See visionS / Fragments 8 :『あめあがり』 -Index-Librorum-Prohibitorum-◆ANI3oprwOY



そこは薄暗く、肌寒く、静けさの中に沈んでいた。
拙い息遣いも、外で鳴る雨の音も、遠い残響にしか聞こえない。

寂れたアパートのなにもない一室。
最低限の家具すらない、伽藍とした空き部屋。
明かりもつかず冷え切った空間は、生活感にとても乏しかった。

なにも描かれていない、まっさらなキャンバスを思わせる部屋。
タイルが敷かれただけのダイニングの床に、毛布のかけられた4つの死体が横たえられている。
それだけで、空間は簡易な霊安室に早変わりしていた。

魂が置き去りにされた空の殻。
髪は乱れ、肌は傷つき、服には血がにじんでいる。そもそも人間としての部品が足りていない者もいる。

「――――――」

揃えられた少女たちを、逸らさず見据える。
何度見ても、変わらぬ死体のままだ。
うちの誰かは、誰かが愛した人だった。
喜びも苦しみも分かち合い、これからを共に生きていけると信じていた頃が、随分遠くに感じられる。
既にそれは遠いものとなってしまっていた。

息を吹き返す不条理、ご都合主義は起こり得ない。
死んだ人間は蘇らない。命は取り戻せない。
あらゆる倫理や常識という法則を無視した場所でも、その理だけは頑なに守られている。
どれだけ日を跨いでも彼女たちが目覚める時は来ない。

未来に期待し、今を動けるのは生きている者だけにある特権だ。
道は見えない。
光は届かない。
目の前には絶望が山と積まれている。
だが残されたものは確かにある。

疵だらけの体と心の証。
肩に背負い、胸に埋め込まれ、肌と肉に刻まれて消えない痕によって、思いを忘れることはない。







――――――雨が、もうすぐ止む。






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◆ ◆ ◆










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◆ ◆ ◆





並べられた遺体の前で、僕、阿良々木暦は膝をつき、手を合わせていた。
何かに向けた祈りなんかじゃない。
この地に救いをもたらす神なんていないのだから。
現世の地獄とでもいえるこの場所で尽きた命が天国に至るなど、僕は微塵も思わない。
だからせめて、音のない祈りだけが、僕に許される弔いだった。


「彼女たちは、ここに置いていく」

閉じていた眼を開けると同時、僕の後ろで壁に凭れて立っていた、枢木スザクがそう告げる。
声は反響もせず、黒い部屋に溶けて消えていった。
僕は喋らない。
枢木を見ようとはしない。
無視しているわけではなくて、瞳は下を向いて離れようとはせず、返す言葉はみつからない。

「もう、失ったんだ。失ったものは守れない。
 これ以上、死体を連れて歩くことに意味はない。囚われ、引きずられるだけだ」

過去を想うからこそ人は明日を願う。
だが過去はやはり過去でしかない。過ぎ去った、終わったものだ。
命は消え、彼女たちは死んだ。
抱いた意志や願いが残りはしても、それが留まるのは死体にではない。
もっと先の、夢見た未来に向かっていくものだと、僕は思う。

「そもそも、このまま元の世界に連れて帰るわけにもいかないだろう」
「……」










「……………………」
「…………連れて帰るつもりだったのか?」

かなりの間をおいて、枢木が聞き返した。
その声は、何の感情も籠っていないように思えたさっきまでとは違って、明らかに何かしらの感情が入っていた。
それが何なのかは、僕にはわからなかったけれど。

「いや、さ。少し前まではそのつもりだったんだよ。
 お義父さん――じゃない、戦場ヶ原のお父さんに、色々伝えなきゃならないって。
 他にも神原に千石に八九寺……は元々浮遊霊だしどうにもならないか。
 そうするのが、ひとり生き残った後の僕の責任だと思ってた」

表情は変わらない。阿良々木暦(ぼく)は当たり前の表情を保ち続ける。
それは何も感じていないのではなく、たまたまそう見えるだけ。
零れ落ちそうな激情を必死に顔に出そうとせず固まった結果だった。

「もちろん、殺し合いに巻き込まれて死んでしまったなんてありのままの説明のじゃなくて……
 たとえば駆け落ちとかそんな事情で誤魔化して、一生そのまま背負ってたりなんかしようとしてたんだよ」
「……」
「でもさ、駄目だったよ。雨か砂みたいでさ、どんどん手から流れていっちまう。
 考えれば考える程、思い出せば思い出すほど、ああ居なくなっちまったんだなって、分かってさ。
 ……死ぬって、こういう事なんだな。本当に、きれいさっぱり殺されちまった」

鉄面皮が剥がれる。
喉から漏れたのは、ノイズが走るラジオに近い擦れた音だった。
僕のものとは信じられない、乾燥しきって罅割れた、笑い声。
繕いが取れずあやふやになった言葉の羅列。
試験で残り数秒になって苦し紛れに書き込んだ答案のように。
追い込まれたギリギリの殴り書きのような雑音が流れていく。

「きっと筋金入りのヒーローなら、意地でも連れて帰ろうとするかもしれないけど。
 やっぱりさ、僕には生きてる奴への思いしか背負えないよ。
 死体を担ぐ事は、もう出来ない。僕は誰よりも、僕を救わなきゃいけないから」

声はやはりノイズまみれで、けれど今度はしっかりとした音調で語り告げられる。
傍にいる枢木は―――やっぱり、何も答えない。
時計とか空調とか、そういう音がする物が何もない部屋に、本当の静寂が訪れる。
僕も、枢木も、微動だにしない。

まるで時間が凍てついたかのような空間で、その凍りついた時間を動かしたのは一匹の猫だった。

「……えっと」

学校で僕が預かり、いつの間にか僕のデイパックから抜け出していた三匹のうちの一匹。
名前はアーサー、だったかな。
そいつが、ユーフェミアの遺体の上にひょいと飛び乗って、前脚で彼女を包む毛布を剥ぎ取ろうとしている。
止めたほうがいいんだろうか。それとも、毛布をどけてやったほうがいいんだろうかと僕が悩んでいる間に、
猫は自力で目的を達成し、毛布に隠されていたユーフェミアの姿が晒される。
鮮やかな桃色の髪と、生きている人間が当たり前に持っている体温や柔らかさを失くした肌。
それから、赤黒い血で染まった首が―――

「…………………え?」

胴体と離れているように見えた首は、もう一度見直せば身体とは繋がっていた。
だけど、傷自体は、たしかに存在している。
かなり深い。たぶん、首の骨まで届いて、そこで止まったんだろう。
ユーフェミアは、一方通行に何かで胸を貫かれて死んだと聞いている。
その彼女の身体に残された、生きているうちについていたら間違いなく致命傷になるはずの傷跡。
つまり、この首の傷は彼女の死後につけられたということで。
そして、それができたのは―――

「枢木!!」

気がついたら、枢木の胸倉に掴みかかっていた。
僕は枢木を見上げ、枢木は僕を見下ろす。
僕のほうが身長が低いのだから当たり前の状況なんだけれど、それでもそれが腹立たしい。
枢木のことを本当に心配していたユーフェミアの顔がちらついて、どうしようもない。

「……なんで………」

そもそも僕に、枢木に対して怒ったり、まして遺体を傷つけられたユーフェミアの代弁をするなんて権利はないのだ。
それは僕の役割じゃない。
そんなことは僕にはできない。

「どうして……っ」

というか、僕は別にそんなことがしたかったんじゃない。
責めるとか、怒るとか、悲しむとか、失望するとか、そんなんじゃなくて。
じゃあ何なのかと考えると答えは出なくて。
枢木のためでもユーフェミアのためでもない、
ただ僕が勝手にやり場のない感情を抱えて、枢木に一方的にぶつけているだけだった。
理解しているのに、首に深い傷跡を残すユーフェミアがそれでも微笑んでいることを思うと、泣きそうだった。

「……なんで、切り落とさなかったんだ……?」

そして、口を突いて出た言葉に、僕自身が驚いた。
彼女の首を落とそうとした理由ではなく、落とさなかった理由。
僕の問いは、だけど考えてみれば当然のことだった。
不自然なのだ。
枢木は僕の知る限り、生き残っている参加者の中でいちばん、生きるということに強い意思を持っている。
自分が少しでも優位に立つために、死体から首輪を奪おうとしてもおかしくはない。
むしろ、戦場ヶ原の首輪を要求されなかっただけでも感謝していいくらいだ。
その枢木が、ユーフェミアの首を切り落とすことをしなかった。
途中までやっておきながら、途中でやめたのだ。


「切らなかったんじゃなくて、切れなかったんだろ」


僕の問いに答えたのは、枢木じゃなかった。
背後から聞こえた声。
振り返った先にいたのは、切り揃えられた髪、黒色に澄んだ瞳、和の紬。
装いの着物が新しくなった以外には以前と違いのない両儀式だった。

なんとなく、挫かれたようになってしまって、僕は枢木を掴んでいた手を離した。
式は、客観的に見れば何かあったとしか思えないであろう僕らの状況には目もくれず、視線を落す。
その先は、髪を二つに結わえた亡骸。白井黒子の、死体。
すると、式の細い眉が歪みに揺れた。
それは僕の初めて見る式の、『痛み』の表情だったのかもしれなかった。

「……もう、見慣れてるものなのにな」

ぽつりと漏れた言葉は届いても、その意味を図れはしなかった。
死を視る少女。この世の万物に遍く訪れる終わりを捉える眼を持つ彼女には、この死に満ちた部屋がどう視えているのか。
条理ならざる魔眼の世界を共有する術はなく、僕にも枢木にもその資格はない。
従って両儀式の感情を知る手もなく、それきり部屋は静寂を繰り返す。
後はこのまま適当な時間が過ぎ、いずれ自然解散となり外に出る流れとなるだろう。


「あのさ、式」

けど僕は、このまま話を終わらせたくなかった。
自分から話を振る事はあまりない性格であると、少ない交流ながら漠然と理解している。
ましてや自分についての事なら尚更だろう。
それぐらい式の態度は露骨なものだ。
つまりこちらから聞かなければ、これ以上会話に進展は起こらない。両儀式の内の声を聞けない。

余計な干渉なのは判っていた。
怒らせてしまうとだろういう不安は尽きない。
殺気どころか、刀を向けられかねない藪蛇でしかない。
なのに僕は、その疑問を聞いておかなければならないような気がした。



「式、おまえ――後悔してるのか?」



……式は顔を僅かに傾け、僕を一直線に睨む。
地雷を踏んだのは覚悟していたが、本当に怖いな。
目が合った瞬間には殺されてるんじゃないかっていうぐらいビビっていたので無意識に身構えてしまう。
しかしその後に待つ反応は、拍子抜けするぐらいに静かなものだった。

「白井が死んだ事は関係ないし、衛宮と戦って殺したのもオレが決めてやったんだ。後悔なんてない。
 浅上藤乃みたいに償いとか許すとか、そういうのも興味ないよ。
 ……けど何かを失くしたのは本当だと思う。殺した時のアイツは――衛宮は確かに人間だった。
 だから、オレはもう自分を殺せない。人が殺していいのは自分一人だけだから」

声は虚飾も皮肉もなく淡々としていて、どこまでも深く沈んでいきそうだった。
その調子も気になったが、最後の言葉の方に違和感は持っていかれてしまった。

「自分、一人だけ……?」
「そのままの意味だよ。人は生きている間に一人しか殺せない。
 自分の人生の最期を許す為に、自分の為だけに人を殺す権利がある。
 それ以上は受け持てない。誰かを殺せば、そいつの死を背負わなくちゃならないから」

式の言葉の意味は、僕にはあまり理解出来ない。
二人に共通する関係はあまりに少なく、相互の理解には足りないものが多すぎた。
分かるのはただ、両儀式にとって、死とはとても大事なものであるという事だけ。
哀しみや苦しみ、人を殺す行為の意味を、僕が思うよりもずっと知っている。

なら、彼女は。
その禁を破ってしまった式は、いったいどうするのか。
衛宮士郎という男を殺した。
事故のような形だったらしいそれを、式は否定せず受け入れてる。
それだけ大事にしていたものを失ってしまった。
言葉と態度以上にその孔は深刻ではないのか。
だが次なる式の質問で、考える時間は吹き飛ばされた。


「なあ、おまえらは、人を殺したことってあるか?」


「いやそれは」
「オレは答えたぞ。人には聞いたのに自分は言わない気か?」

返す声に詰まる。そこを突かれるとぐうの音も出ない。
失礼を承知で聞いたのはこちらなのだ。
これくらいは受け入れるべきだろうと腹を決め、正直に答えることにした。

「――まだないよ。一度未遂のがあったけど。
 ……ここでのを足したら二度目の未遂になるのかな」

まだ僕が本当の吸血鬼だった頃。
主を救う為応じた決闘で、制御を外した衝動を叩きつけかけた殺意。
仲介人の忍野がいなければ、あれが阿良々木暦の初めての殺人となったろう。

式は答えを聞いていちおうは納得したか、僕に向けていた視線を移動させる。
僕らが話す中、ずっと黙秘を続けていた枢木へと。
催促を求めるように見つめる式の目に、枢木は口を開いた。

「経験ならある。生身でも武器を取ってでも、直接も間接も問わず、数え切れないくらいに殺してきた」

はっきりと、包み隠さない告白。
虚飾も脚色もない、自嘲も自棄もない、ただ事実をありのままに話した声だ。


「……ああ、軍人だって言ってたっけ、おまえ。なら本当に殺してるんだろうな。何人も。
 けどおまえは殺戮を楽しんでもないし、殺した事を捨てようともしてない。
 むしろ、自分を殺したくて仕方ないって顔をしてる」

その時、枢木の瞳が激しく揺れた。
疑う余地もないくらいに、はっきりと。
それが意味するところはわからない。
だけど、枢木の感情が動いた。それだけは確かだった。

「僕は………」

問われた枢木は、そこで言い淀んでで口を止めてしまう。
僕はふと疑問に思う。
あの時、雨の中で、やるべき事があると迷わなかった彼が何故、いったい何を迷っているのか。

「僕を殺すのは僕の役割じゃない。枢木スザクを殺す役割は、すでに他者に託している」

枢木の声は揺れていた。
式の問いには答えている。
だけど、いや、だからこそ。
とても不自然だった。
答えを持っているのなら、揺れる理由がないのだから。



「騙すならもっと上手くやれよ。おまえにはそういうの、むいてないと思うけど」

怒るでもなく、蔑むでもなく。
式は静かにそう告げた。




「……雨が上がったらしい。長居は無用だ」

有無を言わせぬ枢木の一声で、会話劇は幕を下ろす。
窓のカーテンを僅かに開け外を確認して、枢木はリビングを去っていった。アーサーも枢木についていく。
時間は砂時計のように目減りしている。刻限はいずれ迫ってくる。
この語らいが無駄でない時間だとしても、優先するものが他にも多くあるだろう。
一人出ていく枢木に続き式も立ち上がり、最後に僕が後ろについていく。

「……ああ、そうだ式。さっきの質問は平沢にはしないでくれよ」
「オレだって相手は選ぶよ。それにあいつには言うまでもないだろ、もう」

部屋を出て扉の外に回り、そこで後ろへと振り返る。
最後尾にいるのは僕なので、当然そこには誰もいない。

姿の見えない奥に眠るのは、恋を物語ってくれた人。
残した事は多いにある。
幾ら時間を尽くしたって言い足りない。
生涯を費やして伝え続けられるぐらい、たくさんの事がある。
だからこそ、ほんの少し考えた末、選んだのは一言だけ。





「じゃあな戦場ヶ原。縁があったらまた会おう」





パタンと閉められた扉。
この扉が開く事は、もう二度とないだろう。








◆ ◆ ◆






――そうして、雨が上がった。






「……さて、どうしようか」

顔を覗かせた太陽の光の下で、僕は嘆息する。
肺に溜まった重い空気を吐き出し、清浄化した大気を吸い込む。
雨が上がったばかりの空は安らいでいたけど、心が休まるには程遠い。
目下の悩みが晴れる気はしなかった。

放送が終わってより約二時間ほど経過。
次の戦い――などとは呼べない掃討劇が起こるまで、残る者たちは対抗する力を蓄えなければならない。

だけど些か短か過ぎる準備期間だ。
かといって時間があればどうにかなるというわけでもない。
逆転の発想は全く思い浮かばず、起死回生の希望は芽を出す予兆すら感じない。
やれた事といえば体を休め気持ちを整理したぐらいか。



休みの時間が終わり、太陽が顔を出すと共に、各々がアパートを離れていった。
枢木は休んでいた間に何やら書き込んでいた地図を片手に何処かへと行ってしまっている。

式も部屋の中にはいない。荷物も残さず忽然と姿を消してしまっていた。
無駄な会話は極力避けるという行動パターンは、僕にもだいたいわかってきた。
必要があると思わない限り起き上がる理由もないという単純な原理。
そしてここに居ない以上、彼女もやりたい事というのを、やりにいったのだろう。
行き先が分からないのは気になるけど……まあ、用があれば向こうからやってくるはずだ。


――冷たい空気が居間に吹き込んできた。
流れる風の出所、玄関に繋がる白い戸は開きっぱなしなっている。
入り口は依然、式に壊されてしまったままだ。

「まったく……」

枢木といい式といい、微妙に違った意味でマイペースな性格だ。
開けっ放しで出ていきやがって、部屋が冷えるのも構わないのだろうか。
自然に、軽い悪態をついてしまう。

元々人口の少なかった部屋から、あっという間に半数がいなくなった。じきに気配すら消えていくだろう。
新鮮な空気が吹き込めば、人の匂いも熱も、流されていく。
彼らは果たしてここに戻ってくるのか。

「誰かの心配なんて、してる場合じゃないけどな」

鞄を持ち、靴をはいて外を目指す。
雨が上がって、動き出した今、僕はこれからどうするのか。
やることはだいたい決めていた。

取り留めのない思いつきだ。
ガンダムエピオン。あの巨大兵器の様子を近くまで見に行ってみるという、それだけの発想だった。
近づいた所で何が出来るかも分からない。何も出来ない、何も得られない可能性のほうが高いだろう。

しかしアレは、きっと今も自分たちにとって最後の砦になる。そんな予感がしていた。
あの機体は、何か重要な意味を今も持ち続けてる。
根拠はなく、自信も小さい希望的観測だ。単にそう信じたいだけなのかもしれない。

何か出来ればいいと。
グラハム・エーカーが、いつ帰ってきてもいいように。
彼の意思は帰ってくるのだと信じるために。
そういう自分勝手な、ただのエゴを守りたい、つまりはそれだけなんだ。
だから僕も今、ここから何処かに行こうとしていて―――


「……あー、そうだ」

下駄箱に片手をついて、靴をはきながら振り返る。
白々しかった、だろうか。

すっかり広くなった部屋の中。
ただ一人。窓際に佇む少女だけが、取り残されていた。
僕の目線と、彼女の少し上げたそれが、しばしかち合う。



「――お前も、くるか?」



手を引くと言った手前、放置していくのは気が引けた。
僕の適当な抵抗計画。
その適当な誘いに、彼女は。


「……やっぱり」

彼女は少しだけ、どこか『痛そうに』、目を細めて。
制服の袖口を強く握りながら俯いた。


「あなたは、『ついてこい』……って、言ってくれないんですね」
「ああ。だってそれは、お前が決めることだろ」
「そう、なんですよね。……うん、そうなんだよね」

か細い声で、後半は自分自身に言葉を向けるようにしながら、彼女もまたゆっくりと立ち上がる。
その華奢な体を、とても重そうに支えながら。

「阿良々木、さん」
「なんだ」
「いいえ、ただ、最初に思ったよりも、厳しい人だったんだなって、思っただけです」
「…………」

ほんの少しだけ、非難めいた響きを秘めているような気がした。
言葉の意味は、考えないでおこう。

「……で、来るのか?」

立ち上がった平沢は、結局、返事をしなかった。
それでも一度だけ、こくりと頷き返した。
『行く』と、彼女自身の意思を確かに示す。


「よし。じゃあ、行こうか」


僕には、それで十分だった。





◆ ◆ ◆




「――まあ、無駄だったわけだけどさ」

輝く陽光を浴びながら、僕は再び項垂れていた。

「……?」
「いや、気にしないでくれ。わびしい独り言だからさ」

平沢に手を振りながらガックリと肩を落す。
予想はしていたけれど、一寸の狂いなくその通りになってしまうのはやはり少し堪える。
太陽が肌に痛い。雨でずぶ濡れになっていた時とは逆に体温が高くなっている。
水で洗ったばかりの肌に幾つも汗が浮き出て流れていた。
土木作業さながらな労働は苦にはならないけど、無駄な結果で終わったとなれば疲労感もひとしおだ。

ガンダムエピオンの修理。
思い立ったはいいが、着手に入れる自信は初めからなかった。
経験どころか工学知識すらもない、いち高校生にそんな大層な作業が出来るはずもない。

それでも、不足している技術を補える、頼りになる当てはあったのだ。
雨が降る中もこちらへ加わってくる事もなくずっと立ち尽くしていた白い修道服。
インデックスは岩の陰で座り、僕らを観察するように眺めている。
様々な知識が収められ主催でも重宝されていたという彼女なら、機械の方面でも知識を持っているかと期待していた。
事実インデックスは主催により必要分だけの機械知識は有していると答え、意外にも色々と教えてくれもした。
問題はここから、

「元手がないんじゃ幾ら知識があったって動かせないよなあ……」

知識を詰め込まれたインデックスだが、彼女に修理作業の経験もなく、また出来ない。
そうなると直接作業するのは僕たちであり、そうなるとまた壁にぶち当たってしまう。
ひと通りエピオンを見回して――上半身を見る時はインデックスを背負って気合で登った――から、
インデックスはエピオンの補修部分やそれに必要なパーツの名称などを機械的に並べ立ててきた。
合金の補強だのアポジモーター交換だのと、聞いてるだけで精神がすり減らされそうな言葉の羅列。
濁流の如し情報の波はそれこそ異世界の呪文めいていて、あやうく知恵熱を起こすかと思った。
当然、平沢も困った表情で顔を横に振るだけ。
更に言うなら、部品を購入するペリカも販売機も見つからないので、あえなくエピオン修理計画は無期限凍結となったのであった。

唯一の幸運といえば、破損箇所はあるが外見だけを見る限りでは、運用自体にまだ支障は出ないという事ぐらいだ。
今エピオンが動かないのは、強力な衝撃を受けたかシステム内の演算機能にエラーが頻発したか、
その両方を起こして一時不全に陥っているかららしい。
とにかく乗り込み操作すれば動かせるという事で、そうするとこの行為自体もまるで無意味ではないのかと更に気を落としてしまうわけだけど。


「でもま、終われないよな、これじゃ」

既にどん底にいる気分だ。今更落ちた所で凹まない。
やるだけやろう、という気になっている。
横目で、背後の岩に座り込んでいる平沢を見る。

僕は一人じゃない、彼女もまた、戦っている。
彼女が自分で助かりたいと思ったからこそ手を伸ばした。
生きたいと、そう願ってくれたのだから。

「――よし、やるぞっ」

何をやるのかも決まってないが、それでも決まっているものはある。
無駄でも無為でも無様であっても、まだ動く理由は失くしていない。
力のある限りは、後悔せず必死にあがいていきたい。

偽らざる本音で隠せない本心がこれだ。
諦めの悪さだけなら、ほんの少しだけ自信がある。
ならまずは次なる計画を立てねばと頭を捻らせてるところへ、遠くから聞こえてくる力強いエンジン音を耳にした。


「……枢木、か?」

路地の砂利を轢き潰しながら、各所をへこませた一台の車両がこちらへ向けて走ってきた。
出発前の分配で、いくつかの荷物は元の持ち主と違った者の手に渡っている。
近づいてくるのは、機動兵器が手に入るまでは主な移動手段として利用され続けていたジープだった。
ジープは手前で停まる。操縦席に乗っていたのは現在の所有者である枢木だった。

「乗ってくれ」

僕らの目の前で車体を止めるなり、開口一番、同席を求めてきた。
後部座席には二つのデイバッグ、それ以外にも様々な工具などが置かれている。
装備を見るだけでも車を走らせ、何かを探しに行く準備をしているのが分かる。

「いや待ってくれ、いったい何処に、何をしに行くんだ?」

とりあえず沸いた疑問を投げかける。
この状況下、向かう先とはどのような場所なのか。

「――ルルーシュが僕に残していったものを回収しにいく」

その台詞にどれだけの驚きがあるのかは、後ろで息を呑む平沢が如実に語っていた。
彼女の挙動に目を寄せる者は誰もないまま、枢木は説明を続けていく。

「僕一人だと時間も労力もかかり過ぎてしまう。
 速やかに事を為すには人手が必要だ。だから手を借りに来た」

死んだ人間からの置き土産。思いがけない名前の到来に、思わず肝心の遺物の詳細を聞くのも忘却してしまった。
しかし何より意外だったのは、枢木がこうして協力を求めに来たこと。

思考の猶予、整理する時間は誰しもが平等に与えられたいた。
人手が必要だという合理的な判断に基いての行動なのかもしれない。
目的意識においては今いるメンバーで最も強いものを抱えているのが枢木スザクなのだから、腹芸のひとつはこなせるだろう。

前提がそうであってもしかし、僕は密やかにも嬉しさを感じていた。
どのような思惑があっても、枢木がこの繋がりを断たずにいてくれた事に感謝をしたかった。
誰かの支えになろうとして逆に助け舟を出されるのだから、やはりこういう役目にしかなれないのだろうかと苦笑するけれど。

「ああ判った。手伝うよ。それとありがとな」
「感謝される謂われはない」

ドアを開いていざ乗り込もうとする前に、ふとこの状況に既視感が湧く。
ちょうど数十分前の繰り返しのように、僕は後ろを振り返った。


「平沢、おまえは――」
「ごめんなさい」


か細い、だけど明確な主張が、振り返り切るよりも先に言い出された。
皺がつくほどスカートを指で握り締めている平沢の顔は、俯いているせいで見る事が出来ない。

「私は……行きたくない、です」

声は限界まで絞られているのに、拒絶の意志だけは簡単に読み取れた。
それだけ敏感に反応した理由も、容易に知る事が出来る。
僕は僕の軽率さを、少し悔やむ。

そりゃそうか、って思う。
思いが戻って、死んだ人を見るしかなくなって、だけどそれで、何の解決になるっていうんだ。
それだけで解決するほど彼女の問題が簡単ならば、そもそも彼女は何一つ苦しむことも、間違えることもなかったのに。

「――そっか。分かったよ」

行きたくないのなら連れて行く理由はない。
それが彼女の意志なら。
不満も何もなく、受け入れるしかない。
いつか彼女が向き合える様になるまで、待つしか無い。
たとえ、どれだけ時間が少なくても……。

「じゃあ……僕らは行ってくるから、ちょっとだけ待っててくれ」

「――ぁ――――――、……はい」

何かを言いかけようとしたのか、僅かに平沢は顔を上げるけど、またすぐに沈んでしまう。
その際、一瞬見えた瞳が、まるで助けを乞うように見えて。
だからジープに乗り込んだ僕は、少しでも安心させようと助手席から声をかけた。


「大丈夫、すぐ戻るよ」

何気のない、普通の一言。
帰る場所がある人なら、当然に出せる言葉。
それを聞いた平沢はまたスカートを握り締めながら、固まってしまい、その場で黙ってしまう。

そのまま車は走り出し、立ち尽くす彼女の姿は、どんどん小さくなる。
景色は動き、街は遠ざかっていく。



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最終更新:2013年09月08日 06:37