『月虹譜』1




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 香久矢まどかは、15年間、恋愛というものを経験せずに育ってきた。
 無論、それに関する知識はある。
 それでも幼少の頃より、いずれ父と母が香久矢家を継ぐにふさわしい立派な相手を見つけてくれて、自分はその人と結婚して一緒になるのだと漠然と思っていたせいか、まどか自身は恋愛を特に意識することも無かった。
 けれど休み時間の教室で、たまたま自分の席の近くで女子たちが、恋の話題に華を咲かせているのを耳にして、まどかはふと思った。
 ―― もし、自分が誰かと恋愛をするとしたら。
 ―― えれなみたいなカンジの人?
 そっと教科書を開いて、口元を隠すように持ち上げる。
 プリキュアになって以来、友だちとしての距離も随分と縮まったせいか、今では彼女の素敵な部分がよく見える。
 彼女が自然と振り撒いている人柄の明るさも以前より魅力的に感じられるし、二人で話している時も心から楽しいと感じられるようになった。
 ……本当にもしも、『香久矢家のまどか』としてではなく、一人の香久矢まどかとしての恋が許されるのなら。
 えれなと同じくらい一緒にいて楽しい人 ―― そんな相手を脳裏に思い描いて、その隣にいる自分の姿を想像する。
(さりげなく二人で手を繋いでみたり、みんなには内緒でデートに行ってみたり)
 ―― そのうち、家の反対を押し切って、二人で駆け落ちとかも。
 ぽふっ…。
 ほてってきた顔が教科書に落ちた。
 そういえば先週、えれなの家のお店の手伝いをした時、帰り際に彼女から軽く感謝のハグをされた。

 自分の体を抱き包むスラリとした腕の感触。
 やわらかく押し付けられる彼女の身体の感触。
 ―― 太陽の光を浴びた花の匂い。

 その時は仲の良い友だちにじゃれつかれたぐらいにしか思わなかったのに、今思い出すと胸がドキドキしてくる。
(わ…、わたくしは一体何を考えているのでしょう……)
 クラス後方の席の彼女を妙に意識してしまう。


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 ―― 数週間後。
 それは学校からの帰り道での出来事。

 吹きつけてくる寒風のせいで、香久矢まどかの長くつややかな髪がたなびく。「んっ…」と小さな声を上げて髪を押さえるも、冬の風は気まぐれに彼女の髪をなぶってくる。
「だいじょうぶ?」
 と、隣を歩く天宮えれなが手を伸ばして髪を押さえてくれる。
 えれなのいる位置とは反対側の方向へ髪がたなびいているから、それはまるで、まどかの肩を抱き寄せるみたいな格好になって ―― 。
 思わず意識してしまったまどかが、微かに顔を赤らめる。
 チラッ、と上目遣い気味にえれなの様子を窺おうとしたら、偶然にも彼女と目が合ってしまい、慌てて下を向いた。
「あっ、ごめんね」と、えれなが手を引っ込める。
 まどかは「いえ…」と答えるのが精一杯。

 香久矢まどかは、由緒ある香久矢家の一人娘で、絵に描いたような令嬢だ。
 観星中学に通う三年生で、任期を終えて生徒会長を退任した今もなお人気は衰えず、多くの生徒たちから『観星中の月』として慕われ続けている。
 ひそやかに才気を匂わす秀麗な容色と、やわらかくて落ち着いた声音、誰に対しても丁寧な物腰。立ち振る舞いは穏やかなれど、凛とした芯を感じさせる。
 それら全てが、仄かなカリスマの輝きとなって彼女を彩る。―― ゆえに皆から『月』と謳われるのだ。
 政府の要職に就く父と、世界的なピアニストである母の名を汚さぬよう、文武両面の道に大人顔負けの精進を重ね、特に弓道において、その繊手は美しい冴えを見せる。
 ……そんな彼女だが、この日は雰囲気に陰りを覗かせていた。
 外見はいつもと変わらないし、行動も普段通りだから、気付けるのは本当に親しい者だけ。

 えれなは、もちろん気付いている。
 ―― 気付いているけれど、何をどう訊いていいのかが分からない。

 天宮えれなが、こんな風に迷うのは珍しかった。
 彼女もまた、まどかと同じく観星中学に通う三年生。
 周囲からは『観星中の太陽』と称され、いつも明るい笑顔と性格で、それに応えている。
 身体能力が非常に高く、花屋である自分の家の手伝いがなければ、運動部に所属して優秀な成績を収めていただろう。
 チャームポイントは、父親譲りの明るい色の髪と、左目尻の泣きぼくろ。
 肌が褐色なのは、彼女がヒスパニック系のハーフだからなのだが、健康的に引き締まった肢体が醸すアクティブさが、それを日焼けだと勘違いさせそうになる。
 五人の弟妹に対しては、しっかり者の明るい姉。学校にみんなに対しては、爽やかさに溢れる人気者。
 コミュニケーション能力は高く、気さくに話しかける事には慣れている。
 ……しかし、今に限っては、どうしても調子がうまく出ない。

(でも、このまま、まどかを放ってはおけないし……)
 どうやって切り出そうかを迷っていたら、まどかのほうから話しかけてきた。
「今日は……何かあったのですか?」
「えっ?」
「あの、えれなの様子が普段と違うもので……その、わたくしの勘違いだったら、すみません」
「あー…、違ってるかな?」
 これは自分でも気付かなかった。
 まどかの事を考えていたせいかな、と心の中で苦笑。
 冷たい風が、また二人に向かって強く吹きつけてきた。
 ふと視線を落とした先 ―― まどかの白くて、ほっそりとした手。
 それを見て、寒そうだなと思ったら、ごく自然に言葉が出た。
「寒いね。……手、繋ごっか」
 少しでも彼女の手をあたたかくしてあげたいという気持ちから出た言葉だったが、瞬間、まどかは自分の手をきつく握りしめてしまった。
 まるで拒絶するみたいに。

 ……吹きつけてくる寒風が、一段と強くなった。
 その冬色の風の中に、まどかの震える声が響いた。
「わたくしは……昨日の夜、えれなにひどい事をしてしまいましたっ」


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 もうそろそろ、日付が変わる頃だろうか?
 ベッドの上で、えれなは眠れぬ時間を過ごしていた。
 原因は、今日の帰り道でのまどかの告白 ―― というか懺悔か。

 恋愛に興味を持ち始めた彼女は、えれなのような人と結ばれたいと願い、幾夜も想像を巡らせて恋のときめきを愉しみ、そして愛の切なさに身を焦がした。
 想像の中で、相手に触れる。―― リアルな感触を求めて、手の平や指先で自分の身体をさわった。
 気持ちよかった。
 強いハグの感触を味わいたくて、自分の両腕でギュッと自身を抱いた。
 キスの感触を知りたくて、そっと指でくちびるをなぞった。
 想像の中で何度も相手に触れる。想像の中の相手が何度も自分に触れてくる。そのたびに、まどかの手が、指が、自身の身体を這った。
 ……でも、あくまでも『えれなみたいな人』のはずが、その顔も、話し方も、だんだんとえれな本人へと置き換わっていって……。
 そうなるにつれて、指と手を這わせる身体が徐々に火照りを帯びていった。
 想像の中で、親友の ―― えれなのくちびるへ、自身のくちびるを重ね合わせる。
 親友の体付きを思い浮かべ、想像の中で彼女の肌に指を這わせながら、自身の身体の同じ場所をまさぐる。こんなコトをしてはいけないと分かっているのに、本当に抑えられなかった。えれなが愛しくて、身体が気持ちよくて、何もかもがたまらなかった。

 ―― 想像の中とはいえ友人を汚してしまったことに涙を流しつつ、嗚咽混じりの声で懺悔を終えたまどかが、自分の脇を抜けて走り去るまで、えれなはうつむいていた。

 まどかの目には、ショックで固まっているように映ったかもしれないけど……。
(ごめんね、まどか、違うんだ。あたしはね、あの時……)
 ―― あの時、ショックを受けて、うつむいてたんじゃないよ。
(……ん~~、いや、やっぱり、それなりにショックを受けてたかも。でもね、違うんだ)
 動揺してたせいで最後まで何も言えなかったけど、あたし、話の途中から、ずっと見てたんだ。
 ―― まどかの手を。
 ―― あの白くて、ほっそりとした手を。
 まどかが想像の中で、あの手で……あの綺麗な手で、あたしの体にたくさん触れたなんて言うから、変にドキドキしてきて……。
 そしたら、どうしても、まどかの手から目が離せなくなって……。
(女子からラブレターみたいなのを貰った事は何度もあるけど、でも、本気で意識しちゃったのって、今日のまどかが初めてだよ)

 えれなが自分の頭の下から枕を抜いて、それを胸の前で抱きしめる。
 想像の中とはいえ、女の子同士で……。しかも、自分とまどかが……。
(あんな様子だったし、さすがに今日はしてくれないかな……)
 そう思うと、少しだけ切ない気分。
 まどかとのキスを想像して、彼女がそうしたように、そっと指でくちびるをなぞってみる。
 ―― くすぐったいな。ふふっ。キスって、こういうカンジなのかな?
 まどかのつややかなくちびるを思い浮かべながら、何度も何度も、優しく自分のくちびるをなぞっていく。
(まだ、うまく気持ちまとまってないけど……)
 ―― 明日、ちゃんと伝えなきゃ。あたしは全然嫌な気持ちになってないよって。
(……あと、頼んでみよう)
 ―― 明日の夜も想像の中で、あたしの身体にたくさん触ってほしいって。
 枕を抱く腕にギュウウウウッとチカラが入る。
 胸の奥のほうに、ぐっ…と締め付けられるような感触を覚えた。でも、それはどこかくすぐったくて、甘やかで。

 …………結論から言うと、
 翌日、えれなは、その気持ちをうまく伝えられなかった。
 いざ、まどかを前にすると恥ずかしくて、なんとなく言葉を曖昧にしてみたり、あえて遠まわしに言ってみたりするものだから、ついには変な誤解を引き起こし、
「分かりました」
 と、まどかがキリッと決意を固めた表情で、えれなを家に招く始末。
( ―― どうしてこうなっちゃうかな)と思わないワケでもなかったが、夜も更けた頃、ベッドの上でキスから始まる甘いひとときを迎えると、もうどうでもよくなった。
 まどかはたどたどしい手付きで、しかし、えれなを気持ちよくしてあげたいという真心を込めて、丁寧に丁寧に、優しく愛撫を繰り返す。
 えれなもそれに応えて、何度もまどかの柔らかな裸身を抱きしめ、女心を熱く酔わせるキスを彼女のくちびるに捧げた。
 ―― ただ愛しい。
 朝になって目覚めても、その想いは少女たちの胸から消えず、ベッドに全裸で寝そべったまま、二人は手を繋いで微笑みを交わした。
「わたくしたち、とてもイケナイ事をしてしまいましたね」
「うん。二人だけのすごい秘密ができちゃったね」
 初々しく心がはしゃぐのを抑えきれず、どちからかともなく互いにカラダを抱き寄せ合って、秘密のキスの味を楽しんだ。



最終更新:2020年04月07日 21:59