少女、楓之風香は、混乱していた。
常に笑顔を見せていたその表情に、笑みはなく、ガクガクを震えている。
それはいつかのトラウマだった。
あの、木幹葉枝の行った『見せしめ行為』は、風香の一つの埋められし記憶を掘り返す。
思い出したくもない、一つの記憶。
懐かしみたくもない、一つの記録。
母――楓之香織の、父――楓之虱(しらみ)殺し。
次いで、母親からの、子――楓之風香に対しての、殺人未遂。
結局は母の方が最終的に情に負け崩れ、未遂に終わったそれ。
ただ、母親から殺されそうになって、精神に傷を負わない人間なんて――いない。
楓之風香は思い返す。――いや、引っ張り出された記憶の欠片を、見せられた。
「…………いや……いやっ!……」
風香は、直感で感じた。
あの目。
木幹葉枝のオッドアイに感じた威圧――風格は、母のそれだった。
言葉では表現できない、腐った目。
信じてはいけない――得体のしれないナニカ。
怖くないわけがなかった。
だから震える。立ち止まる。動けない。
高校生のそれとは見合わない体格の少女。
未だ小学生相応の柔らかさや、線の丸みを帯びた整った顔には、笑顔はなく。
いつもの無邪気そうな真ん丸の大きな瞳は形を崩し、涙をためて、低い鼻や、ほんのりと赤く染まった頬を濡らしていく。
外にはねた深緑色をした綺麗な髪は、風に揺れるが、それを止めようともしない。
天真爛漫の権化であった彼女の姿には、面影などなく。ただただ弱ったらしい、可憐な少女でしかなかった。
と。
言うところで、風香は俯かせていた顔を、あげた。
――ジャリ。
砂を踏む音が聞こえる。
ここは運動場。
故に砂を踏む音がした――なんていったら、あり得る可能性は一つ。
「あ、やっほー楓之さん」
人がいる――ということで、
目の前にいる、黒髪の少年の姿は、楔音契也のものだった。
○
楔音契也という人間は、他人と言うものに興味がない。
とはいえ、それは自分が偉いとか謳っているそこらへんの雑魚相応の理由故ではない。
単純な問題で、興味がわかないから、興味がわかない。
理由なんていらない。
だたそれだけの問題なんだから。
この少人数クラスである3年A組に入ったのだって、人が少なく、関わらずにすみそうだから。
それだけである。何の説明のしようがない。
人を好きになれないというのは、致命的。
そんなことはわかっている。けれど、できないものは、またできない。
そのように思いながら、彼は日々を生きていた。
閑話休題。
楔音契也。
その暗い瞳。
真っ黒で、淀んでいる瞳が、今この場を映す光景とは――なんなのか。
考えるまでもなかった。
彼には考える時間が無かった。躊躇う時間もまた――ない。
行動の一例として。手始めとして。
彼は、運動場に配置された体育倉庫から盗み出した鉄パイプを――楓之風香に向かって、振り下ろした。
○
「…………ぁがっ」
「やだなー楓之さん。女の子の出す声じゃないよ、自信ないけどね」
……結論からいえば、契也が振り下ろしたのは、風香の右肩の部分。
思い切りよく、勢い付けて、振り下ろす。
単純明快。
瞬間、聞こえたのは、なにかが崩れた……壊れた……砕けた音。
骨。
風香の右肩は、たったその一撃で、折れてしまった。
避ける暇なんて皆無。
止める隙なんて絶無。
呆気なく、ただ呆気なく、命中させられた。
そんな中で、契也は言葉を吐いた。
思ったことを、気まぐれでなんとなく列ねる。ただそれだけの行為。
「そういやさ、たしか楓之ちゃんの親って人殺しなんだよねー」
「――――っ!」
風香は痛みで、思考にもやがかかってきた。
気を抜けば悶え苦しみながら、そのまま殺されてしまいそうで。
必死に肩をおさえながら、彼、契也の姿を見る。
運動能力など皆無に近い彼女には、はなから逃亡なんていう選択肢はなくて、もう何も考えない様に、無心を保とうと意識する。
それでも、体は正直だ。思わず、反応を取ってしまう。
それは禁句。
彼女の前で喋るのは、禁じられていた言葉。
いつもクラスでは禁句とされてきた言葉を、わけもなく列ねる。
気軽な口調で、坦々と。されど耽々とせず。淡々と。
「いやはや、実を言うと可愛い顔して僕のこと殺そうとしてたんじゃないの?
危ない危ない。ふう、みんなー! 僕がこの悪者をやっつけておいたからね!」
「……け……契也……くん……」
心底疲れ切った表情で。
そして、絶望しきった表情の果てに。
風香は、言葉を漏らすしか、できなかった。
契也は侮蔑を含めた視線と言葉で、風香を責め立てる。
もしくは、無関心な故なだけかもしれないけれど。
「まさか人殺しの血族をこうもあっさりやっつけるなんて僕凄いのかな。
うーん、大丈夫、安心して。今すぐ殺してあげるから。別に僕はきみのことなんてどうだっていいしね」
「……や、……」
「うるさいな。人殺しのお子さん。やめてよ、どうせ沸々と湧き出る殺意が怖かっただけなんでしょ。嘘吐きは死んでしまえばいいんだよ」
「…………」
止めてよ、と。
風香は言えなかった。
言葉がつまって、言語を忘れて。
契也の言葉を、反論することだって、できなかった。
――悔しいというより先に悲しかった。なんで。
なんでよりにもよって、クラスメイトにそんなことを糾弾されなければならないのか。
頭が回らなくて、頭が働かない。
どうしようもない暗い、ひたすら深くて先の見えない真っ黒の闇。
斬り裂くことすらかなわない、過去(みらい)。
責め立てられる理由だって本当はないのに、この異様な場にして言葉が沈む。
たしかに人殺しの子ではあるが、言いかえればそれだけであるにもかかわらず。
楓之風香は。
楓之風香と言う人物は、人を殺してなんかいない、善人なのに。
「善人の皮なんてかぶんなよ、楓之風香さん。なんていうんだろうね、うーん――キモイ?」
プツン。
と。
瞬間。
風香の頭の中で、なにかが切れた。
ピアノ線が切れたかのように。堪忍袋の緒が切れるかのように。
「あ、あ……」
クラスの中で、それが――風香の親のことが禁句とされる理由。禁句と言わしめる理由。
理由は簡単。
「――――!」
風香の自我が、脆く醜く砕け散るから。
二重人格ですらない。崩壊の一途。
走る。
決して早くないその足を、我武者羅に動かす。
契也に背を向けて、走る走る走る。
「んー。榊田から聞いた噂って言うのは本当だったんだねー。――ま、どうでもいっか」
その遅い足取りを、契也はぼんやりと眺める。
追えば普通に追いつく速度に距離。
けれど、眺める。
意味などない。
意味などないけれど、追わない。
「人殺しなんて趣味じゃないからね」
彼は何も、殺人犯、殺人鬼、殺人狂ではない。
わざわざ手を汚すことはしたくない。
「気分が悪いからさ」
ただ、そういって、先ほどの鉄パイプを、肩に乗せて、風香が去っていった方向とは違う方向を目指して、彼は歩いて行った。
【楓之風香:生存中、右肩骨折:もちものなし】
【楔音契也:生存中:鉄パイプ】
【6人】
最終更新:2012年05月29日 21:24