網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「緒方竹虎『人間中野正剛』「東条政府の一敵国──検挙から自刃まで──」」で検索した結果

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  • 緒方竹虎『人間中野正剛』「中野正剛の回想」
    ~三田村武夫中野正剛の回想   中野の碑文   現状打破の牢騒心   東洋的熱血児   竹馬の友   悍馬御し難し   打倒東条の決意   自刃・凄愴の気、面を撲つ  中野の碑文 「おれが死んだら、貴様アおれの碑文を書いてくれ、その代り、貴様が先に死んだらおれが書くから」中野君はよく冗談にこういうことを話していた。それで、昭和十八年十月、中野君が自刃した時、一応のショックがおさまると同時に、何よりも先に私の頭に浮んだことは、この旧約に基く中野君の碑文のことであった。二人が生きていて冗談を言い合っている時には、必ずしも真面目に碑文を書くつもりでもなかった。中野君も同様であったろうと思う。しかし目の当り中野君の死、しかも非命の死にぶっつかってみると、多少とも中野君が当てにしていたであろう碑文を書くことが、自分の責任のように思われ出した。  当時は戦局がだんだんに悪くなるとともに、世相はなはだ険...
  • 佐藤春夫「散文精神の発生」
    佐藤春夫? 散文精神の発生  新潮の九月号で広津和郎君が書かれた「散文芸術の位置」といふ文章は多少不備で、散漫で、然も尽くさないところがあったやうに思ふが、それでも   「沢山の芸術の種類の中で、散文芸術は。直ぐ人生の隣りにゐるものである。右隣りには、詩、美術、音楽といふやうに、いろいろの芸術が並んでゐるが、左隣りは直ぐ人生である。」 といふ結論は確かな真実で   「認識不足の美学者などに云はせると、それ故散文芸術は、芸術として最も不純なものであるやうに解釈するが、しかし人生と直ぐ隣り合せたといふところに、散文芸術の一番純粋の特色があるのであって。それは不純でもない、さういふ種類のものであり、それ以外のものでないといふ純粋さを持ってゐるものなのである。」 と看破したのは達見である。まさしく吾々が知らず識らずのうちに陥ってゐる散文芸術を律するに、詩によって立てられた美学を襲...
  • 佐佐木茂索「曠日」
         一       つ          したた  兄は礼助の注いで出した茶の最後の滴りを、紫色した くちひる   ちゃわん   なが 唇で切ると、茶碗を逆に取って眺めながら、     ほたるで          や 「今どき螢出のこんな茶碗なんか使うの止めや。物欲し                     えたい そうであかんわ。筋の通ったのがないのなら、得体の知               かしらは れんものでも使うたがええ。茶を頭葉つかうのなら、そ れ相応につろくせんとあかんでな」こう言ってちょっと      とつこつ 黙ったが、突兀として、        ひと 「ーお前まだ独りか?」と問うた。  礼助は苦笑とともに答えた。 「驚いたな。  いくら僕だって、結婚でもすれば兄さ んに知らせますよ」  すると兄は、あははと大きく笑ってから、              ほこり 「そら...
  • 火野葦平「岩下俊作「無法松の一生」解説」
     最近、東寶のカラー・シネスコの大作「無法松の一生」が封切られる。私は、まだ見ていないが、前に、同じ稻垣浩監督、阪東妻三郎主演の映畫を見て感動したことがあり、今度の三船敏郎主演映畫はさらにすばらしいであろうと期待している。なぜなら、前のは戰爭中であつたため、主人公松五郎が、吉岡大尉の未亡人に對するひそやかな戀心──つまり、この作品では、もつとも大切な部分が、檢閲のきびしさのためボカされていたからである。逆にいえば、どんなに松五郎から惚れられていても、帝國軍人たる者の妻が、亡夫以外の男に、心を動かすことなど絶對にあり得ないという、非人間的、封建的道徳觀が強制的に押しつけられていたため、藝術からさえも遠ざけられる危險を持つていたといえよう。今は、その大切なテーマが自由に表現できるわけだから、前のよりは完璧であるにちがいないと思う。最近は、また、「無法松の一生」はラジオで連續放送され、浪花節にも...
  • 大下宇陀児「老婆三態」
    その一 老婆と水道  「おばあちゃん、おばあちゃんてば!」  ぐいぐいと肩を揺すられて、村井家の老婆はふっと眼を覚ました。七十五になる中風のお 婆さん、膝の上に本を開いて眼鏡を掛けたまま居眠っていた。  「おばあちゃん、あたちにめがねかちて」  孫娘の君ちゃんは、祖母の肩に両手を置いて言った。 「どうします、眼鏡などを──」 「あたちね、おはりしごとするの。いとがはりにとおらないのよう」 「ホ、ホ、ホ、ホ──」  老婆は笑まし気な声を立てた。右半身が中風でよくいうことを利かない。辛うじて歩けるが 使うのには左手が便利だ。左手を不器用に動かして眼鏡を外した。  「あらおばあちゃん、このめがねこわれてる?」  「どうしてなの」  「あたち、おめがいたいの。みえないわ」  鼻のとっ端へ老眼鏡をかけて、一生懸命糸を針のめどに通そうとする孫娘に、老婆はも一度 声を立てて笑った。 「ホ、ホ、ホ、ホ─...
  • 大曲駒村『東京灰燼記』「書物の行衛」
    十五 図書の行衛  東京の書肆と云ふ書肆は、悉く焼失して終った。山の手方面に一部の災禍を免れたものもないではないが、先づ九分強は皆灰燼に帰した。博文館、丸善、三省堂、冨山房、金港堂、春陽堂、有朋堂、大鐙閣、大倉書店、岩波書店、植竹書院、吉川弘文館、前川文栄閣、越山堂、教文館、アルス社、啓成社、わんや、玄文社等、兔に角一流どころの老舗或は新興の書肆は全く全焼して、其跡を訪ふと余焔の中に貴重なる書籍の俤を止めてゐる。  古書籍商も、浅草の浅倉書店、九段下から真っ直ぐに下りて来た村口書店をはじめ、神田の一誠堂、村越書店、下谷の源泉堂、本郷の南陽堂等、悉く全滅した。あの神保町の電車通りで、軒を並べた古書籍店が、凡そ幾戸あったか数へ難いほどであったが、珍籍奇書と共に悉く烏有に帰した。  図書館もその通りである。上野図書館、日比谷図書館、早稲田大学図書館等は皆無事で、遂に劫火を免れたが、明治大学...
  • 服部之総「新撰組」
    新撰組 一 清河八郎 夫れ非常之変に処する者は、必ずや非常之士を用ふ──  清河八郎得意の漢文で、文久二年の冬、こうした建白書を幕府政治総裁松平春嶽に奉ったところから、新撰組の歴史は淵源するのだが、この建白にいう「非常之変」には、もちろん外交上の意味ばかりでなく、内政上の意味も含まれていた。さて幕末「非常時」の主役者は、映画で相場が決まっているように「浪士」と呼ばれたが、その社会的素姓は何であろうか。  文久二年春の寺田屋騒動、夏の幕政改革を経て秋の再勅使東下、その結果将軍家は攘夷期限奉答のため上洛することとなり、その京都ではすでに「浪士」派の「学習院党」が隠然政界を牛耳っている。時をえた浪士の「非常手段」は、このとし師走以来の暦をくってみるだけでも、品川御殿山イギリス公使館焼打ち、廃帝故事を調査したといわれた塙次郎の暗殺、京都ではもひとつあくどくなって、 「天誅」の犠牲の首や耳や手やを書...
  • 佐藤春夫「「都会の憂鬱」の巻尾にしるす文」
    佐藤春夫? 「都会の憂鬱」?の巻尾にしるす文 「都会の憂鬱」は大正十一年一月から同年十二月まで雑誌「婦人公論」に連載されたものである。単に一人の男の平板なただ困憊し切っただけの生活を現はして見よう──描くのでもない、写すのでもない、歌ふのでもない、現はして見ようとしたのである──と思ってから五年目に筆をとった。──といふと、それほど永い間の腹案で、従ってよほどの大作などと早呑込みは困る。ゆっくりとさきをお読み下さい。──五年前の腹案は、白状するが筆をとって見ると殆んど役に立たなかった。何となれば私だってたとひさまざまの不安定のうちに育っても五年立てば五つになってゐたからである。さうして私はその腹案を打壊すことに苦しみながらいつも手さぐりで書いたのである。やけに書いたのである。大へんつまらない作だと思ったり──謙遜などといふ口クでもないものでこんな事を言ふのぢやない──、必ずしもさ...
  • 大下宇陀児「ニッポン遺跡」(抄)
    人間の価値  時間がきていた。  人間について知りたいことはまだたくさんあるが、たっ た一回の会見ではその全部をつくすわけにはいかず、それ にはまた日を改めて会見をくりかえすほうが得策だったし、 他面には人間観覧希望老が引きもきらずやってきていると いう実情があって、あたしだけが人間を、いつまでも独占 していることはできない。  残念ながらあたしは、そのへんで第一回の会見を打切る よりほかなかったが、そのとき思いついて人間に、 「あなたは、まだ十分に自分のおかれている立場を理解し ていらっしゃらないと思うわ。あなたは冷凍されたってお っしゃった。冷凍から六十七万年たっちゃったの。いまの あなたを包む事情が、まるっきり変ってしまっているのだ から・きっとたいへんにお困りね・困ることは・あみ亡に掬 まかしとけばいいの。ずっとこれから、あたしがパトロン になってあげる。どう、いまどんなことをして...
  • 三好達治「朔太郎詩の一面」
      山に登る    旅よりある女に贈る  山の頂上にきれいな草むらがある、  その上でわたしたちは寝ころんでゐた。  眼をあげてとほい麓の方を眺めると、  いちめんにひろびうとした海の景色のやうにおもはれた。  空には風がながれてゐる、  おれは小石をひろつて口にあてながら、  どこといふあてもなしに、  ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。  おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。           『月に吠える」 「山に登る」は右のような主題のはっきりとした作品であるが、この作品の主格は最初の第二行目に於て「わたしたちは……」と複数であったのが、いつのほどにか「おれは小石をひろつて」と変化し、最後の一行でもまた「おれはいまでも……」という具合になっている。最初の「わたしたちは」草の上に寝ころんでいたのであるが、「おれ」の方はしぜんにその位置を離れて、「小石をひろつて口に...
  • 徳永直「欲しくない指輪」
         一 「あがりーいッ」  お桂《けい》ちゃんは、ハズンだ声でどなりました。 「ホイ、きた、お次ぎ……」  運搬屋《うんぱんや》の爺《じい》さんが、つぎの口絵のたぱを、ドンと仕事台の上に乗せてから赤い紙を一枚おいて云《い》いました──合わせて三丁── 「あいよ」  お桂ちゃんは、束にくくったヒモをハサミで切ると、パラパラと、口絵を順々に、仕事台に並べました。キレイな油絵や、美しい洋装の令嬢の写真や、めずらしい動物の画《え》や、赤、緑、セピヤ、紫、とりどりの色が、八通り束にして、ズンと仕事台へひろがりました。  チャッ、チャッ、チャッ……。  お桂ちゃんは、肩と頭とで、調子をとりながら、器用に一枚ずつ、八通り拾いあげて、ポンとつきそろえると、片っ方に積みかさねて、また一枚ずつ、チャッ、チャッ、チャッ──  お桂《けい》ちゃんのしている仕事は、「帳合《ちようあ》い」といって雑誌の口絵...
  • 江戸川乱歩「人間椅子」
     佳子《よしこ》は、毎朝、夫の登庁を見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館のほうの、夫と共用の書斎へ、とじこもるのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせるための、長い創作にとりかかっているのだった。  美しい閨秀作家《けいしゆうさつか》としての彼女は、このごろでは、外務省書記官である夫君《ふくん》の影を薄く思わせるほども、有名になっていた。彼女のところへは、毎日のように未知の崇拝者たちからの手紙が、幾通となくやって来た。  けさとても、彼女は書斎の机の前にすわると、仕事にとりかかる前に、まず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。  それはいずれも、きまりきったように、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女のやさしい心づかいから、どのような手紙であろうとも、自分にあてられたものは、ともか...
  • 小杉未醒「西遊記 一 孫悟空生る」
    昔、傲来国と云う国があった、その国の海岸に花果山と云う山があった、その山の上で石が石の卵を産んだ、石の高さは三十六尺。 その石の卵が割れて、石の猴が飛び出した。石の猴に血が通いだして、独でに駈け廻り、自ら天地四方を拝して喜びの声を揚げた。両眼の金色の光り、直ちに雲霄を射て、天上の玉皇上帝を驚かした。 玉皇とは、世界の善悪を判っ天上の政府の主宰者だそうだ。その上帝が千里眼将軍順風耳将軍に命じてこの怪光を査べしめる。二人の復命には、 「成程不思議の石猴ではありますが、矢張り普通の獣の如き飲食を為しまするから、程なく光りも熄むで御座ろう」とあった。 石猴が生れてから、幾年経ったか分らぬ、何時の間にか他の凡猿共と相馴れて遊んでいた。ある日谷川の源の瀑布の前で、猿共が斯う云った、 「この滝壺を見とどけて来る者があるか、あったら我等の王にしよう」すると忽ち、 「己が行こう」と、叫んで石猴が飛び込んだ。...
  • 佐藤春夫「改作田園の憂鬱の後に」
    改作田園の憂鬱の後に 「田園の憂鬱」?の作者自身が、それの改作を凡そ了つた晩に、それの終に、自分と讀者との爲めに書く。 本書冒頭以下の五章は、今からちやうど三年前の五月の作で、同じ六月、雜誌「黒潮」に『病める薔薇』の題で掲載された。この部分は同年十二月に全く改作した。 別に同年九月の作である『續病める薔薇』約五十枚がある。それは兼ねての約束であつたにもかかはらず、雜誌「黒潮」の編輯者かち、それの採録を拒絶された。その原稿を自分は遣棄してしまつた。それ故本書のなかにはそれは收められて居ない。それは勿論、惜しむに足るほどの値はない。第六節以下、即ち本書の大部分は、去年の二月三月の作である。それには發表されなかつた原稿『續病める董微』に書かれた同一の材も雜つて居る。併し、全部改めて書かれたものである。同じ去年九月、雜誌「中外」に『田園の憂鬱』として掲載されたものがそれである。その不充...
  • 楠田匡介「脱獄を了えて」
    第四十八号監房 「よし! これで脱獄の理由がついたぞ1」  六年刑の川野正三は、こう心の中で呟いていた。正三の 前には、一本の手紙があった。  内縁の妻から来たもので、それには下手な字で、こまご まと、正三と別れなければならない理由が書かれていた。  今度の入獄以来、正三には、こうなる事は判っていたの である。  終戦後、これで三回目の刑務所入りである。罪名は詐 欺、文書偽造。  三回目の今度と云う今度は、妻の領子もさすがに、愛想 をつかしていた。 「畜生!」  正三は声を出して云った。 「どうしたい?」  同じ監房の諸田が、雑誌から顔をあげて訊いた。 「うんー」 「細君《ばした》からの手紙だろう?」 林が訊いた。 「うん」 「そうか……」  諸田が判ったように頷いた。  その川野の前にある手紙の女名前から、別れ話である事 に、察しがついたからである。十二年囚の諸田にも、その 経験があっ...
  • 谷崎潤一郎「「門」を評す」
    谷崎潤一郎? 「門」?を評す 明治四十三年九月「新思潮」第一號 僕は漱石先生を以て、當代にズバ拔けたる頭腦と技倆とを持つた作家だと思つて居る。多くの缺點と、多くの批難とを有しつゝ猶先生は、其の大たるに於いて容易に他の企及す可からざる作家だと信じて居る。紅葉なく一葉なく二葉亭なき今日に於いて、僕は誰に遠慮もなく先生を文壇の第一人と認めて居る。然も從來先生の評到は、其の實力と相件はざる恨があつた。それだけ僕は、先生に就いて多くの云ひたい事論じたい事を持って居る。「門」を評するに方りて、先づこれだけの斷り書きをして置かないと、安心して筆を執ることが出來ない。 「それから」は代助と三千代とが姦通する小説であつた。「門」は姦通して夫婦となつた宗助とお米との小説である。此の二篇はいろいろの點から見て、切り放して讀む事の出來ない理由を持つて居る。勿論先生は其の後の代助三千代を書く積で...
  • 宇野浩二「枯木のある風景」
     紀元節の朝、目をさますと、珍しい大雪がつもっていたので、大阪でこのくらいなら奈良へ行けば五ロぐらいは大丈夫だろうと思いたつと、島木新吉は、そこそこに床をはなれて、なれた写生旅行の仕度にかかった。家を出る時、島木は「四五日旅行する」と書いた浪華《なにわ》洋画研究所あての葉書を妻にわたしながら、「研究所には内証やで、」と云い残した。  浪華洋画研究所というのは、六年前、島木が、その頃、もっとも親しくしていた古泉《こいずみ》圭造と相談して創設したもので、二人だけでは手がたりないので、彼等の共通な友だちで、おなじ土地(大阪市内外)に在住する八田《やた》弥作と入井市造とを講師にたのみ、以来今日までつづいている大阪唯一の新画派の洋画研究所である。新画派というのは、この四人の画家が、この研究所が創設される前の年、同時に新興協会(反官学派画家の団体)の会員に推選されたという由来があるからである。  奈良...
  • 小倉金之助「素人文学談義」
    一 「素人のみた文学の話」というテーマで、自分の長い間の経験をもとにして、何かお話し申しあげましょう。  この間、わたしは病気で休んでおりましたが、その時分に『マノン・レスコオ』という小説を読んで、非常な感銘を受けました。この小説はアベ・プレヴォーという坊さんが、今から二百二十年も前、およそ一七三〇年ごろに著したものです。  みなさんもよくご承知とは思いますが、ざっとその筋をお話し申しますと、フランスのある良家に生れたシュヴァリエ・デ・グリュウという青年がおりました。十七歳のとき哲学の勉強を終って宗教家になろうというので、学問に志していたのですが、ある日、マノンという美しい娘さんに出会って急に情熱が燃え上りました。それからシュヴァリエはひたすら恋人の愛を捉えるために、いろいろ詐欺をやったり、賭博をやったり、殺人をも犯したりして、自分では何度か悔いたり悲しんだりしながら、どこまでもマノソを離...
  • 神西清「散文の運命」
     一つの幕間《まくあい》が予感される。つよい予感である。それは殆ど現実感を帯びている。ひょっとすると現実以上の必然であるのかも知れない。  ここ半年ほどの文芸雑誌を散読して(今わたしは、あと数日で終戦一周年を迎えようという日に、これを書いているのだが)、その印象を、荒野に呼ばわる人の声がある  などという文句で言いあらわしたら、もとより大袈裟《おおげさ》のきらいがあるだろう。とはいえ、確かにそんな声は響いている。その声はおもに外国文学の畠からひびいてくる。その声はかなり気ぜわしく、わが小説の伝統に訣別《けつべつ》せよと叫んでいる。わびやさびの境地を振り棄てて、トルストイやスタンダールの門に帰向せよと叫んでいる。  その声は誠実と熱意とにみちて、そのため些《いささ》か急《せ》きこみ気味ではあるが、為にする政治意識の汚染などは少しもみとめられない。まさしく新たな文学十字軍が、発航の準備にかかろ...
  • 江戸川乱歩「一枚の切符」
    上  「いや、ぼくは多少は知っているさ。あれはまず、近来の珍事だったからな。世間はあのうわさで持ち切っているが、たぶん、きみほどくわしくはないんだ。話してくれないか」  ひとりの青年紳士が、こういって、赤い血のしたたる肉の切れをロへ持って行った。 「じゃ、ひとつ話すかな。オイ、ボーイさん、ビールのお代わりだ」  みなりの端正なのにそぐわず、髪の毛をばかにモジャモジャと伸ばした相手の青年は、次のように語りだした。  「時はー大正i年十月十日午前四時、所はi町の町はずれ、富田博士邸裏の鉄道線路、これが舞台面だ。晩秋のまだ薄暗い曉の静寂を破って、上り第○号列車が驀進《ぼくしん》して来たと思いたまえ。すると、どうしたわけか、突然けたたましい警笛が鳴ったかと思うと、非常制動機の力で、列車はだしぬけに止められたが、少しの違いで車が止まる前に、ひとりの婦人がひき殺されてしまったんだ。ぼくはその...
  • 江戸川乱歩「双生児」
    (ある死刑囚が教誨師にうちあけた話)  先生、きょうこそはお話しすることに決心しました。わたしの死刑の日もだんだん近づいてきます。はやく心にあることをしゃぺってしまって、せめて死ぬまでの数日を安らかに送りたいと思います。どうか、御迷惑でしょうけれど、しばらくこの哀れな死刑囚のために、時間をおさきください。  先生も御承知のように、わたしはひとりの男を殺して、その男の金庫から三万円(註、今の千万円に近い)の金を盗んだかどによって死刑の宣告を受けたのです。だれもそれ以上にわたしを疑うものはありません。わたしは死刑とぎまってしまった今さら、もう一つのもっと重大な犯罪について、わざわざ白状する必要は少しもないのです.たと診、れが、知られているものよりもいく層位重い大罪であったところで、極刑《ごくけい》を宣告せられているわたしに、それ以上の刑罰の方法があるわけもないのですから。  いや、必要...
  • 江戸川乱歩「D坂の殺人事件」
    事実  それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。わたしは、D坂の大通りの中ほどにある、白梅軒という、行きつけのカフェーで、冷やしコーヒーをすすっていた。当時わたしは、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿屋にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽きると、あてどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬカフェー回りをやるくらいが、毎日の日課だった。この白梅軒というのは、下宿屋から近くもあり、どこへ散歩するにも必ずその前を通るような位置にあったので、したがって、いちばんよく出入りするわけであったが、わたしという男は悪い癖で、カフェーにはいると、どうも長っちりになる。それは、元来食欲の少ないほうなので、一つは嚢中《のうちゆう》の乏しいせいもあってだが、洋食一サラ注文するでなく、安いコーヒーを二杯も三杯もおかわりして、一時間も二時間もじっとしているのだ。そうかといって、別段...
  • 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」
    1  たぶんそれは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田《こうた》三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやってみても、いっこうこの世がおもしろくないのでした。  学校を出てからーその学校とても、一年に何日と勘定のできるほどしか出席しなかったのですがーかれにできそうな職業は、片ッ端からやってみたのです。けれど、これこそ一生をささげるに足りると思うようなものには、まだ一つもでくわさないのです。おそらく、かれを満足させる職業などは、この世に存在しないのかもしれません。長くて一年、短いのは一月ぐらい、かれは職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を捜すでもなく、文字どおり何もしないで、おもしろくもないその日その日を送っているのでした。  遊びのほうもそのとおりでした。かるた、玉突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棋、さては各種のとばくにいたるま...
  • 佐藤春夫「家常茶飯」
     朝田が或日訪ねて来た。  書斎へ通すとイキナリ「(理想的マッチ)を君は持っていないか」と言う。 「何、(理想的マッチ)て何だい」と、僕は聞いた。 「お伽話《とぎぱなし》なんだが、僕は其のテキストを無くして弱っているんだ。  年越しの金を工面する為に受け合った例の拙速な翻訳仕事の一つなんだが、本屋が出版を馬鹿に急いでいるのでね。外国に注文して取り寄せるにしても、時日がもう間に合わないのだ。  クリスマスの贈答用をアテコミなんだからね。  君のところには色んな本が沢山あるから、ヒョットしたら持っていないかと思って来たんだが、珍らしい本でもないのにあまり見かけない  アッサージの初期の作なんだ」 「うん、聞いた事は有る様にもあるが、あいにく僕は持っていないよ。何《ど》うして又無くしたんだい」 「それがね、翻訳はもう出来上っているんだ。原稿は印刷所に廻してあるんだがね。  只大人に読ませるんなら...
  • 科学への道 part7
     しかしながら、一人の天才、一人の賢者によって、自然研究の大方針は樹てられ、 方向づけられることは古来の科学発展経過の我々に教えるところである。我々は万 骨の枯るるを|惜《おし》みながらも、一将功なる輝きをなお仰ぎ望むものである。  自然研究の大道が指示されて、その道に従って努力すれば、科学の発達が出来上 ると考えるものは|愚者《ぐしや》の意見である。自然研究に、いかなる事物が飛び出すかは誰 人も|臆測《おくそく》することは出来ない、ただ天才が出でてその方向を明示するのである。天 才は常人の考え得る以外の範囲を|思索《しさく》するのであ奄この思索の力は、幾人かかっ ても|比敵《ひてき》することは出来ない、全く一人一人の力の競争である。|毛利元就《もうりもとなり》が|臨終《りんじゆう》の 床に子息を呼んで与えた|教訓《きようくん》はこの場合、決してあてはめることは出来ないのであ る。天才は何...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百四十一
     瓣田院の鑑懲卦人は俗姓は三浦の某とかいって、もとはこの上なしの武者であった。故郷の人が来て話をして、東国の人は言ったことが当てになる、都の人は口先ばかりがよくて実意がないと言ったのに、上人は、「それはそう感じられるかも知れないが、自分は都に久しく居住して馴れてみると、この土地の人の心が必ずしも劣っているとも思われない。いったいに心が柔和で情があるから、人の言うことをはっきりと断わりかねて、何かとはっきり言い切ることができないので、気が弱くて引き受けてしまうのである。偽《いつわり》をいうつもりはないのだが、貧乏で不如意な人が多いから自然と不本意なことも生ずるのであろう。東国の人は、自分の生国ではあるが、じつを言うと心は単純で、人情も粗野に、正直一方なだけにはじめからきっぱり謝絶もする。生活にはゆとりがあるから、人に信頼される結果になる」と理解せられたとのことであった。この上人は言葉には訛り...
  • 江戸川乱歩「恐ろしき錯誤」
    「勝ったぞ、勝ったぞ、勝ったぞ……」  北川氏の頭の中には、勝ったという意識だけが、風車のように旋転していた。ほかのことは何も思わなかった。  かれは今、どこを歩いているのやら、どこへ行こうとしているのやら、まるで知らなかった。だいいち、歩いているという、そのことすらも意識しなかった。  往来の人たちは妙な顔をして、かれのへんてこな歩きぶりをながめた。酔っぱらいにしては顔色が尋常だった。病気にしては元気があった。  ちょうどあの気違いじみた文句を思い出させるような、一種異様の歩きぶりだった。北川氏は決して現実の毒グモにかまれたわけではなかった。しかし、毒グモにもまして恐ろしい執念のとりことなっていた。-  かれは今全身をもって復讐《ふくしゆう》の快感に酔っているのだった。 「勝った、勝った、勝った……」  一種の快いリズムをもって、毒々しい勝利のささやきが、いつまでも、いつま...
  • 江戸川乱歩「疑惑」
       その翌日 「おとうさんが、なくなられたと、いうじゃないか」 「ウン」 「やっぱり、ほんとうなんだね。だが、きみは、けさの○○新聞の記事を読んだかい。いったい、あれは、事実なのかい」 「……」 「おい、しっかりしろよ。心配して聞いているのだ。なんとかいえよ」 「ウン、ありがとう。- 別にいうことはないんだよ。あの新聞記事が正しいのだ。きのうの朝、目をさましたら、うちの庭で、おやじが頭をわられて倒れていたのだ。それだけのことなんだ」 「それで、きのう、学校へ来なかったのだね。……そして、犯人はつかまったのかい」 「ウン、…嫌疑者《けんぎしや》は二、三人あげられたようだ。しかし、まだ、どれがほんとうの犯人だかわからない」 「おとうさんは、そんな、恨みを受けるようなことをしていたのかい。新聞には遺恨の殺人らしいと出ていたが」 「それは、していたかもしれない」 「商売...
  • 尾崎士郎「桑名の宿」
         一  幕府の軍艦、「咸臨丸《かんりんまる》」が品川湾を出航してサンフランシスコに向ったのは、万延元年二月十八日の朝である。艦長は時の海軍奉行木村摂津守ハ指揮官は勝麟太郎(安房)で、九十六名の幕臣が、随従員として乗込んでいた。名目は井伊大老の命を奉じた幕府の遣米使節、新見豊前守を迎えるためにアメリカ本国から特派されたポータハン号の護衛ということになっているが、実情をいえば咸臨丸はイギリスから、ほとんど廃船にちかい老朽船を高く売りつけられたという代ものである。それも沿海航路ならば千石船のあいだに伍して堂々たる威容を示すということになるとしても、百馬……力の補助蒸気機関附きの小帆船を日本人だけで操縦して太平洋横断をするなぞということは開闢《かいびやく》以来の大壮挙というべきものであろう。もちろん誰ひとり自信はなかった。  幕府の内部にも硬軟両意見が対立して、独立国である日本が使節を派...
  • 谷崎潤一郎「詩と文字と」
    谷崎潤一郎 詩と文字と 大正六年四月號「中央文學」 詩人が、幽玄なる空想を彩《いろど》らんが爲めに、美しき文字を搜し求むるは、恰も美女が妖冶《えうや》なる肢體を飾らんが爲めに、珍しき寶玉を肌に附けんと欲するが如し。詩人に取りて、文字はまことに寶玉なり。寶玉に光あるが如く、文字にも亦光あり、色あり、匂あり。金剛石の燦爛《さんらん》たる、土耳古石《とるこいし》の艶麗なる、アレキサンドリアの不思議なる、ルビーの愛らしき、アクアマリンの清々しき、──此れを文字の内に索めて獲ざることなし。故に世人が、地に埋れたる寶石を發掘して喜ぶが如く、詩人は人に知られざる文字を見出して驚喜せんとす。 人あり、予が作物の交章を難じて曰く、新時代の日本語として許容し難き漢文の熟語を頻々と挿入するは目障りなりと。予も此の批難には一應同意せざるを得ず。されど若し、文字の職能をして或る一定の思想を代表し、縷述...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(1)
    青い石 一  その石は、公園にあるベンチほどの大きさがあり、形も ベンチに似ていて、人が二人ならんで腰かけられるほどの ものだった。  庭石としては、わりに上等とされる伊予の青石だったか ら、昔でもかなり多額な金を出して、この庭のうちに引か せたものだったのだろう。庭の広さや、所々にのこってい る基礎工事のコンクリートの配置などで、戦災前はこの家            せつちゅうしき が、かなりりっぱな和洋折衷式の屋敷であったということ が、うなずかれる。石はその屋敷の焼け跡の、半分は附近 の人の手でたがやされた家庭菜園になっている庭のうち の、枯れて黒くなった桜の木のそばに、どつしりすえてあ った。  表面には、ほこりをかぶっているし、陽が射して乾いて いる時は、見向く気もしないほど白茶けた汚い石に見える けれど、雨がふって濡れて、ほこりが洗い流されたと...
  • 江戸川乱歩「盗難」
     おもしろい話があるのですよ。わたしの実験談ですがね。こいつをなんとかしたら、あなたの探偵小説の材料にならないもんでもありませんよ。聞きますか。エ、ぜひ話せって。それじゃ、いたって話しべたでお聞きづらいでしょうが、ひとつお話しましょうかね。  決して作り話じゃないのですよ。と、お断わりするわけは、この話はこれまで、たびたび人に話して聞かせたことがあるのですが、そいつが、あんまり作ったようにおもしろくできているもんだから、そりゃあ、おまえ、なんかの小説本から仕込んできた種じゃないか、なんて、たいていの人がほんとうにしないくらいなんです。しかし、正真正銘いつわりなしの事実談ですよ。  今じゃこんなやくざな仕事をしていますが、三年前までは、これでもわたしは宗教に関係していた男です。なんていいますと、ちょっとりっぱに聞こえますがね。実は、くだらないんですよ。あんまり自慢になるような宗教でもない...
  • 仲原善忠「私たちの小学時代」
    一  「日清だんぱん破裂して」とか「けむりも見えず雲もなく」とか、そんなふうな軍歌がさかんにうたわれていた明治三十年代が私たちの小学時代です。  「小学時代の思い出」というのが編集者の課題だが、一平凡人の私的な思い出よりも、私の記憶に残る当時の教育風情というようなことに焦点をむけるようにしよう。  とはいうものの、往事は茫々として夢の如し、自分の記憶にあざやかな印象として残っているものは、すべて子供らしい、また自分中心のことでしかなかったことも、読者よ、許したまえと、お断りしておく。  生れた家は久米島の真謝石垣の屋号でよばれていた。兄が二人、下には数人の弟妹が次々と生れつつあった。小学校は生れ村にあった。私は多分四つぐらいから学校に通ったらしい。一年で二回らくだいし、三度目にやっと二年に進級した。今度は大丈夫だろうと母もいっていたが、またらくだいで、泣きさけびながら家に帰って来た。つま...
  • 吉川英治・佐藤春夫対談「「太平記」縦横談」
    佐藤 吉川君、実は僕は中学三年ぐらいの時に中学生らしい読み方で読んだきりその後読まないから、とても君のおつきあいできないので、今日は君に主役になってもらって、僕がワキをつとめたいんだから、そのつもりでよろしく。 吉川 主役になれるかどうかわかりませんが、雑淡しましょう。 佐藤 僕は吉川君が、「平家」のあとに「太平記」を書いておられるが、それを「平家」に続いて書く気になった気持を聞きたいと思っている。僕はかってに憶測して、「平家」は平家琵琶があり、「太平記」には太平記読みがあって、国民にもっとも親しまれた国民文学というようなものだから、二つを同じような意向でつづけて雷く気になったのかなあと解釈しているんだけれど、それでまちがえありませんか。 吉川 だいたいそうです、「新・平家」が終わりましたものの、もっと実朝を、それから鎌倉幕府の将来というような点まで書いたらどうかとすすめられたのです。実は...
  • 科学への道 part2
    !-- タイトル -- 科学者と理性 !-- --  科学者という者が社会からは別箇孤立の人間であるごとく考える人もあろうが、 彼らはもっとも理性に忠実で好んで自我を表現せんとする人間であるからでもあろ う。人間一般は時代の進歩に伴って、より多く理性生活をなす状態になったが、未 だ前途はほど遠いのである。即ち科学の進歩は絶えず行なわれておりながら、我々 今日の知識として自然現象を充分|闡明《せんめい》し得ることが出来ないからである。なかんず く、生命に関する問題は人生にとってもっとも重大な事件であるにもかかわらず医 学者の未だ触れることすら出来ない現象が暗黒の中に|潜《ひそ》んでいるからともいえるで あろう。即ちこの点で迷信が|跳梁《ちようりよう》することも致し方なき次第である。  世の中には|迷信《めいしん》的な|取《と》り|極《き》めがはなはだ多い。中にも|縁組《えんぐ》み、|...
  • 内藤湖南「山片蟠桃について」
    山片蟠桃について  この懐徳堂のお催しとして、大阪出身の勝れた人々について講演をするということでございます。それで、私は妙な縁故からして、山片蟠桃《やまがたばんと う》について調べたというほどに調べておりませぬが、少し関係がありますところから、私に蟠桃のお話をいたせということでありました。ちょうど十日ほど前 に風を引きまして、声が低くてお聴き取りにくかろうと存じますが、どうか悪しからず御承知を願います。  今申しましたとおり、山片蟠桃のことにつきましては、私はいっこう詳しく調べておらぬので分からぬのであります。しかしこの人について注意をし、またそ の著書を読んだことはずいぶん古いほうであると思います。この人の著書の有名な『夢《ゆめ》の代《しろ》』というのは、「日本経済叢書」に載っております から、多数の方は御覧になっておられると存じます。その中に「無鬼」という篇がありますが、明治二十五年に...
  • 柳田国男「南島研究の現状」
    大炎厄の機会に  大地震の当時は私はロンドンに居た。殆と有り得べからざる母国大厄…難の報に接して、動巓しない者は一人も無いといふ有様であつた。丸二年前のたしか今日では無かつたかと思ふ。丁抹に開かれた万国議員会議に列席した数名の代議士が、林大使の宅に集まつて悲みと憂ひの会話を交へて居る中に、或一人の年長議員は、最も沈痛なる口調を以て斯ういふことを謂つた。是は全く神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流れて居たからだと謂つた。  私は之を聴いて、斯ういふ大きな愁傷の中ではあつたが、尚強硬なる抗議を提出せざるを得なかつたのである。本所深川あたりの狭苦しい町裏に住んで、被服廠に遁げ込んで一命を助からうとした者の大部分は、寧ろ平生から放縦な生活を為し得なかつた人々では無いか。彼等が他の碌でも無い市民に代つて、この惨酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこに在るかと詰問した。  此議員のしたやうな...
  • 尾崎士郎「ホーデン侍従」
    1  ペニス笠持ち  ホーデンつれて  入るぞヷギナの  ふるさとへ  謹厳をもって知られた前の鉄道病院長H博士が晩年、酔余にまかせてつくった即興詩の一節である。おそらく高踏乱舞、談論風発の後、ようやく歓楽極って、成ったものであろう。そのとき、座に今は亡き北原白秋翁あり、詩人白秋は剛直、苟《いやし》くもせざる人柄であるにもかかわらず、おのずからにして湧くがごとき感興を禁じ得ざりしもののごとく、たちどころに筆をとって次韻《じいん》を付した。すなわち次のごときである。    来たかヷギナの  このふるさとヘ  ペニス笠とれ  夜は長い  これを私(作者)に伝えた人は共に席を同じうしていた歌人の岡山巌博士であるが、これを聴いて微吟すること数回。──妖しくも、ほのかなる幻覚の世界はたちまち縹渺《ひょうびょう》として私の眼の前にうかぴあがってきた。読者もまた志あらば端坐して威儀を正し、心しずか...
  • 尾崎士郎「中村遊廓」
    「古き城下町にて」──、と私はノートのはしに走り書きをした。幻想のいとぐちが、そんなところからひらけて来そうな気がしたからである。彦根の宿で、その部屋は数年前、天皇陛下が行幸のとき、御寝所になったということを宿の女中が、もったいをつけた調子でいった。その言葉が耳にこびりついていた。  何気なくいった女中の言葉が、あるいは、明治の末にうまれて、天皇という言葉の威厳にうたれる習慣のついている私の耳にそうひびいたのかも知れぬ。ほかの連中はまだ眠っているらしい。昨夜は、いよいよ旅の終りだというので気をゆるして度はずれに飲んだせいか、おそろしく長い廊下を雪洞を持った女中に案内されて、この部屋へ入ったことだけをおぼえている。あとの記憶は、もうごちゃごちゃに入りみだれていた。  伊吹の周辺をめぐる、というB雑誌社の計画で、関ヶ原を中心に中山道を自動車でうろつき廻っているうちに、同じ場所を何度も行きつ戻り...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」九十四
     常磐井《ときわい》の太政大臣(西園寺実氏公)が出仕された際に、勅書を捧持している北面の武士が、実氏公に出会って馬からおりたのを、実氏公は後になって「北面の某は勅書を捧持しながら自分に下馬した者である。こんな者がどうして、主上のお役に立つものか」と申されたので北面を免職になった。勅書の捧持者は、勅書を馬上のままで捧げて示ぜばよい。馬からおりてはいけないそうであった。
  • 小原一夫「水納の入墨」
     一九三一年八月九日、十日と私の滞在中の宮古島は、未曾有の暴風雨に襲われた。風速五十四米、人も獣も木も草もその猛威の前には皆生色はなかった。思出しても物凄い台風で、住家のほとんどが形もなく吹き飛ばされ、危く命を助かった私の北から南へ島伝いにと定めた旅程は、たちまち妨げられて変更せざるを得なくなった。  あるかなきかの如き小さな多良間島、水納島に行く発動機船は皆難破してしまって、交通は絶え、入重山と宮古島とをつなぐこの島の入墨を見る機会が失われたように思わされた。私は、不本意にも先きに八重山に行かざるを得なくなった。多良間島の婦人で入墨をしている人が、宮古島にいないかと八方尋ねる内に親切な宿の主人は心掛けて、私に一人の婦人を紹介して呉れた。それは汽船が八重山に向う十三日の朝のことであった。まだ三十才そこそこに見える整った美しい容姿の人で、小さな男の子を傍に、あまり楽でない生活のように見えた。...
  • 科学への道 part5
    !-- 十五 -- !-- タイトル -- 研究と労作 !-- --  自然研究に当っては人々は極めて多くの労作に時を費さなければならぬ。一つの 事実を認めようとする場合においても、出来るだけ四囲の状況を確めてみてようや く一つの事が判明する場合が多くて、これだけの労力は決して|厭《いと》ってはならぬ。し かも事実の|穿整《せんさく》のみが科学の要素ではない。得られた事実を系統|統轄《とうかつ》することもも ちろんである。このためにはたえず考えていなくてはならぬ。すべての事実を系統 立てる行為は頭の中の仕事であって、決して目には見えない。したがって外観的に 遊んでいるごとくに見える場合もあろうが、むしろこの頭中の労作ほど偉大なもの はないのである。また頭中の労作は目に見えないために、これをよき|幸《さいわい》として、|獺惰癖《らんだへき》に|陥《おちい》る学者もまた絶無とはいえ...
  • 江戸川乱歩「百面相役者」
    1  ぼくの書生時代の話だから、ずいぶん古いことだ。年代などもハッキリしないが、なんでも、日露戦争のすぐあとだったと思う。  そのころ、ぼくは中学校を出て、さて、上の学校へはいりたいのだけれど、当時ぼくの地方には高等学校もなし、そうかといって、東京へ出て勉強させてもらうほど、家が豊かでもなかったので、気の長い話だ、ぼくは小学教員でかせいで、そのかせぎためた金で、上京して苦学をしようと思いたったものだ。なに、そのころは、そんなのがめずらしくはなかったよ。なにしろ給料にくらべて物価のほうがずっと安い時代だからね。  話というのは、ぼくがその小学教員でかせいでいたあいだに起こったことだ。 (起こったというほど大げさな事件でもないがね)ある日、それは、よく覚えているが、こうおさえつけられるような、いやにドロンとした春先のある日曜日だった。ぼくは、中学時代の先輩で、町の(町といっても××市のこ...
  • 邦枝完二「曲亭馬琴」
            一  きのう一日、江戸中のあらゆる雑音を掻き消していた近年稀れな大雪が、東叡山の九つの鐘を別れに止んで行った、その明けの日の七草の朝は、風もなく、空はびいどろ[#「びいどろ」に傍点]鏡のように澄んで、正月とは思われない暖かさが、万年青《おもと》の鉢の土にまで吸い込まれていた。  戯作者《ぎさくしゃ》山東庵京伝《さんとうあんきょうでん》は、旧臘《くれ》の中《うち》から筆を染め始めた黄表紙「心学早染草」の草稿が、まだ予定の半数も書けないために、扇屋から根引した新妻のお菊《きく》と、箱根の湯治場廻りに出かける腹を極めていたにも拘らず、二日が三日、三日が五日と延び延びになって、きょうもまだその目的を達することが出来ない始末。それに、正月といえば必ず吉原にとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いている筈の京伝が、幾年振りかで家にいると聞いた善友悪友が、われもわれもと押しかけて来る接待に悩...
  • 江戸川乱歩「夢遊病者の死」
     彦太郎が勤め先の木綿《もめん》問屋をしくじって、父親のところへ帰って来てから、もう三カ月にもなった。旧藩主M伯爵邸の小使いみたいなことを勤めて、かつかつその日を送っている五十を越した父親のやっかいになっているのは、彼にしても決して快いことではなかった。どうかして勤め口を見つけようと、人にも頼み、自分でも奔走しているのだけれど、おりからの不景気で、学歴もなく、手にこれという職があるでもない彼のような男を、雇ってくれる店はなかった。もっとも、住み込みなればという口が一軒、あるにはあったのだけれど、それは彼のほうから断った。というのには、彼にはどうしてもふたたび住み込みの勤めができないわけがあったからである。  彦太郎には、幼い時分からねぼける癖があった。ハッキリした声で寝言をいって、そばにいるものが寝言と知らずに返事をすると、それを受けてまたしゃべる。そうして、いつまででも問答をくり返すの...
  • 水上滝太郎「大人の眼と子供の眼」
     私の子供の頃のことであるが、往来を通る見ず知らずの馬車の上の人や車の上の人におじぎをして、先方がうっかり礼をかえすと、手をうって喜ぶいたずらがあった。日清戦争の頃で、かつ陸海軍の軍人の沢山住んでいた土地柄、勲章をぶらさげて意気揚々として通る将校が多かった。向こうの方から、金モールを光らせて来る姿を見ると、車の前につかつかと進んで、帽子をとったりして得意がるのであった。子供のいたずらと知って、すまして通り過ぎるのもあり、笑って行くのもあるが、中にはおあいそに礼をかえすのも、またうっかり誘われて本気で手をこめかみに上げる人もあった。偉い大人が自分たちの相手になってくれた嬉しさと、偉い大人を相手にさせてやったという力量をほこる心持が、ちゃんぽんに心の中で躍った。たった一人、いくど繰返しても、うかとは手に乗らない苦手があった。その頃は少佐か中佐か、いくらよくても大佐だったろうが、後の海軍大将伯爵...
  • 佐藤春夫「蝗の大旅行」
     僕は去年の今ごろ、台湾の方へ旅行をした。  台湾というところは無論「|甚だ暑い《チンゾア》」だが、その代り、南の方では夏中ほとんど毎日タ立があって夜分には遠い海を渡っていい風が来るので「|仲々涼しい《カ・チウチン》」だ。夕立の後では、ここ以外ではめったに見られないようなくっきりと美しい虹が、空一ぱいに橋をかける。その丸い橋の下を、白鷺《しらさぎ》が群をして飛んでいる。いろいろな紅や黄色の花が方々にどっさり咲いている。眩《まぶ》しいように鮮やかな色をしている。また、そんなに劇《はげ》しい色をして居ない代りに、甘い重苦しくなるほど劇しい匂を持った花もどっさりあるー茉莉《パタリ》だとか、鷹爪花《イエヌニアンホア》だとか、素馨《スウヒイエン》だとか。小鳥も我々の見なれないのがいろいろあるが、皆、ラリルレロの気持ちのいい音を高く囀《さえず》る。何という鳥だか知らないが、相思樹のかげで「私はお前が好...
  • 永井荷風「勲章」
    寄席、芝居。何に限らず興行物の楽屋には舞台へ出る芸人や、舞台の裏で働いている人たちを目あてにしてそれよりもまた更に果敢い渡世をしているものが大勢出入をしている。 わたくしが日頃行き馴れた浅草公園六区の曲角に立っていた彼のオペラ館の楽屋で、名も知らなければ、何処から来るともわからない丼飯屋の爺さんが、その達者であった時の最後の面影を写真にうつしてやった事があった。 爺さんはその時、写真なんてエものは一度もとって見たことがねえんだコと、大層よろこんで、日頃の無愛想には似ず、幾度となく有りがとうを繰返したのであフたが、それがその人の一生涯の恐らく最終の感激であった。写真の焼付ができ上った時には、爺さんは人知れず何処かで死んでいたらしかった。楽屋の人たちはその事すら、わたくしに質問されて、初て気がついたらしく思われたくらいであった。 その日わたくしはどういう訳で、わざわざカメラを提げて公園のレヴュ...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」2
    懐しの球友 野球との心中  野球と心中、それが前世からの約束ごとでもあろう。生きてきた七十余年、ふりかえりみるなら、野球のほかになにものも残らない。女房子供のあるのがふしぎにも思える。少年時代人なみに描いていた希望も野心も、一度野球に対面したが最後、すべて雲散霧消、きれいさっばり、空想にも英雄豪傑と別れを告げてしまった。大臣大将の夢とボールの現実とを、いさぎよく引きかえにした、穂洲庵忠順愛球居士の末路が、さていかに落ち着くかは、熱球三十年にして終るか、四十年、五十年に生きのびるか、その心中たるや悲愴をきわめるか、はなやかではなくとも、得心のいくものとなるか、むろん穂洲庵自身にもわからないし、世間のだれにもそれを占うことができまい。ただ、この鍵を握っているものは、つれそうてきたボールのみであろう。  磯節に明ける大洗小学校の巣立ちから、老松に暮れる水戸佐竹城趾のグラウンド、目白の若葉を...
  • 永井荷風「雨瀟瀟」
    その年の二百十日はたしか涼しい月夜であった。つづいて二百二十日の厄日もまたそれとは殆ど気もつかぬばかり、いつに変らぬ残暑の西口に蜩の声のみあわただしく夜になった。夜になってからはさすが厄日の申訳らしく降り出す雨の音を聞きつけたもののしかし風は芭蕉も破らず紫苑をも鶏頭をも倒しはしなかったーわたしはその年の日記を繰り開いて見るまでもなく斯く明に記憶しているのは、その夜の雨から時候が打って変ってとても浴衣一枚ではいられぬ肌寒さにわたしはうろたえて襦袢を重ねたのみか、すこし夜も深けかけた頃には袷羽織まで引掛けた事があるからである。彼岸前に羽織を着るなぞとはいかに多病な身にもついぞ覚えたことがないので、立つ秋の俄に肌寒く覚える夕といえば何ともつかずその頃のことを思出すのである。 その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。唯その頃までわたしは数年の間さしては心...
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