網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「森鴎外「随筆六則」」で検索した結果

検索 :
  • 森鴎外「我をして九州の富人たらしめば」
    森鴎外「我をして九州の富人たらしめば」  我をして九州の富人たらしめば、いかなることをか為すべき。こは屡々わが念頭に起りし問題なり。今年わが職事のために此福岡県に来り居ることゝなりしより、人々我に説くに九州の富人多くして、九州の富人の勢力逈に官吏の上に在ることを以てす。既にしてその境に入りその俗を察するに、事として物として聞く所の我を欺かざるを証せざるはなし。こゝに一例を挙げんか。嘗て直方より車を倩《やと》ひて福丸に至らんとせしに、町はづれに客待せる車夫十余人ありて、一人の応ずるものなく、或は既に人に約せりといひ、或は病と称して辞《いな》みたり。われは雨中短靴を穿きて田塍の間を歩むこと二里許なりき。後人に問ひて車夫の坑業家の価を数倍して乗るに狃《な》れて、官吏の程を計りて価を償ふを嫌ふを知りぬ。九州に来るもの、富の抑圧を覚ゆること概ね此類なり。  われは此等の事に遭ふごとに、九州の富人の為...
  • 森鴎外「大発見」
    僕も自然研究者の端榑《はしくれ》として、顕微鏡や試験管をいぢつて、何物をか発見しようとしてゐた事があつた。 併し運命は僕を業室《げふしつ》から引きずり出して、所謂《いはゆる》事務といふものを扱ふ人間にしてしまつた。二三の破格を除く外は、大学出のものに事務の出来るものはないといふ話である。出来ない事をするのも勤なれば是非が無い。そこで発見とか発明とかいふことには頗《すこぶ》る縁遠い身の上となつた。 考へて見れば、発見とか発明とかいふ詞《ことば》を今のやうに用ゐるのは、翻訳から出てゐるのだが、甚だ曖昧《あいまい》ではないかと思ふ。亜米利加《アメリカ》を発見したとか、ラヂウムを発見したとかいふのは、あれはdiscoverである。クリストバン・コロンが出て来なくても、亜米利加の大陸は元から横《よこた》はつてゐたのだ。キユリイ夫婦が骨を折らなくても、ラヂウムは昔から地の底にあつて、熱を起したり、電...
  • 小倉金之助「荷風文学と私」
     私のような自然科学方面の老人が、荷風の文学について語るのは、はなはだ僣越のように思われよう。けれども私は、青春時代における人生の危機を、荷風の小説を力として切りぬけた、とも言えなくないのであって、荷風に負うところ大なるものがあると、衷心から信じている。それで今ここに、主としてその事実について、ありのままに述べて見たいのである。尤もそれは、今から四十年ばかりも前のことで、その当時の私の読み方・味わい方は、恐らく小説の読み方ではなく、文学の味わい方でもなかったであろう。私のような主観的な見方をされては、作家その人にとってはなはだ迷惑なことであるかも知れないが、そういった点についてはーただ昔の思い出ばなしとしてーお許しを願いたいとおもう。  私が荷風文学に親しみだしたのは、明治三十九年のころからであるが、特にそれに熱中したのは明治四十二年から大正元年ごろまで(荷風が満で三+歳から三+三歳のころ...
  • 小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集』後語
     寅彦の随筆を選んで文庫本三冊程度の分量にまとめてくれないかと岩波書店から頼まれたのは、たしか昭和十九年の秋の事だった。私が仙台でその仕事を終え目次を岩波書店に送り届けたのは、翌年の二月だったが、ちょうどその時分から戦局はますます日本に不利となり、東京は絶えざる爆撃にさらされ、印刷所と製本所とは次々破壊されて行ったので、それはなかなか印刷には回されなかった。そのうち終戦という事になった。終戦になっても日本の印刷能力と製本能力とはすぐ復旧するはずもなく、用紙の入手さえ一層困難を加えて来たので、自然選集はそのままにしておかれないわけに行かなかった。文庫本出版の見通しが相当はっきりついて、いよいよ選集の印刷にとりかかるがさしつかえはないかと岩波書店から言って来たのは、その昭和二十年も押し詰まった、十二月のころだったかと思う。しかし私は|躊躇《ちゆうちよ》し出した。  初め私は、そのうち戦争がすん...
  • 河上肇「古今洞随筆」
     今歳正月宿約を果さんがため一文を本誌に寄せし折、それは余りの短文ゆえ他日更に一文を草してその責を補うべしと約束してこのかた、しきりにその約束の履行を催促されているに拘《かかわ》らず、今日に至るもなお之を果す能《あた》わず、已むなくテエブルに向い、さしあたり思いつくままのことを書きつけて、形ばかりの責を塞ぐ。  私が今|倚《よ》りかかっているテエブルは、近頃京大経済学部の学生諸君から贈られたものである。それには「贈恩師河上肇先生、経済学部同好会々員一同」と書きつけてある。私は近頃大学教授の椅子を失ったが、その代りに、学生諸君から斯《か》かるテエブルを贈られたのである。私は悦《よろこ》んでこれを受け、今後私がなお生きていて、何等かのものを書くかぎり、永くこれを使用しようと思っている。私は従来、私宅では坐って執に向い、汰学の研究室では椅子してテエブルに向っていたのだが、大学へ出なくなって毎日...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百九十六
     東大寺|鎮守《ちんじゆ》の八幡の神盥ハが東寺の若宮八幡からお帰りの時、源氏の公卿方はみな若宮へ参られたが、その時この久我内大臣は近衛大将であって随身に先払いさせられたのを、土御門の太政大臣実定公は「神社の前で先払いをするのはいかがなものであろう」と言われた。するとこの大将は「随身たるべきもののいたすべき作法は我ら武家の者がよく存じております」とだけ答えた。さて、後になってから久我殿は「土御門太政大臣は北山抄は見ておられるが、もっとふるい西の宮(西宮左大臣源高明)の説のほうは御存じないと見える。神の巻族たる悪鬼悪神を恐れるから神社の前ではとくに随身に警蹕《けいひつ》の声をかけさせる理由がある」と言われた。
  • 辰野隆「露伴先生の印象」
     数年前の夏の一夜、「日本評論」の座談会に招かれて、僕は初めて幸田露伴先生の謦咳《けいがい》に接したのであった。少年時代から今に至るまで、一世の文豪、碩学《せきがく》、大通として仰望していた達人に親しく見《まみ》え、款語を交わし得た僕の歓びは極りなかった。殊にその夜は、一高以来の谷崎、和辻の両君をはじめ、露伴先生を繞《めぐ》って閑談するのを沁々《しみじみ》悦《よろこ》ぶ人々のつどいでもあったから、且つ飲み且つ語る一座には靄々《あいあい》たる和気が自ら醸し出された。斯《か》くて先生もいつもより酒量をすごされたらしく、座談の果てに、我等の請うがままに、酔余の雲烟《うんえん》を色紙に揮《ふる》われた。僕の頂戴した句は  鯉つりや銀髯そよく春の風  というのであった。句は素《もとよ》り、墨痕もあざやかに露伴と署《しる》された文字から、僕の記憶はいつしか、青年時代に愛誦《あいしよう》した『対髑髏』へ...
  • 伊波普猷「中学時代の思出」
      -この一篇を恩師下国先生に捧くー-  「沖縄を引上げる時、沖縄を第二の故郷だといつた人は可なりあるが、この第二の故郷に帰つて来た人は至つて少ない。」と仲吉朝助氏がいはれたのは事実に近い。よし、帰って来た人があるとしても、恩師下国先生位歓迎された人は少なからう。沖縄を去る可く余儀なくされた時、下国先生が沖縄を第二の故郷といはれたかどうかは覚えてゐないが、先生は数年来の私たちの希望を容れられて、旧臘三十年振りに、この第二の故郷に帰つて来られた。三十年といへば随分長い年月である。この間に私たちの環境は著しく変つた。けれども旧師弟間の精神的関係のみは少しも変らなかつた。先生が思出多き南国で旧門下生に取巻かれて、六十一の春を迎へられたのは、岸本賀昌氏がいはれた通り、社会的意義があるに相違ない。下国良之助の名は兎に角沖縄の教育史を編む人の忘れてはならない名であらう。この際、四年八ケ月の間親しく先...
  • 三好達治「萩原さんという人」
     映画俳優のバスター・キートンというのはひと頃人気のあった喜劇俳優だ。近頃の若い人はもうご存じでないかもしれぬ。額が広く、眼玉がとび出て、長身痩驅《ちようしんそうく》、動作は何だかぎくしゃくしていてとん狂で無器用らしく、いつも孤独な風変りな淋しげな雰囲気を背負っている、一種品のいい人物だった。萩原さんの風つきは、どこかこのキートン君に似通った処があった。それはご本人も承認していられたし、またそれがいくらかお得意の様子で、よくその映画を見物に出かけられた後などそれをまた話題にもされた。先生にはあの俳優のして見せる演技のような、間抜けた節がいつもどこかにあって、妙にそれが子供っぽくて魅力があり、品がよかった。突拍子もない  著想《ちやくそう》は、あの人の随筆や感想の随所にちらばってのぞいている呼びかけだし、あの人の詩の不連続の連続のかげにもたしかに潜んでいる。先生には、著想の奇抜で読者の意表に...
  • 小倉金之助「素人文学談義」
    一 「素人のみた文学の話」というテーマで、自分の長い間の経験をもとにして、何かお話し申しあげましょう。  この間、わたしは病気で休んでおりましたが、その時分に『マノン・レスコオ』という小説を読んで、非常な感銘を受けました。この小説はアベ・プレヴォーという坊さんが、今から二百二十年も前、およそ一七三〇年ごろに著したものです。  みなさんもよくご承知とは思いますが、ざっとその筋をお話し申しますと、フランスのある良家に生れたシュヴァリエ・デ・グリュウという青年がおりました。十七歳のとき哲学の勉強を終って宗教家になろうというので、学問に志していたのですが、ある日、マノンという美しい娘さんに出会って急に情熱が燃え上りました。それからシュヴァリエはひたすら恋人の愛を捉えるために、いろいろ詐欺をやったり、賭博をやったり、殺人をも犯したりして、自分では何度か悔いたり悲しんだりしながら、どこまでもマノソを離...
  • 永井荷風「散柳窓夕栄」
     天保十三壬寅の年の六月も半を過ぎた。いっもならば江戸御府内を湧立ち返らせる山王大権現の御祭礼さえ今年は諸事御倹約の御触によってまるで火の消えたように淋しく済んでしまうと、それなり世間は一入ひっそり盛夏の奏暑に静まり返った或日の暮近くである。『偐紫田舎源氏』の版元通油町の地本問屋鶴犀の主人喜右衛門は先ほどから汐留の河岸通に行燈を掛ならべた唯ある船宿の二階に柳下亭種員と名乗った種彦門下の若い戯作者と二人ぎり、互に顔を見合わせたまま団扇も使わず幾度となく同じような事のみ繰返していた。  「種員さん、もうやがて六ッだろうが先生はどうなされた事だろうの。」  「別に仔細はなかろうとは思いますがそう申せば大分お帰りがお遅いようだ。事によったらお屋敷で御酒でも召上.、てるのでは御ざいますまいか。」  「何さまこれア大きにそうかも知れぬ。先生と遠山様とは堺町あたりではその昔随分御眤懇であったとかい...
  • 神西清「散文の運命」
     一つの幕間《まくあい》が予感される。つよい予感である。それは殆ど現実感を帯びている。ひょっとすると現実以上の必然であるのかも知れない。  ここ半年ほどの文芸雑誌を散読して(今わたしは、あと数日で終戦一周年を迎えようという日に、これを書いているのだが)、その印象を、荒野に呼ばわる人の声がある  などという文句で言いあらわしたら、もとより大袈裟《おおげさ》のきらいがあるだろう。とはいえ、確かにそんな声は響いている。その声はおもに外国文学の畠からひびいてくる。その声はかなり気ぜわしく、わが小説の伝統に訣別《けつべつ》せよと叫んでいる。わびやさびの境地を振り棄てて、トルストイやスタンダールの門に帰向せよと叫んでいる。  その声は誠実と熱意とにみちて、そのため些《いささ》か急《せ》きこみ気味ではあるが、為にする政治意識の汚染などは少しもみとめられない。まさしく新たな文学十字軍が、発航の準備にかかろ...
  • 科学への道 part4
    !-- 十一 -- !-- タイトル -- 科学と芸術 !-- --  科学と芸術とは一見対蹄的位置に立つごとく見えるものであるから、科学者は芸 術を|遊戯《ゆうぎ》のごとくに|蔑《さげす》み、芸術家は科学をあらずも|哉《がな》の|所作《しよさ》と断ずる。しかし、こ れらはいずれも人間性に|立脚《りつきやく》した|崇高《すうこう》の所作であり、真と美に対する人間の創作た ることを信じて疑わず、かっ尊敬するに|躊躇《ちゆうちよ》しないのである。即ち人間性中、美を 対象として|憧《あこが》れる心も、理性的に自然に即さんとする心も、いかなる外力を以てし ても|圧《お》し|潰《つぷ》すことは出来ないのである。これらはいずれも本能に起因される所作で あるからである。  芸術家の養成については、その才能がまず問題となり、全く好きであるという出 発点があって、音楽家となり、画家となり、彫刻家...
  • 永井荷風「雨瀟瀟」
    その年の二百十日はたしか涼しい月夜であった。つづいて二百二十日の厄日もまたそれとは殆ど気もつかぬばかり、いつに変らぬ残暑の西口に蜩の声のみあわただしく夜になった。夜になってからはさすが厄日の申訳らしく降り出す雨の音を聞きつけたもののしかし風は芭蕉も破らず紫苑をも鶏頭をも倒しはしなかったーわたしはその年の日記を繰り開いて見るまでもなく斯く明に記憶しているのは、その夜の雨から時候が打って変ってとても浴衣一枚ではいられぬ肌寒さにわたしはうろたえて襦袢を重ねたのみか、すこし夜も深けかけた頃には袷羽織まで引掛けた事があるからである。彼岸前に羽織を着るなぞとはいかに多病な身にもついぞ覚えたことがないので、立つ秋の俄に肌寒く覚える夕といえば何ともつかずその頃のことを思出すのである。 その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。唯その頃までわたしは数年の間さしては心...
  • 宇野浩二「枯木のある風景」
     紀元節の朝、目をさますと、珍しい大雪がつもっていたので、大阪でこのくらいなら奈良へ行けば五ロぐらいは大丈夫だろうと思いたつと、島木新吉は、そこそこに床をはなれて、なれた写生旅行の仕度にかかった。家を出る時、島木は「四五日旅行する」と書いた浪華《なにわ》洋画研究所あての葉書を妻にわたしながら、「研究所には内証やで、」と云い残した。  浪華洋画研究所というのは、六年前、島木が、その頃、もっとも親しくしていた古泉《こいずみ》圭造と相談して創設したもので、二人だけでは手がたりないので、彼等の共通な友だちで、おなじ土地(大阪市内外)に在住する八田《やた》弥作と入井市造とを講師にたのみ、以来今日までつづいている大阪唯一の新画派の洋画研究所である。新画派というのは、この四人の画家が、この研究所が創設される前の年、同時に新興協会(反官学派画家の団体)の会員に推選されたという由来があるからである。  奈良...
  • 太宰治「津軽」一二三(新仮名)
    青空文庫の「新字旧仮名」のものをもとに、新仮名にしようとしています。 https //www.aozora.gr.jp/cards/000035/card2282.html 津軽 太宰治 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)業《わざ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)白髪|逓《たがい》 [#ページの左右中央] [#ここから8字下げ] 津軽の雪  こな雪  つぶ雪  わた雪  みず雪  かた雪  ざらめ雪  こおり雪   (東奥年鑑より) [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#大見出し]序編[#大見出し終わり]  或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に...
  • 太宰治「津軽」四五(新仮名)
    https //w.atwiki.jp/amizako/pages/629.html (から、つづき) [#5字下げ][#中見出し]四 津軽平野[#中見出し終わり] 「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越《コシ》の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田《アキタ》(今の秋田)渟代《ヌシロ》(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連|石布《イワシキ》、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳《ユキノムラジハカトコ》、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷《ニギエゾ》、次を麁蝦夷《アラエゾ》、遠きを都加留《ツガル》と名くと。其他の蝦夷は、おのずから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の...
  • 太宰治「お伽草紙」
    青空文庫の「新字旧仮名」をもとに、新仮名に改めました。 https //www.aozora.gr.jp/cards/000035/card307.html その際、講談社文庫を参照しました。 お伽草紙 太宰治 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)間《ま》 |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)約百万|山《やま》くらい [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 「あ、鳴った。」  と言って、父はペンを置いて立ち上る。警報くらいでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかえて防空壕にはいる。既に、母は二歳の男の子を背負って壕の奥にうずくまっている。 「近いようだね。」 「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」 ...
  • @wiki全体から「森鴎外「随筆六則」」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

記事メニュー
目安箱バナー