第10話『帰ってきたせっちゃん――ある日のせっちゃん。蛍を探せ!――』
耳に優しい静かな雨音。音楽のように聴きながら、机に向かい勉強に励む。
ふと、その曲が途切れた。ベランダに足を運ぶ。
開けた窓から流れ込む夜風、長く降り続いた雨に清められた空気。胸いっぱいに吸い込んだ。
空を見上げる。
漆黒の闇。雨雲に覆われた空は、いかなる光も運ぶことはない。
前にラブと一緒に見上げた夜空は綺麗だった。無数の星がきらめく光を放つ。無限の空に数多に描かれる光の芸術。そして、見つけた流れ星。一緒に手を合わせて願い事をした。
コンコン
「せーつなっ、入っていい?」
「どうぞ。ちょうど休憩していたところよ」
開きっぱなしの窓に、風に揺れて動くカーテン。ラブも興味を引かれてベランダに出た。
お風呂上りのラブ。もうパジャマに着替えている。
ピンクの可愛らしいパジャマ。部屋の光を反射してキラキラと金色に輝く髪。暗い夜空を映しても、なお輝きを失わない瞳。まぶしそうにせつなは見つめる。
「外を見てたんだね。それとも夜空? 最近は雲ばっかで真っ暗だよね」
「そうね、――でも、光はあるわ」
せつなは街を指差す。道を照らす街灯。街に灯る生活の光。家庭を照らす幸せの灯火。
それらを反射して光る、雨に濡れた家並み。
この世界はいつだって、どんな時だって美しい。せつなはそう語った。
「せつな。曇りの日でも見られる星空があるって知ってる?」
「ええっ、ありえないわ。雲の上にでも行かない限り無理よ」
悪戯っぽく笑って、その先をラブは教えない。週末おとうさんが連れて行ってくれるって。
楽しみだねって。そう言ったっきり口を閉ざす。
気になってせつなが問いかけても知らない顔。せつなはすっかり拗ねてしまった。
その夜のせつなの、ラブの宿題の指導は熾烈を極めた。
『帰ってきたせっちゃん――ある日のせっちゃん。蛍を探せ! ――』
約束の日、幸いにも雨は降らなかった。空は厚い雲で覆われている。
久しぶりに圭太郎が車を出す。普段馴染んだ四ツ葉町の河川、その遥か上流を目指すらしい。
上に、上に、高いところに! 川をさかのぼる二百キロの旅。
助手席にはあゆみが座る。せつなとラブは後部座席でくっつくようにしてはしゃいでいた。
結局、せつなは何を見に行くのかを最後まで教えてもらえなかった。
「綺麗な光を見に行くのよ。せっちゃん」
「星空? でも、こんなに曇っていては無理だと思うわ」
「曇っていても平気だよ。雨が降るとあたしたちが辛いけど」
「最後まで私だけ内緒なのね。いいわ、こうして一緒にお出かけできるだけで幸せだもの」
光は好き。それがどんなものであっても。希望を感じさせてくれるから。
次第に暗くなり視界から色彩が失われていく。車の光。街灯の光。街の光。黒と白の二色になった景色を、ぼんやり眺めながら期待を膨らませていった。
「さあ、着いたぞ。ラブ、せっちゃん」
「久しぶりね、ラブは二度目かしら」
「初めてだよ。せつなと一緒に見るのはね」
「そろそろ教えてくれてもいいでしょ。一体何なの?」
着いた場所は、川辺というより山の中。こんな夜中にこんな場所、それでも沢山の人が集まってきていた。一様に楽しそうに奥に奥にと歩いていく。ラブたちも続いた。
道中にせつながしびれを切らして尋ねた。あゆみが苦笑しながら教えてくれた。
この一帯は、源氏蛍がたくさん繁殖していることで有名なんだって。ちょうど梅雨の今頃が、一番綺麗に見られるんだって。
体内に発行器を持ち、群れを成して幻想的な光を放つ。図鑑で読んだことしかないせつなにとって、それは素晴らしく興味を引かれることだった。
「着いたわ。ここよ」
「わは~。どこかな、どこにいるのかな」
「まだ少し早いぞラブ。もうすぐじゃないかな」
「あの大きな川が、上流だとこんなに細くなるのね」
「もっともっと、最後にはまたげるくらい細くなるんだよ」
暗がりの中、大勢の人が期待を膨らまして時間の訪れを待つ。源氏蛍の発光時間は、夕方の八時半くらいから九時半くらいなのだとか。
遠くに行ってはぐれたら危ないわよ。そんなあゆみの忠告にも我慢できず、ラブとせつなはあちこちと探し回った。
「あれ、おかしいな」
「いつもなら、今頃はたくさん光るわよねえ」
「もう、九時になるよ。どうしたんだろう」
「人がたくさんいて驚いて逃げちゃたのかしら」
待てども待てども蛍は現れない。ざわざわと周囲の人々も戸惑の声を上げはじめた。
「年々、数が減ってきているとは聞いていたが……」
「寂しいわね。もう、見られないのかしら」
「そんな――きっと、どこかにいるはずだよ」
「私、探してみる!」
思いつめた表情でせつなが駆けだした。
蛍を見られないのは残念だ。そして、自分を喜ばせようとしたおとうさんやおかあさんやラブ。
期待を膨らませてここまで見に来た、沢山の人達のがっかりした顔を見るのが何より辛かった。
必ず――見つけてみせる! みんなを――笑顔にするために。
人より優れた五感、視覚を研ぎ澄ませて周囲を探る。
いない――どこにも――
時間ばかり過ぎる。気持ちが焦る。
川辺を駆け回っても何も見つけられない。一度戻ろうとして振り返る。山の方で何かが動いた。
「あれは……。見つけたっ!」
ほんの一瞬、瞬きするほどの刹那の光を捉える。光の残光から進路を推測して追いかける。
「どこに行くの、せっちゃん。そっちは山の中よ。蛍は川辺、水のある場所にしか居ないわ」
「危ないから戻ってきなさい!」
「せつなっ、何か見つけたの?」
すぐ戻るから! 振り返りもせず、蛍の飛んだ方向を追いかける。見失ったらお終いだ。
蛍はせつなを誘導するかのように、時折光りながら飛び続ける。奥に、奥に、山の中に。
足場の悪い、細い道をくぐり抜けると開けた場所に出た。
まばらに美しい配置で茂る樹木。しっかりした地面に生える柔らかい草。空も広く見渡すことが出来て。もし、昼間に来たらさそがし美しい場所だろうなと感じた。
目の前に灯る一点の光、さっきの蛍だ。観念したかのようにじっと動かない。
「ごめんなさい、みんなにあなたを見せてあげたいの。そしたらすぐに放してあげるから」
そっと手を伸ばす。その時――異変が起こった!
光が――増えていく。
ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。いつつ。せつなの手を中心に光が広がっていくように。
やがて光が草むらを覆いつくす。樹木にも光が灯る。それは、どんなイルミネーションよりも美しかった。
幻想的な光景。自然が生み出しているのに、現実感がまるでない。
せつなは息をするのも忘れて座り込んだ。
「せつなっ!」
「せっちゃん!」
「せっちゃん、大丈夫か!」
心配して追いかけてきたのだろう。ラブとおとうさんとおかあさんが駆け寄る。
そして――同じように光の生み出す奇跡の芸術に目を奪われる。
「綺麗……」
「こんなの、見たことないわ……」
「これは……姫蛍か。聞いたことはあったが」
美しきエメラルドの光。源氏蛍より短い周期で光る希少な蛍。森の中で生息する不思議な習性。
「すご……い。凄いよっ。せつなのおかげだね!」
「これは、忘れられない夜になりそうだね」
「お疲れ様、せっちゃん。でも、あんまり無理しちゃダメよ」
「私――行かなきゃ。みんなに――ここを教えてあげなきゃ!」
すぐ戻るから。さっきと同じことを言って、再びせつなが駆ける。その手をラブがつかむ。
「あたしも行くよ、せつな。みんなで見たほうが、きっと、もっと綺麗だよね」
「うんっ!」
荒れた道を急いで駆け下りる。滑り降りるようにして川辺に戻ってきた。
ラブが大きな声で、帰り支度を始めている人たちを呼び止める。響き渡る高い声は、集まった人々の興味を引きすみやかに一所に集めた。
せつなが一列に誘導して案内する。
「足場が悪いので気をつけてください。小さな子は手を引いてあげてください」
「せつな、これで全員だよ」
「ありがとう。ラブは後ろからはぐれる人がいないか見てて」
木々の間をくぐり、蛍の園に戻る。ワイワイ騒いでいた人たちが言葉を失う。
蛍の数はさらに増えていて――
それは、まるで星空が降りてきたかのように見えた。
「おかえりなさい、ラブ、せっちゃん。おつかれさま」
「偉いぞ。ラブ、せっちゃん」
圭太郎とあゆみがそれぞれ二人の娘の頭を撫でる。二人は顔を見合わせて嬉しそうに微笑んだ。
しばらくの間、みんなは茫然と光の演奏に魅了された。一面を覆いつくす淡い無数の光点。
不思議な曲線を描きながらふわふわと動く光の幻想曲。零れる感想はため息のみ。
そして起こる、もう一つの奇跡!
「ラブ……あれ……空が――晴れるわ――」
「星が……星が……降りてくる――」
『わあぁぁぁ――』
上空の風が運んだ贈り物。雲が割れ空が晴れていく。星が顔を覗かせ、徐々に広がっていく。
それは、初めてせつなが蛍を見つけ、その光が広がった様子にも似ていて――
高原の美しい空から見る星空は、落ちてきそうなくらい近くにはっきりと見えた。家から見る星空よりも、何倍もたくさんの無限の光が視界を覆う。
そして――繋がる。
天空の星空と地面の蛍の光の絨毯が、空に舞う蛍の光で繋がれていく。
視界一面を埋め尽くす白と緑の光の競演。この世のものとも思えない、それは不思議な光景だった。
「ラブ――少し怖いくらいよ。星空の中に放り出されたみたいに。でも、綺麗……」
「わかるよ、せつな。あまりにも綺麗で、一人じゃ受け止めきれないんだよね」
畏怖すら感じる圧倒的な美しさ。人々は肩を寄せ合い、集まるようにして見つめ続けた。
ラブはせつなの手をしっかりと握った。星空が隠れ、蛍が光を失うまでの間――ずっと。
半時ほど後、黒いカーテンが降りるかのように再び辺りは暗闇に包まれる。
人々は余韻に引きずられ言葉少なげに、でもしっかりとラブとせつなにお礼を言って帰っていった。
せつなは感動に目を潤ませて、おとうさんとおかあさんにお礼を言った。
「ありがとう。おとうさん、おかあさん、ラブ。私、今夜のこと一生忘れない」
「あたしもだよ、ありがとう。せつなのおかげで見れたんだもの」
「わたしも忘れないわ、せっちゃん。でも、忘れられないのは私たちだけではないわ」
「素敵な場所を案内してくれた優しい女の子と奇跡の夜。ここに来た人は忘れないだろうね」
せつなは恥ずかしくなって顔を真っ赤にしてうつむく。
「さあ、あたしたちも帰ろっ!」
ラブが嬉しそうに駆け出した。
繋ぎっぱなしの、せつなの手を引きながら。
最終更新:2013年02月17日 08:16