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星の夢


 トゥルビネ。
 日本語で、つむじ風。
 祖国を発ってから一日と半分くらいが経過した頃、ようやっと私は目的地の田舎町へ辿り着くことができた。
 いくら外国だからってまさか路面バスのシステムがまったく日本と違うなんてことはないだろう――そう高を括ったのが見事に仇となり、日本のものとは微妙に違うシステム、マナーなどに翻弄されすっかり疲れきってしまった。
 整理券とお金を支払って這々の体でバスから降りる。思わず深い溜息が溢れだした。

 「あはは……ほんっっっとーに疲れた…………」

 笑う門には福来ると言うから精一杯笑顔を取り繕うも、案の定渇いた笑いにしかならない。どだい生まれ育った県外にもまともに出たことのないような世間知らずが、ガイドも付けずに海外渡航する時点で相当に無茶苦茶なプランだったのだ。
 思い出すとあまりの己の馬鹿さ加減に真剣に死にたくなってくるので、自虐はこの辺りにしよう。……くすっ。気付けば今度は本当に自然に笑っていた。遂に辿り着いたんだ。事の発端は、戯れにぺらぺらと捲っていた旅行誌の中にあった小さな町の紹介記事。

 ――、一目で。ここしかない、と感じた。

 少女漫画じゃないけれど、一目惚れという心理現象にひどく近しい惹かれ方だったと思う。細かしい説明なんてどうでもよくって、ページの隅っこに慎ましく貼り付けられた町並みの写真や自然の絵図の、その全てが魅惑的で蠱惑的で仕方なかった。
 思い立ったが吉日、それ以外は全て凶日――どこかで聞いた文句を思い出して、私はすぐに準備を整えた。いつも鈍臭くて失敗ばかりの私なのに、あの時はすごく手際よく準備できたなあ。恋する乙女は、やっぱり盲目だ。
 恋とはちょっと違うし、同じにするなんて失礼だと思うけれど。
 すうううっ――鼻孔いっぱいにイタリアの空気を吸い込んで、意気揚々と歩き出す。使い古したスニーカーのボロボロ加減も今はどうしてか絵になると感じてしまう。この時の私は、兎に角冷静ではなかったから。

 私の名前は、相沢彩月(あいざわ・さつき)。
 歳は19歳で、今年大学に進学したばっかりだ。
 一応日本人なら誰もが聞き覚えのあるだろう名門校なんだけど、あいにく私の脳味噌では高度な授業にはあまりついていけてないのが実情だったりする。でも自由度は学生の頃とやっぱり段違いに高いと、私は日々痛感させられ続けた。
 こうやって一人旅に出るなんてことも、高校生じゃあいろんなルールが邪魔をして出来なかったろう。
 そんなだから、なんだか複雑でもある。大人になるって悲しいことだね。あはは――

 とまあ、自己紹介はこの辺にして。
 歩き始めて程なくすると、向こう側に建物がいっぱい見えてきた。
 どうやら住宅街に差し掛かったらしい。外で世間話をしている主婦らしき人達や散歩中の老人、犬の散歩をする子供……こういうところは万国共通なんだなあと、少し感心させられる。
 感心ついでに勇気を出して話しかけてみよう。
 幸いにも、イタリア語は高校の選択科目で履修していた。言っても学校で習うのなんて初歩の初歩レベルで、各地の微妙な訛りやスラングまでカバーできているとはとても言い難いんだけど……大丈夫。このくらいなら、きっと通じるはずだ。

 「すみません、少しお時間よろしいでしょうか」
 「――ン? 何だい嬢ちゃん。日本人か?」
 「え……はい、そうですが……」

 試しに話しかけた金髪の男の人に、予期せず聞き返されて少しだけ狼狽える。ライダースーツを着た、なんだか今時って感じの人だ。言っても私よりは歳上だろう。背丈はともかく、雰囲気がどこか大人っぽい。
 でも何より驚いたのは、こっちはイタリア語で話しかけたのにあっちは日本語で返してきたことだった。しかも結構流暢だ。いや勿論そっちの方が有難いといえば有難いのだけれど。

 「へえ、やっぱりそうか! いやああんたの国には日頃からお世話になってるよ、このバイクだってそっちの車会社から友達のコネで安く買ったもんなんだけどもう最高でさあ……!! やっぱスピンが違うぜ、スピンが!!」
 「は、はあ……」

 困った。
 外人はノリがいい生き物だなんて分かってるけども、いざ実際目の当たりにするとこうも対応に困らされるものなのか。
 メイド・イン・ジャパンのブランドが海外でものすごい意味を持っているとはよく聞く。所詮某巨大掲示板の都市伝説みたいものだと思ってたのに、全く予想だにしないところで伝説が本物であることを知ってしまった。
 そんなこっちの心境など露知らない様子でマシンガントークを続ける男の人。その勢いに気圧されつつも、おずおずと口を開く。私は免許持ってないしバイクの薀蓄を語られても半分だって理解できないから、本人だってなんか可愛そうだ。
 いや一番かわいそうなのはどう考えたって私だけども。百人に聞いたら百人がスタンディングオペレーションしながら答えるくらい私だけど。そんなことを訴えても仕方ないので、兎にも角にも当初の要件を伝えてしまうことにする。

 「あ、あの。実は私、このトゥルビネに旅行に来たんです」
 「それでこの前なんかライバルのケビンと――って、んん? 旅行……そりゃ物好きだなあ嬢ちゃん。あんたみたいな若い娘が楽しめる洒落たものなんて此処にはないぜ。俺もダチの手伝いでアメリカから飛んで来たんだけどまあつまんねーの。
  イカしたディスコもなけりゃゲーセンもウン十年前の絶滅危惧種みてえなシューティングしかねえ。真新しいもんったら、最近新調された図書館くらいだろ。まあスマホでパパっと調べた方が早いけどなあ」
 「そうではなくて。……景色を」

 景色?
 鸚鵡返しに疑問符を浮かべる彼に、私はこくり頷く。

 「この町で一番綺麗な景色が見られる場所。知りませんか」



 ……星を見るのが好きな子供だった。
 いつからそうだったかはよく覚えていない。
 でも、お父さんは昔お母さんとプラネタリウムを見に行ったからだって聞いている。
 私のお母さんはとっくの昔に亡くなった。私が小学校にあがるよりも前に身体を壊して、病院で精密検査を受けた時にはもう手遅
れだったらしい。“らしい”というのも、私はお母さんについて殆ど覚えていることがなかったりするのだ。
 嫌いだったわけじゃない。むしろ、多分私はお母さんっ子だったんだろうなと思ってさえいる。きっと甘えん坊で、いつも困らせてばっかりだったに違いない。
 私がお母さんについて覚えている記憶は一つだけ。
 ……とっても寂しいことだけど。たったひとつだ。

“ 彩月。あなたが大きくなったら、きっといつか。自分の命よりも大切な人と出会う日が来るわ。だから、その時――後悔しない行動を取るのよ。お母さんみたいに、ならないようにね…… ”

 ――そう、無味乾燥とした病室の中で一言伝えられた思い出。ただそれだけが私にとってのお母さんの姿であって、後は話で聞くことしか出来ない、なんだかとっても遠い存在になってしまっている。

 お父さんからプラネタリウムの話を聞いたその日から、私はますます天体観測に勤しむようになっていった。夜に出かけることはできなかったから、お父さんが寝静まったのを確認して自分の部屋の窓から空を見上げる。
 天体望遠鏡はお小遣いを貯めて自分で買った。目玉が飛び出そうな値段だったから、リサイクルショップに頼ったのは秘密だ。
 毎日、毎日毎日――星が見える日は、どんなに忙しくても空を見た。
 いつしか星座には誰よりも詳しくなっていた。理科の授業でも、天体の分野になると人が変わったように高い成績を取ることが出来た。みんなから褒められて、勉強熱心な子だと言われて。けど、そんなのちっとも嬉しくなんてなかった。
 嬉しいとか、嬉しくないとかじゃない。そんなの眼中になかった。私は、自分が好きだから空を見ていただけなんだから。

 ――――本当に? ううん、それだけじゃないはずだ。

 人は死んだら、お星様になるんだよ。
 そんなお伽話を耳にして、私は胸を踊らせた。
 あの星の中に、お母さんがいる。話したことすら碌に覚えていないお母さんが、今も見守ってくれている。一目でいいから見てみたい。微笑んでほしい。……今思えば、なんともバカバカしい話だけど。当時の私は、夢しか見ていなかった。
 海外旅行なんて出来るほどうちは裕福じゃなくて。でも、ずっと小さな頃から、海の向こうの国から見上げる星空はどんなものなんだろうと思っていて。何年越しか分からないけど、とにかく此処に、ようやく私の夢のひとつが叶うというわけだった。
 もちろん星を見るためだけじゃなく、もっと大事な理由もあるのだけれど。
 とりあえず今は、夢を叶えたい。後のことはそれから考えていけばいいだろう。

 「そっか! それなら、裏山の展望台に登ればいいと思うぜ?」

 私の質問に、彼はにかっと笑ってそう答えた。
 トゥルビネは山に隣接した地域で、そこは裏山と呼ばれているようだ。指差された方向を目を凝らして見ると、確かに一部整備された空間が存在するのが確認できる。……あそこなら、町も一望できるし星も綺麗に見えそうだ。
 ぱあっと表情が明るくなるのを感じる。「喜んでくれたみたいで何よりだぜ」と屈託のない笑顔で笑われて、とたんに気恥ずかしくなって顔を背けた。顔が真っ赤になっているのが自分でもわかったから、ぺこりと頭を下げてたたたた、と小走りになる。
 ちょっとどころじゃなく失礼なことは承知の上。だが羞恥心には勝てなかったよ……。

 「あっ、最後に一つだけ聞いてもいいかな!」

 背後から、彼の呼び止める声がかけられて私は振り返らないまま足を止める。
 なんですか――返すと、彼はこう聞いた。

 「その腕……怪我でもしてるのか? 俺はこう見えても医者でな、なんなら薬を処方してもいいんだが……」

 腕。
 怪我。
 私は反射的に自分の右手に視線を落とす。そこには包帯が巻きつけられている。自分で巻いたものだ。特に怪我をしたわけではなかったが、少し気味の悪いモノが出てしまったから……こうして隠すことにしていた。
 事のあらましは一週間ほど前になる。旅行の計画を立てながら、いつも通り惰性で講義を聞き流している時。突然、右手に鋭い熱を感じた。焼けるような熱さに只事ならぬものを感じた私は席を立ち、洗面所で手を冷やすことにしたのだが――。
 すると、どうだ。十分が経過した頃には、プロが入れた刺青のように見事な形をした“痣”が浮かび上がってきたではないか。洗っても、薬を塗っても治る気配はない。それどころか、痛みや痒みさえ訴えることがなくなった。
 皮膚癌の類かとも思ったけど、癌でこんな模様が浮き出るだなんて聞いたことがない。言い知れぬ奇妙なものを感じた私は半ば逃げるような勢いで包帯を巻き、取り急ぎ痣が消えるまで手を隠すことで緊急の処置としたわけである。
 しかし――どうしたものだろう。
 診てくれるというなら甘えてもいいかもしれないが、如何せんこの包帯の下を人に見せるのは抵抗があった。気持ち悪いと罵られたらどうしよう。そんな想像が湧いてくる。……臆病な私は、それ以上考える前に声をあげていた。

 「大丈夫です。ちょっと火傷をしただけですから、心配しないでください」

 そうか。
 彼はそれで納得したのか、私に何か言ってくることはなかった。ただの親切心にも素直になれず疑ってしまう自分の浅ましさに鬱屈とした自己嫌悪の情を催しつつ、私は逃げるようにその場を後にした。



 取り急ぎ、簡単な食事と飲み物でも確保しておこう。今晩泊まる宿もだ。
 いくらなんでも手持ち無沙汰で海を渡るほど馬鹿ではない。贅沢をすればいざ知らず、普通に一日二日お腹を膨れさせるくらいなら使ったところで全然痛くないくらいの額を準備してきている。小さい頃からこつこつお年玉を貯金していたのが幸いした。
 野菜を見ても日本ではまず見かけないものばかりで、なんだか新鮮だった。とはいえ流石に片っ端から買って行く真似はしなかったが。せっかくの旅行なのに自炊するというのもなんだか味気ないし、折角だから出来上がっているものを食べ歩きしようか。
 消沈気味だった気分を立て直すためにも努めて明るく振る舞い、手始めに砂糖漬けにしたフルーツを買ってみる。……甘い! 和菓子ともまた違った砂糖と果汁の甘みが絶え間なく押し寄せてくる。でもくどくなく、後味はあっさりとしていた。
 満喫とまではいかずとも束の間の非日常的体験を楽しみながら、私は日が暮れるまでの時間を潰していく。その片手間にお世話になる宿を探すつもりだったが、そちらについてはフルーツを買った直後に手頃な場所を見繕うことができた。
 少しばかり予算オーバーとなってしまうのはこの際致し方なしだ。
 背中のリュックサックはもうすっかりぱんぱんになっていた。折りたたみ式の天体望遠鏡が持ち物を圧迫するのは勿論、使いもしないのに記念記念と買い込んだアクセサリーや雑貨が所狭しと犇めいている。

 「……ふう」

 そうこうしている内に、いつしか空はオレンジを通り越し薄紫色へ趣を変えていた。トゥルビネの商店街に夜も活動する屋台などはないらしく、続々と店のシャッターが降りて行き、あれほど活気付いていたのが嘘のように町は閑散としていった。
 聞き慣れない鳥の声が哀愁を誘う。子供の頃、友達と遊んでいてこのくらいの時間になるとお別れしなくちゃならないから、得も言われぬ寂しさを感じていたのを思い出す。あの頃は、毎日が楽しかったなあ。
 学校に行って、友達と遊んで、帰ってきたら宿題もせずに遊びに飛び出す。寂しさを胸にお父さんの待つ家へ戻るとほかほかのご飯が用意されてて……それを食べていっぱいお話して、星を見てからぐっすり眠って、また明日――

 「…………、……」

 いつからだろうか。
 いつから――そんな当たり前が、当たり前でなくなってしまったんだろうか。
 徐ろに足を止める。底抜けにノスタルジックな心境が、心臓の脈動と同時に身体中へ流出していく。全身が石化していくようだった。寂しい。寂しい寂しい寂しい寂しい――ぎゅっ、と。弱気を押し殺すように拳を握り締めて私は石化を解いた。
 もう私は子供じゃない。19にもなって未だにこんな弱さを露呈している方がおかしいのだ。

 「こんなことなら、なりたくなんてなかったなあ…………」

 大人になんか、なりたくなかった。
 昔はあれほど強く、早く大人になりたいと願っていたのに、今ではこんなにも子供へ戻りたいと願っている。でもそれは決して叶わない望みだ。時の流れはいつだって一方通行で、逆流することだけは絶対に出来ない非情なもの。
 誰もいない街路に立ち尽くす。ふと気が付くと、視線は包帯へ向いていた。この下には、あの朱い文様がまだ残っているんだろうか。――、ふと。なんだか無性に、あれほど不気味だと見ないようにしていた“それ”が見たくなった。
 ゆっくりと手が包帯の結び目をほどいていく。はらはらと帯が解け、同時に顕になっていく肌。どくどくと胸が高鳴る。何故かは分からない。でも今、自分は言い知れない興奮状態にあるのだと辛うじて脳が理解していた。
 朱が、見える。
 薄れてなんかいない、それどころかいっそう濃くなっているようですらある。その全貌を見ようと、更に包帯を解き放たんと生唾を呑み込んだ――その時。私は息の根が止まるほどの衝撃と共に手を止めることを余儀なくされた。

 「……なんだろう。カツアゲ……かな」

 近くの路地裏から、何やら言い争っているような声が聞こえる。さっきまで聞こえなかったところから察するに、最初は彼らなりに紳士的な物言いと態度で金品を巻き上げようとしていたんだろう。
 ……でもなかなか出さないから業を煮やして恫喝に出た、というところか。あの手の人種はどこにでもいるなあ、と呆れに似た感情を抱きながら、我に返ったように包帯を腕へ巻き直していく。
 ああいう輩のことは好きではない。むしろ嫌悪すらしているのが正直なところだ。関わり合いになって折角の一人旅を台無しにされたら敵わないと、自分に言い聞かせながら私は宿へ戻ろうと一歩を踏み出し――

 「――――、……?」

 足が止まった。
 その理由は聞こえる喧騒に交じる声の種類に、一つ明らかに浮いたものが混じっていたからに他ならない。子供の声だ。年端もいかない女の子――悲鳴ではなかったと思うけど、まさかそんな齢の女の子が破落戸と一緒に行動しているとも思えない。
 間違いない。女の子相手に良からぬ連中がちょっかいを出し、思い通りに運ばなかったか反抗されたことで逆上し今まさに口論へ発展しているのだ。……流石に、いけない。私は脳に火花が散るような感覚を覚えるや否や、喧騒の方角へ歩き出した。
 女の子を傷つける男なんて、最低だ。女の身分からそう言うとなんだか傲慢に聞こえるけれど、私は昔からどうしてもそういうことが許せない、許容できない質らしい。それで泣きを見たことも確かにある。でも、後悔したことは一度だってなかった。
 だから、いつも自信を持つことの出来ない私はこの時、珍しく抜群の自信を胸に動いていた。路地へ入っていき、そのまま薄暗く狭い建物の隙間を縫うように歩む、歩む。やがて、私は騒ぎの中心点へと遂に辿り着き――瞠目させられた。

 「えっ――」

 三人の男が、倒れていた。
 昏倒しているだけのようだが、見事なまでにのされてしまっている。そんな彼らの中央で、一人立っているのは女の子だった。お人形さんみたいな肌と髪の……アルビノっていうんだろうか。とにかく真っ白で、綺麗な娘だ。
 手には何も持っていない。護身用のスタンガンか何かで制圧したというならまだ分かるけど、彼女はどうやら己の肉体一つで大の男三人を鎮圧してのけたらしかった。予想だにしない光景に目をぱちくりさせていると、……女の子が、こっちへ気付く。
 しまった。彼女の表情が、そんな色合いに染まる。その反応はなんだか落ち着いた雰囲気とアンバランスでかわいい。けれどほっこりしている暇はないようで、暫く固まっていた女の子が私に向かって努めて落ち着いた様子で話しかけてくる。

 「あの……もしかして、ご心配をお掛けしてしまいましたか」
 「え!? あ、それは、うん……危ない目に遭ってないかなって思って駆けつけたんだけど、要らなかったみたいだね」
 「……ごめんなさい。完全に私の不手際です」
 「う、ううん。私が好きでやったことなんだから……ほら、頭上げて」

 申し訳無さそうに頭を下げる女の子に、私は慌てて頭を上げてと訴える。……その雰囲気通り、かなり“できた子”みたいだった。ちょっと礼儀正しすぎる気もしたけど、この子はきっと貴族か何かなんだろう。
 それなら護身術として素人程度簡単にいなせる武術を会得していたっておかしくはないし。そうして私が無理矢理自分を納得させていると、女の子は――黙って、私の右手を見つめていた。

 「……えと」
 「少し、よろしいですか。大丈夫、時間は取らせません」

 きゅっと、私の右手を小さな両手でやさしく掴んで。彼女は、私の目を見つめて言う。
 不思議な眼だった。色素欠乏が齎した真っ赤な瞳をじっと見つめていると、何故か心が空っぽになっていくような錯覚を覚える。陳腐な表現だが、吸い込まれるような深さとはこういうものを言うのだろう。
 目を反らせず、身体もびくともしない中。包帯が、剥がされていく。素肌が外気に触れる奇妙な感覚。そして程なく、あの血のように紅い文様が曝け出された。彼女は静かにそれを指でなぞり、じっと見つめて観察する。
 いつの間にか身体は動くようになっていた。この子が私の目から視線を外した瞬間、身体を覆っていた奇妙な感覚が一瞬で消えてなくなったのだ。……ひょっとすると、暗示――催眠術のようなものを、施されていたのかもしれない。

 「やっぱり――貴女」
 「もしかして……だけど。“これ”、なんだか分かるの?」

 恐る恐る問うと、彼女は「はい」と強く一度頷いて。
 そして、その懐から黒光りする金属の何かを抜き放った。
 すごく手慣れた手付きでくるりと一度弄ばれ、がちゃりと奇怪な音を立て私の頭へと向けられる。―――見覚えは勿論あった。いや、真っ当な人生を送っている者ならば、こういう形の武具が存在することを知らないワケがない。
 拳銃だ。
 彼女は、それをすごく自然な動作で私へ向ける。
 そのまま、細くてしなやかな、絹みたい色の指が引き金へかけられて。
 ――――銃声。


 鼓膜を引き裂く、ひどく暴力的な音響が黄昏時の影路地を擘いた。
 何処か他人事のような心境でそれを聞きながら、相沢彩月はぼんやり思う。

 ――ああ、これは死んだ。人並みに平穏な人生を送ってきたと自覚している彼女にとってこういう想いを懐くのは初めての経験だったが、いざ実際回避不可能な“死”に曝されてみると存外心は騒がない。
 無気味なまでの静けさが、彩月の心を満たしていた。。朝方の微風さながらに落ち着いていて淀みなく、何者にも妨げられずひたすらゆっくりと。でも決して止まることもなく迫ってくる。
 銃弾という凶器を身体に通された者が綺麗に死ねるのは映画の中だけだ。実際に鉛の塊を頭蓋に受けた日には頭部が醜く歪んで砕けて、まず間違いなくまともな死に様なんて晒せない。
 そういえば、インターネットのウイルスか何かでショットガン自殺に失敗した男性の画像を見たことがあったっけ。綺麗な死に方が出来ないのも嫌だけど、あんな風になるのも嫌だなあ――状況を鑑みると能天気にも程がある不満を胸に抱えたまま。
 彩月は、赤い飛沫が舞うのを見た。

  「――――えっ?」

 ……しかし、吹き飛んだのは彩月の頭ではない。
 弾は彼女の視界のすぐ真横を通り過ぎ、少し後ろで炸裂して飛沫を散らした。
 ぴしゃりと後頭部に血潮がかかる。気持ちの悪い感覚を、しかし彩月は気にしている暇がなかった。少女が大きく踏み込むと、彩月の手を強引に引っ張って自分の背後へ隠すように移動させたからだ。
 状況を理解する前に再度の銃声が鳴り、また心地悪い水音と空になった薬莢が地へ転がる音が引き続く。でも今度はそれにくわえてもうひとつ、追うように続く音響が存在した。

 ぐしゃり――なにか濡れた物が地面に落ちる音。

 音の正体がいったい何であるかまで、彩月はしかとその二つの眼で視認していた。
 それとほぼ同時に彼女は薄ぼんやりとしたままの、けれど奇妙に覚醒した思考で悟る。自分はきっと、もう逃げられないのだと。あの時、路地に入ってはならなかった。この黄昏は即ち、私の人生(ジャンル)を決定付ける分岐点であったのだ――――

 「ひ……!」
 「悲惨な光景ですが、目を瞑らないで下さい。しっかり見ていて。……私も、貴女のような素人を庇いながら戦った経験はありません。善処はしますが、いざとなれば貴女だけでも走って逃げて貰うことになります」

 それに、こんなもので終わりじゃあありません。
 少女がそう言うと、つい先程銃殺された筈の“そいつ”が数を成して現れる。

 ――“そいつ”を一言で言い表すなら、狗だった。

 ドーベルマン、という犬種がある。大型の体躯と強い力で番犬としても重宝されるそれと、今自分達へ確かな悪意をもって襲い来る存在は同一の形を有していた。黒い体毛に四足歩行、頭もどう見たって狗のものである。
 ただ一ヶ所、眼だけが異質だ。腐乱死体を連想させる黄色い瞳がぶくぶくと粟立ち、腐敗した膿を血涙の如く垂れ流している。
そんなモノが、都合六匹。先のを合わせれば七匹だ。どう見たって普通の沙汰ではない。
 慣れた手付きでグロック拳銃を使いこなす年下の少女もまた然り。
 映画の中でしか見なかったようなセンセーショナルが、今目の前で現実に繰り広げられている。それは、彩月の心へ激しい恐怖をもたらした。

 「ティンダロスの猟犬か――惨い真似をする。英霊の召喚に先んじ厄介者を処分しようという魂胆らしいが、浅ましいな」

 唾棄するようにそう吐いて、少女は顎を外れんばかりに開き向かってくる捕食者の咽頭へ極めて冷静に鉛弾を叩き込んだ。しかしそれだけでは襲撃者は絶命しない。舌打ちをすると、もう一度。
 今度は上顎から頭蓋にかけてを貫通させるように銃撃する――そこまでこなして漸く、一匹を絶命させることが出来た。
あれらは痛覚を持っていない。並々ならない耐久力もそうだが、痛みの感覚を放棄した気狂いもまた厄介なものだ。
 生物とは学ぶ生き物。痛みを味わい、学習し、それを避けるように動くもの。にも関わらずこの狗にはそういう概念自体からして欠落している。従って肉体の崩壊は免れないが、それを度外視した突撃を行う分にはこれ以上の逸材はないだろう。

 「ね、ねえ君っ!」
 「説明は後です。逃げるのももう少し待ってください。大丈夫、直に片付きます」

 二匹が同時に飛び掛かってくるが、下顎にカウンターのアッパーカットを打ち込み脳震盪を引き起こさせ、そのまま盾にして死亡させる。
 死体は目眩ましに擲ち、動きをほんの一瞬なれど阻害された狗の眉間をグロックが穿った。
 膿んだ眼の猟犬達は実に現実離れした存在であるが、それらを単騎で拮抗どころか完全に圧倒してのける彼女の技はそれ以上に逸脱している。
 相手は人外の法理で肉体改造された獣のなれの果て、謂わば魔獣。
 対する少女は魔術的効果に自身の補助を求めることもなく、人間の編み出した科学の産物である拳銃一丁でそんな化物どもを制圧している。歯牙にもかけずに、ただ鏖殺していくのだ。

 武道家の舞いにも似た美しい流れ作業で狗達は次々肉片へと変わり、あれだけ絶望的に見えた六匹の猟犬達で最早原型を留めている個体は一つたりともありはしなかった。
 ふっ、と銃口から昇る硝煙を吹く少女。弾を補充し、再びグロックを懐へと仕舞い込む。

 それから彩月の手を強く握って、先導するように走りだした。

 「ちょ、ちょっと……さっきから、何が起きてるの……ッ!?」
 「……貴女、本当に何も知らないんですね。慌て方が演技のそれじゃない」
 「当たり前でしょ! 私はただ、この町に旅行に来てるだけで――!」
 「…………旅行」

 彩月が語った言葉を、少女はかぶりを振って否定した。

 「いえ、それは有り得ません。貴女は自分の手に顕れたその刻印がどんなに大きな意味合いを持つか、理解していないんです」
 「確かに、ちょっと偶然じゃ考えられないような形だとは思うけど……じゃあこれって何なの!? 私――私、これからどうなっちゃうの!?」
 「落ち着いて! ……これから、貴女を教会へ連れて行きます。あそこには薄汚い連中も手出しできない筈ですから。まさかあの神父とこうも早く再会しなければならなくなるとは予想外でしたが、致し方ありません」

 少女が脳裏に思い描くのは、あのいけすかない神父の笑顔だった。
 心底鬱屈としたものを感じつつ、追手の代わりに派遣されたらしき蝙蝠の使い魔を射殺する。
 ここでふと、彩月は違和感を覚える。確かに人込みは消えたし、皆家に引っ込んでしまったようだが……それでもまだ黄昏時だ。誰もが寝静まる深夜ならばまだしも、こんな時間からあれほど銃声を鳴らしているのにどうして誰も異変と思わないのか?
 疑問を察知したのか、問いを彩月が投げかけるより先に少女が説明した。

 「心配は要りません――というのも、なんだか皮肉な話ですが。どれだけ暴れても、直接的に危害でも加えない限りはここら一帯を覆っている魔術が解けることはないと思われます。
  ティンダロスの猟犬……第三帝国の鬼畜の末裔までもが、この地へ降り立つ聖杯を欲しているらしい」
 「第三帝国……聖杯……? それに、魔術って」
 「監督役がそこまで講義してくれれば良いんですけど、あれはどうにも信用ならない男です。教会へ着いた後にでもざっとお教えしましょう。今は、ただ一つだけ覚えていれば十分ですよ。――そう、ただ一つ。貴女はもう、逃げられない」

 どくん。
 その言葉には――まるでこちらの心臓を鷲掴みにするような重みがあった。
 それっきり、何か喋ろうとしても言葉が浮かんでこなくなる。走り続ける疲れはいつの間にか感じなくなっていた。でも自分よりずっと小さいのに、この子は凄いなあ……そんなことを考えていると、彩月は「あ」と漏らす。

 「ねえ」
 「はい?」
 「私、相沢彩月っていうんだけど……君は?」
 「杏紅花(シン・ホンファ)」

 少女は、顔だけでちらっとこちらを振り返って、締めるように言った。

 「それが、私の名前です」





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最終更新:2014年06月12日 19:42
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