赤い翼の輪舞曲 第7話――それぞれの夢を追って――
東の空が、微かにオレンジ色に染まる。開けっ放しの窓から、庭の草木の匂いが、朝の爽やかな風に運ばれてくる。
時刻は午前5時。長針が12の文字を指した途端、けたたましい音が鳴り響く。
響は、慌てて目覚ましのベルを止めた。
前に使っていた目覚ましはこんな強烈ではなかったのだが、早起きすると決めたときに、音の大きなものに買い換えたのだ。
側で寝ているせつなを起こしてしまったんじゃないかと、おそるおそる様子をうかがう。
規則正しい呼吸と共に、ゆるやかに胸が上下していた。響は、ほっと安堵のため息をついて、視線を寝顔に移す。
その――あまりにも整った顔の造りと、繊細なパーツに、思わず見惚れてしまう。
美少女なら見慣れているけど、と友達の顔を思い浮かべる。自分も容姿には恵まれていると思うし、奏は、全学年を合わせても一、二を争うほどの美少女だ。
そうでなくてもアリア学園は、美少年、美少女の集う学校と評判も高い。
(でも、この子はなんか違う……。美人というより綺麗。繊細で、精巧で、まるで雪の結晶や、硝子細工みたいな危うさを感じる)
繊細で、脆く、儚いイメージを抱くような女の子。でも、その本性は、決して大人しくもなければ、しとやかでもない。胸には、熱く猛々しい炎を宿しているような子。
体内の熱で、自らを溶かしてしまう雪の結晶。あるいは、自分から床に飛び降りる硝子細工。そんなもの、危なっかしくて見てられないと思う。
(どうして、こんなにも自分を追い詰めてしまうんだろう?)
この子にも、仲間は居たはずだった。なのに、どうして一人で抱え込んで、一人でこんな場所まで逃げてきたんだろう。
異世界であろうと、プリキュアの本質は変わらないはず。仲間との絆の強さなんて問うまでもない。
この世界に来るとしても、仲間を連れて、みんなで来たっていいはずだった。少なくとも、自分ならそうしたはずだ。
(考えたってわかんないか。奏にでも相談してみよっかな~)
せめて、今はゆっくりと休んでほしい。そう思って、はだけた布団をせつなにかけ直す。
響はソロソロとベッドから降り立って、静かに部屋を出た。
部屋のドアが閉まり、響の足音が小さくなっていく。そこで、せつなはパッと目を開いた。
眠りなんてとっくに覚めていた。隣で寝ている、響の呼吸や体温の変化だけでも、十分に意識を覚醒させる要素となる。
そういう意味では、せつなはゆっくり休んだとは言えないだろう。もちろん、響を警戒しているわけではない。長年の間に染み付いた習慣に過ぎない。
せつなが唯一、全ての緊張を解いて熟睡できるのは、ラブの側で眠る時だけだったのだから。
せつなは、パジャマから洋服に着替える。クローゼットの中の服は、何でも着ていいと言われていた。
お洒落で凝ったデザインばかりで、少し恥ずかしいような気もする。でも、色は赤系や黒系が多くて、せつなの好みにピッタリと一致していた。
屋敷の中の物も、一部を除いて、自由に使っていいとの許可をもらっていた。
髪を梳かし、身だしなみを整えてから一階に降りる。階段の途中で、微かにピアノの音が聴こえてきた。
防音設備がしっかりとしているからだろう。せつなの耳でなければ、とても聞き取れないくらいの小さな音だった。
気になって覗いてみることにした。演奏中にノックはかえって失礼だろうと思い、そっと、身体を滑らせるように入室する。
そこには、真剣な表情をした響と団の姿があった。
響は鍵盤に向かい、一心にピアノを奏でている。昨夜の肩の力を抜いた演奏とは、また様子が違っていた。
(なんて綺麗なの。ひたむきで、情熱的で……。戦いの真剣さとはまた違う、まるで、命の輝きそのもの――)
同性であるせつなが、思わずドキッとしてしまうほどの美しさだった。もちろん旋律も美しい。でもそれ以上に、演奏している姿――楽器と空間と一つになっている、響自身が美しいと思った。
きっと、想像を絶する集中力の中にあるのだろう。キリッと引き締まった表情は、抜きん出た容貌を際立たせる。特に印象的なのは、爛々と輝いている瞳だった。
せつなは、美しい容姿にはあまり関心がない。美しくあることが優れたことだとは思っていない。
ラビリンスには、美しい者しか生まれない。だから容姿が整っているというのは、せつなにとっては息をするほどに自然なことであり、特に誇るべきことではないのだ。
そんなせつなですら、今の響には、見惚れてしまうほどの魅力を感じずにはいられなかった。
笑顔なら、せつなにもこだわりがあった。姿見で確認することだってある。でも、それ以外の表情で、こんなにも魅せられるなんて……。
誰かに似ているとしたら、ダンスを踊っているミユキさんだろうか? 自分は、自分たちクローバーは、他人からはどう見えるのだろうか?
(負けたくない)ふと、そんな風に思った。不思議だと思う。自分は、あの大会を最後にダンスを辞めるつもりで、そのことに未練なんて無かったというのに。
(他人の心の中の、何かを呼び起こす。響のピアノには、確かにそんな力がある)
やがて、演奏が終わる。響は指を鍵盤から外して、目を閉じて一呼吸置く。
その後、恐る恐るといった様子で団の表情をうかがった。
「う~ん、まだ音が固いね。腕や指に余分な力が入っている。身体の重心が上がってきていて、下半身が不安定だ。なぜだかわかるかい?」
「え~っと、パパに見られていて、緊張してるから?」
「ハハハ、まあ半分は正解だ。少なくとも今の演奏では、まだ音楽を奏でているとは言えないね」
「それって、音を楽しむって意味でしょ? わたし、十分楽しんでたつもりだけど……」
「Wir brauchen keine zwecken der Musik.」
「もう、パパ~! だから、フランス語やドイツ語で話すのやめてったら!」
「ドイツ語よ、響。意味は、『音楽に目的などいらない』ですよね? 団おじさま」
せつながピアノの前まで歩み寄り、二人の会話に割って入る。その表情と振る舞いは、なんだか怒っているようにも見えた。
「正解だ。お早う、せつな君」
「せつな、起きてたんだ! ごめんね、ほったらかしにしてて」
団はどうかわからないが、響はせつなが居たことに気付いていなかったようだ。
黙って部屋を出たことを謝って、「夜遅くと早朝ぐらいしか、パパにピアノを教えてもらえる時間はないから」と、事情を話してくれた。
「構わないわ。それより、今の演奏のどこがいけなかったのか、私も聞いてみたい」
せつなには、響の演奏は完璧だとしか思えなかった。まるで、耳の中でまださっきの演奏が続いているかのように、幸せな気持ちになっている。
それだけに、団の言葉に納得のいかないものを感じたのだった。
「そうだなぁ、『余計なことを考えていた』と言い換えれば分かるかな? 音楽に目的はいらない。音を楽しむ以上の、目的なんていらないんだ」
「余計なことって、わたしはただ、上手くなろうとして一生懸命に!」
「そう、それだ!」
団が言うには、技術とは、音を楽しむ(目的)を実現させるための、(手段)に過ぎないらしい。
響は父親に認めてもらいたくて、あるいは、夢に一歩でも近づきたくて、技術の向上に意識を割いてしまっていた。そこを見透かされたのだ。
「心の底から音楽を楽しめば、どう弾けばいいのかは自分の心が教えてくれる。手段と目的を取り違えたのが、今の響の演奏だね」
「楽しんでいなければ、あんな演奏はできないと思うわ。私には、おじさまのおっしゃることがわかりません」
「もういいよ、せつな。わたしには、パパの言うこともわかるしさ」
尚も食い下がるせつなの様子に、団は腕を組んで考え込む。その後、何かを思いついたのか、ニッコリと微笑んで響と演奏を代わった。
「響、せつな君、よく聴いてるんだよ」
「はい」
「えっ! うそっ! パパが弾いてくれるの?」
団の指が、ポジションと呼ばれる位置に移動する。まだ鍵盤に触れてもいないのに、せつなの背筋に、ゾクッとした衝動が走る。
恐るべきほどの自然体だった。聴かなくても分かる。この人は――達人だと。
そして、団の演奏が始まる。
感想なんて、とても口にできなかった。この演奏を正しく表現する単語なんて、到底存在するとは思えない。
せつなも、響も、ただ口を開けて、団の奏でる音楽の魅力に吸い込まれていった。
早朝のピアノレッスンが終わって、朝食をとることになった。せつなは、心ここに在らずといった体で、先ほどの団の演奏に思いを巡らせる。
どうして、自分はあんなにもムキになってしまったのか? 今ではその理由もわかる。
ひたむきで一生懸命な響の演奏が、ラビリンスに向かおうとしていた自分の姿と重なったからだろう。
「音楽に目的はいらない」
「音を楽しむのが音楽」
しかし、そう言った団の演奏は、見事なものだった。
響どころではない。きっと、気の遠くなるような練習の果てに得た実力に違いないのだ。
練習が間違っているわけではない。技術が不要なわけではない。違うのは、心の在り方?
響と同じように、自分も手段と目的を取り違えているのではないかと不安になる。自分にとっては、何が手段で、何が目的なのだろうか?
「――せつな。せつな!」
「えっ? なに? ごめんなさい、ちょっと考え事をしていて」
「そうみたいだね。大丈夫?」
「ええ、悩みとかじゃないから。食事中にごめんなさい」
「なら良かった。この、せつなの作ってくれたお味噌汁さ、すっごく美味しい!」
「本当に美味しいね。せつな君は料理上手なんだなぁ~」
「そんな、おかあさんに教わった通りに作っただけです」
「そうだっ! せつな、料理が得意なら、奏にカップケーキの作り方教わらない?」
「別に得意ってわけじゃないわ。それに、遊んでばかりいるわけにもいかないし。お店にも迷惑でしょ?」
「平気だって。奏んとこは、キッチンも広いしさ。奏も営業時間中に、よく試作ケーキ作ってるし。よし、わたし聞いてみるね!」
「ちょっと! 私は行くなんて一言も……」
せつなが止めるのも聞かずに、響は奏に電話をかける。せつなは一つため息をついて、食事を再開した。
食卓で携帯を操作するのが躊躇われたのだろう。響は部屋の外に出た。
せつなと団の二人きりとなり、リビングの会話が途切れがちになる。それで、談話するために小さく絞っていたテレビの音声が聞こえるようになった。
「ニュースです。昨夜から今朝にかけて、加音漁港での漁獲量に異変が起きている模様です。網漁から釣りに至るまで、ほぼ全ての水揚げ高が激減しているとの情報が入っています。
地元の猟師の話によりますと、魚群探知機にも反応が無く、この辺り一体から魚影が消えてしまったとしか思えないそうです。専門家の間では、赤潮や重油などの汚染物質の拡散が予想されるとして、近く――」
「大変だなぁ、しばらく魚が食べられなくなるかもしれないね。昨夜の内に海鮮鍋を作っておいて正解だったなぁ~」
「おじさま、そんな呑気なこと……」
「大丈夫だよ、せつな。こういうことって、よくある話みたいだし」
「響、もうお話は済んだの?」
「うん、オーケーだってさ。朝ご飯食べたら、奏の家に行こうね!」
響が食卓に戻ってきて会話に加わった。椅子には座らず、そのまませつなの後ろに立つ。電話の内容を伝えるためだろう。
せつなは、響にだけ聴こえる声で囁いた。
「ねぇ、響。あれって、フュージョンの仕業なんじゃないかしら」
「まさか。海ってと~っても広いんだよ? いくら化け物でも、海の魚を全部採っちゃうなんて、出来っこないって!」
「そうだといいけど……」
せつなは、なんとなく釈然としないながらも、そこで話を打ち切った。フュージョンの動向は気になるが、現時点でこちらから出来ることは何もないのだ。
それに、プリキュアである響と奏が一緒に居ることは、決して悪いことではない。むしろ、こうして離れているのが一番危険だ。
ケーキ作りどころではないとは思いつつも、考えた末、響の提案に従うことにする。
さっそく、響と一緒にラッキースプーンへと向かうことになった。
「そうそう。生クリームを、ツノが立つくらいまで泡立てるのがポイントなの」
「次は、お砂糖を加えた卵を、白くフワッとするくらいにかき混ぜる。だったわね?」
エプロン姿のせつなと奏が、お店の厨房の傍らで、楽しそうにケーキの生地を作る。
奏の父親の奏介と、母親の美空も、「華やかでいいわねぇ~」と、交互に来ては微笑ましげに見守っていた。
華やかではあるかもしれない……と、せつなは苦笑する。
問題となっているのはエプロンだった。これを着ろと言われた時は、よっぽど北条邸に一人で帰ろうかと思ったほどだ。
それは、赤とピンクの布地で作られた、色からして派手なエプロンだった。
胸には大きなスプーンの模様が描かれていて、胸元と腰の部分には、これみよがしに可愛らしいフリルが付いている。
正面全体を包むタイプで、エプロンというよりは、まるでパーティードレスのようなデザインだった。
もっとも、思った以上にケーキ作りは楽しくて、夢中になっていくうちに、格好だって気にならなくなっていた。
それに、派手なダンスユニフォームで街中を彷徨っていた昨日に比べたら、このくらいは恥ずかしい内にも入らないだろう。
やがて、第一弾のイチゴのカップケーキが焼き上がる。続いて、第二弾と第三弾の、チョコレート味と抹茶味のカップケーキに取り掛かる。
せつなは、一度聞いたことは決して忘れない。当然のように、奏と変わらないスピードで生地を作り始める。同じカップケーキである限り、奏は工程の異なる部分を教えるだけでよかった。
「せつなって凄い。一回教えただけで、何でも出来るようになっちゃうのね」
「奏に比べたら、手つきもぎこちないし、まだまだよ。そんなことよりも、聞きたいことがあるの」
「聞きたいことって、ああ、他のケーキの焼き方とか?」
「いや……それも、確かに興味はあるけど……」
「奏はピアノもやっていて、プリキュアに選ばれるほど音楽が好きなのよね? それなのに、夢はパティシエになることなの?」
「そうよ。いくら加音町が音楽の町でも、音楽家しか住んでいないんじゃ、町として成り立たないでしょ?」
「確かにその通りね。でも、聞きたいのはそうじゃなくて――」
せつなは、今朝の出来事を話す。響の演奏と、団の指摘。そして、団の演奏に感じたことを。
「そっか。せつなは、夢について悩んでいるのね」
「私は……ただ疑問に思ったから聞いているだけよ」
「私がパティシエになろうって思ったのはね。自分が焼いたケーキで、響が笑顔になってくれるのが嬉しかったからなの」
「パティシエになるのが手段で、目的は、大切な人を笑顔にすることなのね」
「そうよ。前にね、パティシエになることに夢中で、大切な人を笑顔にするって目的を見失っちゃったことがあるの。だから、私には北条先生の言うことがわかるな」
「手段と目的が入れ替わってしまったのね。大事なのは、目的を果たすことよね」
「それはどうかなぁ……」
「えっ?」
「私は、手段こそ夢だと思うな。響が好きなのはケーキだけじゃないし、響を笑顔にする方法なら他にもたくさんあると思う。でも、私は自分の焼くケーキで笑顔になってもらいたいの」
それは、せつなにとって衝撃的な発言だった。これまでは、目的こそが夢だと思っていたから。
ラブのダンサーや、美希のモデルのような、自分を輝かせるのも夢ならば、祈里の獣医のような、「動物を癒したい」って想いも夢なはず。
だから、ラビリンスに戻って、四つ葉町のように幸せな国にしたいって想いも、やっぱり夢なんだと思ってた。
「手段が夢? だとしたら、私の目的は、夢ではないのかしら?」
すがるような想いで、せつなは自分の気持ちを奏に話す。
ラビリンスに戻って、力を尽くすつもりだったことは、昨日来たときに話してある。
「せつなは、どうやってその国を幸せにするつもりだったの?」
「それは……わからないわ。でも、私にも、何かできることはあるんじゃないかって」
「エレンはね、大切な人の夢を守るのが、自分の夢だと言ってたわ。だから、プリキュアになったんだって。でも、平和が戻って、守る必要がなくなったから、エレンは自分の夢を見失ってしまったの。
だから、ハミィと一緒にこの世界に残って、広場で歌うことで、自分の夢を探しているみたいなの」
「私にも、夢を探せって言ってるの?」
「あなたほど頭のいい人が、プランも無しに行動を起こすなんて思えない。何か、考えられない理由でもあるの?」
「……ピアニストになったって、音楽が好きな人でなければ幸せにはなれないわ。パティシエもそうよ。全ての人が喜ぶわけではないでしょう?」
せつなの言葉に、奏の表情が強張る。目が釣り上がり、声のトーンが低くなる。
奏が怒っている時、あるいは、相手のことを本気で心配している時のサインなのだが、面識の浅いせつながそれに気付くはずもない。
奏の言葉に、わずかに挑発めいた響きが混じる。
「ふぅん。要するに、せつなは全部自分でやっちゃいたいってわけ?」
「そんなこと言ってないわ! ただ、私はみんなに幸せになってほしくて……」
「じゃあ、みんなの幸せってなに?」
「私の生まれ育ったラビリンスでは、みんな不幸だったわ。だから、今度はみんなに――」
「みんなって、誰のこと? せつなには、大切な人の顔が見えてないんじゃない? そんなんじゃ、フュージョンに勝てなかったのも当たり前だと思うな」
「っ――大切じゃない人なんていないわ! 奏こそ、よくそんなんでプリキュアになれたものね!」
「幸せに、決まった形なんてないの! それを押し付けるなんて、せつなの言ってたメビウスや、フュージョンと変わらないじゃない!」
「ラビリンスに生まれた苦しみを知らない奏に、そんな風に言われたくないわ!」
「ちょっと! スト~ップ!! 奏もせつなも落ち着いて。なんで、ケーキ焼いてて喧嘩になるのさ」
たまたま様子を見に来たのか、あるいは外まで聞こえたのだろうか。響が厨房に飛び込んできて、二人の間に割って入る。
奏とせつなは、響を間に挟んでしばらく睨み合いを続ける。だけど、それ以上言い争うこともしなかった。
しばらくの気まずい沈黙の後、奏から折れてせつなに謝罪する。
「そうね、ごめんなさい。私、言い過ぎたみたい」
「私こそ、自分から話を持ちかけたくせに、ごめんなさい……」
「ふぅ。じゃ、これで仲直りだね。二人とも気が強いから、もしやと思って見にきて大正解! な~んて……あれ?」
「へぇ~。響はそんな目で私を見てたのね?」
「私をここに連れてきたのは響でしょ? 今のセリフは聞き捨てならないわ!」
今度は、奏とせつなの共同戦線。響をとっちめようと、厨房の中で鬼ごっこが始まった。
これはさすがに店内にも聞こえたのか、美空がやってきてお説教された。そして、そこでやっと三人の顔に笑顔が戻る。
「ほんとにゴメンね。お詫びに、せつなにケーキ作りのとっておきの秘訣を教えてあげる。それはね、とびっきりの笑顔で焼くことよ」
「それわかる! ピアノだって同じだよ。同じ曲でも、楽しい気持ちで弾くと、心弾む音楽になるんだよねっ!」
「ありがとう。覚えておくわ」
そう言ってせつなは苦笑する。本当に知りたいのは、美味しいケーキの焼き方ではない。
結果として言い争いになってしまったが、今の一連のやり取りの中に、大切なメッセージが含まれているような気がした。
響は、喧嘩も時には必要だと言っていた。その意味が、少しだけわかったような気がした。
喧嘩になれば、相手に対して遠慮しなくなる。本当の気持ちを伝え合うことができるのだ。
やがて、チョコカップケーキと、抹茶カップケーキが焼きあがった。三人は、テラスの席に移動してお茶にした。
「やったぁ~! 奏とせつなの焼いたカップケーキを同時に食べられるなんて幸せ! いっただきまぁ~す!」
「もう、響ったら。私のケーキはいつも食べてるでしょ? せつなのを先に食べてあげて」
「やっぱり、奏のケーキの方がずっと美味しいわ……」
「ほふ? あんまひかわんにゃいとおもふけど?」
「もう、響ったら! お行儀が悪い!」
響は、口いっぱいにケーキを頬張りながら、せつなの焼いた分も美味しいと言ってくれた。
たちまち奏に叱られる様子を見て、クスッと笑ってしまう。それにしても――
あんまり変わらないとは、正直な響らしい言葉だと思う。つまり、ある程度は味が劣ることを、ちゃんと認めているということだ。
せつなは、今朝の団の演奏を思い出す。仮に楽譜や楽器をラビリンスに持ち帰ったところで、それだけで音楽の魅力を伝えたことにはならないだろう。
ケーキ作りも同じだ。器用だと誉められたところで、奏とせつなとの間には、覆せないほど大きな差がある。奏のご両親は、奏と比べても、更に数段上の実力があると言う。
ラビリンスに戻ろうと思った。四つ葉町のような、幸せ溢れる国にしたいと思った。
でも、本当にあの街の魅力を再現できるのだろうか? 自分には、何一つとして、“本物”の力など有りはしないというのに。
団の言葉も、奏の言葉も、本当の意味では理解できてないように思える。この街に来てから、迷いは大きくなり、わからないことばかり増えていく。
せつなはまた一つ、大きなため息をついた。
「姉ちゃん。せつな姉ちゃん。なんだよ、まぁた考えごと?」
「あなたは……奏太君?」
「そうだよ。まさか昨日の今日で忘れちゃったわけじゃないだろ? ねえ、お話してくれるって約束だったじゃないか」
「そうだったわね。今でもいいわよ」
「んっ? どうしたの? せつな」
「奏太っ! せっかく三人でお茶してるんだから、邪魔しないでよ」
「残念でした~! 俺の方が先約なんだよーだ」
「奏太君の言う通りよ。響、奏、少しだけ席を外すわね」
せつなは奏太の部屋へと移動する。男の子の部屋に入るのは初めてだったが、まだ子供なので警戒する必要もないだろう。
部屋の中には、プラスチックの剣や水鉄砲など、いかにも男の子らしい玩具がたくさん並んでいた。
一際目に付いたのは、『太陽マン』と名づけられた正義のヒーローの変身セットだった。変身セットと言っても、玩具のお面とマントに過ぎないのだが。
太陽マンのポスターの前に、キチンとした台座に乗せられて飾られている。文字通り、太陽を擬人化したデザインのヒーローだった。
自分にとっての太陽マンならラブだろう。思わず想像して、クスリと笑ってしまう。こんなグロテスクなお面から連想したなんて知られたら、唇を尖らせて抗議することだろう。
「なんだ、せつな姉ちゃん、そいつに興味あるのかい? こうやって使うんだぜ。『変身! 正義のHERO太陽マン!!』ってね」
「戦いに使うおもちゃばかりね。ヒーローに興味があるの?」
「まあね。太陽マンはすごいんだぜ! どんな敵だって、正義の炎で焼き尽くすんだ」
「そう、強いのね」
「うん……テレビの中ではね。現実に居ないことなんてわかってるよ。だから、頼みがあるんだ!」
「私に?」
「俺、せつな姉ちゃんが変身するところ見てたんだ。あの化け物と戦うところだって! せつな姉ちゃんは、本物のヒーローなんだろ?」
奏太はお面を外し、肩にかけていたマントと一緒に投げ捨てる。それなりに、大切にしていた物だったはずだ。
せつなの目をじっと見つめ、真剣な表情で問いかける。
とてもじゃないが、いい加減な受け答えでごまかせる雰囲気ではない。
「そう――よ。あんまり強くはないけれど」
「良かった。じゃあ頼むっ! この通りだ! 俺もヒーローにしてくれよ。何でもするからさ!」
奏太は身体を直角に折り曲げて、深々と頭を下げる。この年頃の子が、こんな風に最敬礼するなんて、普通ならあり得ないことだろう。
どれだけ真剣な想いなのか、それだけで伝わってくるようだった。
「どうしてヒーローになりたいの?」
「うん……。せつな姉ちゃんは、プリキュアって知ってるかい?」
その一瞬、せつなの表情に緊張が走る。この世界においては、プリキュアは一般の人々には認知されていないはずだった。
響や奏たちが、懸命な努力で隠してきた経緯も聞いている。
一体、どこから情報が漏れたのか? どのくらいまで広まっているのか? 聞き出さなくてはならないだろう。
「その名前は、どこで?」
「そんなの、みんな知ってるよ。なんか、記憶がぼんやりしてるんだけどね。でも、俺は敵の親玉の、龍みたいなでっかい化け物だって見たことあるんだぜ!」
響たちプリキュアが戦ってきた、ネガトーンと呼ばれる怪物たち。そいつが放つ音波攻撃は、人々の心を悲しみの淵に沈ませるという。
心が負の感情に犯されて、正常な思考ができなくなる。その影響で、プリキュアの戦いは目撃されていなかったはずなのだが、どうやら甘かったらしい。
そして、奏太が見た龍の化け物とは、ピーちゃんの完全体であるノイズに違いない。
この街の上空に現れて、一息で住人たちを石化させたという。きっと、その時に目にしたのだろう。
「みんな、気付かないフリをしてるんだ。自分たちの手に負えない相手だってわかってるし、プリキュアがなんとかしてくれるって思ってるからね」
「あなたはそうしないの?」
「してきたさ! だけど、悔しいじゃないか! 姉ちゃんも、響姉ちゃんも、エレン姉ちゃんも、アコだって! みんなプリキュアと関係あるんだろ? それなのに、男の俺が守ってやれないなんて……」
奏太の両拳が握り締められる。小刻みに震える身体は、少年の気持ちを代弁しているかのようだった。
「頼むよ! 俺がプリキュアになれないのはわかってる。プリティって意味らしいから、女子専用なんだろ? でも、せつな姉ちゃんのは違う気がする。あれは、機械的なスーツかなんかなんだろ?」
だったら、俺もなれるはず。そう言って、もう一度頭を下げる。もう、土下座でもしそうな勢いだった。
「そうね。結論から言えば、あなたを変身できるようにするのは、不可能ではないわ」
「ホントか! だったら頼むよ!」
「待って、最後まで聞いてほしいの。まず、私はこの世界の人間ではないの――」
昨日、確かに事情を話すとは約束したが、まさかここまで明かすつもりはなかった。
でも、奏太の真剣な気持ちを知ってしまった以上、子供扱いして、煙に巻くようなこともできなかった。
せつなは、自分の素性を、可能な範囲で奏太に話していく。もちろん、フュージョンや、響たちスイートプリキュアのことは伏せて。
「今すぐは無理だけど、ラビリンスに来れば、戦える身体にはしてあげられる。でもそうなったら、二度とこの世界には戻って来られないわ。あなたにその覚悟があるの?」
「なんで? どうして戻って来られないんだよ!」
「あなたの言った通り、私の変身は科学技術よ。年齢も性別も関係なく、戦う力を手にすることができる。悪人だってね。そんなものを、他の世界に送り出せると思う?」
「俺を疑ってるのか? 絶対に悪いことなんかしないって! 約束するから!」
「ダメよ、例外は認められないわ! 答えは二つに一つ。さあ、どうするの?」
「なんでだよ! せつな姉ちゃんは、現に、ここに来て戦ってるじゃないか!」
「私が――それを後悔してないと思うの?」
小さな声で、せつなは搾り出すようにそう言った。うつむき、目を伏せて、顔を見られないようにする。沸き上がる、感情を隠すために。
奏太は、せつなをじっと見つめる。
初めは驚いた表情で、それが、やがて悔しそうな表情となり、最後には、寂しそうに微笑んだ。
「どうしても、ダメなのか――だったら、残念だけどあきらめるよ。姉ちゃんたちや、アコの助けになれない力なんて、あってもしょうがないもんな」
せつなは奏太の返事に安堵し、ほっと胸を撫で下ろす。もちろん、本気で奏太をラビリンスに連れて行くつもりなんてなかった。
そもそもアカルンはフュージョンに飲み込まれており、せつな自身、元の世界に帰る目処など立っていない。それに、これほど姉思いの弟を、家族から引き剥がすなんて出来るはずがなかった。
こんな賭けのような方法に出たのは、断るのではなく、自分の意思で諦めるように導くためだった。
これ以上、誰にも悲しい想いをしてほしくなかったから。
奏太は、やっぱりヒーローに憧れているだけの少年ではなかった。せつなから譲歩を引き出せないと悟ると、きっぱりとラビリンス行きを諦める。
せつなは、そんな彼の姿を見て、先程の奏の言葉を思い出した。
(せつなには、大切な人の顔が見えてない)
確かに、そうだと思った。少なくとも奏太には、守るべき人の顔がハッキリと見えている。何のために戦うのか、揺るぎのない答えがある。
自分はどうだろうか? 以前のせつなには、確かに守りたい人が居た。
桃園ラブ。その両親の圭太郎とあゆみ。親友であり、仲間でもある、蒼乃美希と山吹祈里。イースを受け入れ、許してくれた四つ葉町の住人たち。少しづつ、増えてはいったけれども――
(エレンはね、大切な人の夢を守るのが自分の夢だと言ってたわ。でも、平和が戻って、守る必要がなくなって、エレンは自分の夢を見失ってしまったの)
自分も、見失ってしまったのかもしれない。四つ葉町が平和になり、ラブたちの幸せを脅かす存在がなくなった。
ラブたちの、四つ葉町の人々の、笑顔と幸せを守りたい。その目的を失ってしまったのだ。
ウエスターやサウラーの勧めに従って、ラビリンスに戻ろうと思った。そこを四つ葉町のような幸せな国にすることには、確かに大きな意味があるはずだった。
だけど、その具体的な手段すら見つけられずにいる。
せつなが考え込んだのを、悲しんでいると解釈したのだろうか。奏太はせつなの顔を覗き込みながら、励ますように笑いかける。
「せつな姉ちゃん、無理言ってごめん。俺、せつな姉ちゃんの秘密は誰にも言わないから、安心してくれよな」
「ありがとう。ヒーローになる夢は、もうあきらめたの?」
「まさかっ! ダメなら他の方法を探すまでさ。いつか、プリキュアや、太陽マンよりも強くなって……」
「強くなって、どうするの?」
「最後まで言わせんなよ、恥ずかしいじゃんか」
そう言って明るく笑う奏太を、せつなはそっと抱き寄せる。
「ごめんなさい。全部、私が蒔いた種なの。きっと、なんとかするから」
「もういいって。俺、落ち込んでなんかいないからさ」
「そうじゃなくて――ごめんなさい」
この世界は、ノイズとの戦いを終えて、平和になったはずだった。自分がフュージョンを連れて来なければ、この少年もここまで思い悩むことはなかったはず。
必ずフュージョンを倒し、全てに決着を付けよう。そうすれば、自分の進むべき道だって見えてくるはず。
この少年の強さを分けて貰うかのように、せつなはもう一度強く抱きしめた。
奏太と別れて、せつなは響と奏の待つテラスへと戻る。「お待たせ」と挨拶しかけて、二人の様子がおかしいのに気付く。
響も奏も、先程とは打って変わって、真剣な表情をしていた。心なしか青ざめているような気がする。
「せつなっ! 今、呼びに行こうとしてたんだよ」
「エレンとハミィが! ううん、メイジャーランドが大変なことになってるみたいなの!」
「待って! それじゃわからないわ。何があったのか、落ち着いて聞かせて」
「落ち着いてなんかいられないよ、早くメイジャーランドに行かないと!」
「さっき、アコから連絡が入ったの。メイジャーランドが何者かに襲われているって。ビートと音吉さんと、メフィスト様やトリオ・ザ・マイナーが迎え撃ってるらしいけど」
「わかった。とにかく行ってみましょう!」
会話の中に聞き慣れない名前もあったが、気にしないことにした。確かにそれどころではなさそうだ。
アコは調べの館で待っているらしい。音吉さんや、エレンやハミィまで居ない現状では、メイジャーランドへの移動手段を持つのは彼女一人だけだ。
一刻も早く向かいたいのを、ジリジリしながら待っていることだろう。
響、奏、せつなは、飛び出すように調べの館へと向かった。
その少し後、響たちの座っていたテーブルの隣で、ラジオの緊急速報が鳴り響く。
「突然ですが、臨時ニュースです。本日未明より、加音町の各家庭から、突然ペットが行方不明となる事件が起きています。共通する特徴として、首輪が、外された跡もないまま残っているとの情報が寄せられています。
被害件数は既に100件を超えており、事件性が高いとのことです。皆様、くれぐれも注意してください。繰り返します――」
それは、嵐の兆候だろうか。
平和だった加音町とメイジャーランドに、今、暗雲が押せ寄せようとしていた。
最終更新:2013年02月17日 10:04