網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「森鴎外「北清事件の一面の観察」」で検索した結果

検索 :
  • 森鴎外「我をして九州の富人たらしめば」
    森鴎外「我をして九州の富人たらしめば」  我をして九州の富人たらしめば、いかなることをか為すべき。こは屡々わが念頭に起りし問題なり。今年わが職事のために此福岡県に来り居ることゝなりしより、人々我に説くに九州の富人多くして、九州の富人の勢力逈に官吏の上に在ることを以てす。既にしてその境に入りその俗を察するに、事として物として聞く所の我を欺かざるを証せざるはなし。こゝに一例を挙げんか。嘗て直方より車を倩《やと》ひて福丸に至らんとせしに、町はづれに客待せる車夫十余人ありて、一人の応ずるものなく、或は既に人に約せりといひ、或は病と称して辞《いな》みたり。われは雨中短靴を穿きて田塍の間を歩むこと二里許なりき。後人に問ひて車夫の坑業家の価を数倍して乗るに狃《な》れて、官吏の程を計りて価を償ふを嫌ふを知りぬ。九州に来るもの、富の抑圧を覚ゆること概ね此類なり。  われは此等の事に遭ふごとに、九州の富人の為...
  • 森鴎外「大発見」
    僕も自然研究者の端榑《はしくれ》として、顕微鏡や試験管をいぢつて、何物をか発見しようとしてゐた事があつた。 併し運命は僕を業室《げふしつ》から引きずり出して、所謂《いはゆる》事務といふものを扱ふ人間にしてしまつた。二三の破格を除く外は、大学出のものに事務の出来るものはないといふ話である。出来ない事をするのも勤なれば是非が無い。そこで発見とか発明とかいふことには頗《すこぶ》る縁遠い身の上となつた。 考へて見れば、発見とか発明とかいふ詞《ことば》を今のやうに用ゐるのは、翻訳から出てゐるのだが、甚だ曖昧《あいまい》ではないかと思ふ。亜米利加《アメリカ》を発見したとか、ラヂウムを発見したとかいふのは、あれはdiscoverである。クリストバン・コロンが出て来なくても、亜米利加の大陸は元から横《よこた》はつてゐたのだ。キユリイ夫婦が骨を折らなくても、ラヂウムは昔から地の底にあつて、熱を起したり、電...
  • 三好達治「朔太郎詩の一面」
      山に登る    旅よりある女に贈る  山の頂上にきれいな草むらがある、  その上でわたしたちは寝ころんでゐた。  眼をあげてとほい麓の方を眺めると、  いちめんにひろびうとした海の景色のやうにおもはれた。  空には風がながれてゐる、  おれは小石をひろつて口にあてながら、  どこといふあてもなしに、  ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。  おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。           『月に吠える」 「山に登る」は右のような主題のはっきりとした作品であるが、この作品の主格は最初の第二行目に於て「わたしたちは……」と複数であったのが、いつのほどにか「おれは小石をひろつて」と変化し、最後の一行でもまた「おれはいまでも……」という具合になっている。最初の「わたしたちは」草の上に寝ころんでいたのであるが、「おれ」の方はしぜんにその位置を離れて、「小石をひろつて口に...
  • 小倉金之助「荷風文学と私」
     私のような自然科学方面の老人が、荷風の文学について語るのは、はなはだ僣越のように思われよう。けれども私は、青春時代における人生の危機を、荷風の小説を力として切りぬけた、とも言えなくないのであって、荷風に負うところ大なるものがあると、衷心から信じている。それで今ここに、主としてその事実について、ありのままに述べて見たいのである。尤もそれは、今から四十年ばかりも前のことで、その当時の私の読み方・味わい方は、恐らく小説の読み方ではなく、文学の味わい方でもなかったであろう。私のような主観的な見方をされては、作家その人にとってはなはだ迷惑なことであるかも知れないが、そういった点についてはーただ昔の思い出ばなしとしてーお許しを願いたいとおもう。  私が荷風文学に親しみだしたのは、明治三十九年のころからであるが、特にそれに熱中したのは明治四十二年から大正元年ごろまで(荷風が満で三+歳から三+三歳のころ...
  • 江戸川乱歩「一枚の切符」
    上  「いや、ぼくは多少は知っているさ。あれはまず、近来の珍事だったからな。世間はあのうわさで持ち切っているが、たぶん、きみほどくわしくはないんだ。話してくれないか」  ひとりの青年紳士が、こういって、赤い血のしたたる肉の切れをロへ持って行った。 「じゃ、ひとつ話すかな。オイ、ボーイさん、ビールのお代わりだ」  みなりの端正なのにそぐわず、髪の毛をばかにモジャモジャと伸ばした相手の青年は、次のように語りだした。  「時はー大正i年十月十日午前四時、所はi町の町はずれ、富田博士邸裏の鉄道線路、これが舞台面だ。晩秋のまだ薄暗い曉の静寂を破って、上り第○号列車が驀進《ぼくしん》して来たと思いたまえ。すると、どうしたわけか、突然けたたましい警笛が鳴ったかと思うと、非常制動機の力で、列車はだしぬけに止められたが、少しの違いで車が止まる前に、ひとりの婦人がひき殺されてしまったんだ。ぼくはその...
  • 江戸川乱歩「D坂の殺人事件」
    事実  それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。わたしは、D坂の大通りの中ほどにある、白梅軒という、行きつけのカフェーで、冷やしコーヒーをすすっていた。当時わたしは、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿屋にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽きると、あてどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬカフェー回りをやるくらいが、毎日の日課だった。この白梅軒というのは、下宿屋から近くもあり、どこへ散歩するにも必ずその前を通るような位置にあったので、したがって、いちばんよく出入りするわけであったが、わたしという男は悪い癖で、カフェーにはいると、どうも長っちりになる。それは、元来食欲の少ないほうなので、一つは嚢中《のうちゆう》の乏しいせいもあってだが、洋食一サラ注文するでなく、安いコーヒーを二杯も三杯もおかわりして、一時間も二時間もじっとしているのだ。そうかといって、別段...
  • 久保田万太郎「「北風」のくれたテーブルかけ」
        その一  宿屋。  夜。  宿屋のかみさんは洗濯ものにアイロンをかけている。  亭主は火のぞぱで煙草を喫《の》んでいる。 宿屋の亭主 月日のたつのは早いものだ。——お前と、おれと、この商売をはじめてからもう十年になる。 宿屋のかみさん 十年に? 宿屋の亭主 勘定して御覧、そうなるから。 宿屋のかみさん (勘定してみて自分に)ほんとうだ。——(亭主に)ほんとうにそうなりますね。 宿屋の亭主 あの時分は、おれたちは、随分貧乏だった。——それを思うと、このごろは、うそのように金持になった。(ト、一人言のようにいう) 宿屋のかみさん ほんとうにねえ。 宿屋の亭主 だが、まだいけない。——こんなことじゃあまだいけない。——もっともっとおれたちは儲《もう》けなくっちゃあいけない。(ト、矢っ張、一人言のように) 宿屋のかみさん そうですわねえ。 宿屋の亭主 だが、宿屋って商売はいい商売だ。——お...
  • 江戸川乱歩「堀越捜査一課長殿」
           異様な封書  警視庁捜査一課長|堀越貞三郎氏《ほりこしていざぶろうし》は、ある日、課長室で非常に分厚い配達証明の封書を受け取った。  普通のものよりひとまわり大きい厚いハトロン封筒で、差し出し人は「大阪市福島区玉川町三丁月、花崎正敏《はなさきまさとし》」とあり、表面には東京警視庁のあて名を正しく書き、「堀越捜査一課長殿、必親展」となっていた。なかなかしっかりした書体なので、よくある投書にしても、軽視はできないように感じられた。堀越課長は封筒の表と裏をよくあらためたうえで、ペンナイフで封を切ったが、そのとき、「わざわざ東京へ送ってよこしたのは、東京警視庁管内に関係のあることがらだな」と考えた。しかし、思い出してみても、花崎正敏という人物には、まったく心当たりがなかった。  封筒をひらくと、中にもう一つ封筒がはいっていた。そして、その封筒を包むようにして五枚とじの書簡箋《し...
  • 江戸川乱歩「心理試験」
    1  蕗屋《ふきや》清一郎が、なぜ、これから記すような恐ろしい悪事を思い立ったか、その動機についてはくわしいことはわからぬ。また、たといわかったとしても、このお話には、たいして関係がないのだ。彼がなかば苦学みたいなことをして、ある大学に通っていたところをみると、学資の必要に迫られたのかとも考えられる。彼はまれに見る秀才で、しかも非常な勉強家だったから、学資を得るために、つまらぬ内職に時を取られて、好ぎな読書や思索がじゅうぶんでぎないのを残念に思っていたのは確かだ。だが、そのくらいの理由で、人間はあんな大罪を犯すものだろうか。おそらく、彼は先天的の悪人だったのかもしれない。そして、学資ばかりでなく、ほかのさまざまな欲望をおさえかねたのかもしれない。それはともかく、彼がそれを思いついてから、もう半年になる。その聞、彼は迷いに迷い、考えに考えたあげく、結局やっつけることに決心したのだ。 ...
  • 佐藤春夫「西班牙犬の家」
    夢見心地になることの好きな人の為めの短篇  フラテ(犬の名)は急に駆け出して、蹄鍛冶屋の横に折れる岐路のところで、私を待っている。この犬は非常に賢い犬で、私の年来の友達であるが、私の妻などは勿論大多数の人間などよりよほど賢い、と私は言じている。で、いつでも散歩に出る時には、きっとフラテを連れて出る。奴は時々、思いもかけぬようなところへ自分をつれてゆく。で近頃では私は散歩といえば、自分でどこかへ行こうなどと考えずに、この犬の行く方へだまってついて行くことに決めているようなわけなのである。蹄鍛冶屋の横道は、私は未だ一度も歩かない。よし、犬の案内に任せて今日はそこを歩こう。そこで私はそこを曲る。その細い道はだらだらの坂道で、時々ひどく曲りくねっている。私はその道に沿うて犬について1景色を見るでもなく、考えるでもなく、ただぼんやりと空想に耽って歩く。時々空を仰いで雲を見る。ひょいと道ばたの草の...
  • 永井荷風「監獄署の裏」
    われは病いをも死をも見る事を好まず、われより遠けよ。世のあらゆる醜きものを。ー『ヘッダガブレル』イプセン     兄閣下お手紙ありがとう御在います。無事帰朝しまして、もう四、五ヵ月になります。しかし御存じの通り、西洋へ行ってもこれと定った職業は覚えず、学位の肩書も取れず、取集めたものは芝居とオペラと音楽会の番組に女芸人の寫車と裸体画ばかヴ。年は己に三十歳になりますが、まだ家をなす訳にも行かないので、今だにぐずぐずと父が屋敷の一室に閉居しております。処は市ヶ谷監獄署の裏手で、この近所では見付のやや大い門構え、高い樹木がこんもりと繁っていますから、近辺で父の名前をお聞きになれば、直にそれと分りましょう。 私は当分、何にもせず、此処にこうしているより仕様がありますまい。一生涯こうしているのかも知れません。しかし、この境遇は私に取っては別に意外というほどの事ではない。日本に帰ったらどうして暮そう...
  • 谷崎潤一郎「「カリガリ博士」を見る」
    谷崎潤一郎 「カリガリ博士」を見る 大正十年八月號「活動雜誌」 上 淺草のキネマ倶樂部でやつて居る「ドクトル・カリガリのキヤビネツト」を見た。評判が餘りえらかつたので多少期待に外れた感もしないではないが、確かに此の數年來見たものゝうちでは傑出した寫眞であつた、純藝術的とか高級映畫とか云ふ近頃流行の言葉が、何等の割引なく當て篏まるのは恐らくあの映畫位なものであらう。 第一に話の筋がいゝ。狂人の幻想をあゝ云ふ風に取り扱ふと云ふこと、それは私なども始終考へて居たことであるが、單なる一場の思ひつきでなくあれまでに纒めるには多大の努力を要したであらう、さうして幻想の世界と現實の世界との關係が大變面白く出來て居る。 作者は先づ物語りの始めにフランシスと云ふ狂人の收容されて居る癲狂院を置き、それからそのフランシスの妄想の世界に移つて奇怪なる事件の發展を描き、最後に再び癲狂院...
  • 江戸川乱歩「妻に失恋した男」
     わたしはそのころ世田谷警察署の刑事でした。自殺したのは管内のS町に住む南田収一という三十八歳の男です。妙な話ですが、この南田という男は自分の妻に失恋して自殺したのです。「おれは死にたい。それとも、あいつを殺してしまいたい。おい、笑ってくれ。おれは女房のみや子にほれているのだ。ほれてほれてほれぬいているのだ。だが、あいつはおれを少しも愛してくれない。なんでもいうことはきく、ちっとも反抗はしない。だが、これっぽっちもおれを愛してはいないのだ。  よくいうだろう、天井のフシアナをかぞえるって。あいつがそれなんだよ。『おいっ』と、おこると、はっとしたようにあいそよくするが、そんなの作りものにすぎない。おれは真からきらわれているんだ。  じゃあ、ほかに男があるのかというと、その形跡は、少しもない。おれは疑い深くなって、ずいぶん注意しているが、そんな様子はみじんもない。生まれつき氷のように冷たい...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」九十四
     常磐井《ときわい》の太政大臣(西園寺実氏公)が出仕された際に、勅書を捧持している北面の武士が、実氏公に出会って馬からおりたのを、実氏公は後になって「北面の某は勅書を捧持しながら自分に下馬した者である。こんな者がどうして、主上のお役に立つものか」と申されたので北面を免職になった。勅書の捧持者は、勅書を馬上のままで捧げて示ぜばよい。馬からおりてはいけないそうであった。
  • 江戸川乱歩「火繩銃」
    (この一篇は、作者が学生時代に試作した未発表の処女作です。当時の日記帳の余白に筋書きが書きつけてあったのを、友人をわずらわして清書してもらいました。筋書きのままですから、組立てや、文章も未熟で、いっこうおもしろくありません。といって、この筋で新しく書き直す元気もありませんでした。  原作には前置きとして、主人公である橘梧郎《たちばなごろう》というしろうと探偵の人となりを長々と書いてあったのですが、おもしろくもないので削ってしまいました。  橘は高等学校の学生で、探偵小説や犯罪学の心酔者で、シャーロック・ホームズというあだなをつけられていたような、変わり者です。 『わたし』という人物は橘の同級生で、ワトスンの役割りを勤めているわけです)  ある年の冬休み、わたしは友人の林一郎から、一通の招待状を受けとった。手紙は、弟の二郎といっしょに一週間ばかり前からこちらに来て毎日狩猟《しゆりよ...
  • 江戸川乱歩「何者」
    奇妙な盗賊 「この話は、あなたが小説にお書きなさるのが当然です。ぜひ書いてください」  ある人がわたしにその話をしたあとで、こんなことをいった。四、五年以前のできごとだけれど、事件の主人公が現存していたので、はばかって話さなかった。その人が最近病死したのだということであった。  わたしはそれを聞いて、なるほど、当然わたしが書く材料だ、と思った。なにが当然だかは、ここに説明せずとも、この小説を終わりまで読めば、自然にわかることである。  以下「わたし」とあるのは、この話をわたしに聞かせてくれた「ある人」をさすわけである。  ある夏のこと、わたしは甲田伸太郎《こうだしんたろう》という友人にさそわれて、甲田ほどは親しくなかったけれど、やはりわたしの友だちである結城弘《ゆうきひろかず》一の家に、半月ばかり逗留《とうりゆう》したことがある。そのあいだのできごとなのだ。  弘一君は陸軍省軍...
  • 亀井勝一郎「美貌の皇后」
                                             ふぴ  法華寺は大和の国分尼寺である。天平十三年光明皇后の発願されしところで、寺地は藤原不比 と 等の旧宅、平城京の佐保大路にあたる。天平の盛時には、墾田一千町の施入を受くるほどの大伽 藍であった。その後次第に崩壊し、現在の本堂は、慶長年間豊臣氏の命で旧金堂の残木を以て復 興されたものと伝えられる。円柱の腐蝕甚しく、荒廃の感は深い。平城宮の廃墟に近く、今はわ ずか七人の尼僧によって法燈が擁られるのみ。本尊は光明皇后の御姿を写したと云われる十一面 観音である。この二月久しぶりで拝観した。  私は「大和古寺風物誌」の中でもかいたが、この観音像についての有名な伝説をもう一度紹介 しておきたい。北天竺の轍階羅国に見生王という王様がいたが、どうかして生身の観音を拝みた く思い、或るとき発願入定して念じた。するとやがて、...
  • 江戸川乱歩「ざくろ」
    1  わたしは以前から『犯罪捜査録』という手記を書きためていて、それには、わたしの長い探偵生活中に取り扱っためぼしい事件は、ほとんど漏れなく、詳細に記録しているのだが、ここに書ぎつけておこうとする『硫酸殺人事件』はなかなか風変わりなおもしろい事件であったにもかかわらず、なぜか、わたしの捜査録にまだしるされていなかった。取り扱った事件のおびただしさに、わたしはつい、この奇妙な小事件を忘れてしまっていたのに違いない。  ところが、最近のこと、その『硫酸殺人事件』をこまごまと思い出す機会に出くわした。それは実に不思議干万な驚くぺき「機会」であったが、そのことは、いずれあとでしるすとして、ともかく、この事件をわたしに思い出させたのは、信州のS温泉で知り合いになった猪股《いのまた》という紳士、というよりは、その人が持っていた一冊の英文探偵小説であった。手ずれでよごれた青黒いクロース表紙の探偵小説...
  • 三好達治「萩原朔太郎詩集あとがき」
     萩原さんが生前上刊された詩集を刊行の年次に従って列記してみると次の如くである。  「月に吠える」(大正六年二月十五日 感情詩社 白日社出版部共同刊)  「青猫」(大正十二年一月二十六日 新潮社刊)  「蝶を夢む」(大正十二年七月十四日 新潮社刊)  「純情小曲集」(大正十四年八月十二日 新潮社刊)  「萩原朔太郎詩集」(昭和三年三月二十五日 第一書房刊)  「氷島」(昭和九年六月一日 第一書房刊)  「定本青猫」(昭和十一年三月二十日 版画荘刊)  「宿命」(昭和十四年九月十五日 創元社刊) 別に「月に吠える」の再版(大正十一年アルス刊)、「現代詩人全集」第九巻(昭和四年新潮社刊)、その他の重版本合著選抄等数種があるが本文庫本の編輯に当ってはそれらは全く関聯するところがないから略する。本書の編纂に底本として用いたのは右に挙げた初版本八冊であった。さてその八冊の刊行年次は先の順序であるが、...
  • 亀井勝一郎「千代田城」
     遠く離れた古典の地や風物に対しては憧れをもつが、自分の近くにある古蹟などには至って無 関心なものだ。皇居の前はよく通る。太田道灌以来、およそ六百年を経た古城であることは承知 している。自動車や電車の窓からすばやく見える二重橋、お堀端など、見あきた風景だ。そう思 いこんでいる。ところが実際は何も知らない。目をこらして見たことはない。私は桜田門の、屈 折ある一隅に立って、石崖の松や青く淀んだお堀の水を眺めてみた。自分がどんなに意味もなく 多忙で疲れているか。近代都市の誘惑はすさまじい。耳を聾する大音響のために、目の方はかす んでくるらしい。何か心がうつろだ。私は茫然と老松のすがたを求めた。  むさし野といひし世よりや栄ゆらむ千代田の宮のにはの老松 明治天皇のこういう御製が、自分の心にかすかながら一点の火をともすようだ。それは歴史の 火だ。戦災で廃墟と化した東京にとって、ここは江戸の最後の名残...
  • 江戸川乱歩「防空壕」
    一、市川清一の話  きみ、ねむいかい? エ、眠れない? ぼくも眠れないのだ。話をしようか。いま妙な話がしたくなった。  今夜、ぼくらは平和論をやったね。むろんそれは正しいことだ。だれも異存はない。きまりきったことだ。ところがね、ぼくは生涯《しようがい》の最上の生きがいを感じたのは、戦争のさいちゅうだった。いや、みんながいっているあの意味とはちがうんだ。国を賭《と》して戦っている生きがいという、あれとはちがうんだ。もっと不健全な、反社会的な生きがいなんだよ。  それは戦争の末期、いまにも国が滅びそうになっていたときだ。空襲が激しくなって、東京が焼け野原になる直前の、あの阿鼻叫喚《あびぎようかん》のさいちゅうなんだ。  きみだから話すんだよ。戦争中にこんなことをいったら、殺されただろうし、今だって多くの人にヒンシュクされるにきまっている。  人間というものは複雑に造られている。生まれな...
  • 江戸川乱歩「黒手組」
    あらわれたる事実  またしても明智小五郎のてがら話です.  それは、わたしが明智と知り合いになってから一年ほどたった時分のできごとなのですが、事件に一種劇的な色彩があって、なかなかおもしろかったばかりでなく、それがわたしの身内《みうち》のものの家庭を中心にして行なわれたという点で、わたしにはいっそう忘れがたいのです。  この事件で、わたしは、明智に暗号解読のすばらしい才能のあることを発見しました。読者諸君の興味のために、かれの解いた暗号文というのを、まず冒頭に掲げておきましょうか。 一度お伺《うかが》いしたいしたいと存じながらつい 好《よ》いおりがなく失礼ばかり致しております 割合にお暖《あたた》かな日がつづいてますのね是非 此頃《このごろ》にお邪魔《じやま》させていただきますわさて日 外《いつぞや》×つまらぬ品物をおおくりしました処《ところ》御《ご...
  • 江戸川乱歩「兇器」
    「アッ、助けてえ!」という金切り声がしたかと思うと、ガチャンと大きな音がきこえ、カリカリとガラスのわれるのがわかったって言います。主人がいきなり飛んで行って、細君の部屋の襖をあけてみると、細君の美弥子があけに染まって倒れていたのです。  傷は左腕の肩に近いところで、傷口がパックリわれて、血がドクドク流れていたそうです。さいわい動脈をはずれたので、吹き出すほどでありませんが、ともかく非常な出血ですから、主人はすぐ近所の医者を呼んで手当てをした上、署へ電話をかけたというのです。捜査の木下君と私が出向いて、事情を聴きました。  何者かが、窓をまたいで、部屋にはいり、うしろ向きになっていた美弥子を、短刀で刺して逃げ出したのですね。逃げるとき、窓のガラス戸にぶつかったので、その一枚がはずれてそとに落ち、ガラスがわれたのです。  窓のぞとには一間幅ぐらいの狭い空き地があって、す...
  • 江戸川乱歩「鬼」
         生腕  探偵小説家の殿村昌一《とのむらしよう》は、その夏、郷里長野県のS村へ帰省していた。  S村は西方を山にとざされ、ほとんど段畑ばかりで暮らしを立てているような、寂しい寒村であったが、そのいんうつな空気が、探偵小説家を喜ばせた。  平地に比べて、日中が半分ほどしかなかった。朝のあいだは、朝霧が立ちこめていて、お昼ごろちょっと日光がさしたかと思うと、もう夕方であった。  段畑がのこぎり型に食い込んだあいだあいだには、いかに勤勉なお百姓でも、どうにも切り開きようのない深い森が、千年の巨木が、ドス黒い触手みたいに、はい出していた。  段畑と段畑が作っているみぞの中に、この太古の山村には似てもつかぬ、二本の鋼鉄の道が、奇怪なダイジャのように、ウネウネと横たわっていた。日に八度、その鉄路を、地震を起こして汽車が通り過ぎた。黒い機関車が勾配《こうばい》をあえいで、ボ、ボ、ボと恐ろ...
  • 服部之総「新撰組」
    新撰組 一 清河八郎 夫れ非常之変に処する者は、必ずや非常之士を用ふ──  清河八郎得意の漢文で、文久二年の冬、こうした建白書を幕府政治総裁松平春嶽に奉ったところから、新撰組の歴史は淵源するのだが、この建白にいう「非常之変」には、もちろん外交上の意味ばかりでなく、内政上の意味も含まれていた。さて幕末「非常時」の主役者は、映画で相場が決まっているように「浪士」と呼ばれたが、その社会的素姓は何であろうか。  文久二年春の寺田屋騒動、夏の幕政改革を経て秋の再勅使東下、その結果将軍家は攘夷期限奉答のため上洛することとなり、その京都ではすでに「浪士」派の「学習院党」が隠然政界を牛耳っている。時をえた浪士の「非常手段」は、このとし師走以来の暦をくってみるだけでも、品川御殿山イギリス公使館焼打ち、廃帝故事を調査したといわれた塙次郎の暗殺、京都ではもひとつあくどくなって、 「天誅」の犠牲の首や耳や手やを書...
  • 中谷宇吉郎「清々しさの研究の話」
     この頃ハンチントンの『気候と文明』が岩波文庫に出たので、前から読みたいと思っていた矢先、早速買って見たが、大変面白かった。中には少しくだくだしいところもあるし、随分身勝手な資料を基とした議論もあって、勿論あのままに簡単に承服するわけには行くまいと思われる点もあるが、私はこの方面には全くの素人なので、この新しい地理学の全面的批判などをする気持ちは勿論無いし、またしようと思っても出来る話でもない。ただ少し身勝手だと思われる点は、例えば人種に本質的の優劣があるという例に、アメリカにおける黒人と白人との能率の比較をしている条《くだ》りなどがあるからである。例えば白人と黒人との農民が経営している農揚の広さの比較とか、収入の比較などから、白人が人種として本質的に優れているというような結倫を平気で出しているようである。その結論自身は或いは本当なのかもしれないが、その説明が少し私などには腑に落ちぬところ...
  • 大下宇陀児「偽悪病患者」
      (妹より兄へ)  ××日付、佐治さんを接近させてはいけないというお手紙、本日拝見いたしました。  いつもどおり、いろんなことに気を配ってくださるお兄様だけれど、喬子、こんどのお手紙だ けはよくわかんない。佐治さんは、喬子が接近したのでもないし、接近させたんでもないの。お 兄様だって御承知のとおり、お兄様や漆戸と同期生だったんですって。アメリカから帰られると、 すぐ漆戸を訪ねていらっしゃって、漆戸は、病気で退屈で、話し相手が欲しいもんだから、佐治 さんが来てくださるのを、ずいぶん楽しみにしているんですわ。  そういえば思い出すけれど、漆戸が一度いいました。「佐治という男は、学校時代からちょっ と変わったところがあって、他人からずいぶん誤解されたものだが、芯は、気の弱い正直な男 さ」って。喬子、まだ佐治さんがどんなふうに変わっている人か知らないけれど、お兄様が何か きっと誤解しているんじゃ...
  • 江戸川乱歩「覆面の舞踏者」
     わたしがその不思議なクラブの存在を知ったのは、わたしの友人の井上次郎によってでありました。井上次郎という男は、世間にはそうした男がままあみものですが、妙にいろいろな暗黒面に通じていて、たとえば、どこそこの女優なら、どこそこの家へ行けば話がつくとか、オブシーン・ピクチュアを見せる遊郭はどこそこにあるとか、東京における第一流の賭場《とば》は、どこそこの外国人街にあるとか、そのほかわたしたちの好奇心を満足させるような、種々さまざまの知識をきわめて豊富に持ち合わせているのでした。その井上次郎が、ある日のことわたしの家へやって来て、さて改まって改まって言うことには、 「むろんきみなぞは知るまいが、ぼくたちの仲間に二十日会《はつかかい》という一種のクラブがあるのだ。実に変わったクラブなんだ。いわば秘密結社なんだが、会員は皆、この世のあらゆる遊戯や道楽に飽きはてた、まあ上流階級だろうな、金には...
  • 亀井勝一郎「飛鳥路」
                        みささぎ  飛鳥路はすべて墓場だ。古樹に蔽われた帝王の陵、一基の碑によってわずかに知られる宮址、 礎石だけを残す大寺の跡、無数の古墳と、石棺や土器や瓦の破片等、千二百年以前の大和朝の夢 の跡である。畝傍、耳梨、香久山の三山を中心に、南は橘寺、岡寺から島庄に至る平原、東寄り の多武の山の麓に沿うて北は大原の丘陵地帯になっている。更に一里ほど北へ歩むと、三輪山を 背景とした桜井の町があり、鳥見山山麓一帯もまた大和朝にゆかり深い地だ。この周辺を克明に 歩いたら十数里はあるだろう。広大な地域とは云えないが、ここに埋れた歴史は広大である。こ こに成立した宗教芸術は世界的である。即ち日本書紀の事跡の殆んど全部を含む。とくに欽明朝 より持統朝にかけて、飛鳥は政治文化の中心として隆盛を極めた。この間権勢を誇り、また流血 の悲劇をくりかえした大氏族は蘇我家である。  ...
  • 柳田国男「島々の話」
    一  昨年の夏、瑞西などで専ら人の噂になつて居たことは、南太平洋の東南端に、最も美しい離れ小島として又神秘の国として、世に聞えて居たイースターの島が沈んでしまつて見えなくなつたと言ふ話であつた。南島今日の造船技術では、とても通はれぬやうな遠い境に、歌と物語に富んだ静かな民が住んで居て、島には住民の全部が働いても、とても完成することの出来ぬ程の大きな石の色々の工作物があつた。其不思議の島が、或船長の報告に依ると、もと在つた海上に、どうしても見えぬと言ふことであつた。西洋人はローマンスを喜び、又或意味に於ては島の生活を愛借するが、それは只燈の光で花を見るやうな、遙かなる咏歎であつた。さうして後の智利《チリイ》からの電報で、島は依然として元の如しと伝へられると、なんの事だと舌を打つやうな人ばかり多かつた。  大正八年の八月九月には怖しい流行感冒がタヒチ・サモァ其他の島々を非常に荒した。ゴーガン...
  • 江戸川乱歩「百面相役者」
    1  ぼくの書生時代の話だから、ずいぶん古いことだ。年代などもハッキリしないが、なんでも、日露戦争のすぐあとだったと思う。  そのころ、ぼくは中学校を出て、さて、上の学校へはいりたいのだけれど、当時ぼくの地方には高等学校もなし、そうかといって、東京へ出て勉強させてもらうほど、家が豊かでもなかったので、気の長い話だ、ぼくは小学教員でかせいで、そのかせぎためた金で、上京して苦学をしようと思いたったものだ。なに、そのころは、そんなのがめずらしくはなかったよ。なにしろ給料にくらべて物価のほうがずっと安い時代だからね。  話というのは、ぼくがその小学教員でかせいでいたあいだに起こったことだ。 (起こったというほど大げさな事件でもないがね)ある日、それは、よく覚えているが、こうおさえつけられるような、いやにドロンとした春先のある日曜日だった。ぼくは、中学時代の先輩で、町の(町といっても××市のこ...
  • 辰野隆「露伴先生の印象」
     数年前の夏の一夜、「日本評論」の座談会に招かれて、僕は初めて幸田露伴先生の謦咳《けいがい》に接したのであった。少年時代から今に至るまで、一世の文豪、碩学《せきがく》、大通として仰望していた達人に親しく見《まみ》え、款語を交わし得た僕の歓びは極りなかった。殊にその夜は、一高以来の谷崎、和辻の両君をはじめ、露伴先生を繞《めぐ》って閑談するのを沁々《しみじみ》悦《よろこ》ぶ人々のつどいでもあったから、且つ飲み且つ語る一座には靄々《あいあい》たる和気が自ら醸し出された。斯《か》くて先生もいつもより酒量をすごされたらしく、座談の果てに、我等の請うがままに、酔余の雲烟《うんえん》を色紙に揮《ふる》われた。僕の頂戴した句は  鯉つりや銀髯そよく春の風  というのであった。句は素《もとよ》り、墨痕もあざやかに露伴と署《しる》された文字から、僕の記憶はいつしか、青年時代に愛誦《あいしよう》した『対髑髏』へ...
  • 江戸川乱歩「鏡地獄」
    「珍らしい話とおっしゃるのですか、それではこんな話はどうでしょう」  ある時、五、六人の者が、怖い話や、珍奇な話を、次々と語り合っていた時、友だちのKは最後にこんなふうにはじめた。ほんとうにあったことか、Kの作り話なのか、その後、尋ねてみたこともないので、私にはわからぬけれど、いろいろ不思議な物語を聞かされたあとだったのと、ちょうどその日の天候が春の終りに近い頃の、いやにドソヨリと曇った日で、空気が、まるで深い水の底のように重おもしく淀んで、話すのも、聞くものも、なんとなく気ちがいめいた気分になっていたからでもあったのか、その話は、異様に私の心をうったのである。話というのは、  私に一人の不幸な友だちがあるのです。名前は仮りに彼と申して置きましょうか。その彼にはいつの頃からか世にも不思議な病気が取りついたのです。ひょっとしたら、先祖に何かそんな病気の人があって、それが遺伝したのかもしれ...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(3)
    血の部屋 一  夜の空気の中で、貴美子夫人の顔や姿は、光る絹か、透 明な、そして柔かいガラスで作った生物のような感じをあ たえた。  何時何分という、ハッキリした時刻を、あとで思ってみ ても残念なことに、誰も記憶していない。が、ともかく、 午前一時半に近いか、もしかしたら、それをもう過ぎてい る。  二人は、びっくりして門の前に立ちどまったままだった が、驚きは、向うでも、大きい風だった。 「あら、どうしたのよ、有吉ちゃんも友杉さんも……」  そうして、貴美子夫人は、こっちの二人を、頭から爪の 先きまで、吟味する眼つきで見なおし、それから抱いてい た白いエナメル塗りのハンド。バッグから、白い小さなハン ケチを出した。  疲れたという表情であり、顔の汗をそのハンケチでおさ えている。 げ 「電車がなくなっちゃったの。しかたがないから歩いた 、わ。 一時間もl」 「どこへ行ってらしたんで...
  • 河上肇「古今洞随筆」
     今歳正月宿約を果さんがため一文を本誌に寄せし折、それは余りの短文ゆえ他日更に一文を草してその責を補うべしと約束してこのかた、しきりにその約束の履行を催促されているに拘《かかわ》らず、今日に至るもなお之を果す能《あた》わず、已むなくテエブルに向い、さしあたり思いつくままのことを書きつけて、形ばかりの責を塞ぐ。  私が今|倚《よ》りかかっているテエブルは、近頃京大経済学部の学生諸君から贈られたものである。それには「贈恩師河上肇先生、経済学部同好会々員一同」と書きつけてある。私は近頃大学教授の椅子を失ったが、その代りに、学生諸君から斯《か》かるテエブルを贈られたのである。私は悦《よろこ》んでこれを受け、今後私がなお生きていて、何等かのものを書くかぎり、永くこれを使用しようと思っている。私は従来、私宅では坐って執に向い、汰学の研究室では椅子してテエブルに向っていたのだが、大学へ出なくなって毎日...
  • 永井荷風「散柳窓夕栄」
     天保十三壬寅の年の六月も半を過ぎた。いっもならば江戸御府内を湧立ち返らせる山王大権現の御祭礼さえ今年は諸事御倹約の御触によってまるで火の消えたように淋しく済んでしまうと、それなり世間は一入ひっそり盛夏の奏暑に静まり返った或日の暮近くである。『偐紫田舎源氏』の版元通油町の地本問屋鶴犀の主人喜右衛門は先ほどから汐留の河岸通に行燈を掛ならべた唯ある船宿の二階に柳下亭種員と名乗った種彦門下の若い戯作者と二人ぎり、互に顔を見合わせたまま団扇も使わず幾度となく同じような事のみ繰返していた。  「種員さん、もうやがて六ッだろうが先生はどうなされた事だろうの。」  「別に仔細はなかろうとは思いますがそう申せば大分お帰りがお遅いようだ。事によったらお屋敷で御酒でも召上.、てるのでは御ざいますまいか。」  「何さまこれア大きにそうかも知れぬ。先生と遠山様とは堺町あたりではその昔随分御眤懇であったとかい...
  • 火野葦平「岩下俊作「無法松の一生」解説」
     最近、東寶のカラー・シネスコの大作「無法松の一生」が封切られる。私は、まだ見ていないが、前に、同じ稻垣浩監督、阪東妻三郎主演の映畫を見て感動したことがあり、今度の三船敏郎主演映畫はさらにすばらしいであろうと期待している。なぜなら、前のは戰爭中であつたため、主人公松五郎が、吉岡大尉の未亡人に對するひそやかな戀心──つまり、この作品では、もつとも大切な部分が、檢閲のきびしさのためボカされていたからである。逆にいえば、どんなに松五郎から惚れられていても、帝國軍人たる者の妻が、亡夫以外の男に、心を動かすことなど絶對にあり得ないという、非人間的、封建的道徳觀が強制的に押しつけられていたため、藝術からさえも遠ざけられる危險を持つていたといえよう。今は、その大切なテーマが自由に表現できるわけだから、前のよりは完璧であるにちがいないと思う。最近は、また、「無法松の一生」はラジオで連續放送され、浪花節にも...
  • 亀井勝一郎「古塔の天女」
     この春東大寺の観音院を訪れたときは、もう日がとっぷり暮れていた。星ひとつない闇夜で あった。老松の並木に沿うて参道を行くと、ふいに、まるで巨大な怪物のような南大門に出っく わした。いかにも突然の感じで、昼間は幾たびも見なれて気にもとめないこの門の、異様な夜景 に驚いた。昼間よりはずっと大きくみえる。地にうずくまりながら、頭をもたげ、大きな口を開 いて咆号する化物じみたすがただ。仁王の顔面はみえないが、胴体はさながら節くれだった巨大 な古木であった。夜の寺は凄くまた底しれぬ深さを感じさせるものである。  大仏殿はなおさらのことで、廻廊が長々とつづいて闇に消える辺りを見ていると、建物が地上 全体を蔽うているようだ。形の実にいいのに感心した。大和の古寺の中では新しい方だが、こう して夜眺めるとなかなか風格が出来たといった印象を与えられる。人影もなく、あたりは森閑と して物音ひとつ聞えない。廻廊...
  • 伊波普猷「中学時代の思出」
      -この一篇を恩師下国先生に捧くー-  「沖縄を引上げる時、沖縄を第二の故郷だといつた人は可なりあるが、この第二の故郷に帰つて来た人は至つて少ない。」と仲吉朝助氏がいはれたのは事実に近い。よし、帰って来た人があるとしても、恩師下国先生位歓迎された人は少なからう。沖縄を去る可く余儀なくされた時、下国先生が沖縄を第二の故郷といはれたかどうかは覚えてゐないが、先生は数年来の私たちの希望を容れられて、旧臘三十年振りに、この第二の故郷に帰つて来られた。三十年といへば随分長い年月である。この間に私たちの環境は著しく変つた。けれども旧師弟間の精神的関係のみは少しも変らなかつた。先生が思出多き南国で旧門下生に取巻かれて、六十一の春を迎へられたのは、岸本賀昌氏がいはれた通り、社会的意義があるに相違ない。下国良之助の名は兎に角沖縄の教育史を編む人の忘れてはならない名であらう。この際、四年八ケ月の間親しく先...
  • 佐藤春夫「散文精神の発生」
    佐藤春夫? 散文精神の発生  新潮の九月号で広津和郎君が書かれた「散文芸術の位置」といふ文章は多少不備で、散漫で、然も尽くさないところがあったやうに思ふが、それでも   「沢山の芸術の種類の中で、散文芸術は。直ぐ人生の隣りにゐるものである。右隣りには、詩、美術、音楽といふやうに、いろいろの芸術が並んでゐるが、左隣りは直ぐ人生である。」 といふ結論は確かな真実で   「認識不足の美学者などに云はせると、それ故散文芸術は、芸術として最も不純なものであるやうに解釈するが、しかし人生と直ぐ隣り合せたといふところに、散文芸術の一番純粋の特色があるのであって。それは不純でもない、さういふ種類のものであり、それ以外のものでないといふ純粋さを持ってゐるものなのである。」 と看破したのは達見である。まさしく吾々が知らず識らずのうちに陥ってゐる散文芸術を律するに、詩によって立てられた美学を襲...
  • 三好達治「萩原さんという人」
     映画俳優のバスター・キートンというのはひと頃人気のあった喜劇俳優だ。近頃の若い人はもうご存じでないかもしれぬ。額が広く、眼玉がとび出て、長身痩驅《ちようしんそうく》、動作は何だかぎくしゃくしていてとん狂で無器用らしく、いつも孤独な風変りな淋しげな雰囲気を背負っている、一種品のいい人物だった。萩原さんの風つきは、どこかこのキートン君に似通った処があった。それはご本人も承認していられたし、またそれがいくらかお得意の様子で、よくその映画を見物に出かけられた後などそれをまた話題にもされた。先生にはあの俳優のして見せる演技のような、間抜けた節がいつもどこかにあって、妙にそれが子供っぽくて魅力があり、品がよかった。突拍子もない  著想《ちやくそう》は、あの人の随筆や感想の随所にちらばってのぞいている呼びかけだし、あの人の詩の不連続の連続のかげにもたしかに潜んでいる。先生には、著想の奇抜で読者の意表に...
  • 亀井勝一郎「桂離宮」
     桂離宮は日光のもとに見るべきものではない。月光のもとに見るべきものである。それも満月 の折は欠陥をあらわす惧れがある。下弦の月の頃、長夜の宴でも張ったとき、はじめてこの離宮 は真珠のような微光を人心に通わせるかもしれない。これは離宮の全景を綜合的に見た上での私 の予想である。  四季のいずれの時間を選ぶかは、極めて大切なことだ。御殿と林泉と茶室と人の心が、おのず から融けあう刹那は、古人においてもそう屡ーあったとは思われない。それでいいのだ。離宮と は元来、「贅沢な時間」のために構想されたものであるから。人は日常性から意識的に遊離した かたちでここに遊ぶ。 *  洛西の郊外、桂川は嵐山をめぐって東南に流れ、.淀川に注いでいる。その流域のほぼ中ほど に、離宮の地は設定された。周囲はすべて田野である。自然として利用すべきものは、桂川の水 以外にはない。この平坦で平凡な場所に、一万三千坪の庭園...
  • 科学への道 part5
    !-- 十五 -- !-- タイトル -- 研究と労作 !-- --  自然研究に当っては人々は極めて多くの労作に時を費さなければならぬ。一つの 事実を認めようとする場合においても、出来るだけ四囲の状況を確めてみてようや く一つの事が判明する場合が多くて、これだけの労力は決して|厭《いと》ってはならぬ。し かも事実の|穿整《せんさく》のみが科学の要素ではない。得られた事実を系統|統轄《とうかつ》することもも ちろんである。このためにはたえず考えていなくてはならぬ。すべての事実を系統 立てる行為は頭の中の仕事であって、決して目には見えない。したがって外観的に 遊んでいるごとくに見える場合もあろうが、むしろこの頭中の労作ほど偉大なもの はないのである。また頭中の労作は目に見えないために、これをよき|幸《さいわい》として、|獺惰癖《らんだへき》に|陥《おちい》る学者もまた絶無とはいえ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百五十七
     筆をとればその気になって物が書かれ、楽器をとれば音を出したいと思い、盃をとれば酒を欲しいと思い、賽《さい》を手にすると賭博を欲する。心というものはかならずそのことに触れてもよおして来る。いやしくも善からぬ戯れをしてはならない。ふとした気持で聖教の一句が目につくと、なんとなく前後の文も気にとめてみる。突如として多年の非行を改めることもある。もし教典を目にしなかったとしたら、このことを悟ることができなかうたろう。これはつまり事に触れてたまたま起つた利益である。その心が別に起らないでも、仏前にいて数珠や教典などを手にしていると怠慢しながらもおのずと善行が修せられ、散乱心のままでも、座禅の席につくとわれ知らずに禅の静思ができるであろう。外界と内面の作用とにおいて、事理はもと一体のものである。形式を尊重しているうちに内容も充実して来る。うわべだけの人を見ても無闇と不信心呼ばわりをしないがいい、むし...
  • 柳田国男「南島研究の現状」
    大炎厄の機会に  大地震の当時は私はロンドンに居た。殆と有り得べからざる母国大厄…難の報に接して、動巓しない者は一人も無いといふ有様であつた。丸二年前のたしか今日では無かつたかと思ふ。丁抹に開かれた万国議員会議に列席した数名の代議士が、林大使の宅に集まつて悲みと憂ひの会話を交へて居る中に、或一人の年長議員は、最も沈痛なる口調を以て斯ういふことを謂つた。是は全く神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流れて居たからだと謂つた。  私は之を聴いて、斯ういふ大きな愁傷の中ではあつたが、尚強硬なる抗議を提出せざるを得なかつたのである。本所深川あたりの狭苦しい町裏に住んで、被服廠に遁げ込んで一命を助からうとした者の大部分は、寧ろ平生から放縦な生活を為し得なかつた人々では無いか。彼等が他の碌でも無い市民に代つて、この惨酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこに在るかと詰問した。  此議員のしたやうな...
  • 科学への道 石本巳四雄
    国会図書館の近代デジタルライブラリの画像を使って校正したので、 旧仮名使い(途中まで -- 後半は新かなつかいのまま)になっています。 コメントは、 !-- -- の中に記載しました。 part1 科学への道 石本巳四雄 序  天地自然の|悠久《ゆうきゆう》なる流れは歩みを止めることがない。この間に各人が|暫時《ざんじ》生れ出 でて色々のことを考える。しかし、人々がいかなることを考えても、人間の能力に は限度があって、自然現象を研究し|尽《つく》すことは不可能である。  しかし、古来思想の卓絶《たくぜつ》した碩学《せきがく》が逐次《ちくじ》に出《い》でて、簡《かん》より密《みつ》に、素《そ》より繁《はん》に研究 が進められ、自然現象の中に認められた事実は|仮説《かせつ》と云ふ形式によって|綴《つづ》られ、今 日もなおその発展が続けられているのである...
  • 大下宇陀児「ニッポン遺跡」(抄)
    人間の価値  時間がきていた。  人間について知りたいことはまだたくさんあるが、たっ た一回の会見ではその全部をつくすわけにはいかず、それ にはまた日を改めて会見をくりかえすほうが得策だったし、 他面には人間観覧希望老が引きもきらずやってきていると いう実情があって、あたしだけが人間を、いつまでも独占 していることはできない。  残念ながらあたしは、そのへんで第一回の会見を打切る よりほかなかったが、そのとき思いついて人間に、 「あなたは、まだ十分に自分のおかれている立場を理解し ていらっしゃらないと思うわ。あなたは冷凍されたってお っしゃった。冷凍から六十七万年たっちゃったの。いまの あなたを包む事情が、まるっきり変ってしまっているのだ から・きっとたいへんにお困りね・困ることは・あみ亡に掬 まかしとけばいいの。ずっとこれから、あたしがパトロン になってあげる。どう、いまどんなことをして...
  • 神西清「散文の運命」
     一つの幕間《まくあい》が予感される。つよい予感である。それは殆ど現実感を帯びている。ひょっとすると現実以上の必然であるのかも知れない。  ここ半年ほどの文芸雑誌を散読して(今わたしは、あと数日で終戦一周年を迎えようという日に、これを書いているのだが)、その印象を、荒野に呼ばわる人の声がある  などという文句で言いあらわしたら、もとより大袈裟《おおげさ》のきらいがあるだろう。とはいえ、確かにそんな声は響いている。その声はおもに外国文学の畠からひびいてくる。その声はかなり気ぜわしく、わが小説の伝統に訣別《けつべつ》せよと叫んでいる。わびやさびの境地を振り棄てて、トルストイやスタンダールの門に帰向せよと叫んでいる。  その声は誠実と熱意とにみちて、そのため些《いささ》か急《せ》きこみ気味ではあるが、為にする政治意識の汚染などは少しもみとめられない。まさしく新たな文学十字軍が、発航の準備にかかろ...
  • 太宰治「津軽」四五(新仮名)
    https //w.atwiki.jp/amizako/pages/629.html (から、つづき) [#5字下げ][#中見出し]四 津軽平野[#中見出し終わり] 「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越《コシ》の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田《アキタ》(今の秋田)渟代《ヌシロ》(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連|石布《イワシキ》、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳《ユキノムラジハカトコ》、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷《ニギエゾ》、次を麁蝦夷《アラエゾ》、遠きを都加留《ツガル》と名くと。其他の蝦夷は、おのずから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の...
  • 川路柳虹「跋」
     先驅者の仕事はその當時にあつてはいつも不幸だ。故平戸廉吉君の詩集の如きもその一つである。君の詩に於ける建設は今日から見て單なる詩の手法上の新意以上の或るものを有つてゐたのである。君は最初伊太利藝術界に端を發した未來主義の名のもとにその創作を發表した。しかしそれは最も獨創に富む君自身の創設であつた。それから第四側面の詩、即ち詩に於ける第四次元的宇宙の展開を意圖する時から何人もが提唱するをえなかつた新しき詩論に立て籠つて『アナロジスムの詩』の樹立に向つた。不幸その創作半ばで君は肺患のために倒れた。がその新しき詩論はとりもなほさず君の新しき宇宙觀であり、そこに立脚する詩の創造である。アルス・ポエチカといふ語が單なる詩の技法を示すのでなく詩人の宇宙觀を示す意味に往古から使はれてゐる如く君のアルス・ポエチカも又單なる詩のテクノロジー以外の大きな背景から發足してゐる。それを回顧することは決して今日の...
  • @wiki全体から「森鴎外「北清事件の一面の観察」」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

記事メニュー
目安箱バナー