいるごとくに見える場合もあろうが、むしろこの頭中の労作ほど偉大なもの はないのである。また頭中の労作は目に見えないために、これをよき|幸《さいわい》として、|獺惰癖《らんだへき》に|陥《おちい》る学者もまた絶無とはいえ...
  • 科学への道 石本巳四雄
    国会図書館の近代デジタルライブラリの画像を使って校正したので、 旧仮名使い(途中まで -- 後半は新かなつかいのまま)になっています。 コメントは、 !-- -- の中に記載しました。 part1 科学への道 石本巳四雄 序  天地自然の|悠久《ゆうきゆう》なる流れは歩みを止めることがない。この間に各人が|暫時《ざんじ》生れ出 でて色々のことを考える。しかし、人々がいかなることを考えても、人間の能力に は限度があって、自然現象を研究し|尽《つく》すことは不可能である。  しかし、古来思想の卓絶《たくぜつ》した碩学《せきがく》が逐次《ちくじ》に出《い》でて、簡《かん》より密《みつ》に、素《そ》より繁《はん》に研究 が進められ、自然現象の中に認められた事実は|仮説《かせつ》と云ふ形式によって|綴《つづ》られ、今 日もなおその発展が続けられているのである...
  • 久保田万太郎「「北風」のくれたテーブルかけ」
        その一  宿屋。  夜。  宿屋のかみさんは洗濯ものにアイロンをかけている。  亭主は火のぞぱで煙草を喫《の》んでいる。 宿屋の亭主 月日のたつのは早いものだ。——お前と、おれと、この商売をはじめてからもう十年になる。 宿屋のかみさん 十年に? 宿屋の亭主 勘定して御覧、そうなるから。 宿屋のかみさん (勘定してみて自分に)ほんとうだ。——(亭主に)ほんとうにそうなりますね。 宿屋の亭主 あの時分は、おれたちは、随分貧乏だった。——それを思うと、このごろは、うそのように金持になった。(ト、一人言のようにいう) 宿屋のかみさん ほんとうにねえ。 宿屋の亭主 だが、まだいけない。——こんなことじゃあまだいけない。——もっともっとおれたちは儲《もう》けなくっちゃあいけない。(ト、矢っ張、一人言のように) 宿屋のかみさん そうですわねえ。 宿屋の亭主 だが、宿屋って商売はいい商売だ。——お...
  • 谷崎潤一郎「「門」を評す」
    谷崎潤一郎? 「門」?を評す 明治四十三年九月「新思潮」第一號 僕は漱石先生を以て、當代にズバ拔けたる頭腦と技倆とを持つた作家だと思つて居る。多くの缺點と、多くの批難とを有しつゝ猶先生は、其の大たるに於いて容易に他の企及す可からざる作家だと信じて居る。紅葉なく一葉なく二葉亭なき今日に於いて、僕は誰に遠慮もなく先生を文壇の第一人と認めて居る。然も從來先生の評到は、其の實力と相件はざる恨があつた。それだけ僕は、先生に就いて多くの云ひたい事論じたい事を持って居る。「門」を評するに方りて、先づこれだけの斷り書きをして置かないと、安心して筆を執ることが出來ない。 「それから」は代助と三千代とが姦通する小説であつた。「門」は姦通して夫婦となつた宗助とお米との小説である。此の二篇はいろいろの點から見て、切り放して讀む事の出來ない理由を持つて居る。勿論先生は其の後の代助三千代を書く積で...
  • 科学への道 part4
    !-- 十一 -- !-- タイトル -- 科学と芸術 !-- --  科学と芸術とは一見対蹄的位置に立つごとく見えるものであるから、科学者は芸 術を|遊戯《ゆうぎ》のごとくに|蔑《さげす》み、芸術家は科学をあらずも|哉《がな》の|所作《しよさ》と断ずる。しかし、こ れらはいずれも人間性に|立脚《りつきやく》した|崇高《すうこう》の所作であり、真と美に対する人間の創作た ることを信じて疑わず、かっ尊敬するに|躊躇《ちゆうちよ》しないのである。即ち人間性中、美を 対象として|憧《あこが》れる心も、理性的に自然に即さんとする心も、いかなる外力を以てし ても|圧《お》し|潰《つぷ》すことは出来ないのである。これらはいずれも本能に起因される所作で あるからである。  芸術家の養成については、その才能がまず問題となり、全く好きであるという出 発点があって、音楽家となり、画家となり、彫刻家...
  • 永井荷風「雨瀟瀟」
    その年の二百十日はたしか涼しい月夜であった。つづいて二百二十日の厄日もまたそれとは殆ど気もつかぬばかり、いつに変らぬ残暑の西口に蜩の声のみあわただしく夜になった。夜になってからはさすが厄日の申訳らしく降り出す雨の音を聞きつけたもののしかし風は芭蕉も破らず紫苑をも鶏頭をも倒しはしなかったーわたしはその年の日記を繰り開いて見るまでもなく斯く明に記憶しているのは、その夜の雨から時候が打って変ってとても浴衣一枚ではいられぬ肌寒さにわたしはうろたえて襦袢を重ねたのみか、すこし夜も深けかけた頃には袷羽織まで引掛けた事があるからである。彼岸前に羽織を着るなぞとはいかに多病な身にもついぞ覚えたことがないので、立つ秋の俄に肌寒く覚える夕といえば何ともつかずその頃のことを思出すのである。 その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。唯その頃までわたしは数年の間さしては心...
  • 亀井勝一郎「佐渡が島」
     佐渡が島は新潟を去る三十二浬の海上にある。四年前の初夏の頃であった。新潟に旅行して、 偶々寄居の浜を散歩したとき、日本海の紺碧の波の涯に横たわるこの島を私ははじめて見た。 「あれが佐渡だ。」そう言って連れの友人が指さす。彼方に、菅笠を二つ伏せたようなすがたの 島が低く横たわっている。私はそのとき、異邦人に接するような、一種の惧れを伴った好奇心を 抱いていた・絶海の孤島、瀞痘の島、死ぬほど淋しいところ、そういう観念を以て眺めていたよ うである。現実の佐渡よりも、芭蕉の「銀河序」を通してみた幻の佐渡の影響を私はつよく受け ていたらしい。                                おも 北陸道に行脚して越後国出雲崎といふ処に泊る。かの佐渡が島は海の面十八里滄波を隔てて、                      くまぐま 東西三十五里に横折り臥したり。峰の嶮難、谷の隈々まで...
  • 尾崎士郎「落葉と蝋燭」
    1  泥溝《どぶ》のような川の水が日ましに澄んできて、朝、二階の雨戸をあけると落葉の沈んだ川床がはっきり見えるのであった。それもほんの朝のうちの数時間だけで午後になると八方からながれおちる下水のためにすっかり濁ってしまうのであるが、それがひと晩でまたこんなに澄みとおってくるのも大気の爽かなせいであろう。夜中に小さい女房が眼をさまして、「だれかきたような気がする」とふるえ声でささやくことがある。じっと耳をすましていると、ささやかなせせらぎが人のあし音のように聞えるかと思うと、こんどは忍びやかなひそひそ声のようにちかづいてくるのである。晴れた日には榎《えのき》の老木の梢からすけて見える空の、キメのこまかさが眼にしみとおるような蒼《あお》さにかがやいている。川向うの街すじをとおる荷車のひびきや自動車の警笛にまじって、からんからんと鳴る下駄の音がまるで大気の底へ吸いこまれてゆくようだ。ホテル、ア...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」1
    父のこと、母のこと  私はすでに明治、大正、昭和の三時代にわたる野球に親しく接してきた。これからもまた幾年かの野球をスタンドからながめることであろう。ここで私の野球生活を合算するなら実に三十余年間となる。  選手時代から記者、コーチ時代から再び記者へと移り変ってはいるけれども、つねに辛抱強く野球につきまとって飽くことを知らなかった。  しかも私が野球に走ったころは、むろん今日のごときものではなかった。野球に直接関係あるもののほか、全部といっていいくらい、すべてのものが野球の反対者であり、排斥者であった。学校も家庭もこぞって忌みきらった。当時の選手というものは、教育者からまるで不良少年のごとき扱いをうけていた。こうした迫害の中に成長した私どもの野球に、いくた困難のまつわっていたのは想嫁するにかたくはないであろう。  ことに野球ぎらいな父を持った私などの野球に対する境遇というもの...
  • 江戸川乱歩「火星の運河」
     またあそこへ来たなという、寒いような魅力が、わたしをおののかせた。にぶ色のやみが、わたしの全世界をおおいつくしていた。おそらくは、音も、においも、触覚さえもが、わたしのからだから蒸発してしまって、ネリヨウカンのこまやかによどんだ色彩ばかりが、わたしのまわりを包んでいた。  頭の上には夕立雲のように、まっくらに層をなした木の葉が、音もなくしずまり返って、そこからは巨大な黒碣色《こくかつしよく》の樹幹が、滝をなして地上に降りそそぎ、観兵式の兵列のように、目もはるかに四方にうち続いて、末は奥知れぬやみの中に消えていた。  幾層の木の葉のやみのその上には、どのようなうららかな日が照っているか、あるいは、どのような冷たい風が吹きすさんでいるか、わたしには少しもわからなかった。ただわかっていることは、わたしが今、はてしも知らぬ大森林の下やみを、ゆくえ定めず歩きつづけている、その単調な事実だけであ...
  • 江戸川乱歩「赤いへや」
     異常な興奮を求めて集まった、七人のしかつめらしい男が(わたしもその中のひとりだった)わざわざそのためにしつらえた「赤いへや」の、緋色《ひいろ》のビロードで張った深いひじ掛けイスにもたれ込んで、今晩の話し手が、なにごとか怪異な物語を話しだすのを、今か今かと待ちかまえていた。  七人のまん中には、これも緋色のビロードでおおわれた一つの大きなまるテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台《しよくだい》にさされた、三丁の太いローソクがユラユラとかすかにゆれながら燃えていた。  へやの四周には、窓や入り口のドアさえ残さないで、天井から床まで、真紅な重々しいたれ絹が豊かなひだを作ってかけられていた。ロマ払チックなローソクの光が、その静脈から流れ出したばかりの血のようにもドス黒い色をした、たれ絹の表に、われわれ七人の異様に大きな影法師を投げていた。そして、その影法師は、ローソクの炎につれて、いくつかの巨...
  • 江戸川乱歩「夢遊病者の死」
     彦太郎が勤め先の木綿《もめん》問屋をしくじって、父親のところへ帰って来てから、もう三カ月にもなった。旧藩主M伯爵邸の小使いみたいなことを勤めて、かつかつその日を送っている五十を越した父親のやっかいになっているのは、彼にしても決して快いことではなかった。どうかして勤め口を見つけようと、人にも頼み、自分でも奔走しているのだけれど、おりからの不景気で、学歴もなく、手にこれという職があるでもない彼のような男を、雇ってくれる店はなかった。もっとも、住み込みなればという口が一軒、あるにはあったのだけれど、それは彼のほうから断った。というのには、彼にはどうしてもふたたび住み込みの勤めができないわけがあったからである。  彦太郎には、幼い時分からねぼける癖があった。ハッキリした声で寝言をいって、そばにいるものが寝言と知らずに返事をすると、それを受けてまたしゃべる。そうして、いつまででも問答をくり返すの...
  • 谷崎潤一郎「「カリガリ博士」を見る」
    谷崎潤一郎 「カリガリ博士」を見る 大正十年八月號「活動雜誌」 上 淺草のキネマ倶樂部でやつて居る「ドクトル・カリガリのキヤビネツト」を見た。評判が餘りえらかつたので多少期待に外れた感もしないではないが、確かに此の數年來見たものゝうちでは傑出した寫眞であつた、純藝術的とか高級映畫とか云ふ近頃流行の言葉が、何等の割引なく當て篏まるのは恐らくあの映畫位なものであらう。 第一に話の筋がいゝ。狂人の幻想をあゝ云ふ風に取り扱ふと云ふこと、それは私なども始終考へて居たことであるが、單なる一場の思ひつきでなくあれまでに纒めるには多大の努力を要したであらう、さうして幻想の世界と現實の世界との關係が大變面白く出來て居る。 作者は先づ物語りの始めにフランシスと云ふ狂人の收容されて居る癲狂院を置き、それからそのフランシスの妄想の世界に移つて奇怪なる事件の發展を描き、最後に再び癲狂院...
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