↑ ↑ ↑

幕間:寸劇

↓ ↓ ↓

――――――ねえ、イリヤ・スフィール?

――――――何かしら?

――――――……いや、なんというか。

――――――何かしら?

――――――遅い、ね。

――――――ええ、遅いわね。

――――――……。

――――――……。

――――――退屈だね。

――――――ええ、退屈ね。

――――――…。

――――――……。

――――――ねえ、イリヤ・スフィール?

――――――リボンズ。あなた暇なの?

――――――そりゃあ暇さ。いくら総集編が投下されたって、本編が動かないと僕はやる事がないじゃないか。

――――――いや、まあそうだけど。

――――――だから少し、暇つぶしをしないかい?

――――――……ふうん、まぁ、私も正直言って退屈だから、いいわよ。で、なにするの?

――――――大した事じゃない。軽いお喋りをするだけさ。

――――――お喋りって……だから何を話すのよ?

――――――ふむ……。

――――――考えてなかったの?

――――――いや、今考えてるんだ。

――――――てきとーねぇ……。

――――――そうだな、じゃあ、IFの話をしようか。

――――――イフ?

――――――そう、もしもの――『畏怖(イフ)』の話、さ。




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ep.if:1

『kimagure no sokuseki』


↓ ↓ ↓


月。

満月を描くには少し足りない、中途半端な円形の。
そんな月が光を放つ。
地上へと、眩い月光が降り注ぐ。

夜の帳の中心で、それを浴びる者がいた。
かのものは、傭兵。
雇われの戦争屋が荒野に一人、月を見上げている。

「あーあ、逃しちまったかぁ……」

心の底から残念そうに、傭兵はほくそ笑んでいた。
そこには誰も、いない。見渡す限り誰もいない。
荒野。
此処に立つものは、笑う傭兵ただ一人。

「よっこいせ、とっ」

傭兵の腕はすっと地表へと伸び、ザラザラとした硬い表面を指先が軽く撫でた。
罅割れた大地から、砂にまみれた己の武器を拾い上げる。
掴んだそれは、巨大な鉄。鉄塊だった。

「よっぉし、なんとかまだ使えるみてぇだな」

満足そうに頷き、鉄塊を担ぎ上げ、傭兵は前を見る。
今はもう静まり返った、けれどつい先ほどまでは確かに、戦場だった筈の荒野を見た。

「そんじゃ……行こうかねぇ……」

傭兵は決定する。

逃がした獲物の数は三匹。

内一匹に致命傷を与えた。
内一匹には打倒可能の確信を抱いた。
内一匹には打倒困難の予感を得た。

そして、襤褸屑のように罅割れた自らの五体を鑑みれば。

「しばらく戦争はお預けか」

戦争屋の進む足は、自然と南を向いていた。
必ず追いつき、喰らいつく。
それを前提とし、傭兵は歩む。

茶色がかったセミショートの髪を乱れさせたまま、
まだ幼さの残る少女の身体に巨大な鉄塊を背負い、
砕けそうな四肢を引きずって、行く。

しかしその眼光だけは、輝きを失わず。
喜悦の笑みを、頬に貼り付けて進む。

愉快に、痛快に、戦地を往く影。
そこにのみ残るものが、
傭兵、アリー・アル・サーシェスの足跡だった。


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ep.if:2

『kimi ha boku ni niteiru』


↓ ↓ ↓


赤い。

全てが紅い。
目に映るもの全てが赤く、紅く、血のように燃えている。
そんな、紅蓮の世界を見ていた。
灼熱の地獄を、私は歩んでいた。

――……あ。

声が、聞こえる。
かすかな、消えそうな、だけど聞こえていたのだ。

――たす……けて……。

悲哀の声が呼んでいる。

――くるしい……。

苦痛の呻きが聞こえている。

――いやだ……どうして。

嘆きの呟きが幾重にも聞こえる。

――たすけて。

私の体はそれでも、足を止めない。
止めなかった。

――たすけてよ。

歩む地獄の全てから、声は聞こえていた。
炎に霞む背後から。
燃え上がる左右の建造物から。
歩み続ける前方から。
これまで踏み越え続けてきた、積み上げられし屍の山々から。
幾重にも、幾重にも、幾重にも、救いを求める声が聞こえ続ける。
なのに、ただひたすらに、地獄の中を歩み続けていた。

ここは夢なのか。
それとも、現か。
どちらでも無いんだと、理解はしていた。

夢という物は全て、夢を見る者の記憶のみによって成り立つという。
既知のビジョン、忘却のビジョン、組み合わせて解される、記憶の再構成作業。それが夢というもの。
ならば私が見る夢は、それがどれだけ不可思議な光景だとしても、かつて見たビジョンということになる。

ならば、この世界は、この赤は、この地獄は、きっと夢なんかじゃない。
こんな鮮烈な光景を、私は経験した事が無い。
あったとすれば、忘れる筈が無いだろうから。

だけど、現実でもない。
感情の伴う現実などありえない。
私の感情ならともかく。
『私以外の感情』が伴う現実なんて、私は知らない。

ああ、それならきっと。
夢でもなくて、現実でもなくて、
そして私ですらないならば、きっと。
これは――『彼』――なのかもしれない。

――たすけて、たすけて、たすけて。

幾つもの声を振り切って、私は、『彼』は歩き続けた。
彼の中の私は歩き続けた。

横たわる幾つもの骸の声を、
救いを求める苦悶の声を、
怨嗟に呻く苦痛の声を、
泣く事も怒ることもない、ただただ助けを呼ぶ声を、確かに聞きながら。
まるで聞こえていないかのように、たった一人で歩き続ける。

だけど声は、彼の中へと確かに沈殿していった。
聞こえる一言一言が、忘れえぬ、消せぬ罪であるというように、彼の身に刻みついていく。
そこに希望など一片も無い。
きっともう彼自身に助かる望みも、助かりたいという意志すらなくて。
だからこれは一つの命が、負った責務を、負う事になる罪科を、一身に背負うだけの、『彼』の業だった。

どこに行こうとしてるのかも、無い。
生きてどうしようと考えることも、無い。
何もかもを、声を無視して、一歩一歩進むにつれて、無くしてしまった。

そうして削れて、生きる意味すら擦り切れた時、緩やかに、彼は沈むのだ。
身体が限界を迎えたことで、燃え朽ちた地へと倒れふす。
一面に転がる死体と同じように、終わりを迎える。

どのくらいの時間が経過していたのか、炎はその勢いを失っていて。
紅蓮の空は赤みのなくし、灰色の曇り空。
真っ赤な地獄はいつの間にか、くすんだ終末の風景に変わっていた。
ああ、そんな事にすら、彼は気がつかず、歩んでいたのか。

原型を留めるモノが自分ひとりの世界で、
彼は手を伸ばす。
一面に広がる、遠い遠い、灰色の空に。
何を請うでもなく、求めるでもなく、探るでもなく。
ただ、「空が遠い」と、彼は思った。

そのとき私は、『彼』の見た景色を見る。

落ちる、手。
誰かが、掴む。
地獄の赤ではなく、絶望の灰色ではなく、瞳の黒が視界に映った。
これが、彼の見た、始まりの景色だった。

誰も救えない。
誰も守れない。
正義の味方の、その始まり。

赤と、熱と、灰と、空と、終わりの。
そして、彼を救い、なのに救われたような表情で見下ろした男の。
男に救われ、救った彼の。


――ありがとう。


ここは、生まれた場所だった。


◇ ◇ ◇


黒い。

全てが暗い。
目に映るもの全てが黒く、暗く、闇のように、深く沈んでいる。
そんな、深淵の世界を見た。
永久の地獄を、一人、俺は歩んでいた。


――たす……けて……。

悲哀の声が呼ぶ。
けれど、俺は答えられない。

――いやだ……どうしてみんなが……。

嘆きの呟きが幾重にも、聞こえる。
俺はそれでも、何も出来ない。

――たすけて。

歩む地獄の奥底から、聞こえる。
闇に霞む背後から。
閉ざされた左右の黒壁から。
歩み続ける前方から。
幾重にも、幾重にも、幾重にも、救いを求める声が聞こえ続ける。
なのに、ただひたすらに、地獄の中を歩み続けていた。

ここは幻か。
現実か。
なんとなく、どちらでもないと、理解はしている。

幻、作られた模造品。
そんなもので、この絶望は体現できない。
誰よりも■■の俺ならば、それが分る。

だけど、現実でもない。
感情の伴う現実などありえない。
俺の感情ならともかく。
俺以外の感情が伴う現実なんて、それこそ酷く現実感が無い。

ああ、それならもしかすると。
幻でもなく、俺の現実じゃないとするならば。
これは――『彼女』――かもしれない。


――私のせい……私なんかがいたから……私さえいなければ……。


『彼女』はたった一人で歩き続けた。
彼女の中の俺は歩き続けた。


――私にもっと力があれば……私がもっと強ければ……こんな事にはならなかったのに……。


打ちひしがれて泣く声を、
痛みに震える苦悶の声を、
己の非力さに打ちひしがれる声を、
ただただ内に閉じた声を、確かに聞きながら、叫びながら。
誰にも、聞かせないようにしながら、彼女はたった一人で歩き続ける。

望んだ幸福は、遠く彼方に消えた。
目に映るものは、後悔と後悔と後悔と後悔と絶望。
それでも何かを諦められない。
そんな絶望のカタチ。破片。砕け散った心の一欠けら。



ガラスのピースを手に、彼女は歩む。
そこに希望など一片も無い。
失い、失い、失って、失いつくした彼女は一人、何かを求めて彷徨っていて。

けれど終わりの無いように思えた闇にも、やがて終わりは訪れる。
肉体の限界、闇が輪郭を失っていく。
漆黒が解かれ、満天の星空が視界を覆う。
彼女が失ってきた者達と同じように、終わりを迎える。
奪われるだけの結末を迎える、その瞬間に。

――ごめんなさい。

彼女は小さく詫びたのだ。

――ごめんなさい……何も出来なくて……何一つ……出来なくて……ごめんなさい……。

誰かに、失くしてきた何かに、涙交じりの声をかけた。
下方から彼女を貫くであろう罰に、身を委ねようとしていた。

――さよなら……大好きでした……。

今の俺には、言葉を伝えることが出来ない。
『彼女』の内側に在る今の俺には。

だけど落ちる、からだ。
誰かの声が聞こえた。
『死ぬな!』と。
どっかの馬鹿野郎の声が、その時の俺の声は、彼女に届いていたのだ。

『必ず助ける』と。
これはきっと、告げられた彼女の出発地点。

誰も救えなかった。
誰も守れなかった。
彼女の、戦いの始まり。

――勝ちたいよ……こんなところで……終わりたくなんか……負けたくなんか、ないよ。

零し続けた涙を拭う。
弱音を吐き続けていた唇を引き結ぶ。
拳を、もう一度握り締める。

――最後に一つ、みんなの思いを無駄にしない生き方ができれば、それでいいから……。

絶望の淵で彼女は再び目的を、夢を掴んだ。
如何なる穢れも撃ち払う、
この世全ての悪すら捻じ伏せる意志。
もう二度と、彼女は迷うことも、絶望することも無い。
だからここが、彼女の再出発。


――どうかもう一度だけ、頑張らせて。


ああ、なんて、馬鹿野郎だ。
俺は救いようの無い俺と、哀しすぎる『彼女』に、そう思った。

そんなモノが、そんな強くて哀しい生き方が、彼女の幸せだった筈がないのに。
どうして、彼女はそれで幸せだって、十分だって、笑わなくちゃいけないのか。

彼女が本当に望んだものは、ただ一つ心から望んでいたものは、
ごくありきたりな、
日向の下で、大切な誰かに微笑むような、


そんな、ささやかな幸福だったはずなのに――。





◇ ◇ ◇


特段、きっかけという物は無く、俺は目を開いた。
現実の風景が目に飛び込んでくる。

岩の天井。
砂の壁。
石の床。

自分の体に酷く違和感を感じて、身体を横たえたまま、俺は胸に手を当てる。
あるはずの銃創が消えていた。
確かに撃たれたはずのそこに、傷一つありはしない。

「……」

『目を開いた』などと言っても、別にいままで眠っていた訳でもないらしい。
見ていたものは夢じゃない。
目を閉じて、意識を閉じてはいても、眠りとはまた違うものだったと思う。

その証拠……になるほど根拠が在る訳じゃないが、身体の疲れがとれたような感覚は一切無い。
寧ろ虚脱感みたいなものが全身に染み渡っている。
イヤな感触だ、胸の奥底から寒気が無限に溢れ出して、気持ちが悪い。

だから、そんな中で、唯一暖かな感触を与えてくれる部位は、酷く浮いてさえ思えた。
左の、手の平。
何かに、包み込まれている。

俺は岩の天井を見るのを止めて、首を動かして隣を見た。
果たして予想通り、そこには『彼女』がいた。
彼女もまた俺の隣で、最後に見た姿で、
黒のドレスに、俺の制服を羽織った姿のままで、横たわっていた。
俺の手を、しっかりと握ったまま目を閉じていた。

「…………」

塞がっている胸の傷とか、
流れ込んでくる黒い魔力とか、いろいろ聞きたいことはあるけれど。
ことの推移はひとまずおいといて、俺は彼女の名を呼ぶことにした。

「なあ、福路」

目を閉じたままの福路に言った。

「福路はやっぱり間違ってる、なんてもう言わない」

きっと福路は耳を貸さないだろうから。
それを俺は知っているから、だからこれから言う事は、俺自身への宣誓だった。

「だけどやっぱり、正しくは無いんだ。そんな生き方するのは、俺だけで十分だよ。
 そんな生き方で満足していいのは、俺くらいなんだ。
 お前は……駄目だ」

俺への宣告、だった。
の、だけど……。

「……わかってたよ」

福路は答えた。
うっすらと瞳を開いて、どこか震えたような声で言いながら、俺を見た。

「衛宮くんは、やっぱりそう言うんだって……」

けれど一つ、首を振って。

「ううん、今やっと分った」

福路は、俺から顔を背ける。

「私の内側を知っても、貴方はそう言う。
 あなたは、あんな世界を生きたから……だから……」

福路の声は徐々に小さくなっていって、やがて聞こえなくなってしまった。
そんな彼女へと、俺はなんとなく思い浮かんだ言葉を投げてみる。

「悪い。俺は福路が思っていたよりも、ずっと図々しい奴なんだよ」

その言い草が、何かおかしかったのか。
少し肩を震わせて、福路はくすりと笑った。

「そう……みたい……」

けれど、こちらを向いてはくれなかった。
相変わらずの涙声で、こう呟くだけだった。

「ほんとうに。思いを……知らされちゃったな……」

もしかすると、あの夢が、やっぱり夢じゃないならば。
彼女の内側の光景であるとするならば。
福路もまた、俺の何かを見たのかもしれない。

だとするならば俺達は、本当に似た者同士で、
すると、やっぱり、決定的に間違えているのだろう。


結局、アオザキがここに戻ってくるまで、
福路は振り向かなかった。
俺に顔を見せてはくれなかったけれど。

それでも、手は繋がれたままだった。
いっそう力が込められた手の平の、暖かさを感じながら。
俺も、福路も、握り返して、互いの存在を確かめていた。



↑ ↑ ↑


ep.if:3a

『kibou no hune』


↓ ↓ ↓


その頃、ノートパソコンを抱えた浅上藤乃は爆心地の真っ只中にいた。

彼女は唐突に、しかし猛烈に悔いた。
心のそこから悔いていた。
どこかで、致命的に選択肢を謝ったのだ。
そんな風に思えていた。

彼女がやったことと言えば、それほど複雑でもない。
天江衣が命を賭けた大局に勝利したことと『ある出来事』を、船の甲板で周囲の見張りをしていた白井黒子へと伝えるために。
ただそれだけのために、階段を登ってきた。それだけである。

「く……くくくくッ!!」
「…………」

にも拘らず、いま。
藤乃は燃え盛る炎の濁流に飲まれそうになっている。
目前に存在する、たった一人の少女の吹き荒らす感情の爆炎に、芯まで焦がされそうになっていた。
人の感情など彼女には見えない。藤乃の魔眼をもってしても、そんなものは見えない。
にも拘らず、今目の前に立ち、あらぬ方向を――具体的には北西、遺跡の方角――を向いている少女。
白井黒子の感情は、誰の目にも分るものだった。

「は……ははははははッ!」

怒り、だ。
白井黒子は今、怒りに燃えている。

「あ……あの……白井、さん?」

藤乃の選択ミスとは、そんな状態の白井黒子に声をかけたことに他ならない。

「…………はい? なぁん、でぇす、のぉぉぉぉ? 浅上さん?」

一発で、一言で、大後悔だった。
ああ、止めとけばよかった。三秒くらいでいい、時間よ戻れ。
どうか神様、この一言を無かったことにして、何も見なかったことにして階段を下りる機会を与えてください。
そんな事を願うも、彼女の精一杯に底上げした信仰パワーは天に届かず。
藤乃は、振り返った白井黒子の面相を拝むことになった。

「い、いいいい、いえ、どうしてそんなに怒ってらっしゃるのかなぁー……なんて、思ったり、しまし、てぇっ……」
「ぉぉぉぉおお怒ってなんていませんのよぉ? 浅上さん。わたくし、この通り、すっこぶる上機嫌ですわっ!(破顔)」
「(し、白井さん、破顔は破顔でも、笑顔じゃなくて破壊的な形相になってますよぉ……!)」

実に朗らかな表情だった。
背景に煉獄の炎が幻視できるほどに照り輝いた白井黒子の笑顔。
その笑顔が、恐ろしい。目がこれっぽっちも笑っていない。

「ちょぉぉっっとだけ、嫌な空気というか、なにやら不愉快な気配というか、泥棒猫の予感というかを感じ取っただけですの。
 おほほほほ……否。 これは猫どころではありませんわね。 悪魔。 策士。 ラスボスの気配ですわ。
 ふ、ふふ、ふふふ、うふふ、うふふふのふ……! 誑かされているのは一体全体、果たしてどちらの殿方でしょうかねぇ浅上さん?
 もしかして、わたくしの前で散々カッコいいことをほざき倒した挙句に、こうしてわたくしをほったからかしにしている誰かさんじゃぁないですのよねぇ?
 どうしましょうか、もしそうだとしたら、たぁっぷりと分らせて差し上げなくてはなりませんの。
 困りましたわ、悩ましいですのよ、士ィィィィ郎ォさァァァァァァンッ!!!!」
「(……こ、怖いっ!)」

戦慄すら感じさせる狂態に、藤乃は軽く三歩は引いた。
彼女でなくてもこれは引く。
燃え上がる白井黒子を前に、誰もが、ちょっと引くことか出来ないだろう。

「し、ししし、し、白井さんっ!」

それでも、藤乃は踏みとどまった。
がんばれ藤乃、負けるな藤乃、行くんだ藤乃!
と、自らを鼓舞し、
藤乃はすぅぅっっと、大きく息を吸って、

ライダーさん、あららぎさん、先輩……見ていてください!)

星になった人たちを、夜空の彼方に見つめながら、藤乃は前へと進んだのだ!

「落ち着いてぇっ――くださーいッ!」

ゴッ、と。
痛快な音が、どこからか鳴り響く。
それは紛れも無く、
藤乃の持っていたノートパソコンが、白井黒子の側頭部をフルスイングで殴打した音だった。


「――」

その一瞬、時が止まった。

「――うぎゃぐはぁっ!!」


だが残酷にも、時は動き出す。
白井黒子は、
そんな、異様な悲鳴を上げつつ、
しかし、笑顔を満面に貼り付けたまま、
そして、エスポワール号のデッキを軽く三メートルほど滑っていった。

「…………」

蹲ったまま黒子はピクリとも動かない。
藤乃もまた、フルスイングの体勢のまま、暫し固まった。
両者、なにも語らず。というか片方は語れず。
再び、時が止まったような静寂が流れていた。
今度はさっきよりも若干長めだった。

「あ、あ、い、いーだだだだッ、いだいですのぉ!」

ややあって、そして時は動き出す。
うめき声と咽び声が夜空に響き渡った。
両手で頭部を押えて転げまわる白井黒子。
浅上藤乃はノートパソコンを小脇に抱えつつ、それを見下ろした。

「ふぅー……」

そして、一息吐いて、笑いかけた。

「落ち着きましたか? 白井さん」

やりきった女の顔。
菩薩の笑み。
邪気の欠片も無い。
誰もが軽く、十歩は引くであろう。ドン引きするであろう。
凄まじい無邪気が滲み渡るようなそれは、これ以上無いほどに、ナチュラルな嗜虐の微笑みだった。

「それでですね、ちょっとこれを見てもらいたいのですけど……」

未だに床に転がったままで痛みにビクビク痙攣している黒子の様態には一切頓着せず、藤乃はノートパソコンを開く。
淡々と、飄々と、話を進行させていく。

「メールが何件か届いていて、それで気になるのが……」
「あがががががが」
「聞いてますか? 白井さん。しらいさーん? ってきゃああ! 白目むいてるッ!」


この少女、元来より、割とバイオレンスな性質(タチ)である。


↑ ↑ ↑


ep.if:3b

『zetubou no hune』


↓ ↓ ↓



「痛いッたたた。まだちょっと染みますのよ……」
「ホントにごめんなさい。私、なにやってるんだろう……」

甲板の上、潮風の中、二人の少女が向かい合わせに座っていた。
頭に氷袋を当てた制服姿の少女、白井黒子。
黒髪、長髪を一つにまとめ、浴衣に身を包んだ少女、浅上藤乃。

「もういいですのよ。やり方は兎も角、わたくしのキャラを修正してくださったのは事実ですし……」

しゅんとする藤乃へと黒子は微笑みかけていた。
彼女の素性、経緯、能力は聞いている。
それを鑑みて今の動作を見れば、もしかすると、浅上藤乃は直接暴力を行使することに慣れていなかった。
の……かもしれない。
黒子は、そう思わなければいけない気がした。

「そんなことより、なるほど、救援要請のメールですの……?」
「あ、はい、さっきPCを弄っていたらメールが着てました」

黒子はツインテールの髪を解きながら、
浅上藤乃が膝元で開いたノートパソコンのモニターを覗き込んだ。
それなりに長い髪が肩にかかるのを感じながら、そこに表示される文字を読む。

「『一斉送信。こちら薬局。救援も求む。僕の名前h』だそうです」

読み上げる藤乃の声を聞きつつ、短文を反芻する。
メールの文章は、明らかに途中で途切れていた。

「ふむ、動くなら早急に、ですわね」
「動くん……ですか……?」
「罠か、と。疑ってますの?」
「それも……ありますけど……」
「分ってますのよ。だから『動くのなら』ですの。
 少なくとも貴女の同意なくして、わたくしはここを離れたりしませんわ」
「でも、行きたいって、白井さんは思ってるんですね……」

申し訳無さそうに、目を伏せながら言う藤乃に、黒子は苦笑い混じりに言った。

「否定は、しません。
 ここに助けを求めている人がいるなら。
 助けに行くのがジャッジメントであるわたくしの使命ですもの」
「…………」

黒子から見て、藤乃は迷っているようにも見えた。
だが口では選択を藤乃に委ねながらも、黒子には分っていた。
黒子が行くと言い張れば、藤乃は同意することだろう、と。

「なんて、それは建前かもしれませんわね」
「えっ?」
「我が侭かもしれませんの。わたくしの、何も出来ない現実へのあがき」

守りたい人を目指して、飛びたいという想い。

「ごめんなさい。
 こんなのは現実的ではありませんわね。
 残りましょう、ここに。ここで待ちましょう、彼らを」

黒子は想う。
彼を救いに行きたいと。
だけど同時に目の前の彼女もまた、想っているはずだから。
目の前の藤乃も、似た思いに囚われているはずだから。

黒子とは違うヒトに。似ているけれど違う思いを抱いてる。
だけど出来るなら今すぐその人のもとに行きたいと、助けになりたいと願っていることだけは、きっと同じだ。
それをぐっと耐えているはずだ。
ならば黒子だけが、我が侭を言うわけにもいかない。

感情で動くことだけは出来ないと、黒子は自分を律していた。

「戦っているのは、彼らだけではありませんものね……」
「……で、でもっ、白井さんっ!」

今度は逆に、止めるように口を開いた藤乃を、黒子が制止する。

「そ・れ・に、彼女だって、戦っていますもの。
 私達や彼らとは違う戦場で、だけど今も、ずっと戦場に立っている」

黒子はデッキの床を指す。
正確には、その更に下にいる一人の少女を。

「天江さんを残して、ここを離れるわけにはいきませんわ。
 彼女を守り、ここを守ることが、私達に任された戦場」
「……そう、ですよね。それで良いんですよね。私達は」
「ええ、まずは出来ることからやらなければ」

けれど、そう言う黒子の手の平は、硬く握り締められていた。
何もつかめず、何の助けにもなれない自らの非力を握りつぶしたいと言うように。

「ささ、見張り交代ですの。わたくしはいったん降ります。
 天江さんを一人にしすぎるとまた寂しがってしまいますわ」
「……ふふふっ。そんな風に言うと、また子供扱いするなって言われちゃいますよ」
「そうですわねぇ」

私の方が年下であることを忘れてしまいそうで、困りますわ。
そんな事をいいながら、解いていた髪を一つに纏め上げ、黒子はポニーテールの髪型を形作った。

「ころで、おそろ、ですの」
「白井さん……」
「頑張りましょう、生きるために。
 わたくし達が信じる人の為に、わたくし達を信じてくれた人たちの為に……」

髪をまとめながら、黒子は監視のために使っていた暗視ゴーグルを、藤乃へと手渡す。

「……」

しかし、藤乃は受け取ったそれを、不安そうに見つめていた。

「どうかしましたの?」

その黒子の問いに、
藤乃は俯いて、痛みに耐えるような声で言った。

「たまに、何もかも投げ出したいなって、思う時があるんです」

その言葉に、黙す。
黒子とて、藤乃の心の影に気がつかなかったわけでは無い。
元々は殺し合いに乗っていたという彼女。
だが、触れられない傷口というものは、誰にでもある。

「私が犯した罪は決して消えなくて、償うべき罰があるのならそれはきっと……だから私がここにいたって……」

罪を抱える。
間違いがあって、だからこれからは正しく生きる。
それで何かが変わるわけではないのだ。
一生の傷になる事だってあるだろう。

「浅上さん」

おずおずと顔を上げた藤乃に、けれど黒子は微笑んで、肩にぽんと手を乗せた。
傷口を見せてくれたのなら、癒す手伝いをしたいと思う。
同じような傷を持つものとして。

「それでも貴女が生きることを、望んでくれる人がいる」
「でも私に、そんなふうに願われる価値は……」
「願われたことに、意味がある。わたくしはそう思いますの」

きっと今ここにいることには意味がある。
そう信じて、だから少なくとも先に進めるのだ。

「わたくしはきっと、望まれたからここにいる。
 貴女にもいるのでしょう?
 貴女が生きることを、望んでくれる人が……」

藤乃の答えは、少し俯いいて少しばかり紅潮した、そんな表情だった。

「じゃあきっと大丈夫。あなたは乗り越えられますの。
 貴女が信じる人を信じてあげれば、きっといつか、自分を信じられる時もきますわよ」

そこまで言って、しかし黒子は、藤乃から目を逸らした。

(何をえらそうに、自分自身の心すら、未だ分らないくせに)

自分に対する怒りが、巡ったからだ。

「……白井さん」

呼ばれた声に視線を戻せば、再び藤乃と目があった。
藤乃はまっすぐに、黒子を見ていた。

「ありがとう、ございます」

礼を言う藤乃の表情はやはり晴れておらず。
しかし声は、どこか先程よりも澄んでいた。

「頑張りましょう。一緒に」

少し、嬉しかった。
支えることは出来ずとも、支えあうことは出来るのではないか。
そう思えたから。

「では、連絡は決まり通り十五分後にお願いします」
「はい」

調子を取り戻した返事に、少しほっとしながら。
黒子は床においていた氷を拾い上げ、藤乃に背をむけて歩きだす。

安息の時は短い。これからまた忙しくなるだろう。
のんびりしている余裕は無い。
そう考えながら、船内への階段を下りようとして――

「――ちょ、ちょっと待ってください白井さんッ!」

切羽詰ったような藤乃の声が、背中に突き刺さった。

「どうかしましたの?」

ただならぬ声色に振り返る。
藤乃は今かけたばかりのゴーグル越しに、夜明け前の景色を覗き込んでいた。
ある一方を指差してして、黒子へと叫ぶ。

「人がいます! 船の近くで……人が……倒れてます!」
「どこですのっ?」

裸眼では船の周囲がよく見えない。
まだ夜明け前の空は暗すぎる。
藤乃からゴーグルを受け取り、そこでやっと指差された方向をしっかりと見ることが出来た。
暗視ゴーグル越しの、緑色がかった世界、そこに映りこんだものは――

「…………」

ゴーグルを、下ろす。

「見えましたか……?」

藤乃の声が聞こえる。

「…………そんな」

けれどその意味を理解することが、黒子にはできなくなっていた。
一瞬にして、一見にして、頭の中が漂白されたようだった。
見えたかと聞かれれば、もちろん見えた。
しかし、それは在り得ない。受け入れがたい光景だった。

「そん、な……嘘……ですわ……」

黒子はゴーグルが壊れているのだと思った。
そうでなければ、己の目がイカレたのだろう。
だが同時に、見間違える事など在り得ない光景だった。

「そんなことが……ッ!」
「白井さん?」

黒子は一歩後ずさる。
ただならぬ黒子の様子に、いよいよ藤乃も心配そうな様相を見せる。

「あの女の子を知ってるんですか?」

けれど、藤乃の声は届くことはなく。
白井黒子は目前に現れた信じがたい光景を見つめ、握り締めた拳を、僅かに開き。

「お……ねぇさま……?」
「えっ?」

一言。

「お姉さまッ!!」

そう叫んで、藤乃の前から、姿を消した。



◇ ◇ ◇


「遅いな……白井黒子」

ギャンブルルームという名の闘技場。
そこで少女は一人、佇む。
人形相手とは言えど、命を賭けた戦いを終えた直後。
気が緩んで当たり前だろう。

「お前、次は、なんだ?」

けれど少女はまるで気後れした風も、一息すらつく事もなく、おもむろに聞いた。
背後にいた男に、問いかけた。
次の催しは何だ。次の戦いは何だ、と。

「……怖くはないのか?」

男は、黒服にサングラスのその男は、今確かに、少女に驚嘆していた。
先ほどの戦いをずっと見守っていたこの男は、天江衣のなんたるかを知ったのだ。
それはただ運が良い、ギャンブルが強い、といった次元ではない。
運を運では無くする力。戦いにおいて神が誰に微笑むか、ではなく。
幸運を何か別の『モノ』に置き換えて戦いを開始した。この者の力を見せ付けられた。
それは、侵食。運否天賦、本来神にしか御し得ないそれを支配する、天への挑戦。
格を、教えられていた。

「怖い……か」

しかし男が最も驚嘆したのはその強さではない。
その強さを行使した存在が、己の年の半分にも満たないただの少女だったといういことだ。

「衣は……怖い。うん、怖いな」

男の問いに、少女はあっさりと頷いた。
怖い、そう言った。

「ならば何故、お前はそんな顔をしていられる?」

心底楽しそうな顔で、言ったのだ。

「衣は戦っているからな」
「戦って、いる?」
「そうだ。確かにいま、衣は怖い、死ぬのは怖い。だけど衣はいま、衣の戦場にいる。
 衣はいま、衣自身のために、戦えているのだ。ならば自然、これが愉快でなくて何だと言う?」
「お前は、戦うことが愉快だと言うのか?」
「うん!楽しいな!怖くて痛くて辛いけど、そんなもの全て吹き飛ばしてしまうくらい、楽しい!
 戦う楽しさ。これは教えられたものだけど、衣はいま確かに、衣の物にしているぞ!」
「そう、か」

黒服は喉を鳴らした。
そして今度こそ認める。この子は天才だ。
戦うことの意味、それが娯楽であると、悦であると、本能的に気づいているならば。
それが分っていれば、それは完成された、いっぱしのギャンブラー(闘士)だ。
容姿など関係ない。
この少女は能力の上でも、心構えの上でも、認められるべきなのだ。
ならばもう、何も言うまい。なにも思うまい。
この戦いの行く末を、最後まで見送ろう。

「衣は諦めたりしない。衣は生き残る。
 そして、このままお前らてーあいをぶっ飛ばして、衣は、グラハムに胸を張って言うのだ!
 『衣は頑張ったぞ』とな!」
「そうかならば、次の趣向を教えよう」
「いいぞ、しかし遅かったな。またこれ以上のギャンブルは禁止だ、等と言って逃げるのかと思っていたぞ?」
「まさか。こんな面白い見世物、俺だって見逃すつもりは無いさ」

男の声は、もう先ほどまでのように揺れてはいなかった。
冷たく、突き放し、楽しむような口調になる。
これよりは少女を少女としてではなく、一人のギャンブラーとして見なす。
そう決めたのだから、失礼な態度は見せられない。
男は帝愛の黒服として、最大級のおもてなしを遂行すると決めたのだ。

「次の戦いはお前と、ある人物の一対一。二人麻雀。サシの真剣勝負だ。
 麻雀としては少々趣が異なってくるかもしれないが、お前と奴ならば関係無いだろう」
「…………」

いよいよ、か。
と、天江衣は覚悟を決めるかのように、目を閉じた。
折れぬ意志、それを満足げに見下ろして、男は告げる。

「では教えよう。次の戦局は――」


◇ ◇ ◇


「…………っ! …………ッ!!」

……ん?
あ……?
なんだこりゃ?
何で揺れてんだ、俺。

「お姉さまッ! お姉さまッッ!!」

っ……うっせえな。
なんだこいつ、耳元でガミガミと。
ああ、俺を揺らしてんのも……ってか抱きついて来てんのもコイツか。
ったく、こちとら怪我人だってのによぉ。

「ああ、お姉さまッ! わたくしは……わたくしはっ……!」
「白井さん! 白井さん! 落ち着いてくださいッ!」

あーちくしょ。
やっぱ動かねぇな、身体。
ちょいと無理しすぎたか。
まあ賭けっちゃ賭けだったしなぁ。
目的地目前でぶっ倒れたのも、しょうがねえんだけど……。
てか、うるせえよこいつら。いつの間にか女の声がも一つ増えてやがるしよ。

「浅上……さん?」
「揺り動かしてもその人の害になるだけです。貴女ならそのくらい分るはずじゃないですか。
 お願いですから落ち着いてください!」

黒髪の女が制止に入る。
喚いてやがった女は、それでどうやら納まったようだ。
やれやれこれから俺はどうなるんだかねぇ。
なんて考え始めていた時だ。

「…………」

俺にしがみついたまま、女は俺の顔を覗き込んできやがった。
なんだよ?
今の俺に返事する体力なんざ残ってねえぞ。

「……やっぱり、お姉さまですわ」

女は俺の顔をじろじろと見ながら言い放った。
というか、あーあー。
そんなに涙を溜めた目で見つめてきやがって。

「知ってる人、なんですか?」

そして女の背後で、黒髪の(これまた美人の若い)女も俺の顔を覗き込んでいた。
なんだってんだろうな。
そろいも揃って人の顔をジロジロと。
いや俺の顔じゃねえけども。

「……ええ」



頷き、濡れた声。
いやいや。
俺はお前なんか知らねえっての。
そもそも俺は『お姉さま』なんて柄じゃ……ああ、そういうことか。
なるほどねぇ……。
こいつ、あのガキの妹かなにか、か?

「とりあえず、この人を運んで手当てしないと……。ずっとここにいたって、何も出来ませんし。
 船の中で話を聞かせてもらえませんか?」
「そう……ですわね……」

黒髪の女も周囲を警戒しながら、目前の船を指す。
俺を『お姉さま』呼ばわりの女が、俺をおぶる。
何だ知らねえが、事の風向きはそう悪くねえみたいだ。
女の背中の上で、拡散していた意識をかき集め、思考する。

結局、そこから船にたどり着くまでの間、俺は一言しか言えなかった。
情けの無い有様だが。いや十分十分。
楽しくなりそうだねぇ。

今はまだ浅い、微かに香る程度だが……。

確かに匂った。
血の臭い。
戦場の気配。
近い。そう遠くない内に、ここに戦争がやってくる。

その確信を得て、俺は。

「……ははっ」

堪えきれずに、零すように、小さく哂った。

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最終更新:2011年09月08日 12:13