『さらば悟くんのオチンチン』3/猫塚◆GKWyxD2gYE
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悟の姿のいろはが軽く会釈すると、まゆも同じように返してきた。
距離は徐々に縮まっていく。
いろはの姿の悟が、自信ありげな空気をまとって前に出る。
完璧に普段どおりの『犬飼いろは』を演じて、入れ替わりの件を隠し切るつもりだった。
まゆが「おはよう、いろはちゃん」と手を振って挨拶してくる。
対して悟は『カーテシー』 ―― 吊りズボンの両すそをつまんで持ち上げ、右脚を内気味にスッと斜め後ろへと引き、左ひざを軽く曲げて挨拶。
「ごきげんようでござる。猫屋敷殿」
「ござるっ!?」
まゆが驚いて声をあげた瞬間、いろはが疾風のように動いた。
面食らっているまゆの手に、こむぎと大福のリードを、ササッ、と握らせる。
「ちょっとだけ待っててね、まゆちゃ ―― まゆさん」
「えっ、待ってればいいの?」
いろはが自分の姿の悟をズザザッと引きずって、来た道を10メートルほど戻った。
「……悟くん、さっきのアレ、何?」
いろはが引き攣った笑顔で問い詰める。
悟が恥ずかしさのあまり、プルプル震えながら答えた。
「うぅぅ…。自然な感じで犬飼さんを演じるはずだったんだけど、逆に緊張しちゃってワケが分からなくなってきて」
「せめて和風か洋風か、どっちかに統一してよ」
「くっ、申し訳ござらぬ!」
ハァ…と溜め息をついたいろはが、やれやれといった感じで首を左右に振った。
「悟くんはここで見てて。わたしが見事に悟くんを演じてくるから」
犬飼いろは、不敵に微笑んでみせる。
「ほら、わたしの身体は悟くんと入れ替わってるでしょ。 ―― ってことは、今、わたしの頭の中にあるのは悟くんの頭脳。
悟くんの知識を使いこなせば、こんなピンチ、乗り切るなんて簡単だよ。
ふっふっふ、悟くん、わたしの超パワーアップした知能に期待しててちょうだい」
「どうしよう、不安しかない……」
悟の視線を背中で受け流し、いろはが自信満々にまゆの前に進み出る。
眼鏡を、くいっ、と指で直す。さらに前髪を、ふぁさっ、と優雅に払う。
―― 本人としては、普段の兎山悟をパーフェクトに演じているつもりである。
「フフッ…。まゆさん、知っているかな?
子丑寅卯辰巳……でおなじみの干支には、実は猫年があるってことを」
「あっ、知ってる!
日本では卯年にあたる年が、ベトナムやチベットとかでは猫年っていうアレでしょ!
あとブルガリアだと、寅年の代わりに猫年があるんだよねっ!
ベトナムの場合、『卯』の中国語発音がベトナム語の『猫』に近いために混同が起こって猫年になったっていう説があるけど、ブルガリアの場合は、どうして寅年が猫年になったのかな? 『虎を描きて猫に類す』ってことわざがあるけど、これって良い意味じゃないから関係ないよね。ということは、う~ん、やっぱり虎がネコ科だから?
……兎山くんは知ってる?」
悟の姿のいろはが、眼鏡を、くいっ、と直し、続けて前髪を、ふぁさっ、と払う。
「フフッ…。知らなくはない……と言えないこともないね」
「すごいっ」
まあ本物の悟くんなら知ってると思うし、嘘じゃないよね ―― と心の中でつぶやいたいろはが、まゆに微笑みかけた。
「フフッ…。まゆさん、少しだけ待っててくれる?」
「えっ、また待ってればいいの? ……うん、わかった」
いろはがトボトボと、来た道を10メートルほど戻って、悟の前に立った。
「悟くんの頭脳でもかなわなかったよ」
「うーん。猫好きの猫屋敷さんに猫系のトリビアで挑むのは、相手のホームグラウンドで戦うようなものだからね」
「そっか。じゃあ今度は、わたしに有利な犬系のトリビアで……」
「ダメだッ! 犬飼さんッ!」
悟が鋭い声でいろはを制した。
「犬は、食肉目イヌ科イヌ属の哺乳類。
でも、この『食肉目』に関しては、日本国内では『ネコ目(もく)』と表記されるのが一般的なんだ。
なので、猫屋敷さんが猫好きである以上、犬系のトリビアも完璧に押さえていると見るべきだ」
「いや、まさか、さすがにそこまでは無いでしょ」
「あれ? ぼくだったら普通にそこまでするけど」
「…………。うん、そうだね」
いろはの返答に微妙な間(ま)があったことが引っかかる悟だったが、話を進める。
「ここはひとつ、予想外のトリビアで仕掛けてみよう」
「予想外……、扁形動物プラナリアの一種・ビワオオウズムシ……」
「ごめん。それ、ぼくにとっても予想外すぎて全然分からない」
「じゃあ、ハシビロコウ、ヤンバルクイナ、コウテイペンギン、シジュウカラ」
「なるほど。トリビアというか『鳥ビア』だね」
「えへへー、バレた?」
―― と、二人が和気藹々と捲土重来(けんどちょうらい)に向けて盛り上がっている一方、こむぎもまた、やる気を燃え上がらせていた。
(いろはも悟もすごく頑張ってるワン。こむぎだけ、じっとしているワケにはいかないワン)
しかし、何をすれば……と考えて数秒、ハッと思いついた。
すかさず大福が『余計なこと言うなよ? いいか、絶対に言うなよ!?』という視線を飛ばしたが、わずかに遅かった。
「まゆっ、いろはは今日、オチ ―― 」
「わあああああっ! こむぎっ、ストップ!ストップ!」
「ハイッ、こむぎちゃん、そこまでっ!」
いろはと悟が無意識に限界突破、約10メートルの距離を一瞬で駆け抜いてきた。
まゆからすれば、二人がシュバッと、いきなり目の前に出現したみたいな感じで、ちょっと怖い。
えっ…えっ…と戸惑いつつ、「オチ……?」と洩らして、まゆが首を傾げた。
いろは、おおいに慌てる。
(どどどどうしようっ、早く誤魔化さないと……。何かいいアイデアっ、いいアイデアっ!)
内面のひどい動揺が、身体の反応にも現れてしまう。
わたわたと挙動不審になっている兎山悟(※中身は犬飼いろは)に、まゆが心配そうに声をかけた。
「あの……兎山くん、落ち着いて」
―― 瞬間、いろはに電流走る!
「いや、オチツイテじゃなくてオチ ―― 」
言わせないッ! 犬飼いろはの姿の悟が、右手のコブシを天に向かって突き上げ、絶叫。
「せいっやあああああッッッッ!!」
悟以外、全員がビクッ!となって動きを止める。
その隙を逃さず、ヤケクソのまま、さらに叫んだ。
「オチ……落ち武者がああああっっ!! 道路の反対側の歩道にいいいいっっ!!」
「落ち武者っ!?」
とっさにまゆがそちらを見るも、むろん、落ち武者などいない。
正気に戻ったいろはが、すかさずフォローに入る。
「落チ武者、サッキマデ居タヨ。デモ、メッチャ走ッテ、スグニ居ナクナッタヨ」
腹話術師の人形みたいなしゃべり方だが、落ち武者のインパクトが強すぎて、まゆに気にする余裕はなかった。
彼女の混乱に、悟が追い討ちをかける。
「アニマルタウンの落ち武者は、全国でもトップレベルの駿足(しゅんそく)を誇るからね。速すぎて、並の動体視力じゃ視認することすら困難だね」
「えっ、待って、落ち武者って全国的にいるの? でも今、令和だよね? あれっ?」
情報が、まゆの脳の処理能力を破壊していく。
それはさておき、「速い」という単語に反応したこむぎが、闘志を燃やし始めた。
「おちむしゃ……、よくわかんないけど、ぜひ、駆けっこ勝負を挑みたいワン!」
「なら善は急げだね。というわけで、まゆちゃ ―― まゆさん、また学校で!」
「さらばでござるっ!」
「バイバイワンっ!」
こむぎと大福のリードを返してもらったいろはたちが、サヨナラを告げて走り出す。
「うん、また学校で……」
去り行く背中に向けて静かに手を振るまゆが、ぽつんとつぶやいた。
「わたし、一体何のために待たされてたんだろう……」
最終更新:2024年08月22日 16:37