『小さくて、大きな願い』/こゆき
――七夕って聞くと、どうしてだろう。胸の奥の方が少しだけキュッと締め付けられるような、ほんの少しだけ泣きたくなるような、何だか不思議な気持ちがするんだ。
やっぱり、織姫と彦星の悲しい物語がある日だから、なのかな……。
――七夕にまつわる、織姫と彦星の伝説。初めて本で読んだとき、この話を知ってる、って思ったの。
不思議ね、この世界に伝わるお話を、私が知ってるわけない。それなのに、少し悲しくて、どこか懐かしい……。どして?
『小さくて、大きな願い』
玄関の扉が、ガチャっと乱暴に開いた。ラブは帰宅の挨拶もそこそこに、自分の部屋に上がっていく。
その少し後に、今度は開きっぱなしの扉がそっと締められる。「ただいま」と小さな声で挨拶して、ラブとは正反対に静々と部屋に戻ったのは、一緒に出かけたはずのせつなだった。
その不穏な空気に、出迎えようとしていたあゆみは思い止まり、密かに首をかしげる。もちろんこれが初めてというわけではないけれど、ラブとせつなが喧嘩するなんて本当に珍しいことだったから。
しばらく考えて、あゆみはお茶を入れてせつなの部屋のドアをノックした。自然に仲直りするまで待ってもいいのだが、今夜は七夕だ。気まずいまま一日を終えるのは良くないだろう。
「ラブに聞いてもよかったんだけど、せっちゃんの方が素直に話してくれる気がして。何があったのか、話してもらってもいいかしら?」
「ごめんなさい、お母さん。喧嘩したんじゃなくて、お互いに相手の言ってることが受け入れられなくて、イライラしてるだけなの」
それを喧嘩というのだけど、とあゆみは苦笑した。せつなは客観的に、こと細かに、その時の状況を語る。改めて、せつなに聞いたのは正解だったと思った。
『ねえ、せつな。七夕にはね、悲しい物語があるの。織姫と彦星は、互いに愛し合っているのに、一年に一度だけ、七夕の日にしか会うことができないんだって』
『知ってるわ。それは二人が罪を犯したからでしょう? 天帝様の元に布が届かなくなり、牛もやせ細って倒れてしまった。自分の望みのために、他人を不幸にするのは許されないことよ』
『だけど! 罪を憎んで、人を憎まず……だよ。なにも二人を引き離さなくたっていいじゃない』
『天帝様に、もし人の心が無いのなら、一年に一度会うことすら許さなかったはずよ。それに間違った物語なら、こうして語り継がれることもなかったはず。命令にはちゃんと意味があるのよ。従わなければならないわ』
『ううん、間違ってるよ! 誰かが不幸のままでいることが、正しいはずがないじゃない!』
『ラブ、抑止力って言葉は知ってる? 無責任に罪を許してしまったら、同じように仕事を怠ける人が出てくるかもしれない。小さな不幸で、より大きな不幸を防ぐ意味があるのかもしれない』
『何が……小さいの? 愛し合う二人が、引き離されて暮らす悲しみが小さいの?』
『少し落ち着いて、ラブ。これは架空のお話でしょう? 罪を犯した者は、相応の罰を受ける。他人を不幸にしたら、自分だって不幸になるの。それを戒めるための教訓でしょ?』
『違うよ……』
『どう……違うの?』
『他人が不幸になったら、自分だって不幸になるじゃない! 織姫は天帝の娘なんだよ? 自分の子供が毎日泣いているのに、天帝は布を纏って喜べるの? 牛の乳を飲んで美味しいって笑えるの?』
『だから落ち着いて、ラブ。今日はどうかしてるわよ。これは作り話なんでしょ?』
『たとえ作り話でも、あたしの悲しいって気持ちは、本物だもの……』
そこで、ラブがせつなから目を逸らした。そして叫ぶように「もういいよ!」と言ったのだという。
それから二人とも気まずくなって、バラバラに帰って来たのだった。
「みんなで幸せになりたいっていう、ラブの気持ちはわかるわ。だけど、家族とか友達とか仲間ならともかく……街とか国家とか、そうした大きな単位では、権力とか法とか命令とか、そうしたものだって必要のはずよ」
「それは、ラブもわかってるんじゃないかしら?」
「えっ?」
「ラブだって、せっちゃんの言ってることの意味はわかるはずよ。そしてせっちゃんだって、織姫と彦星がこのままでいいと思ってるわけじゃないんでしょ?」
「それは……」
「きっと二人は同じことを考えていて、同じように感じていて、ただ立っている場所が違うだけじゃないかしら?」
「立っている場所?」
「そう。せっちゃんは、天帝様やお話の世界全体からこの物語を見てる。そしてラブは、織姫と彦星の立場から見てる」
「よく、わからないわ……」
「わからないから、考えるんじゃないかしら? どうしたらいいのかって。このお話が語り継がれているのは、その結末が正しいからじゃなくて、どうすればいいかみんなで考えるためじゃないかしら」
「みんなで……考える?」
「そうよ。人はどう生きたらいいのか。どんな世の中にしたら幸せになれるのか。時代を超えてみんなで考えたら、そうして、いい考えがたくさん集まったら、一番いい方法だって見つかるかもしれないでしょう?」
あゆみはそこで、何か思い出したような顔をした。ちょっと待っててね、と言って部屋を出て行くと、またすぐ戻って来て、一冊のアルバムをせつなに手渡した。
「これは?」
「ラブの小さい頃の……そうね、たしか三歳から五歳くらいまでの写真よ。七夕の時の写真もあるから、見てごらんなさい」
せつながアルバムを開くと、そこには小さいけれど、でも確かにラブの面影のある女の子の写真が収められていた。
そのほとんどは笑顔。本当にいつも笑ってばかりいたんだろう。だがめくっていくうちに、珍しく泣き顔の写真があった。
源吉お祖父さんに手を引かれて、顔をくちゃくちゃにしてカメラの方に――おそらくあゆみの方に振り向いた、小さなラブの姿。
「それはラブが四歳の時の、七夕の写真よ。その日はちょうど雨が降っていて、織姫と彦星が会えないのを悲しんで、それで泣いていたの」
「そんな頃から……ラブはやっぱりラブなのね」
「クスッ、三つ子の魂、百までとはよく言ったものね」
「あれっ? これは……」
もう一枚めくりかけて、せつなの手が止まる。アルバムに挟まっていたのは、一枚の古びた紙切れだった。
ラブの書いた短冊なんだろう。そこには子供の文字で、「おりひめさまと、ひこぼしさまが、あえますように」と書かれていた。
あゆみはそれを見て微笑むと、もうそれ以上は何も言わずに、せつなにアルバムを預けて部屋を出た。
夜になって、せつなはアルバムを抱えてベランダに出た。まだラブとは口を利いていない。夜空を見上げると、美しい星が輝いている。
「天の川がハッキリ見える。今夜は織姫と彦星は会うことができそうね」
アルバムを開き、さっきの短冊を取り出した。
「せつな? 何を持ってるの?」
「きゃっ!」
突然声をかけられて、せつなはビックリしてアルバムを落しそうになる。するとページの隙間から、手にしていた短冊とは別の、もう一枚の短冊が落ちた。
「あ、いけない!」
「え? それって……」
せつなとラブがかがみこみ、二人の手が同時に短冊に触れる。
その瞬間。周囲の景色が一変した。
そこは広い草原だった。頭の上には、降るような星空。いや、その言葉の通り、時々空から、すーっと地面へと流れてくる光の筋がある。
草原のあちらこちらには、小さな丸い明かりのようなものがあって、良く見るとそれは巨大な金平糖のような形で、金や銀の光を放っている。
ラブとせつなが立っている場所の少し先は、どうやら崖になっているらしかった。そしてその手前――ラブとせつなの目の前には、小さな二人の女の子が立っていた。
一人は写真で見たままの姿――幼い頃のラブだった。そしてもう一人は――
「あれは……イース?」
「ええ……信じられないけど、間違いなく私の子供の頃の姿よ」
二人の子供の会話は噛み合わない。今日のラブとせつなのような喧嘩ではないけれど、互いの主張はすれ違う。
「そうだよね! ひどいよね! だからあたし、『おりひめさまと、ひこぼしさまが、いつでもあえますように』って、おほしさまにおねがいしたんだ」
勢い込んで同意を求める小さなラブに、小さなイースが、不思議そうに首を傾げる。
「え? だって、いちねんにいちどしか あうことがゆるされないっていうのは、めいれいなんでしょ? だったら、『いつでもあえますように』っていうのは、おかしい」
「えぇ~、だって……」
「めいれいには、ちゃんといみがあるんだから、したがわなくちゃいけない。いまはまだ、そのいみがよくわからなくても」
小さなラブの大きな瞳に、じんわりと涙が滲んでいく。あ、泣きそう……と大きなラブが思った時。
「ん?」
小さなイースが、崖の下を覗き込んで声を上げた。
「あれって……あなたがいってた、おりひめさまと、ひこぼしさま?」
そこからは、まるで映画でも見ているように景色が流れた。
崖の下には銀色に輝く川。
そのこちら側の岸には淡い紅色の着物を着た女の人が、向こう岸には白い着物を着た男の人が、じっと見つめ合っていて――。
小さなイースが小さなラブの手を取って、二人で険しい崖を一気に駆け下りる。
その途中で、小さなラブが足を滑らせて、そして――
大きなラブと大きなせつなは、再び元のベランダに戻された。
「今のは――なんだったの?」
「わからないけど……なんだか懐かしい気がする」
「奇遇ね……私もよ」
そう言って、せつなは拾ったばかりの、もう一枚の短冊を見る。
「――どうかもういちど、あのこにあえますように」
「「これって!!」」
ラブとせつなの声が揃う。今の夢がもし、本当に自分たちが幼い頃に見た夢ならば――
「あたし、もしかしたら、もう一度あの子に会いたかったから……だから、昼間はあんなにムキになっちゃったのかな」
ラブがそう言って、せつなに小さく微笑みかける。せつなは、その大きな瞳をじっと見つめてから、小さな、けれどさっきよりも柔らかな声で言った。
「……ねえ、ラブ。私はやっぱり、天帝様が間違ってるとは思わない。だけど、ラブが『織姫と彦星がいつでも会えますように』って、願うことも間違いじゃないと思うわ」
それっきり、二人は黙って空を見上げた。
せつなは今の不思議な光景について――そして幼い頃に見た夢について、それ以上は何も話そうとはしなかった。
ラブもまた、その日は織姫と彦星についてもう口にすることはなかった。
やがて、ベランダの手摺に置かれた二人の手が少しずつ近付いて、いつしかしっかりと握り合う。
夜空には、織姫と彦星の再会を祝すかのように、美しい天の川が煌いていた。
最終更新:2015年02月21日 01:23