網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「森鴎外「水の説」」で検索した結果

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  • 森鴎外「我をして九州の富人たらしめば」
    森鴎外「我をして九州の富人たらしめば」  我をして九州の富人たらしめば、いかなることをか為すべき。こは屡々わが念頭に起りし問題なり。今年わが職事のために此福岡県に来り居ることゝなりしより、人々我に説くに九州の富人多くして、九州の富人の勢力逈に官吏の上に在ることを以てす。既にしてその境に入りその俗を察するに、事として物として聞く所の我を欺かざるを証せざるはなし。こゝに一例を挙げんか。嘗て直方より車を倩《やと》ひて福丸に至らんとせしに、町はづれに客待せる車夫十余人ありて、一人の応ずるものなく、或は既に人に約せりといひ、或は病と称して辞《いな》みたり。われは雨中短靴を穿きて田塍の間を歩むこと二里許なりき。後人に問ひて車夫の坑業家の価を数倍して乗るに狃《な》れて、官吏の程を計りて価を償ふを嫌ふを知りぬ。九州に来るもの、富の抑圧を覚ゆること概ね此類なり。  われは此等の事に遭ふごとに、九州の富人の為...
  • 森鴎外「大発見」
    僕も自然研究者の端榑《はしくれ》として、顕微鏡や試験管をいぢつて、何物をか発見しようとしてゐた事があつた。 併し運命は僕を業室《げふしつ》から引きずり出して、所謂《いはゆる》事務といふものを扱ふ人間にしてしまつた。二三の破格を除く外は、大学出のものに事務の出来るものはないといふ話である。出来ない事をするのも勤なれば是非が無い。そこで発見とか発明とかいふことには頗《すこぶ》る縁遠い身の上となつた。 考へて見れば、発見とか発明とかいふ詞《ことば》を今のやうに用ゐるのは、翻訳から出てゐるのだが、甚だ曖昧《あいまい》ではないかと思ふ。亜米利加《アメリカ》を発見したとか、ラヂウムを発見したとかいふのは、あれはdiscoverである。クリストバン・コロンが出て来なくても、亜米利加の大陸は元から横《よこた》はつてゐたのだ。キユリイ夫婦が骨を折らなくても、ラヂウムは昔から地の底にあつて、熱を起したり、電...
  • 小倉金之助「荷風文学と私」
     私のような自然科学方面の老人が、荷風の文学について語るのは、はなはだ僣越のように思われよう。けれども私は、青春時代における人生の危機を、荷風の小説を力として切りぬけた、とも言えなくないのであって、荷風に負うところ大なるものがあると、衷心から信じている。それで今ここに、主としてその事実について、ありのままに述べて見たいのである。尤もそれは、今から四十年ばかりも前のことで、その当時の私の読み方・味わい方は、恐らく小説の読み方ではなく、文学の味わい方でもなかったであろう。私のような主観的な見方をされては、作家その人にとってはなはだ迷惑なことであるかも知れないが、そういった点についてはーただ昔の思い出ばなしとしてーお許しを願いたいとおもう。  私が荷風文学に親しみだしたのは、明治三十九年のころからであるが、特にそれに熱中したのは明治四十二年から大正元年ごろまで(荷風が満で三+歳から三+三歳のころ...
  • 仲原善忠「私たちの小学時代」
    一  「日清だんぱん破裂して」とか「けむりも見えず雲もなく」とか、そんなふうな軍歌がさかんにうたわれていた明治三十年代が私たちの小学時代です。  「小学時代の思い出」というのが編集者の課題だが、一平凡人の私的な思い出よりも、私の記憶に残る当時の教育風情というようなことに焦点をむけるようにしよう。  とはいうものの、往事は茫々として夢の如し、自分の記憶にあざやかな印象として残っているものは、すべて子供らしい、また自分中心のことでしかなかったことも、読者よ、許したまえと、お断りしておく。  生れた家は久米島の真謝石垣の屋号でよばれていた。兄が二人、下には数人の弟妹が次々と生れつつあった。小学校は生れ村にあった。私は多分四つぐらいから学校に通ったらしい。一年で二回らくだいし、三度目にやっと二年に進級した。今度は大丈夫だろうと母もいっていたが、またらくだいで、泣きさけびながら家に帰って来た。つま...
  • 小原一夫「水納の入墨」
     一九三一年八月九日、十日と私の滞在中の宮古島は、未曾有の暴風雨に襲われた。風速五十四米、人も獣も木も草もその猛威の前には皆生色はなかった。思出しても物凄い台風で、住家のほとんどが形もなく吹き飛ばされ、危く命を助かった私の北から南へ島伝いにと定めた旅程は、たちまち妨げられて変更せざるを得なくなった。  あるかなきかの如き小さな多良間島、水納島に行く発動機船は皆難破してしまって、交通は絶え、入重山と宮古島とをつなぐこの島の入墨を見る機会が失われたように思わされた。私は、不本意にも先きに八重山に行かざるを得なくなった。多良間島の婦人で入墨をしている人が、宮古島にいないかと八方尋ねる内に親切な宿の主人は心掛けて、私に一人の婦人を紹介して呉れた。それは汽船が八重山に向う十三日の朝のことであった。まだ三十才そこそこに見える整った美しい容姿の人で、小さな男の子を傍に、あまり楽でない生活のように見えた。...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十七
     ある大富豪の説に「入は万事をさしおいて専念に財産を積もうとすべきものである。貧乏では生き甲斐も無い。富者ばかりが人間である。裕福になろうと思ったら、よろしくまずその心がけから修養しなければならない。その心がけとはほかでもない。入間はいつまでも生きておられるものという心持を抱いていやしくも人生の無常などは観じてはならない。これが第一の心がけである。つぎにいっさいの所用を弁じてはならない。世にある間はわが身や他人に関して願い事は無際限である。欲望に身を任して、その慾を果そうという気になると百万の銭があってもいくらも手に残るものではない。人の願望は絶え間もないのに、財産は無くなる時期のあるものである。局限のある財産をもって無際限の願望に従うことは不可能事である。願望が生じたならば身を亡ぼそうとする悪念が襲うたと堅固に謹慎恐怖して、些少の用をもかなえてはならない。つぎに、金銭を奴僕のように用いる...
  • 室生犀星「寂しき魚」
    寂しき魚  それは古い沼で、川尻からつづいて蒼くどんよりとしていた上に、葦やよしがところどころに暗いまでに繁っていました。沼の水はときどき静かな波を風のまにまに湛えるほかは、しんとして、きみのわるいほど静まりきっていました。ただ、おりおり、岸の葦のしげみに川蝦が、その長い髭を水の上まで出して跳ねるばかりでした。  その沼はいつごろからあったものか誰も知らない。涸れたこともなければ、減ったこともなく、ゆらゆらした水がいつも沼一杯にみなぎっていた。そのうえには、どんよりした鉛筆でぽかしたような曇った日ざしが、晩い秋頃らしく、重く、低い雲脚を垂れていたのです。  そこには非常に古い一匹の魚が住んでいて、岸の方の葦のくらやみに、ぼんやりと浮きあがっていました。かれは水中の王者のように、その大きなからだを水面とすれすれにさせながら、いつも動かず震えもしないで、しずかに、ゆっくりと浮きあがっていた...
  • 火野葦平「岩下俊作「無法松の一生」解説」
     最近、東寶のカラー・シネスコの大作「無法松の一生」が封切られる。私は、まだ見ていないが、前に、同じ稻垣浩監督、阪東妻三郎主演の映畫を見て感動したことがあり、今度の三船敏郎主演映畫はさらにすばらしいであろうと期待している。なぜなら、前のは戰爭中であつたため、主人公松五郎が、吉岡大尉の未亡人に對するひそやかな戀心──つまり、この作品では、もつとも大切な部分が、檢閲のきびしさのためボカされていたからである。逆にいえば、どんなに松五郎から惚れられていても、帝國軍人たる者の妻が、亡夫以外の男に、心を動かすことなど絶對にあり得ないという、非人間的、封建的道徳觀が強制的に押しつけられていたため、藝術からさえも遠ざけられる危險を持つていたといえよう。今は、その大切なテーマが自由に表現できるわけだから、前のよりは完璧であるにちがいないと思う。最近は、また、「無法松の一生」はラジオで連續放送され、浪花節にも...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」九十五
     箱の刳《えぐ》ってあるところに紐を着けるのにはどちら側につけるものかとある故実家に質問したところが、その入は.軸(巻物の左)につけるのも表紙(右)につけることも、両方の説があるところから、どちらでも差しつかえはありますまい。文の箱の場合は多く右につけ凋手箱には軸につけているのが普通のようです」と言った。
  • 中谷宇吉郎「硯と墨」
      東洋の書画における墨は、文房四宝の中でも特別な地位を占めていて、古来文人墨客という言葉があるくらいである。従って墨に関する文献は、支那には随分沢山あるらしく、また日本にも相当あるようである。しかしそのうちには、科学的な研究というものは殆ど無い。或いは絶無と言っていいかもしれない。それは東洋には、昔は科学がなかったのであるから致し方のないことである。  墨と硯の科学的研究は、私の知っている限りでは、寺田寅彦先生の研究があるだけのようである。飯島茂氏の『硯墨新語』なども墨の科学的研究と言われているが、この方は方向は一部科学的研究に向いており、面白いところもあるが、まず文献的の研究というべきであろう。  寺田先生は晩年に理化学研究所で、墨と硯の物理的研究に着手され、墨を炭素の膠質《コロイド》と見る立場から実験を進め、最後の病床に就かれるまで続けておられた。研究の内容は三部から成っている。...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百十四
     今出川の太政大臣菊亭兼季公が嵯峨へお出かけになられた時、有栖《ありす》川の附近の水の流れているところで、さい王丸が牛を追ったために足掻《あがき》の水が走って前板のところを濡らしたのを、お車の後に乗っていた為則|朝臣《あそん》が見て「怪《け》しからぬ童だな。こんな場所で牛を追うなんてことがあるか」と言った。すると大臣は顔色をかえて「お前は車の御《ぎよ》し方をさい王丸以上に心得てもいまい。怪しからぬ男だ」と言って為則の頭を突いて車の内側でこつんとやらせた。この牛飼の名人のさい王丸というのは太秦殿《うずまさどの》、信清内大臣の召使で、天子の御乗料の牛飼であった。この太秦殿につかえている女房にはそれぞれに膝幸《ひざさち》、特槌《ことづち》、胞腹《ほうばら》、乙牛《おとうし》などの牛に縁のある名がつけられていた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二十一
     すぺてのことは月を見るにつけて慰められるものである。ある人が月ほどおもしろいものはあるまいと言ったところが、別の一人が露こそ風情《ふぜい》が多いと抗議を出したのは愉快である。折にかないさえすればなんだって趣のないものはあるまい。  月花は無論のこと、風というものがあれで、人の心持をひくものである。岩にくだけて清く流れる水のありさまこそ、季節にかかわらずよいものである。「洗湘《げんしよう》日夜東に流れ去る。愁人のためにとどまることしばらくもせず」という詩を見たことがあったが、なかなか心にひびいた。また岱康《けいこう》も「山沢《さんたく》にあそびて魚鳥を見れば心|慰《たの》しむ」と言っている。人を遠ざかって水草の美しいあたりを遣遙するほど、心の慰められるものはあるまい。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百五十一
     ある人の説に、年五十になるまでに熟達しなかった道は廃棄すべきである。その理由は、励み習うべき将来もなく、老人のすることは他人も笑うことができない。衆にまじっているのは愛想のつきる不体裁である。総体に年を取った人は万事を放擲して閑散に処するのが似つかわしくて好もしい。世俗のことに関与して生涯を齷齪《あくせく》と暮すのは愚である。ゆかしくて覚えたいと思う芸があったら、学び聞くとしても日とおり趣がわかったらあまり深入りしないでやめたほうがよい。無論、最初からそんなことを思いつかずにすんだら最上である。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十九
     宋に行ったことのある道眼上人は、一切経を向うから持って来て六波羅の辺のやけ野という所に安置し、その経中でも、ことに首楞厳《しゆりようごん》経を講じヒ憲の所を、この経(一名中印度那蘭陀大道場経という)に因んで那蘭陀寺と号した。この上人の話では「那蘭陀寺は、大門が北向きであると大江匡房《まさふさ》の説として言い伝えているが、西域《さいいき》伝にも法顕伝にも見えず、その他にもいっこう見当らない。匡房卿はどんな知識で言ったものやら、どうも不確かな話である。支那の西明寺なら北向きなのはもちろんである」と言っておられた。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百九十六
     東大寺|鎮守《ちんじゆ》の八幡の神盥ハが東寺の若宮八幡からお帰りの時、源氏の公卿方はみな若宮へ参られたが、その時この久我内大臣は近衛大将であって随身に先払いさせられたのを、土御門の太政大臣実定公は「神社の前で先払いをするのはいかがなものであろう」と言われた。するとこの大将は「随身たるべきもののいたすべき作法は我ら武家の者がよく存じております」とだけ答えた。さて、後になってから久我殿は「土御門太政大臣は北山抄は見ておられるが、もっとふるい西の宮(西宮左大臣源高明)の説のほうは御存じないと見える。神の巻族たる悪鬼悪神を恐れるから神社の前ではとくに随身に警蹕《けいひつ》の声をかけさせる理由がある」と言われた。
  • 辰野隆「露伴先生の印象」
     数年前の夏の一夜、「日本評論」の座談会に招かれて、僕は初めて幸田露伴先生の謦咳《けいがい》に接したのであった。少年時代から今に至るまで、一世の文豪、碩学《せきがく》、大通として仰望していた達人に親しく見《まみ》え、款語を交わし得た僕の歓びは極りなかった。殊にその夜は、一高以来の谷崎、和辻の両君をはじめ、露伴先生を繞《めぐ》って閑談するのを沁々《しみじみ》悦《よろこ》ぶ人々のつどいでもあったから、且つ飲み且つ語る一座には靄々《あいあい》たる和気が自ら醸し出された。斯《か》くて先生もいつもより酒量をすごされたらしく、座談の果てに、我等の請うがままに、酔余の雲烟《うんえん》を色紙に揮《ふる》われた。僕の頂戴した句は  鯉つりや銀髯そよく春の風  というのであった。句は素《もとよ》り、墨痕もあざやかに露伴と署《しる》された文字から、僕の記憶はいつしか、青年時代に愛誦《あいしよう》した『対髑髏』へ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」四十四
     粗末な竹の編戸の中から、ごく若い男が、月光のなかでは色合ははっきりしないが、光沢のある狩着に、濃い紫色の指貫《さしぬき》を着け、由緒ありげな様子をしているが、ちいさな童子をひとり供につれて遠い田の中の細い道を稲葉の露に濡れながら歩いて行くとき、笛をなんともいえぬ音に吹きなぐさんでいた。聞いておもしろいと感ずるほどの人もあるまいにと思われる場所柄だから、笛の主の行方が知りたくて見送りながら行くと、笛は吹きやめて山の麓に表門のある中に入った。榻《しじ》に轅《ながえ》を載せかけた車の見えるのも市中よりは目につくような気がしたので、下部《しもべ》の男に聞いてみると「これこれの宮様がおいでになっていられるので、御法事でも遊ばすのでしょうか」と言う。  御堂の方には法師たちが来ていた。夜寒の風に誘われて来る空薫《そらだき》の匂も身にしみるようである。正殿から御堂への廊《ろう》を通う女房の追い風の用...
  • 小杉未醒「西遊記 一 孫悟空生る」
    昔、傲来国と云う国があった、その国の海岸に花果山と云う山があった、その山の上で石が石の卵を産んだ、石の高さは三十六尺。 その石の卵が割れて、石の猴が飛び出した。石の猴に血が通いだして、独でに駈け廻り、自ら天地四方を拝して喜びの声を揚げた。両眼の金色の光り、直ちに雲霄を射て、天上の玉皇上帝を驚かした。 玉皇とは、世界の善悪を判っ天上の政府の主宰者だそうだ。その上帝が千里眼将軍順風耳将軍に命じてこの怪光を査べしめる。二人の復命には、 「成程不思議の石猴ではありますが、矢張り普通の獣の如き飲食を為しまするから、程なく光りも熄むで御座ろう」とあった。 石猴が生れてから、幾年経ったか分らぬ、何時の間にか他の凡猿共と相馴れて遊んでいた。ある日谷川の源の瀑布の前で、猿共が斯う云った、 「この滝壺を見とどけて来る者があるか、あったら我等の王にしよう」すると忽ち、 「己が行こう」と、叫んで石猴が飛び込んだ。...
  • 永井荷風「牡丹の客」
     小れんと云ふ芸者と二人連、ふいとした其の場の機会で・本所の牡丹を見にと両国の橋だもとから早船《はやふね》に乗つた。  五月も末だから牡丹はもう散つたかも知れない。実は昨日の晩、芝居で図らず出会つたま撫地の待合へ泊つて、今朝は早く帰るつもりの処を、雨に止められたなり、其の霽れるのをば昼過ぎまで待つてゐたのだ。一日小座敷に閉籠《とちこも》つていたゴけに、往来へ出ると覚えず胸が開けて、人家の問を河から吹き込む夕風が、何とも云へぬほど爽に酔後の面を吹くのに、二人とも自然と通りか」る柳橋の欄干にもたれた。  雨霽《あまあが》りの故《せゐ》でもあるか、日は今日から突然永くなり出したやうに思はれた。丁度寺院の天井に渦巻く狩野派《かのうは》の雲を見るやうな雨後の村雲が空一面|幾重《いくへ》にも層をなして動いて居る。其の間々に光沢《つや》のある濃い青空の色と、次第に薄れて行く夕炎《ゆふばえ》の輝きが際立つ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十九
     四条中納言藤原の隆資卿が自分に仰せられたには「豊原龍秋という楽人は、その道にかけては尊敬すべき男である。先日来て申すには、無作法きわまる無出78慮な申し分ではございますが、横笛の五の穴はいささか腑におちないところがあると、ひそかに愚考いたします。と申しますのは干《かん》の穴は平調《ひようじよう》、五の穴は下無調《しもむじょう》です。その間に勝絶調《しょうぜつじよう》を一つ飛んでおります。この穴の上の穴は双調《そうじよう》で、双調のつぎの鳧鐘調《ふしようじょう》を.一つ飛んで、夕《さく》の穴は黄鐘調《おうじぎじよう》で、そのつぎに鸞鏡調《らんけいじよう》を一つ飛んで、中の穴は盤渉調《ばんしきじよう》である。中の穴と六の穴とのあいだに神仙調を一つ飛んでいる。このように穴のあいだにはみな一調子ずつ飛ばしているのに五の穴ばかりはつぎの上の穴とのあいだに一調子を持っていないで、しかも穴の距離は他の...
  • 伊波普猷「中学時代の思出」
      -この一篇を恩師下国先生に捧くー-  「沖縄を引上げる時、沖縄を第二の故郷だといつた人は可なりあるが、この第二の故郷に帰つて来た人は至つて少ない。」と仲吉朝助氏がいはれたのは事実に近い。よし、帰って来た人があるとしても、恩師下国先生位歓迎された人は少なからう。沖縄を去る可く余儀なくされた時、下国先生が沖縄を第二の故郷といはれたかどうかは覚えてゐないが、先生は数年来の私たちの希望を容れられて、旧臘三十年振りに、この第二の故郷に帰つて来られた。三十年といへば随分長い年月である。この間に私たちの環境は著しく変つた。けれども旧師弟間の精神的関係のみは少しも変らなかつた。先生が思出多き南国で旧門下生に取巻かれて、六十一の春を迎へられたのは、岸本賀昌氏がいはれた通り、社会的意義があるに相違ない。下国良之助の名は兎に角沖縄の教育史を編む人の忘れてはならない名であらう。この際、四年八ケ月の間親しく先...
  • 亀井勝一郎「佐渡が島」
     佐渡が島は新潟を去る三十二浬の海上にある。四年前の初夏の頃であった。新潟に旅行して、 偶々寄居の浜を散歩したとき、日本海の紺碧の波の涯に横たわるこの島を私ははじめて見た。 「あれが佐渡だ。」そう言って連れの友人が指さす。彼方に、菅笠を二つ伏せたようなすがたの 島が低く横たわっている。私はそのとき、異邦人に接するような、一種の惧れを伴った好奇心を 抱いていた・絶海の孤島、瀞痘の島、死ぬほど淋しいところ、そういう観念を以て眺めていたよ うである。現実の佐渡よりも、芭蕉の「銀河序」を通してみた幻の佐渡の影響を私はつよく受け ていたらしい。                                おも 北陸道に行脚して越後国出雲崎といふ処に泊る。かの佐渡が島は海の面十八里滄波を隔てて、                      くまぐま 東西三十五里に横折り臥したり。峰の嶮難、谷の隈々まで...
  • 中谷宇吉郎「清々しさの研究の話」
     この頃ハンチントンの『気候と文明』が岩波文庫に出たので、前から読みたいと思っていた矢先、早速買って見たが、大変面白かった。中には少しくだくだしいところもあるし、随分身勝手な資料を基とした議論もあって、勿論あのままに簡単に承服するわけには行くまいと思われる点もあるが、私はこの方面には全くの素人なので、この新しい地理学の全面的批判などをする気持ちは勿論無いし、またしようと思っても出来る話でもない。ただ少し身勝手だと思われる点は、例えば人種に本質的の優劣があるという例に、アメリカにおける黒人と白人との能率の比較をしている条《くだ》りなどがあるからである。例えば白人と黒人との農民が経営している農揚の広さの比較とか、収入の比較などから、白人が人種として本質的に優れているというような結倫を平気で出しているようである。その結論自身は或いは本当なのかもしれないが、その説明が少し私などには腑に落ちぬところ...
  • 内藤湖南「山片蟠桃について」
    山片蟠桃について  この懐徳堂のお催しとして、大阪出身の勝れた人々について講演をするということでございます。それで、私は妙な縁故からして、山片蟠桃《やまがたばんと う》について調べたというほどに調べておりませぬが、少し関係がありますところから、私に蟠桃のお話をいたせということでありました。ちょうど十日ほど前 に風を引きまして、声が低くてお聴き取りにくかろうと存じますが、どうか悪しからず御承知を願います。  今申しましたとおり、山片蟠桃のことにつきましては、私はいっこう詳しく調べておらぬので分からぬのであります。しかしこの人について注意をし、またそ の著書を読んだことはずいぶん古いほうであると思います。この人の著書の有名な『夢《ゆめ》の代《しろ》』というのは、「日本経済叢書」に載っております から、多数の方は御覧になっておられると存じます。その中に「無鬼」という篇がありますが、明治二十五年に...
  • 佐藤春夫「西班牙犬の家」
    夢見心地になることの好きな人の為めの短篇  フラテ(犬の名)は急に駆け出して、蹄鍛冶屋の横に折れる岐路のところで、私を待っている。この犬は非常に賢い犬で、私の年来の友達であるが、私の妻などは勿論大多数の人間などよりよほど賢い、と私は言じている。で、いつでも散歩に出る時には、きっとフラテを連れて出る。奴は時々、思いもかけぬようなところへ自分をつれてゆく。で近頃では私は散歩といえば、自分でどこかへ行こうなどと考えずに、この犬の行く方へだまってついて行くことに決めているようなわけなのである。蹄鍛冶屋の横道は、私は未だ一度も歩かない。よし、犬の案内に任せて今日はそこを歩こう。そこで私はそこを曲る。その細い道はだらだらの坂道で、時々ひどく曲りくねっている。私はその道に沿うて犬について1景色を見るでもなく、考えるでもなく、ただぼんやりと空想に耽って歩く。時々空を仰いで雲を見る。ひょいと道ばたの草の...
  • 三好達治「朔太郎詩の一面」
      山に登る    旅よりある女に贈る  山の頂上にきれいな草むらがある、  その上でわたしたちは寝ころんでゐた。  眼をあげてとほい麓の方を眺めると、  いちめんにひろびうとした海の景色のやうにおもはれた。  空には風がながれてゐる、  おれは小石をひろつて口にあてながら、  どこといふあてもなしに、  ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。  おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。           『月に吠える」 「山に登る」は右のような主題のはっきりとした作品であるが、この作品の主格は最初の第二行目に於て「わたしたちは……」と複数であったのが、いつのほどにか「おれは小石をひろつて」と変化し、最後の一行でもまた「おれはいまでも……」という具合になっている。最初の「わたしたちは」草の上に寝ころんでいたのであるが、「おれ」の方はしぜんにその位置を離れて、「小石をひろつて口に...
  • 亀井勝一郎「桂離宮」
     桂離宮は日光のもとに見るべきものではない。月光のもとに見るべきものである。それも満月 の折は欠陥をあらわす惧れがある。下弦の月の頃、長夜の宴でも張ったとき、はじめてこの離宮 は真珠のような微光を人心に通わせるかもしれない。これは離宮の全景を綜合的に見た上での私 の予想である。  四季のいずれの時間を選ぶかは、極めて大切なことだ。御殿と林泉と茶室と人の心が、おのず から融けあう刹那は、古人においてもそう屡ーあったとは思われない。それでいいのだ。離宮と は元来、「贅沢な時間」のために構想されたものであるから。人は日常性から意識的に遊離した かたちでここに遊ぶ。 *  洛西の郊外、桂川は嵐山をめぐって東南に流れ、.淀川に注いでいる。その流域のほぼ中ほど に、離宮の地は設定された。周囲はすべて田野である。自然として利用すべきものは、桂川の水 以外にはない。この平坦で平凡な場所に、一万三千坪の庭園...
  • 中谷宇吉郎「霜柱と凍上の話」
      私は二、三年前に「霜柱と白粉の話」というのを書いたことがある。  一寸妙な題目であるが、その話というのは、私の同窓の友人の物理学者が、大学卒業後、寺田寅彦先生の下で霜柱の実験をしていたが、その時の研究の体験が、後になって、その友人が白粉の製造をするようになった時に大変役に立ったという話なのである。  私は勿論大真面目にかいたつもりなのであるが、何ぶん取り合わせが少々突飛なもので、中には信用しない人もかなりあったようである。それで今度は霜柱と凍上の話というのを書いてみることにする。  ところで凍上という現象であるが、この問題で一番手をやいているのは、寒地の鉄道局の人たちである。  冬になって気温が零下十度以下くらいになる土地では、大抵は地面はかなりの深さまで凍ってしまう。もっとも零下十度程度ならば、大したこともないが、北海道でも零下三十度くらいまで気温が低下するところは珍しくないし...
  • 大曲駒村『東京灰燼記』「書物の行衛」
    十五 図書の行衛  東京の書肆と云ふ書肆は、悉く焼失して終った。山の手方面に一部の災禍を免れたものもないではないが、先づ九分強は皆灰燼に帰した。博文館、丸善、三省堂、冨山房、金港堂、春陽堂、有朋堂、大鐙閣、大倉書店、岩波書店、植竹書院、吉川弘文館、前川文栄閣、越山堂、教文館、アルス社、啓成社、わんや、玄文社等、兔に角一流どころの老舗或は新興の書肆は全く全焼して、其跡を訪ふと余焔の中に貴重なる書籍の俤を止めてゐる。  古書籍商も、浅草の浅倉書店、九段下から真っ直ぐに下りて来た村口書店をはじめ、神田の一誠堂、村越書店、下谷の源泉堂、本郷の南陽堂等、悉く全滅した。あの神保町の電車通りで、軒を並べた古書籍店が、凡そ幾戸あったか数へ難いほどであったが、珍籍奇書と共に悉く烏有に帰した。  図書館もその通りである。上野図書館、日比谷図書館、早稲田大学図書館等は皆無事で、遂に劫火を免れたが、明治大学...
  • 江戸川乱歩「火星の運河」
     またあそこへ来たなという、寒いような魅力が、わたしをおののかせた。にぶ色のやみが、わたしの全世界をおおいつくしていた。おそらくは、音も、においも、触覚さえもが、わたしのからだから蒸発してしまって、ネリヨウカンのこまやかによどんだ色彩ばかりが、わたしのまわりを包んでいた。  頭の上には夕立雲のように、まっくらに層をなした木の葉が、音もなくしずまり返って、そこからは巨大な黒碣色《こくかつしよく》の樹幹が、滝をなして地上に降りそそぎ、観兵式の兵列のように、目もはるかに四方にうち続いて、末は奥知れぬやみの中に消えていた。  幾層の木の葉のやみのその上には、どのようなうららかな日が照っているか、あるいは、どのような冷たい風が吹きすさんでいるか、わたしには少しもわからなかった。ただわかっていることは、わたしが今、はてしも知らぬ大森林の下やみを、ゆくえ定めず歩きつづけている、その単調な事実だけであ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百三十八
     御随身《みずいじん》の近友の自讃といって、七ヵ条書きつけていることがある。馬術に関したつまらぬことどもである。その先例に見ならって自分にも自讃のことが七つある。  一、人を多く同伴して花見をして歩いたが、最勝光院の附近で、ある男の馬を走らせているのを見て「もう一度あの馬を走らせたら、馬がたおれて落馬するでしょう。ちょっと見ていてごらん」と言って立ちどまっているとまた馬を走らせた。それをとめようとするとろで馬をひき倒し、男は泥のなかへ転び落ちた。自分の言葉の的中したのに、人々はみな感心した。  一、今上の帝が、まだ東宮であらせられた頃、万里小路《までのこうじ》殿藤原宜房邸が東宮御所であった。堀川大納言殿東宮大夫藤原師信が伺候しておられたお部屋へ、用事で参上したところが、論語の四五六の巻を繰りひろげていられて「ただ今東宮御所で、紫の朱《あけ》をうばうをにくむ」という文を御覧遊ばされたいこ...
  • 亀井勝一郎「飛鳥路」
                        みささぎ  飛鳥路はすべて墓場だ。古樹に蔽われた帝王の陵、一基の碑によってわずかに知られる宮址、 礎石だけを残す大寺の跡、無数の古墳と、石棺や土器や瓦の破片等、千二百年以前の大和朝の夢 の跡である。畝傍、耳梨、香久山の三山を中心に、南は橘寺、岡寺から島庄に至る平原、東寄り の多武の山の麓に沿うて北は大原の丘陵地帯になっている。更に一里ほど北へ歩むと、三輪山を 背景とした桜井の町があり、鳥見山山麓一帯もまた大和朝にゆかり深い地だ。この周辺を克明に 歩いたら十数里はあるだろう。広大な地域とは云えないが、ここに埋れた歴史は広大である。こ こに成立した宗教芸術は世界的である。即ち日本書紀の事跡の殆んど全部を含む。とくに欽明朝 より持統朝にかけて、飛鳥は政治文化の中心として隆盛を極めた。この間権勢を誇り、また流血 の悲劇をくりかえした大氏族は蘇我家である。  ...
  • 神西清「散文の運命」
     一つの幕間《まくあい》が予感される。つよい予感である。それは殆ど現実感を帯びている。ひょっとすると現実以上の必然であるのかも知れない。  ここ半年ほどの文芸雑誌を散読して(今わたしは、あと数日で終戦一周年を迎えようという日に、これを書いているのだが)、その印象を、荒野に呼ばわる人の声がある  などという文句で言いあらわしたら、もとより大袈裟《おおげさ》のきらいがあるだろう。とはいえ、確かにそんな声は響いている。その声はおもに外国文学の畠からひびいてくる。その声はかなり気ぜわしく、わが小説の伝統に訣別《けつべつ》せよと叫んでいる。わびやさびの境地を振り棄てて、トルストイやスタンダールの門に帰向せよと叫んでいる。  その声は誠実と熱意とにみちて、そのため些《いささ》か急《せ》きこみ気味ではあるが、為にする政治意識の汚染などは少しもみとめられない。まさしく新たな文学十字軍が、発航の準備にかかろ...
  • 亀井勝一郎「古塔の天女」
     この春東大寺の観音院を訪れたときは、もう日がとっぷり暮れていた。星ひとつない闇夜で あった。老松の並木に沿うて参道を行くと、ふいに、まるで巨大な怪物のような南大門に出っく わした。いかにも突然の感じで、昼間は幾たびも見なれて気にもとめないこの門の、異様な夜景 に驚いた。昼間よりはずっと大きくみえる。地にうずくまりながら、頭をもたげ、大きな口を開 いて咆号する化物じみたすがただ。仁王の顔面はみえないが、胴体はさながら節くれだった巨大 な古木であった。夜の寺は凄くまた底しれぬ深さを感じさせるものである。  大仏殿はなおさらのことで、廻廊が長々とつづいて闇に消える辺りを見ていると、建物が地上 全体を蔽うているようだ。形の実にいいのに感心した。大和の古寺の中では新しい方だが、こう して夜眺めるとなかなか風格が出来たといった印象を与えられる。人影もなく、あたりは森閑と して物音ひとつ聞えない。廻廊...
  • 尾崎士郎「落葉と蝋燭」
    1  泥溝《どぶ》のような川の水が日ましに澄んできて、朝、二階の雨戸をあけると落葉の沈んだ川床がはっきり見えるのであった。それもほんの朝のうちの数時間だけで午後になると八方からながれおちる下水のためにすっかり濁ってしまうのであるが、それがひと晩でまたこんなに澄みとおってくるのも大気の爽かなせいであろう。夜中に小さい女房が眼をさまして、「だれかきたような気がする」とふるえ声でささやくことがある。じっと耳をすましていると、ささやかなせせらぎが人のあし音のように聞えるかと思うと、こんどは忍びやかなひそひそ声のようにちかづいてくるのである。晴れた日には榎《えのき》の老木の梢からすけて見える空の、キメのこまかさが眼にしみとおるような蒼《あお》さにかがやいている。川向うの街すじをとおる荷車のひびきや自動車の警笛にまじって、からんからんと鳴る下駄の音がまるで大気の底へ吸いこまれてゆくようだ。ホテル、ア...
  • 太宰治「津軽」一二三(新仮名)
    青空文庫の「新字旧仮名」のものをもとに、新仮名にしようとしています。 https //www.aozora.gr.jp/cards/000035/card2282.html 津軽 太宰治 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)業《わざ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)白髪|逓《たがい》 [#ページの左右中央] [#ここから8字下げ] 津軽の雪  こな雪  つぶ雪  わた雪  みず雪  かた雪  ざらめ雪  こおり雪   (東奥年鑑より) [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#大見出し]序編[#大見出し終わり]  或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に...
  • 佐藤春夫訳「方丈記」
     河水《かわみず》の流れは絶え間はないが、しかしいつも同一の水ではない。停滞した個所に浮いている泡沫《みなわ》は消えたり湧《わ》いたりして、ながいあいだ同じ形でいるものではない。世上の人間とその住宅とてもまた同様の趣《おもむき》である。壮麗な都に高さを争い、瓦の美を競っている貴賤の住民の居宅は幾代もつきぬものではあるが、これを常住不変の実在かと調べてみると、むかしながらの家というのはまれである。去年焼けて今年で・きたというのや、大きかったのが無くなって小さいのになったりしている。住民のほうもまた家と同様、住む場所は同じ所で、住民も多いが、むかしながらの人は二三十人のうちで僅か一人か二人である。朝《あした》に死ぬ人もあれば、夕方に生れる人があったり、水の泡や何かにそっくりではないか。不可解にも生れる人や死ぬ人はいったいどこから来たり、どこへ行ってしまったりするのであろう。さらに不可解なのはほ...
  • 科学への道 part3
    !-- 六 -- !-- タイトル -- 科学者と先入主 !-- --  科学者というものは|偏《かたよ》らずして平静な心の持主であろうと想像するが、実は決し てさようでなく、先入主の|凝《こ》り|固《かたま》りとしか見えぬ人にも接することがある。しかし、 この人達は決して大なる科学者とは思えないのである。  科学者に|成《な》る資格の中には、先人が自然現象の中から苦心して取り上げた事実を 記憶していなくてはならない。またそれらの事実を根底として組み立てられた系統 --即ち法則とか定理とかと呼ばれるもの--を知っていなくてはならない。即ち 事実と系統とが教えられてしまうと、今度新しい事実が出て来ても両立しない場合 に於ては新事実の出現を知らぬことにするか、認めない態度に出る学者がいる。こ れは全く先入主が心の中にあまり幅をきかしておる結果にほかならない。  学校に在学中は極めて...
  • 宇野浩二「枯木のある風景」
     紀元節の朝、目をさますと、珍しい大雪がつもっていたので、大阪でこのくらいなら奈良へ行けば五ロぐらいは大丈夫だろうと思いたつと、島木新吉は、そこそこに床をはなれて、なれた写生旅行の仕度にかかった。家を出る時、島木は「四五日旅行する」と書いた浪華《なにわ》洋画研究所あての葉書を妻にわたしながら、「研究所には内証やで、」と云い残した。  浪華洋画研究所というのは、六年前、島木が、その頃、もっとも親しくしていた古泉《こいずみ》圭造と相談して創設したもので、二人だけでは手がたりないので、彼等の共通な友だちで、おなじ土地(大阪市内外)に在住する八田《やた》弥作と入井市造とを講師にたのみ、以来今日までつづいている大阪唯一の新画派の洋画研究所である。新画派というのは、この四人の画家が、この研究所が創設される前の年、同時に新興協会(反官学派画家の団体)の会員に推選されたという由来があるからである。  奈良...
  • 江戸川乱歩「白昼夢」
     あれは、白昼の悪夢であったか、それとも現実のできごとであったか。  晩春のなま暖かい風が、オドロオドロと、ほてったほおに感ぜられる、むし暑い日の午後であった。  用事があって通ったのか、散歩のみちすがらであったのか、それさえぼんやりとして思いだせぬけれど、わたしは、ある場末の、見るかぎりどこまでもどこまでもまっすぐに続いている、広いほこりっぽい大通りを歩いていた。  洗いざらしたひとえもののように白茶けた商家が、黙って軒を並べていた。三尺のショーウインドウに、ほこりでだんだら染めにした小学生の運動シャツが下がっていたり、碁盤《ごばん》のように仕切った薄っぺらな本箱の中に、赤や黄や白や茶色などの砂のような種物を入れたのが、店いっぱいに並んでいたり、狭い薄暗い家じゅうが、天井からどこから、自転車のフレームやタイヤで充満していたり、そして、それらの殺風景な家々のあいだにはさまって、細い格...
  • 久生十蘭「呂宋の壷」
         一  慶長のころ、鹿児島揖宿《いぶすき》郡、山川の津に、薩摩藩の御朱印船を預り、南蛮貿易の御用をつとめる大迫吉之丞という海商がいた。 慶長十六年の六月、隠居して惟新といっていた島津義弘の命令で、はるばる呂宋《ルソン》(フィリッピン)まで茶壺を探しに出かけた。そのとき惟新は、なにかと便宜があろうから、吉利支丹になれといった。吉之丞は長崎で洗礼を受けて心にもなき信者になり、呂宋から柬埔塞《カンポジヤ》の町々を七年がかりで探し歩いたが、その結末は面白いというようなものではなく、そのうえ、帰国後、宗門の取調べで、あやうく火焙りになるところだった。寛永十一年に上書した申状には、吉之丞のやるせない憤懣の情があらわれている。  惟新様申され候には、呂宋へ罷越、如何様にしても清香か蓮華王の茶壼を手に入れるべし、呂宋とか申す国は吉利支丹の者どもにて候に付き、この節は吉利支丹に罷成り...
  • 科学への道 part2
    !-- タイトル -- 科学者と理性 !-- --  科学者という者が社会からは別箇孤立の人間であるごとく考える人もあろうが、 彼らはもっとも理性に忠実で好んで自我を表現せんとする人間であるからでもあろ う。人間一般は時代の進歩に伴って、より多く理性生活をなす状態になったが、未 だ前途はほど遠いのである。即ち科学の進歩は絶えず行なわれておりながら、我々 今日の知識として自然現象を充分|闡明《せんめい》し得ることが出来ないからである。なかんず く、生命に関する問題は人生にとってもっとも重大な事件であるにもかかわらず医 学者の未だ触れることすら出来ない現象が暗黒の中に|潜《ひそ》んでいるからともいえるで あろう。即ちこの点で迷信が|跳梁《ちようりよう》することも致し方なき次第である。  世の中には|迷信《めいしん》的な|取《と》り|極《き》めがはなはだ多い。中にも|縁組《えんぐ》み、|...
  • 嵯峨の屋おむろ「くされたまご」
        くされたまご(上) 一輛の鉄道馬車京朧の辺にて止りぬ、見れば狭き昇降口に乗る人下る人入まじりて悶着せり、最少しお詰なされて、と罵るは御者の声。しばしば込合《こみあ》ふ様子なりしが、やう〳〵にして静りしは}同よきほどに居並びしなるべし。最後に入来るは若さ女。黒縮緬のおこそ頭巾に顔は半かく糺て見えねど、色の白さうっくしさ、頭巾の蔭よりさし覗くしめりを帯びし目の清しさ、いづれか見る人の心を惹ざらん。いづこに坐るべきかと躊躇ふ様にて、すツきりとして佇立か姿、朝日口背く女郎花のくねらで立てる風情あり誠に心の銷こそ人の目口止まらずらめ、姿の花の引力の強弓、車上の人の夥多の目はたゞ、この花口集りぬ。彼方の一隅に腰を掛で、たyゝ外の方を見詰ゐたる、十六、七の少年ありしが、それだに傍のけはひに誘はれ覚えずこなたを見かへりし、その顔だちの愛らし、目を見合はせし件の女はつか〳〵と歩み寄り、その傍...
  • 太宰治「津軽」四五(新仮名)
    https //w.atwiki.jp/amizako/pages/629.html (から、つづき) [#5字下げ][#中見出し]四 津軽平野[#中見出し終わり] 「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越《コシ》の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田《アキタ》(今の秋田)渟代《ヌシロ》(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連|石布《イワシキ》、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳《ユキノムラジハカトコ》、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷《ニギエゾ》、次を麁蝦夷《アラエゾ》、遠きを都加留《ツガル》と名くと。其他の蝦夷は、おのずから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の...
  • 水上滝太郎「大人の眼と子供の眼」
     私の子供の頃のことであるが、往来を通る見ず知らずの馬車の上の人や車の上の人におじぎをして、先方がうっかり礼をかえすと、手をうって喜ぶいたずらがあった。日清戦争の頃で、かつ陸海軍の軍人の沢山住んでいた土地柄、勲章をぶらさげて意気揚々として通る将校が多かった。向こうの方から、金モールを光らせて来る姿を見ると、車の前につかつかと進んで、帽子をとったりして得意がるのであった。子供のいたずらと知って、すまして通り過ぎるのもあり、笑って行くのもあるが、中にはおあいそに礼をかえすのも、またうっかり誘われて本気で手をこめかみに上げる人もあった。偉い大人が自分たちの相手になってくれた嬉しさと、偉い大人を相手にさせてやったという力量をほこる心持が、ちゃんぽんに心の中で躍った。たった一人、いくど繰返しても、うかとは手に乗らない苦手があった。その頃は少佐か中佐か、いくらよくても大佐だったろうが、後の海軍大将伯爵...
  • 永井荷風「元八まん」
    元八まん  偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆そうであろう。  わたくしが砂町《すなまち》の南端に残っている元《もと》八幡宮の古祠を枯蘆《かれあし》のなかにたずね当てたのは全く偶然であった。始めからこれを尋ねようと思い立って杖《つえ》を曳《ひ》いたのではない。漫歩の途次、思いかけずそのところに行き当ったので、不意のよろこびと、突然の印象とは思い立って尋ねたよりも遙かに深刻であった。しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫《そうぼう》たる暮烟《ぼえん》につつまれて判然としていなかったのも、印象の深かった所以《ゆえん》であろう。  ある日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の欄《てすり》には豊砂橋《とよすなばし》としてあった。橋向うには広漠たる空地《あきち》がひろがっていて、セメントのまだ生々《なまな...
  • 菊池寛「弁財天の使」
    弁財天の使  江戸初期の寛永年間、人の心が、まだおだやかで素朴であった頃の話である。  本郷四丁目の丁度加賀様の赤門前に住んでいた住吉屋藤兵衛は、この界隈《かいわい》切っての豪商であった。  当主の藤兵衛は、六十を越していたが品《い》のよい好《こうこう》々|爺《や》で、永年加賀様にお出入りをしていた。  加賀からお伴をして来た町人の一人で、名字《みようじ》帯刀までお許しになっていたが、加賀様へお出入りをする時以外、刀など帯びたことがない。もうとっくに隠居すべきなのだが、男の子が二十になったばかりなので、まだ家業を見ていたが、仕事は大抵番頭まかせであった。  藩地と江戸の間の通信金融に当る飛脚問屋であったから、店間口はそんなに大きくはなかったが、店の裏手にある住居は立派で間数も多く、庭は一丁四方もあり、深い水を湛《たた》えた池があつた。  池の汀《みぎわ》に添うて、五ツ戸前の蔵が並んで、...
  • 太宰治「お伽草紙」
    青空文庫の「新字旧仮名」をもとに、新仮名に改めました。 https //www.aozora.gr.jp/cards/000035/card307.html その際、講談社文庫を参照しました。 お伽草紙 太宰治 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)間《ま》 |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)約百万|山《やま》くらい [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 「あ、鳴った。」  と言って、父はペンを置いて立ち上る。警報くらいでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかえて防空壕にはいる。既に、母は二歳の男の子を背負って壕の奥にうずくまっている。 「近いようだね。」 「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」 ...
  • 佐藤春夫「散文精神の発生」
    佐藤春夫? 散文精神の発生  新潮の九月号で広津和郎君が書かれた「散文芸術の位置」といふ文章は多少不備で、散漫で、然も尽くさないところがあったやうに思ふが、それでも   「沢山の芸術の種類の中で、散文芸術は。直ぐ人生の隣りにゐるものである。右隣りには、詩、美術、音楽といふやうに、いろいろの芸術が並んでゐるが、左隣りは直ぐ人生である。」 といふ結論は確かな真実で   「認識不足の美学者などに云はせると、それ故散文芸術は、芸術として最も不純なものであるやうに解釈するが、しかし人生と直ぐ隣り合せたといふところに、散文芸術の一番純粋の特色があるのであって。それは不純でもない、さういふ種類のものであり、それ以外のものでないといふ純粋さを持ってゐるものなのである。」 と看破したのは達見である。まさしく吾々が知らず識らずのうちに陥ってゐる散文芸術を律するに、詩によって立てられた美学を襲...
  • 大下宇陀児「ニッポン遺跡」(抄)
    人間の価値  時間がきていた。  人間について知りたいことはまだたくさんあるが、たっ た一回の会見ではその全部をつくすわけにはいかず、それ にはまた日を改めて会見をくりかえすほうが得策だったし、 他面には人間観覧希望老が引きもきらずやってきていると いう実情があって、あたしだけが人間を、いつまでも独占 していることはできない。  残念ながらあたしは、そのへんで第一回の会見を打切る よりほかなかったが、そのとき思いついて人間に、 「あなたは、まだ十分に自分のおかれている立場を理解し ていらっしゃらないと思うわ。あなたは冷凍されたってお っしゃった。冷凍から六十七万年たっちゃったの。いまの あなたを包む事情が、まるっきり変ってしまっているのだ から・きっとたいへんにお困りね・困ることは・あみ亡に掬 まかしとけばいいの。ずっとこれから、あたしがパトロン になってあげる。どう、いまどんなことをして...
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