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眼つきの悪いゼロの使い魔-5話 - (2007/09/24 (月) 02:33:51) の1つ前との変更点
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トリステイン王国。首都トリスタニア。その大通り。朝と昼の狭間の時間。
土埃避けの灰色の外套で身を包む、一人の男が歩いていた。常に何かを睨みつけているような両目に黒色の頭髪。着込んでいる黒革のジャケットは、外套に隠れその身を隠している。
虚無の曜日であるため、遊楽に出ている人々も多く、大通りはいつもより混雑していた。その中を人ごみに慣れているのか、さしたる苦も見せずに歩んでいる。足取りに迷いはない。
近隣にそびえる魔法学院の関係者がこの場にいれば、声をかけることはなくとも視線くらいは送っただろうか。学院ではそれなりに馴染みとなった顔であった。
不意に、規則的な歩調を生んでいた男の両足が止まる。彼は肩口の留め金をはずし、外套を翻す。
土埃を落とすために一振りし、そのまま右手で、右肩にかけるようにして持つ。
目前の建物を見る。そこは、彼がこの王都へ訪れた際に初めて泊まった宿であった。
そのまま建物を見上げ、ついで看板に視線を飛ばし、最後に正面玄関を確認する。
ニヤリと不敵に笑う。取立てに来た金貸しのような笑顔だった。そして、
「定職と定期収入を手に入れたニュー俺は、一味違うぜ」
意味の取れぬ台詞を一人ごちた後、その宿泊宿の一階、酒場兼食堂へ足を踏み入れた。
「おや、お久しぶりですオーフェンさん」
カウンターへ腰を下ろした黒髪の青年、オーフェンに、宿の主が声をかける。茶色の口髭を蓄えた、四十絡みの男だ。捉えどころのない営業用の笑顔を浮かべている。
「三週前に一泊しただけの客を良く覚えてるな。コツでもあるのか?」
「いやあ、さすがに花瓶の件がなければ怪しかったですよ」
「……ああー、真犯人は見つかったのか」
「目下捜索中です。もっとも被害届はどこにも出ていませんけどね。ところで、今日はお一人で?」
「職場が一緒で休日まで一緒だと、息が詰まるだろ。あと、何かまだ誤解してそうだから言っとくが、俺は彼女の弟だよ」
主人は少しだけ驚いたように言葉を切り、すぐに疑念を隠しきれていない目でオーフェンの顔や髪に視線を走らせた。
「血は繋がってない。深くは聞くな」
「おっと失礼。弁えております。ただ言い訳をさせてもらいますと、ミズ・ロングビルがどなたかとご一緒されていたのが珍しかったものでして」
「へえ。……彼女はここをよく利用しているのか?」
「はい。ご贔屓いただいております」
オーフェンは早い昼食の注文を告げる。調理の準備に背を向ける主人を眺めながら、これから訊ねるべきことを頭の中でまとめていた。
片肘をつき、行儀悪く出された料理を片付けながら、オーフェンは気のない口調で主人に声をかける。
「なあ、ちょっと聞きたいんだが、ロングビルが最後に一人でここへ泊まったのはいつ頃なんだ?」
いかにも質問の意図が掴めない、との顔で主人は目を瞬かせた。うまいものだとオーフェンは表情に出さずに賛嘆する。
曖昧にうめき、照れたように視線を逸らし、頭を掻きつつオーフェンは言葉を続けた。
「そのな、どうもうちの姉に男ができたみたいなんだわ。トリスタニアにちょくちょく二人で来ているらしい」
ああ、本人に聞かれたら殺されるなと首筋が寒くなる。
「ただあいつ、致命的に男運がなくてな。いままで何度痛い目にあってきたことか。てなわけで、可愛い弟としては相手の男の品定めがしたいわけだ。なあ、本当に男連れで来たことはなかったのか?」
「そのことについては確かですよ」
「んじゃあ、前にここへ泊まった日にちだけでも」
頼むよと不器用に片目を閉じてみせるオーフェンに、いかにも仕方なさげに主人が溜息をつく。
「日にちだけですよ?」
「助かる」
「まあ、その時のことはよく覚えているんですけどね。なにしろフーケが現れた一日前なんですから」
「……フーケ?」
訊ね返すオーフェンに、主人は虚をつかれた様子で目を丸くする。
「フーケですよ盗賊フーケ。ご存じない?」
「すまんね。田舎物なもんで」
見えませよと世辞を述べてから、主人は説明を始めてくれた。喋り好きなのか、話しても良心の咎めない内容のせいか、その両方か。オーフェンは適当に相槌を打ちながら、おとなしく聞くことにする。
接客業を営んでいる者らしく、主人の説明は的確で分かりやすかった。
盗賊フーケ。貴族専門の泥棒。盗品は全て魔法の道具。犯行後に必ずサインを残していく。性別不明。 土系統のメイジと思われる。
最後の一つが、オーフェンの思考に棘を落とした。
「それは、確かなのか?」
「さあ? 私は魔法のことはなんとも。ただ盗みの手口がですね、凄いんですよ。魔法やら仕掛けやらでガチガチの扉とか鍵をですね、土に変えてしまうんだそうです。それで、ついた名前が『土くれ』のフーケ」
「…………」
さすがに短慮にすぎるだろうか、それだけを根拠に疑うのは。だが、一度気になってしまったものは仕方がない。
「なあ、前回だけじゃなくて、今までロングビルが利用した日を知りたいんだが」
「オーフェンさん。どんなこともそうですが、姉思いも行き過ぎはよくないですよ」
「耳が痛い。姉が人妻になったら自重することにしよう」
ぱちぱちとわざと音を立てさせながら、オーフェンは銀貨を数枚テーブルに並べてみせる。主人はそれに素早く目を走らせ、ここだけの秘密ですよと声を小さくした。
「すぐに調べてきますので、しばらくの間ってうわあ!? な、なんで急に涙ぐまれてるんですか?」
堪えきぬ感慨にオーフェンは両手で顔を覆い、
「俺が……この俺が、チップを払う側になるなんて……俺、もう明日死ぬかもしれない」
「――旦那、若いのに苦労してきたんですね」
正午を二刻ほど過ぎた時間。オーフェンは再び大通りを歩いていた。やや、力ない足取りである。
(やばいなあ。疑念が晴れるどころか深まってしまった)
フーケの犯行日まで訊ねるのはさすがに勘繰られると判断し、他店で聞き込みを行った結果は、最悪なものだった。全てマチルダの宿泊日と重なる。
物的証拠など何もない。ただの推測と大差ない。そう思い、また仮に『そう』だったとしても関わる必要はないのではないかと考えるが、その度にティファニアの憂いを含んだ瞳が思い出されてしまう。
ああ、面倒くさい。
そして、どうも最悪なことは重なるらしい。
大通り。ふと向けた視線の先に、見覚えのある姿があった。マチルダである。
偶然とばかりもいえない。オーフェン自身もそうだが、休日まであの子供で溢れた学院にいたくはないのだろう。
また、学院を離れてどこに行くかとなれば、場所は限られてしまう。……特に、盗品を換金する故売屋がある街ともなれば、尚更である。
しばしの沈思黙考の後、オーフェンは誘惑を振り切り、諦めることとした。たまたまとはいえ見つけてしまったのだ。きっと天の采配だ。自分でも信じていない言い訳を脳裏で呟きながら、オーフェンはマチルダの尾行を開始した。
一人の男が逃げていた。人のいない裏通りを脱兎のごとく駆けて行く。それを五名の男たちが追いかける。逃げる者と追う者、全員が杖を持っている。
誰も言葉を発さない。どちらにもそんな暇はない。
威嚇し包囲し連携して追い詰める。追う者はよく訓練された軍犬である。そこに遅滞はなく油断はなく驕りもない。
ただ、本能が足りなかった。
兎のように逃げていた男が、行き止まりに足を止める。振り返る。男が今来た道は、追い手である五名の男達がすでに塞いでいた。彼らは警戒したまま杖を構えている。
その警戒に意味はないと、追われる兎が笑っていた。
彼らの役目が入れ替わる。兎が皮を脱ぎ、本性を晒す。
惨劇は一瞬。期待を外された兎は悲嘆に悲しみ、途方にくれる。
マチルダは不機嫌だった。歩調にもそれが表れている。
基本的に現在の自分は幸運であるといえる。獲物が自ら飛び込んでくれたおかげで、誰にも怪しまれることなく、学院長秘書という立場を手に入れることができた。
煩わしいガキ共の相手も、セクハラの機会を虎視眈々と狙う爺にも、なんとか耐えられる。
そして耐えられるということはただ我慢しているだけである。
不機嫌の理由はもう一つ。イレギュラーであるところのあの男だ。放逐して予測のつかない行動に出られるよりはと身近に置いたのだが、常時監視されているようにも感じられ、心安らかにはとてもなれない。
乱雑な足取りでマチルダは進む。今は猫を被る必要がない。大通りを外れて裏路地に入る。向かう先は王都における彼女のセーフハウスだった。 そこに蓄えている戦利品の確認である。それらは物が物であるため、換金には手間がかかる。
彼女は危険と、足下を見られることを避ける目的で、戦利品をしばらく寝かせる方策を取っていた。
マチルダは振り返ることなく歩んでいく。すでに大通りは遠く、辺りに人気はない。あばら屋が密集する馴染んだ空気に、ようやく彼女の体から瘧りが消えた。
視線を走らせながら、目的地へ進む。以前ここにいた宿無し共は、一度その体に教えてやってからは姿を見せていない。正当防衛であったので、特に心が痛むこともない。
(…………?)
マチルダの足が止まった。馴染んだ空気。それに何か異質なものが混じっている。臭い、だろうか。
ここでは初めて嗅ぐ臭いが、風に乗って漂ってきていた。
杖の感触を確かめながら、彼女は歩を再開する。さきほどよりも慎重に。どれほどその用心が役に立つのか疑いながらも。
曲がり角からその先を窺い見る。臭いの元らしい、黒色の塊が視界に入った。五つある。
……黒く焼け焦げたそれらはあまりにも原型を留めていなかったので、全てが人の死体であることに気がつくのが遅れた。
五体の骸の奥で、一人の男が片膝を立てて座っている。絶句するマチルダを宥めるような表情をしていた。
全身が恐ろしいほどに鍛えられた巨躯である。まだ顔の右側を覆う眼帯が、厳つい顔をわずかに隠していた。
彼は、杖を持っていた。メイスのような長大な杖を。
そして、男はどこか呑気な口調で、気安くマチルダに声を掛ける。
「こんにちは」
マチルダに返答する余裕はない。脳裏ですぐに唱えられる攻撃的な呪文を反復させつつ、睨め付ける。
そんな彼女の様子を困ったように眺めながら、男は言を継いだ。口調に変化は見られない。
「昔、いや今もか。尊敬している元上司がいてな、その男を探しにこの都へ来たんだ。しかしやはり脛に傷のある者がこんな賑やかなところへ来るべきではないな。昔の同僚連中に目をつけられて、いや、ひどい目にあった」
ゆるやかに語りながら、男は腰を上げる。のんびりと、何も焦ることはないと言わんばかりに。
「こいつらは軍人なんだ。前に俺が行った軍務違反がいまだに気に入らなかったらしい。国への忠義などで殺しをやるとは、まったく面白味のない連中だよ。死んだり殺したりというのは、もっと個人の楽しみで行うべき趣味だろうに」
同意を求めるように顔を向けてくる。それを無視して、マチルダは強張った表情のまま訊ねた。
「……なんで、そんなことを私に話すんだい?」
「おっと、これは失敗したな」
完全に男が立ち上がる。くすくす小さな笑い声を零しながら、男は言った。
「軍人殺しを白状してしまったぞ。しかも現場を目撃されてしまったなぁ」
(…………!)
愉悦を含んだ殺意の波に、マチルダの全身が総毛立つ。後ろ手に隠していた杖を握り直しながら、彼女は覚悟を決めた。容赦する必要はない。奇襲によって
「杖を構えよ、メイジ」
当たり前のように、男は言う。その一言でマチルダの動きを硬直させてから、詩を吟じるように彼は朗々と声を上げた。
「抵抗できぬ女子供を焼くのは飽いた。牙の抜けた飼い犬を焼くのも飽いた。だが、お前はなかなか良い。脅威を感じつつも、恐怖に飲まれてはいない。お前はまだ、この『白炎』を殺せるつもりでいる」
ゆるゆると男が長大な杖を構える。色の奇妙に薄いその左瞳には、どうか俺の期待を裏切ってくれるなという懇願が込められていた。
「力で抗う者を力によって征服し、燃やすのだ。やはり、これに勝る喜びはない」
「なめるんじゃないよ……!」
その叫びは恐怖を振り払うためのものだと、マチルダは認めた。怯えを殺意で塗りつぶし、彼女は握りしめた杖を構える。
彼女はフーケである。『土くれ』のフーケ。王都に名の轟く一流の盗賊だ。
――盗賊であって、兵士でも暗殺者でもない。それ故に、この日この時、彼女は判断を誤った。
なんなんだこいつら? オーフェンは自身が打ち倒した二人の男に目をやりながら、頭を捻る。
この裏路地で、自分以外にもマチルダを尾行する者たちがいることに気がつき、接触を図ろうとしたのだが、連中は会話を交わす暇もなく襲いかかってきた。
当然のように勝利を収めておきながらも、オーフェンは当惑する。手加減する余裕がなかったため、今も男たちは目を覚ましていない。そしてなにより、彼らを縛り上げる際に落ち出た二本の杖。この世界において、メイジと貴族は同語であると聞かされていた。
男たちは自身の衣服で作られた即席の縄で、手足を拘束されている。猿ぐつわは噛ませていない。
呪文が唱えられても、杖がなければ『魔法使い』は魔法が使えないとのことだ。
それにしてはこいつら人相が悪いなと、あまり人のことは言えぬ感想をオーフェンは持つ。
そうして、目を覚まさせて情報を聞き出す前に、懐を探るべきかどうか真剣に頭を悩ませていた、その瞬間。
轟音が、オーフェンの耳に飛び込んできた。反射的に視線をやると、黒煙が立ち上っているのが視界に飛び込む。
呆然としていたのはほんの一瞬。不快な予感がオーフェンの首筋を襲い、彼は全力で駆け始めた。
失意を抱いたまま、男は女を見下ろす。女の右腕から胸にかけては焼けただれ、桃色の肉が覗いている。また、女の意識は、火球の衝撃により吹き飛ばされ地面に衝突した際、すでに絶たれていた。
彼女は高い魔力を持つメイジではあった。技能に優れ、気構えも評価に値する。だが、同時にただのメイジでもあった。戦闘のための訓練を積んだ戦士ではない。
あの時から自分は敵に贅沢になっているのかもしれない。自嘲込めて男は嘆息し、女を再び見下ろす。
まだ息があった。すでに興味の失せた男は、惰性で杖を向ける。
いや、向ける半ばで腕を止め、男は唐突に響いた足音へ注意を移す。足音は、邪魔の入らぬよう、部下を配した方向からであった。
灰色の外套に身を包む青年が、双眸を凄絶に歪めてそこにいた。
オーフェンは目前の光景を見て、ただ一言だけ訊ねる。
「彼女はまだ生きているのか?」
「うん? ああ、息はまだしているように見えるな」
凶悪な表情を弛めぬまま、オーフェンは囁くように告げた。
「そうか。命拾いしたな」
「さて、それは」
「わかんねぇか? てめえに言ってやったんだよ、間抜け」
きょとんと目を見開いた後、男はひどく楽しそうに破顔してみせた。先程までのつまらなげな様子が一転し、上機嫌となる。
「ああ、その手の台詞を言ってもらうのは、とても久しぶりだ。焼く前に名前を聞いておこう」
「知ったことじゃねえよ。――『失せろ』」
オーフェンは音声魔術を扱う黒魔術士である。声を媒介にして世界を織りなす。それはつまり、発動の呪文はどんなものでも構わないということだ。
すでに魔術の構成を終えていたオーフェンは、台詞の最後を呪文に換え発動させた。
異音とともに、強烈な衝撃波が男を襲う。完全な不意打ちは対処の間を与えず、隣接するあばら屋へ男を吹き飛ばす。オーフェンは追撃を止めない。男の叩き込まれたあばら屋全体を標的とし、次手の魔術を編み上げる。
「我は砕く原始の静寂!」
標的の中心に、空間破壊の波が生まれる。波は波紋となり周囲全ての空間に広がり続け、けれどもオーフェンの制御外には全くその破壊をおよばせない。
大爆発が起こる。標的としたあばら家のみが倒壊する様子を最後まで見届けず、彼はマチルダの下へ走りよった。彼女の首と両足の後ろに腕を通し、抱えあげる。
魔術によって重力を中和し、跳躍する。いくつかの廃屋のよな家々を飛び越え(不思議と人の気配がない)、元の路地から距離を取った。オーフェンの感覚で、三十メートルは離れただろうか。
静かに、地面へマチルダを寝かせる。手の甲で頬を叩くと、朦朧とした様子で彼女は両目を開いた。
「……あん、た……何で」
まだ鮮明でない意識は、この状況では幸運である。オーフェンは無造作に左指をマチルダの口へ入れ、右手を彼女の襟元に引っ掛ける。
「死ぬほど痛いが、我慢しろ」
無情に告げて、右手を一息に動かす。皮膚に焼け付いていた衣服が強引に引き剥がされた。
「…………ッ!!」
声にならぬ苦鳴を彼女は上げる。食いしばられた白い歯が、彼女の舌ではなくオーフェンの左指に突き刺さる。
それを無視して、オーフェンは実験者の眼差しでマチルダの傷口を見た。
右腕から右胸にかけて焼けただれている。白い脂肪や淡い色の内肉までが覗いている。だが、炭化してはいなかった。
オーフェンは傷口に右手を添えて、祈るように囁く。
「我は癒す斜陽の傷痕」
時計の針が逆回転する。負傷に至るまでの経緯が反転する。痕も残さず、マチルダの火傷は完治した。
いや、そう断言するのはまだ早い。黒魔術では神経系は癒せない。経過を見る必要があるだろう。
だが、少なくともショック死する危険は回避することができた。そして、その安堵がオーフェンの意識を緩ませた。
気づくのが遅れる。五つの火球が弧を描き、オーフェン達へ飛翔していた。マチルダを抱えてこの場を退避することは到底間に合わない。火球に向き直り、オーフェンは即座に構成を編み上げる。
「我は紡ぐ光輪の鎧」
光の輪を無数にあわせた、力場の障壁が発生する。火球が障壁まで至り、瞬時の鬩ぎ合いの後に対消滅した。
オーフェンは無言で立ち上がる。吊り上げた眦の先に、巨躯を誇る男の姿があった。
右目を覆う眼帯。打撃武器のような杖。自身の血で汚れたローブを風にはためかせ、屋根の上に男は立っている。
あの瓦礫の山からどのように脱け出したのか。火使いの男の顔には無数の傷が走り、血が左目にまで流れ込んでいる。しかし、それをさして気にした風もなく、男は笑んだ。
「知らぬ魔法を操る強者よ、女などに構うな。お前の殺すべき敵はここにいる」
そう嘯き、屋根を蹴り奥へ姿を消す。明らかな誘いだ。オーフェンは唇を舌先で濡らし、その誘いに乗るべく足を踏み出す。と、
「……無理……よ、逃げ……ないと」
意識が多少戻ったのか、マチルダが請うような声を震わせていた。そんな声を彼女が口にするところをオーフェンははじめて見る。それが、彼の神経をますます冷やしていった。
「しばらく寝てろ。後で迎えに来る」
振り返らずに素っ気無く告げ、オーフェンは足を踏み出した。
火使いの男はローブの裾をちらつかせながら、二階建ての建物の内に姿を消す。バラックばかりのこの場としては、割合骨組みのまともな建物だった。
オーフェンは無言のまま外套を外し、唱える。
「我は流す天使の息吹」
生まれた突風は外套をはためかせ、男の消えた建物の入り口までそれを運ぶ。外套を追うように、オーフェンも同じく入り口に走った。
外套が建物内に飛び込み、すぐにオーフェンが続く。機をあわせ、部屋の奥から火球が飛んだ。
囮に使った外套ではなく、オーフェン自身に向かって。
(…………!)
予測を外され、受身も考えずに飛び退る。したたかに床で身をぶつけながら一回転。右腕を突き出し、魔術の構成を編みながら男の姿を探す。
男は、姿を隠してもいなかった。二階へ繋がる階段の上で、杖を構えている。そのまま下手な踊りじみた拍子で、後ろ向きに階段を昇っていく。二階へ来いとの意思表示だろう。
知ったことかと、オーフェンは光熱波を天井に向かって放つ。当たれば幸いといわんばかりの適当な狙いだった。
しばし構えを解かずに様子を窺った後、オーフェンは舌打ちをしながら二階へ向かう。
嵌め戸のない窓際に立つ男が、オーフェンを迎える。二階の床と天井は大穴が開き、空から傾いた陽光が差していた。
男が残念そうに眉を下げ、杖を握る右腕を振る。瞬間、部屋の壁際に八つの火球が生まれた。
オーフェンを囲む配置である。
火球を維持したまま、男は口を開いた。
「最後にもう一度訊ねるが、名前を教えてはくれないか? お前のことはよく覚えておいて、お前の焼ける匂いを反芻したいんだ」
「うるせえ。しゃべるなパイロマニア」
男は、今にも唾を吐き出しそうな口調で告げる青年を見つめ、首を振る。火使いの男は本心から残念がっていた。
さきほどの防御魔法は五つの火球によって対消滅したのだ。この見慣れぬ魔法を使う青年は、避けることも防ぐこともできずに死ぬだろう。
杖を振り上げ、八つの火球に命令を下そうとしたその瞬間、男は虚をつかれたように動きを止めた。
オーフェンが拳を構えている。左足を引き半身となり、背筋を伸ばし、腰を落として重心を低く保つ。
拳はゆるく握り、腰溜めに置く。隙の窺えない完全な、しかし無意味な構えだった。当たり前だ。
メイジに対して拳法の構えなど、何の役にたつ?
双眸を鋭くしながら、オーフェンが言う。
「俺からも最後の提案だ。いま引くんなら見逃すぜ?」
火使いの男の顔が失意と憤怒で歪む。これほどの強者でありながら、最後の瞬間にこのような醜い虚勢を張るとは。怒りに任せたまま、男は杖を、
「そりゃ残念。あばよ」
呟き、オーフェンは構成を終えていた魔術を開放した。
「我は踊る天の楼閣」
オーフェンという物体の質量が擬似的に零となる。爆発的な加速とともに、擬似空間転移の魔術が完成する。拳を構えた姿のまま、オーフェンは男の目前へ唐突に出現した。
右拳が男の下腹に添えられる。男の体がわずかに揺れた。瞬間、火薬の弾けるような音が響く。
強烈な右足の踏み込みによる炸裂音。全身の運動を螺旋状に束ね、体幹へのカウンターになるように零距離から右拳を打ち出す。
拳を引く。糸が切れたように巨躯が崩れ落ちた。ぴくりとも動かぬその体を、オーフェンは冷然と
見下ろす。
師、チャイルドマンから受け継いだ、寸打と呼ばれる打法である。右手を擦りながら、オーフェンは周囲を見回した。火球は全て消えている。それを確認してから、オーフェンは杖を取り上げようと身を屈め――予感に従い、飛びのいた。
男はまだ杖を手放していない。オーフェンが飛びのいた瞬間、男の周囲を円形に火線が走る。丸くくり抜かれた床とともに男は階下へ沈んだ。
オーフェンはそこへ反射的に飛び込みかけ、自制する。いま飛び込めば的になるだけだろう。判断に迷ったわずかな間。それは致命的であった。
空気の揺れを感じ、オーフェンは窓の外に向き直る。階下に消えていた男が、そこに浮かんでいた。
深手により喀血した跡が見て取れる。
「始祖ブリミルよ……」
厳かに、哲学者じみた表情と声音で、男は告げた。
「我が生涯二度目の感謝をここに捧げよう。炎蛇コルベールに続き、俺の前に俺で敵わぬ二人目の男を遣わされたことを」
そして色の薄い不気味な瞳をオーフェンに向け、肉厚な微笑を浮かべる。
「我が名はメンヌヴィル。『白炎』のメンヌヴィル。敬意を払うべき戦士よ。名も顔も分からぬ戦士よ。だが、貴様の体温は覚えたぞ」
奇怪な言葉を残した後、ローブを怪鳥のようにはためかせながら火使いの男、メンヌヴィルは空を渡り、消え去った。
さすがに追撃する手段がなく、オーフェンは忌々しげに空を見る。
(まあ、奴の興味がマチルダから俺に移ったのは、不幸中の幸いか)
それを慰めに、オーフェンはマチルダの下へ向かうべく歩き出した。
「驚いた。本当にまだいたのか」
現れたオーフェンの姿に、壁に身を預けて立っていたマチルダは、慌てた様子で胸元を隠す。
オーフェンは視線を逸らしながら、彼女へ黒皮のジャケットを放り投げた。
「あー、服がいるな。どっかで買うか。金は自分で出せよ」
いつもと全く変わらぬオーフェンを、マチルダは感謝が四、警戒六という目で見返す。
「あいつ……殺したのかい?」
「いや、逃がした。後々面倒なことになりそうな気がするな」
平然と応える青年から、マチルダは一歩下がる。あの怪物じみた男を退けた? 目の前の男をこれまでも得体の知れぬ奴だとは思っていた。 だが、これはあまりにも……
「――ひとつ、聞いてもいい?」
「ん?」
「なんで、私を助けたの?」
予想もしていなかった質問だと、オーフェンは目を瞬かせる。そしてしばらく考え込んだ後、実に適当に答えてみせた。
「ほら、前に言ったろ」
「…………?」
「俺がいたら色々と便利だったろ? 手からビームも出るしな」
そのあまりにもいい加減な言葉に、マチルダは目を白黒させた。肩から力が抜ける。ああ、この男は本当に訳が分からない。
気だるい体を無理に動かしながら、マチルダをオーフェンの後を追うように歩き出した。
さて、どうやってこの男に服を奢らせてやろうか?
#navi(眼つきの悪いゼロの使い魔)
トリステイン王国。首都トリスタニア。その大通り。朝と昼の狭間の時間。
土埃避けの灰色の外套で身を包む、一人の男が歩いていた。常に何かを睨みつけているような両目に黒色の頭髪。着込んでいる黒革のジャケットは、外套に隠れその身を隠している。
虚無の曜日であるため、遊楽に出ている人々も多く、大通りはいつもより混雑していた。その中を人ごみに慣れているのか、さしたる苦も見せずに歩んでいる。足取りに迷いはない。
近隣にそびえる魔法学院の関係者がこの場にいれば、声をかけることはなくとも視線くらいは送っただろうか。学院ではそれなりに馴染みとなった顔であった。
不意に、規則的な歩調を生んでいた男の両足が止まる。彼は肩口の留め金をはずし、外套を翻す。
土埃を落とすために一振りし、そのまま右手で、右肩にかけるようにして持つ。
目前の建物を見る。そこは、彼がこの王都へ訪れた際に初めて泊まった宿であった。
そのまま建物を見上げ、ついで看板に視線を飛ばし、最後に正面玄関を確認する。
ニヤリと不敵に笑う。取立てに来た金貸しのような笑顔だった。そして、
「定職と定期収入を手に入れたニュー俺は、一味違うぜ」
意味の取れぬ台詞を一人ごちた後、その宿泊宿の一階、酒場兼食堂へ足を踏み入れた。
「おや、お久しぶりですオーフェンさん」
カウンターへ腰を下ろした黒髪の青年、オーフェンに、宿の主が声をかける。茶色の口髭を蓄えた、四十絡みの男だ。捉えどころのない営業用の笑顔を浮かべている。
「三週前に一泊しただけの客を良く覚えてるな。コツでもあるのか?」
「いやあ、さすがに花瓶の件がなければ怪しかったですよ」
「……ああー、真犯人は見つかったのか」
「目下捜索中です。もっとも被害届はどこにも出ていませんけどね。ところで、今日はお一人で?」
「職場が一緒で休日まで一緒だと、息が詰まるだろ。あと、何かまだ誤解してそうだから言っとくが、俺は彼女の弟だよ」
主人は少しだけ驚いたように言葉を切り、すぐに疑念を隠しきれていない目でオーフェンの顔や髪に視線を走らせた。
「血は繋がってない。深くは聞くな」
「おっと失礼。弁えております。ただ言い訳をさせてもらいますと、ミズ・ロングビルがどなたかとご一緒されていたのが珍しかったものでして」
「へえ。……彼女はここをよく利用しているのか?」
「はい。ご贔屓いただいております」
オーフェンは早い昼食の注文を告げる。調理の準備に背を向ける主人を眺めながら、これから訊ねるべきことを頭の中でまとめていた。
片肘をつき、行儀悪く出された料理を片付けながら、オーフェンは気のない口調で主人に声をかける。
「なあ、ちょっと聞きたいんだが、ロングビルが最後に一人でここへ泊まったのはいつ頃なんだ?」
いかにも質問の意図が掴めない、との顔で主人は目を瞬かせた。うまいものだとオーフェンは表情に出さずに賛嘆する。
曖昧にうめき、照れたように視線を逸らし、頭を掻きつつオーフェンは言葉を続けた。
「そのな、どうもうちの姉に男ができたみたいなんだわ。トリスタニアにちょくちょく二人で来ているらしい」
ああ、本人に聞かれたら殺されるなと首筋が寒くなる。
「ただあいつ、致命的に男運がなくてな。いままで何度痛い目にあってきたことか。てなわけで、可愛い弟としては相手の男の品定めがしたいわけだ。なあ、本当に男連れで来たことはなかったのか?」
「そのことについては確かですよ」
「んじゃあ、前にここへ泊まった日にちだけでも」
頼むよと不器用に片目を閉じてみせるオーフェンに、いかにも仕方なさげに主人が溜息をつく。
「日にちだけですよ?」
「助かる」
「まあ、その時のことはよく覚えているんですけどね。なにしろフーケが現れた一日前なんですから」
「……フーケ?」
訊ね返すオーフェンに、主人は虚をつかれた様子で目を丸くする。
「フーケですよ盗賊フーケ。ご存じない?」
「すまんね。田舎物なもんで」
見えませよと世辞を述べてから、主人は説明を始めてくれた。喋り好きなのか、話しても良心の咎めない内容のせいか、その両方か。オーフェンは適当に相槌を打ちながら、おとなしく聞くことにする。
接客業を営んでいる者らしく、主人の説明は的確で分かりやすかった。
盗賊フーケ。貴族専門の泥棒。盗品は全て魔法の道具。犯行後に必ずサインを残していく。性別不明。 土系統のメイジと思われる。
最後の一つが、オーフェンの思考に棘を落とした。
「それは、確かなのか?」
「さあ? 私は魔法のことはなんとも。ただ盗みの手口がですね、凄いんですよ。魔法やら仕掛けやらでガチガチの扉とか鍵をですね、土に変えてしまうんだそうです。それで、ついた名前が『土くれ』のフーケ」
「…………」
さすがに短慮にすぎるだろうか、それだけを根拠に疑うのは。だが、一度気になってしまったものは仕方がない。
「なあ、前回だけじゃなくて、今までロングビルが利用した日を知りたいんだが」
「オーフェンさん。どんなこともそうですが、姉思いも行き過ぎはよくないですよ」
「耳が痛い。姉が人妻になったら自重することにしよう」
ぱちぱちとわざと音を立てさせながら、オーフェンは銀貨を数枚テーブルに並べてみせる。主人はそれに素早く目を走らせ、ここだけの秘密ですよと声を小さくした。
「すぐに調べてきますので、しばらくの間ってうわあ!? な、なんで急に涙ぐまれてるんですか?」
堪えきぬ感慨にオーフェンは両手で顔を覆い、
「俺が……この俺が、チップを払う側になるなんて……俺、もう明日死ぬかもしれない」
「――旦那、若いのに苦労してきたんですね」
正午を二刻ほど過ぎた時間。オーフェンは再び大通りを歩いていた。やや、力ない足取りである。
(やばいなあ。疑念が晴れるどころか深まってしまった)
フーケの犯行日まで訊ねるのはさすがに勘繰られると判断し、他店で聞き込みを行った結果は、最悪なものだった。全てマチルダの宿泊日と重なる。
物的証拠など何もない。ただの推測と大差ない。そう思い、また仮に『そう』だったとしても関わる必要はないのではないかと考えるが、その度にティファニアの憂いを含んだ瞳が思い出されてしまう。
ああ、面倒くさい。
そして、どうも最悪なことは重なるらしい。
大通り。ふと向けた視線の先に、見覚えのある姿があった。マチルダである。
偶然とばかりもいえない。オーフェン自身もそうだが、休日まであの子供で溢れた学院にいたくはないのだろう。
また、学院を離れてどこに行くかとなれば、場所は限られてしまう。……特に、盗品を換金する故売屋がある街ともなれば、尚更である。
しばしの沈思黙考の後、オーフェンは誘惑を振り切り、諦めることとした。たまたまとはいえ見つけてしまったのだ。きっと天の采配だ。自分でも信じていない言い訳を脳裏で呟きながら、オーフェンはマチルダの尾行を開始した。
一人の男が逃げていた。人のいない裏通りを脱兎のごとく駆けて行く。それを五名の男たちが追いかける。逃げる者と追う者、全員が杖を持っている。
誰も言葉を発さない。どちらにもそんな暇はない。
威嚇し包囲し連携して追い詰める。追う者はよく訓練された軍犬である。そこに遅滞はなく油断はなく驕りもない。
ただ、本能が足りなかった。
兎のように逃げていた男が、行き止まりに足を止める。振り返る。男が今来た道は、追い手である五名の男達がすでに塞いでいた。彼らは警戒したまま杖を構えている。
その警戒に意味はないと、追われる兎が笑っていた。
彼らの役目が入れ替わる。兎が皮を脱ぎ、本性を晒す。
惨劇は一瞬。期待を外された兎は悲嘆に悲しみ、途方にくれる。
マチルダは不機嫌だった。歩調にもそれが表れている。
基本的に現在の自分は幸運であるといえる。獲物が自ら飛び込んでくれたおかげで、誰にも怪しまれることなく、学院長秘書という立場を手に入れることができた。
煩わしいガキ共の相手も、セクハラの機会を虎視眈々と狙う爺にも、なんとか耐えられる。
そして耐えられるということはただ我慢しているだけである。
不機嫌の理由はもう一つ。イレギュラーであるところのあの男だ。放逐して予測のつかない行動に出られるよりはと身近に置いたのだが、常時監視されているようにも感じられ、心安らかにはとてもなれない。
乱雑な足取りでマチルダは進む。今は猫を被る必要がない。大通りを外れて裏路地に入る。向かう先は王都における彼女のセーフハウスだった。 そこに蓄えている戦利品の確認である。それらは物が物であるため、換金には手間がかかる。
彼女は危険と、足下を見られることを避ける目的で、戦利品をしばらく寝かせる方策を取っていた。
マチルダは振り返ることなく歩んでいく。すでに大通りは遠く、辺りに人気はない。あばら屋が密集する馴染んだ空気に、ようやく彼女の体から瘧りが消えた。
視線を走らせながら、目的地へ進む。以前ここにいた宿無し共は、一度その体に教えてやってからは姿を見せていない。正当防衛であったので、特に心が痛むこともない。
(…………?)
マチルダの足が止まった。馴染んだ空気。それに何か異質なものが混じっている。臭い、だろうか。
ここでは初めて嗅ぐ臭いが、風に乗って漂ってきていた。
杖の感触を確かめながら、彼女は歩を再開する。さきほどよりも慎重に。どれほどその用心が役に立つのか疑いながらも。
曲がり角からその先を窺い見る。臭いの元らしい、黒色の塊が視界に入った。五つある。
……黒く焼け焦げたそれらはあまりにも原型を留めていなかったので、全てが人の死体であることに気がつくのが遅れた。
五体の骸の奥で、一人の男が片膝を立てて座っている。絶句するマチルダを宥めるような表情をしていた。
全身が恐ろしいほどに鍛えられた巨躯である。まだ顔の右側を覆う眼帯が、厳つい顔をわずかに隠していた。
彼は、杖を持っていた。メイスのような長大な杖を。
そして、男はどこか呑気な口調で、気安くマチルダに声を掛ける。
「こんにちは」
マチルダに返答する余裕はない。脳裏ですぐに唱えられる攻撃的な呪文を反復させつつ、睨め付ける。
そんな彼女の様子を困ったように眺めながら、男は言を継いだ。口調に変化は見られない。
「昔、いや今もか。尊敬している元上司がいてな、その男を探しにこの都へ来たんだ。しかしやはり脛に傷のある者がこんな賑やかなところへ来るべきではないな。昔の同僚連中に目をつけられて、いや、ひどい目にあった」
ゆるやかに語りながら、男は腰を上げる。のんびりと、何も焦ることはないと言わんばかりに。
「こいつらは軍人なんだ。前に俺が行った軍務違反がいまだに気に入らなかったらしい。国への忠義などで殺しをやるとは、まったく面白味のない連中だよ。死んだり殺したりというのは、もっと個人の楽しみで行うべき趣味だろうに」
同意を求めるように顔を向けてくる。それを無視して、マチルダは強張った表情のまま訊ねた。
「……なんで、そんなことを私に話すんだい?」
「おっと、これは失敗したな」
完全に男が立ち上がる。くすくす小さな笑い声を零しながら、男は言った。
「軍人殺しを白状してしまったぞ。しかも現場を目撃されてしまったなぁ」
(…………!)
愉悦を含んだ殺意の波に、マチルダの全身が総毛立つ。後ろ手に隠していた杖を握り直しながら、彼女は覚悟を決めた。容赦する必要はない。奇襲によって
「杖を構えよ、メイジ」
当たり前のように、男は言う。その一言でマチルダの動きを硬直させてから、詩を吟じるように彼は朗々と声を上げた。
「抵抗できぬ女子供を焼くのは飽いた。牙の抜けた飼い犬を焼くのも飽いた。だが、お前はなかなか良い。脅威を感じつつも、恐怖に飲まれてはいない。お前はまだ、この『白炎』を殺せるつもりでいる」
ゆるゆると男が長大な杖を構える。色の奇妙に薄いその左瞳には、どうか俺の期待を裏切ってくれるなという懇願が込められていた。
「力で抗う者を力によって征服し、燃やすのだ。やはり、これに勝る喜びはない」
「なめるんじゃないよ……!」
その叫びは恐怖を振り払うためのものだと、マチルダは認めた。怯えを殺意で塗りつぶし、彼女は握りしめた杖を構える。
彼女はフーケである。『土くれ』のフーケ。王都に名の轟く一流の盗賊だ。
――盗賊であって、兵士でも暗殺者でもない。それ故に、この日この時、彼女は判断を誤った。
なんなんだこいつら? オーフェンは自身が打ち倒した二人の男に目をやりながら、頭を捻る。
この裏路地で、自分以外にもマチルダを尾行する者たちがいることに気がつき、接触を図ろうとしたのだが、連中は会話を交わす暇もなく襲いかかってきた。
当然のように勝利を収めておきながらも、オーフェンは当惑する。手加減する余裕がなかったため、今も男たちは目を覚ましていない。そしてなにより、彼らを縛り上げる際に落ち出た二本の杖。この世界において、メイジと貴族は同語であると聞かされていた。
男たちは自身の衣服で作られた即席の縄で、手足を拘束されている。猿ぐつわは噛ませていない。
呪文が唱えられても、杖がなければ『魔法使い』は魔法が使えないとのことだ。
それにしてはこいつら人相が悪いなと、あまり人のことは言えぬ感想をオーフェンは持つ。
そうして、目を覚まさせて情報を聞き出す前に、懐を探るべきかどうか真剣に頭を悩ませていた、その瞬間。
轟音が、オーフェンの耳に飛び込んできた。反射的に視線をやると、黒煙が立ち上っているのが視界に飛び込む。
呆然としていたのはほんの一瞬。不快な予感がオーフェンの首筋を襲い、彼は全力で駆け始めた。
失意を抱いたまま、男は女を見下ろす。女の右腕から胸にかけては焼けただれ、桃色の肉が覗いている。また、女の意識は、火球の衝撃により吹き飛ばされ地面に衝突した際、すでに絶たれていた。
彼女は高い魔力を持つメイジではあった。技能に優れ、気構えも評価に値する。だが、同時にただのメイジでもあった。戦闘のための訓練を積んだ戦士ではない。
あの時から自分は敵に贅沢になっているのかもしれない。自嘲込めて男は嘆息し、女を再び見下ろす。
まだ息があった。すでに興味の失せた男は、惰性で杖を向ける。
いや、向ける半ばで腕を止め、男は唐突に響いた足音へ注意を移す。足音は、邪魔の入らぬよう、部下を配した方向からであった。
灰色の外套に身を包む青年が、双眸を凄絶に歪めてそこにいた。
オーフェンは目前の光景を見て、ただ一言だけ訊ねる。
「彼女はまだ生きているのか?」
「うん? ああ、息はまだしているように見えるな」
凶悪な表情を弛めぬまま、オーフェンは囁くように告げた。
「そうか。命拾いしたな」
「さて、それは」
「わかんねぇか? てめえに言ってやったんだよ、間抜け」
きょとんと目を見開いた後、男はひどく楽しそうに破顔してみせた。先程までのつまらなげな様子が一転し、上機嫌となる。
「ああ、その手の台詞を言ってもらうのは、とても久しぶりだ。焼く前に名前を聞いておこう」
「知ったことじゃねえよ。――『失せろ』」
オーフェンは音声魔術を扱う黒魔術士である。声を媒介にして世界を織りなす。それはつまり、発動の呪文はどんなものでも構わないということだ。
すでに魔術の構成を終えていたオーフェンは、台詞の最後を呪文に換え発動させた。
異音とともに、強烈な衝撃波が男を襲う。完全な不意打ちは対処の間を与えず、隣接するあばら屋へ男を吹き飛ばす。オーフェンは追撃を止めない。男の叩き込まれたあばら屋全体を標的とし、次手の魔術を編み上げる。
「我は砕く原始の静寂!」
標的の中心に、空間破壊の波が生まれる。波は波紋となり周囲全ての空間に広がり続け、けれどもオーフェンの制御外には全くその破壊をおよばせない。
大爆発が起こる。標的としたあばら家のみが倒壊する様子を最後まで見届けず、彼はマチルダの下へ走りよった。彼女の首と両足の後ろに腕を通し、抱えあげる。
魔術によって重力を中和し、跳躍する。いくつかの廃屋のよな家々を飛び越え(不思議と人の気配がない)、元の路地から距離を取った。オーフェンの感覚で、三十メートルは離れただろうか。
静かに、地面へマチルダを寝かせる。手の甲で頬を叩くと、朦朧とした様子で彼女は両目を開いた。
「……あん、た……何で」
まだ鮮明でない意識は、この状況では幸運である。オーフェンは無造作に左指をマチルダの口へ入れ、右手を彼女の襟元に引っ掛ける。
「死ぬほど痛いが、我慢しろ」
無情に告げて、右手を一息に動かす。皮膚に焼け付いていた衣服が強引に引き剥がされた。
「…………ッ!!」
声にならぬ苦鳴を彼女は上げる。食いしばられた白い歯が、彼女の舌ではなくオーフェンの左指に突き刺さる。
それを無視して、オーフェンは実験者の眼差しでマチルダの傷口を見た。
右腕から右胸にかけて焼けただれている。白い脂肪や淡い色の内肉までが覗いている。だが、炭化してはいなかった。
オーフェンは傷口に右手を添えて、祈るように囁く。
「我は癒す斜陽の傷痕」
時計の針が逆回転する。負傷に至るまでの経緯が反転する。痕も残さず、マチルダの火傷は完治した。
いや、そう断言するのはまだ早い。黒魔術では神経系は癒せない。経過を見る必要があるだろう。
だが、少なくともショック死する危険は回避することができた。そして、その安堵がオーフェンの意識を緩ませた。
気づくのが遅れる。五つの火球が弧を描き、オーフェン達へ飛翔していた。マチルダを抱えてこの場を退避することは到底間に合わない。火球に向き直り、オーフェンは即座に構成を編み上げる。
「我は紡ぐ光輪の鎧」
光の輪を無数にあわせた、力場の障壁が発生する。火球が障壁まで至り、瞬時の鬩ぎ合いの後に対消滅した。
オーフェンは無言で立ち上がる。吊り上げた眦の先に、巨躯を誇る男の姿があった。
右目を覆う眼帯。打撃武器のような杖。自身の血で汚れたローブを風にはためかせ、屋根の上に男は立っている。
あの瓦礫の山からどのように脱け出したのか。火使いの男の顔には無数の傷が走り、血が左目にまで流れ込んでいる。しかし、それをさして気にした風もなく、男は笑んだ。
「知らぬ魔法を操る強者よ、女などに構うな。お前の殺すべき敵はここにいる」
そう嘯き、屋根を蹴り奥へ姿を消す。明らかな誘いだ。オーフェンは唇を舌先で濡らし、その誘いに乗るべく足を踏み出す。と、
「……無理……よ、逃げ……ないと」
意識が多少戻ったのか、マチルダが請うような声を震わせていた。そんな声を彼女が口にするところをオーフェンははじめて見る。それが、彼の神経をますます冷やしていった。
「しばらく寝てろ。後で迎えに来る」
振り返らずに素っ気無く告げ、オーフェンは足を踏み出した。
火使いの男はローブの裾をちらつかせながら、二階建ての建物の内に姿を消す。バラックばかりのこの場としては、割合骨組みのまともな建物だった。
オーフェンは無言のまま外套を外し、唱える。
「我は流す天使の息吹」
生まれた突風は外套をはためかせ、男の消えた建物の入り口までそれを運ぶ。外套を追うように、オーフェンも同じく入り口に走った。
外套が建物内に飛び込み、すぐにオーフェンが続く。機をあわせ、部屋の奥から火球が飛んだ。
囮に使った外套ではなく、オーフェン自身に向かって。
(…………!)
予測を外され、受身も考えずに飛び退る。したたかに床で身をぶつけながら一回転。右腕を突き出し、魔術の構成を編みながら男の姿を探す。
男は、姿を隠してもいなかった。二階へ繋がる階段の上で、杖を構えている。そのまま下手な踊りじみた拍子で、後ろ向きに階段を昇っていく。二階へ来いとの意思表示だろう。
知ったことかと、オーフェンは光熱波を天井に向かって放つ。当たれば幸いといわんばかりの適当な狙いだった。
しばし構えを解かずに様子を窺った後、オーフェンは舌打ちをしながら二階へ向かう。
嵌め戸のない窓際に立つ男が、オーフェンを迎える。二階の床と天井は大穴が開き、空から傾いた陽光が差していた。
男が残念そうに眉を下げ、杖を握る右腕を振る。瞬間、部屋の壁際に八つの火球が生まれた。
オーフェンを囲む配置である。
火球を維持したまま、男は口を開いた。
「最後にもう一度訊ねるが、名前を教えてはくれないか? お前のことはよく覚えておいて、お前の焼ける匂いを反芻したいんだ」
「うるせえ。しゃべるなパイロマニア」
男は、今にも唾を吐き出しそうな口調で告げる青年を見つめ、首を振る。火使いの男は本心から残念がっていた。
さきほどの防御魔法は五つの火球によって対消滅したのだ。この見慣れぬ魔法を使う青年は、避けることも防ぐこともできずに死ぬだろう。
杖を振り上げ、八つの火球に命令を下そうとしたその瞬間、男は虚をつかれたように動きを止めた。
オーフェンが拳を構えている。左足を引き半身となり、背筋を伸ばし、腰を落として重心を低く保つ。
拳はゆるく握り、腰溜めに置く。隙の窺えない完全な、しかし無意味な構えだった。当たり前だ。
メイジに対して拳法の構えなど、何の役にたつ?
双眸を鋭くしながら、オーフェンが言う。
「俺からも最後の提案だ。いま引くんなら見逃すぜ?」
火使いの男の顔が失意と憤怒で歪む。これほどの強者でありながら、最後の瞬間にこのような醜い虚勢を張るとは。怒りに任せたまま、男は杖を、
「そりゃ残念。あばよ」
呟き、オーフェンは構成を終えていた魔術を開放した。
「我は踊る天の楼閣」
オーフェンという物体の質量が擬似的に零となる。爆発的な加速とともに、擬似空間転移の魔術が完成する。拳を構えた姿のまま、オーフェンは男の目前へ唐突に出現した。
右拳が男の下腹に添えられる。男の体がわずかに揺れた。瞬間、火薬の弾けるような音が響く。
強烈な右足の踏み込みによる炸裂音。全身の運動を螺旋状に束ね、体幹へのカウンターになるように零距離から右拳を打ち出す。
拳を引く。糸が切れたように巨躯が崩れ落ちた。ぴくりとも動かぬその体を、オーフェンは冷然と
見下ろす。
師、チャイルドマンから受け継いだ、寸打と呼ばれる打法である。右手を擦りながら、オーフェンは周囲を見回した。火球は全て消えている。それを確認してから、オーフェンは杖を取り上げようと身を屈め――予感に従い、飛びのいた。
男はまだ杖を手放していない。オーフェンが飛びのいた瞬間、男の周囲を円形に火線が走る。丸くくり抜かれた床とともに男は階下へ沈んだ。
オーフェンはそこへ反射的に飛び込みかけ、自制する。いま飛び込めば的になるだけだろう。判断に迷ったわずかな間。それは致命的であった。
空気の揺れを感じ、オーフェンは窓の外に向き直る。階下に消えていた男が、そこに浮かんでいた。
深手により喀血した跡が見て取れる。
「始祖ブリミルよ……」
厳かに、哲学者じみた表情と声音で、男は告げた。
「我が生涯二度目の感謝をここに捧げよう。炎蛇コルベールに続き、俺の前に俺で敵わぬ二人目の男を遣わされたことを」
そして色の薄い不気味な瞳をオーフェンに向け、肉厚な微笑を浮かべる。
「我が名はメンヌヴィル。『白炎』のメンヌヴィル。敬意を払うべき戦士よ。名も顔も分からぬ戦士よ。だが、貴様の体温は覚えたぞ」
奇怪な言葉を残した後、ローブを怪鳥のようにはためかせながら火使いの男、メンヌヴィルは空を渡り、消え去った。
さすがに追撃する手段がなく、オーフェンは忌々しげに空を見る。
(まあ、奴の興味がマチルダから俺に移ったのは、不幸中の幸いか)
それを慰めに、オーフェンはマチルダの下へ向かうべく歩き出した。
「驚いた。本当にまだいたのか」
現れたオーフェンの姿に、壁に身を預けて立っていたマチルダは、慌てた様子で胸元を隠す。
オーフェンは視線を逸らしながら、彼女へ黒皮のジャケットを放り投げた。
「あー、服がいるな。どっかで買うか。金は自分で出せよ」
いつもと全く変わらぬオーフェンを、マチルダは感謝が四、警戒六という目で見返す。
「あいつ……殺したのかい?」
「いや、逃がした。後々面倒なことになりそうな気がするな」
平然と応える青年から、マチルダは一歩下がる。あの怪物じみた男を退けた? 目の前の男をこれまでも得体の知れぬ奴だとは思っていた。 だが、これはあまりにも……
「――ひとつ、聞いてもいい?」
「ん?」
「なんで、私を助けたの?」
予想もしていなかった質問だと、オーフェンは目を瞬かせる。そしてしばらく考え込んだ後、実に適当に答えてみせた。
「ほら、前に言ったろ」
「…………?」
「俺がいたら色々と便利だったろ? 手からビームも出るしな」
そのあまりにもいい加減な言葉に、マチルダは目を白黒させた。肩から力が抜ける。ああ、この男は本当に訳が分からない。
気だるい体を無理に動かしながら、マチルダをオーフェンの後を追うように歩き出した。
さて、どうやってこの男に服を奢らせてやろうか?
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