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『さらば悟くんのオチンチン』3/猫塚◆GKWyxD2gYE




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 悟の姿のいろはが軽く会釈すると、まゆも同じように返してきた。
 距離は徐々に縮まっていく。
 いろはの姿の悟が、自信ありげな空気をまとって前に出る。
 完璧に普段どおりの『犬飼いろは』を演じて、入れ替わりの件を隠し切るつもりだった。

 まゆが「おはよう、いろはちゃん」と手を振って挨拶してくる。
 対して悟は『カーテシー』 ―― 吊りズボンの両すそをつまんで持ち上げ、右脚を内気味にスッと斜め後ろへと引き、左ひざを軽く曲げて挨拶。

「ごきげんようでござる。猫屋敷殿」
「ござるっ!?」

 まゆが驚いて声をあげた瞬間、いろはが疾風のように動いた。
 面食らっているまゆの手に、こむぎと大福のリードを、ササッ、と握らせる。

「ちょっとだけ待っててね、まゆちゃ ―― まゆさん」
「えっ、待ってればいいの?」

 いろはが自分の姿の悟をズザザッと引きずって、来た道を10メートルほど戻った。

「……悟くん、さっきのアレ、何?」

 いろはが引き攣った笑顔で問い詰める。
 悟が恥ずかしさのあまり、プルプル震えながら答えた。

「うぅぅ…。自然な感じで犬飼さんを演じるはずだったんだけど、逆に緊張しちゃってワケが分からなくなってきて」
「せめて和風か洋風か、どっちかに統一してよ」
「くっ、申し訳ござらぬ!」

 ハァ…と溜め息をついたいろはが、やれやれといった感じで首を左右に振った。

「悟くんはここで見てて。わたしが見事に悟くんを演じてくるから」

 犬飼いろは、不敵に微笑んでみせる。

「ほら、わたしの身体は悟くんと入れ替わってるでしょ。 ―― ってことは、今、わたしの頭の中にあるのは悟くんの頭脳。
 悟くんの知識を使いこなせば、こんなピンチ、乗り切るなんて簡単だよ。
 ふっふっふ、悟くん、わたしの超パワーアップした知能に期待しててちょうだい」
「どうしよう、不安しかない……」

 悟の視線を背中で受け流し、いろはが自信満々にまゆの前に進み出る。
 眼鏡を、くいっ、と指で直す。さらに前髪を、ふぁさっ、と優雅に払う。
 ―― 本人としては、普段の兎山悟をパーフェクトに演じているつもりである。

「フフッ…。まゆさん、知っているかな?
 子丑寅卯辰巳……でおなじみの干支には、実は猫年があるってことを」
「あっ、知ってる! 
 日本では卯年にあたる年が、ベトナムやチベットとかでは猫年っていうアレでしょ!
 あとブルガリアだと、寅年の代わりに猫年があるんだよねっ!
 ベトナムの場合、『卯』の中国語発音がベトナム語の『猫』に近いために混同が起こって猫年になったっていう説があるけど、ブルガリアの場合は、どうして寅年が猫年になったのかな? 『虎を描きて猫に類す』ってことわざがあるけど、これって良い意味じゃないから関係ないよね。ということは、う~ん、やっぱり虎がネコ科だから? 
 ……兎山くんは知ってる?」

 悟の姿のいろはが、眼鏡を、くいっ、と直し、続けて前髪を、ふぁさっ、と払う。

「フフッ…。知らなくはない……と言えないこともないね」
「すごいっ」

 まあ本物の悟くんなら知ってると思うし、嘘じゃないよね ―― と心の中でつぶやいたいろはが、まゆに微笑みかけた。

「フフッ…。まゆさん、少しだけ待っててくれる?」
「えっ、また待ってればいいの? ……うん、わかった」

 いろはがトボトボと、来た道を10メートルほど戻って、悟の前に立った。

「悟くんの頭脳でもかなわなかったよ」
「うーん。猫好きの猫屋敷さんに猫系のトリビアで挑むのは、相手のホームグラウンドで戦うようなものだからね」
「そっか。じゃあ今度は、わたしに有利な犬系のトリビアで……」
「ダメだッ! 犬飼さんッ!」

 悟が鋭い声でいろはを制した。

「犬は、食肉目イヌ科イヌ属の哺乳類。
 でも、この『食肉目』に関しては、日本国内では『ネコ目(もく)』と表記されるのが一般的なんだ。
 なので、猫屋敷さんが猫好きである以上、犬系のトリビアも完璧に押さえていると見るべきだ」
「いや、まさか、さすがにそこまでは無いでしょ」
「あれ? ぼくだったら普通にそこまでするけど」
「…………。うん、そうだね」

 いろはの返答に微妙な間(ま)があったことが引っかかる悟だったが、話を進める。

「ここはひとつ、予想外のトリビアで仕掛けてみよう」
「予想外……、扁形動物プラナリアの一種・ビワオオウズムシ……」
「ごめん。それ、ぼくにとっても予想外すぎて全然分からない」
「じゃあ、ハシビロコウ、ヤンバルクイナ、コウテイペンギン、シジュウカラ」
「なるほど。トリビアというか『鳥ビア』だね」
「えへへー、バレた?」

 ―― と、二人が和気藹々と捲土重来(けんどちょうらい)に向けて盛り上がっている一方、こむぎもまた、やる気を燃え上がらせていた。

(いろはも悟もすごく頑張ってるワン。こむぎだけ、じっとしているワケにはいかないワン)

 しかし、何をすれば……と考えて数秒、ハッと思いついた。
 すかさず大福が『余計なこと言うなよ? いいか、絶対に言うなよ!?』という視線を飛ばしたが、わずかに遅かった。

「まゆっ、いろはは今日、オチ ―― 」
「わあああああっ! こむぎっ、ストップ!ストップ!」
「ハイッ、こむぎちゃん、そこまでっ!」

 いろはと悟が無意識に限界突破、約10メートルの距離を一瞬で駆け抜いてきた。
 まゆからすれば、二人がシュバッと、いきなり目の前に出現したみたいな感じで、ちょっと怖い。
 えっ…えっ…と戸惑いつつ、「オチ……?」と洩らして、まゆが首を傾げた。
 いろは、おおいに慌てる。

(どどどどうしようっ、早く誤魔化さないと……。何かいいアイデアっ、いいアイデアっ!)

 内面のひどい動揺が、身体の反応にも現れてしまう。
 わたわたと挙動不審になっている兎山悟(※中身は犬飼いろは)に、まゆが心配そうに声をかけた。

「あの……兎山くん、落ち着いて」

 ―― 瞬間、いろはに電流走る!

「いや、オチツイテじゃなくてオチ ―― 」

 言わせないッ! 犬飼いろはの姿の悟が、右手のコブシを天に向かって突き上げ、絶叫。

「せいっやあああああッッッッ!!」

 悟以外、全員がビクッ!となって動きを止める。
 その隙を逃さず、ヤケクソのまま、さらに叫んだ。

「オチ……落ち武者がああああっっ!! 道路の反対側の歩道にいいいいっっ!!」
「落ち武者っ!?」

 とっさにまゆがそちらを見るも、むろん、落ち武者などいない。
 正気に戻ったいろはが、すかさずフォローに入る。

「落チ武者、サッキマデ居タヨ。デモ、メッチャ走ッテ、スグニ居ナクナッタヨ」

 腹話術師の人形みたいなしゃべり方だが、落ち武者のインパクトが強すぎて、まゆに気にする余裕はなかった。
 彼女の混乱に、悟が追い討ちをかける。

「アニマルタウンの落ち武者は、全国でもトップレベルの駿足(しゅんそく)を誇るからね。速すぎて、並の動体視力じゃ視認することすら困難だね」
「えっ、待って、落ち武者って全国的にいるの? でも今、令和だよね? あれっ?」

 情報が、まゆの脳の処理能力を破壊していく。
 それはさておき、「速い」という単語に反応したこむぎが、闘志を燃やし始めた。

「おちむしゃ……、よくわかんないけど、ぜひ、駆けっこ勝負を挑みたいワン!」
「なら善は急げだね。というわけで、まゆちゃ ―― まゆさん、また学校で!」
「さらばでござるっ!」
「バイバイワンっ!」

 こむぎと大福のリードを返してもらったいろはたちが、サヨナラを告げて走り出す。

「うん、また学校で……」

 去り行く背中に向けて静かに手を振るまゆが、ぽつんとつぶやいた。

「わたし、一体何のために待たされてたんだろう……」



最終更新:2024年08月22日 16:37