幸せの赤い翼――翼の種子のパッション(第7話 ドッペルゲンガーの想い)
タンタンタンと、リズミカルな足音を鳴り響かせて、ラブが階段を一気に駆け下りる。
ピンクのジャージの上にお気に入りのジャケットを羽織り、スポーツバックを肩に架けて。少しくたびれてきたスニーカーを突っ掛けると、くるりと後ろを振り返った。
いつの間に追い付いたのか、そこには当たり前のようにせつなが立っていた。どんな時だって、ラブの隣がせつなの居場所。でも、今日はなんだかいつもと様子が違う。
ダンスの練習着姿のラブに対して、せつなの方は、赤いカットソーに紺のスカートという普段着姿だった。
二人はしばらく別行動を取ることにしていて、せつなはラブを見送りに来ていたのだ。
「じゃ、行ってくるね、せつな。シフォンとタルトをお願い。何かあったら、すぐに知らせて。変身して駆けつけるからね」
「ええ、わかったわ。こっちのことは心配しないで。いざとなれば、私も戦えるわ」
「うん。そうならないように、頑張るよっ」
互いにしか聞こえないように、二人は顔を寄せて小さな声で囁く。最小限の言葉を交わし、残る想いは視線に託す。
ラブは励ますような、力強い眼差しで。せつなは懇願するような、揺れる瞳で。
「いってきます! せつな」
「いってらっしゃい、ラブ」
ラブは出掛けに殊更に元気な声で挨拶すると、玄関から飛び出して走り去った。
一人になったせつなは、そのまま自分の部屋に戻ろうと、階段に向かう。その様子をこっそり見ていたあゆみが声をかけた。
「ラブはダンスレッスンよね? せっちゃんは一緒に行かないの?」
「あ、うん。今日は苦手なパートの個別練習だからって」
「それにしたって、せっちゃんが居て邪魔になるわけでもないでしょうに……。もしかして、あなたたち、まだ喧嘩してるの?」
「ううん、喧嘩なんてしてないわ」
「そう……そうよね。そんな雰囲気には見えなかったわね……」
考え込むようにそうつぶやいたあゆみは、いきなりポン、と手を打つと、小走りで居間に駆け込み、またすぐに戻って来た。
そしてなんだか得意そうに、手に持った細長い二枚の紙切れを、せつなの目の前でヒラヒラさせてみせる。
「ジャーン! これ、なんだと思う? せっちゃん」
「映画の……チケット?」
「正解! これ、せっちゃんにあげるから、ラブが帰ったら二人で観に行ってらっしゃい」
それは、今話題になっている映画の鑑賞券だった。内容は知らないが、「好きな俳優が主演しているので観たい」と、あゆみが言っていたのを思い出す。
ラブはもともとあまり映画を観ない。おそらくこれは、あゆみが圭太郎と二人で観に行くつもりで手に入れたものなのだろう。
「ダメよ、おかあさん。こんなもの受け取れないわ」
「いいのよ、わたしの分はまた買うから。ラブったらいつもダンスばかりで、せっちゃん、映画館に行ったことないんでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「とっても恐い映画なんですって。そういう映画は、二人の距離を縮めるにはもってこいよ。それとも――恐い映画は苦手?」
「映画はわからないけど、テレビを見て悲鳴を上げたことはないわ」
挑発するような笑みを浮かべるあゆみに、せつなは悪戯っぽく、「誰かさんと違って」と付け足す。
おそらく映画の中にだって、今より恐ろしい状況はそうそう無いだろう――ついそんなことを考えそうになって、慌ててもう一度笑顔を作った。
「そう。それなら、お小遣いも少しあげるから、行ってらっしゃいよ。ねっ?」
「ありがとう、おかあさん。でも――」
少し考えてから、せつなはチケットをあゆみに差し出す。
やっぱり遠慮しているのかしら――そう思ったあゆみの耳に、せつなの意外な一言が飛び込んできた。
「私、おかあさんと一緒に行きたい」
「えっ?」
あゆみはびっくりして、せつなの顔をまじまじと覗き込む。その表情は真剣そのものであり、同時に脅えてもいるようだった。
そんなせつなを見て、あゆみは懐かしい記憶を蘇らせる。
それは昔の――幼かった頃のラブの顔。
そう。今のせつなの顔は、小さな子がおねだりする時の、期待と不安が入り混じった顔だった。
あゆみだって、昔は親子で仲良く映画を観に行ったものだった。しかし、ラブが中学生になってからは、一緒に買い物に出かけることすら少なくなった。
そのラブとせつなは同じ歳なんだから、当然、一緒に出かけるなんて恥ずかしいものだと思っていた。ましてや、せつなはラブと違って、遠慮がちで控え目な性格なのだから。
頬を赤くして、それでも目を逸らすまいとするせつなを、あゆみは微笑みながら見つめ返す。
「せっちゃんに、そんな風にお願いされるなんて初めてね。いいわよ。今日はお仕事も休みだし、今から出かけましょう」
「はいっ!」
せつながパッと顔を輝かせ、嬉しそうに大きく頷いた。
それは、彼女が今朝から見せていた無理に作った笑顔ではなくて、心からの喜びがあふれ出た顔だった。
『幸せの赤い翼――翼の種子のパッション(ドッペルゲンガーの想い)――』
クローバータウン・ストリートの街並みを、せつなとあゆみは並んで歩く。
せつなは、今朝の普段着の上に紺のジャケットを羽織った、いつもの服装で。あゆみの方は珍しくお洒落をしていて、ピンクのカーディガンに、鮮やかな赤のスカートといった出で立ちだった。
せつなよりも、むしろあゆみの方がずっと目立つ格好だ。あゆみは普段のような買い物バッグではなく、小さなハンドバッグを抱えていた。
反対にせつなは、大きなバッグを肩にかけていた。時折ゴソゴソ動いていたが、気付く者はいなかった。
せつなにとって、それは初めての経験だった。
こうしてあゆみと二人きりで出かけることも、後ろではなく、隣りに並んで歩くことも。
目の前の親子連れが仲良く手を繋いでいる。せつなはそれを見て、ピクリと指を動かした。が、それだけで、実際に行動に移すことはできなかった。
自分はもう、小さな子供ではない。本当は、この人の子供ですらない。いや、そもそも――
それでも、あゆみと手を繋いで歩く自分を想像するだけで、なんとなく嬉しくて、自然と顔がほころんでくる。
そんな楽しそうなせつなを見て、あゆみも嬉しそうに笑った。
目的の映画館は、大きなデパートの中にあった。まだ大分時間があるからと、あゆみとせつなは館内のテナントを巡ることにした。
CDショップを回ったり、お洋服を見たり。あゆみは遊びで来ていることを意識してか、実用品を避けるようにウィンドウショッピングを楽しんだ。
あゆみと並んでゆっくりと歩いていたせつなが、ふと足を止める。ある洋服ブランドのニットコーナー。その一角に、色とりどりの可愛らしいレース編みのアクセサリーが並んでいた。
その中の一品に、せつなの目が釘付けになる。それは、二つ組み合わせることで大きなハート型になる意匠が施された、赤色とピンク色のペア・ブレスレットだった。
値札を確認してから自分のお財布を覗き込んで、せつなは深いため息を付く。小物とは言え、そこは高級店のアクセサリー。せつなの所持金では、ペアの片方を買うのが精一杯だった。
「見るだけなら、無料よね」
お揃いで買えないのなら意味が無い。諦めて通り過ぎようとしたものの、やっぱり気になって振り返ってしまう。
(もともと、ウィンドウショッピングなのだから……)と、思い切って手に取った時、あゆみが隣りから、せつなの手元を覗き込んだ。
「あら、可愛いじゃない。どうせなら、付けてみなさい」
「あっ……おかあさん」
「やっぱり! よく似合うわ、せっちゃん。じゃあ今日の記念に、こっちはわたしが買ってあげます」
「待って、私はそんなつもりじゃ……」
慌てるせつなに、あゆみは少し首をかしげるようにして問いかける。
「欲しいんじゃないの?」
「欲しい!」
せつなは身を乗り出すようにして、力いっぱいに頷いた。あゆみはビックリして、一瞬目を見開いてから、やがて嬉しそうにクスリと笑った。
あゆみは赤色のブレスレットを、せつなはピンク色のブレスレットを、それぞれ購入して、プレゼント用に包んでもらう。
「はい! これはわたしから、せっちゃんにプレゼント。そっちはラブにプレゼントして、お揃いで付けるといいわ」
「私から――ラブにあげていいの?」
「そりゃそうよ。だって、せっちゃんが自分で買った物でしょう? 仲直りのしるしに、ちょうどいいんじゃない?」
「だから、喧嘩なんてしてないのに……」
あゆみにからかわれていると気付いて、せつなはちょっと口を尖らせる。
あゆみはクスクスと笑いながら、せつなに赤いリボンの包みを手渡した。
「ありがとう、おかあさん。――大切にする」
「どういたしまして、せっちゃん。さっ、そろそろ映画が始まる時間よ、行きましょう」
「はい!」
せつなは、二つの包みをあえてバッグには入れずに、大事そうに抱えて歩いた。視線が荷物に集中しているからか、足元が少し覚束ない。
そんな姿が、その昔、ラブにウサピョンを買ってあげた時の記憶と重なって、あゆみはせつなを愛しそうに見つめた。
「どうかしたの? おかあさん」
「せっちゃん、本当にそれが気に入ったのね」
「うん、それもあるけど……。プレゼントなんて初めてだから」
「えっ?」
少し寂しそうな、でも、嬉しそうな表情で語られる、小さなつぶやきを耳にして、あゆみが目を丸くする。
せつなはハッとして、自分の失言を誤魔化すように笑った。
「あっ、ううん。あの、ブレスレットをもらうのは初めてだなって」
「ああ、そうよね。次は、そうねぇ……。クリスマス・プレゼントのお楽しみかしら」
なんとか誤魔化せたと、せつなは安堵のため息をつく。「初めて」なんて口にしたのは迂闊だった。
これまでも、日用品以外の物だって色々と買ってもらっているのだから、そんな発言は失礼だ。いつも身に着けているペンダントだって、ラブとあゆみからの贈り物なのだから。
だけど、このブレスレットは違う。自分が直接おねだりして買ってもらった、自分のためのプレゼントなのだから。
(もちろん、東せつなに対する贈り物なのだろうけど……)
それでも、買ってもらった記憶があることと、実際に買ってもらったのとでは、まるで違う。
いや、実際には違いなんてわからない。ただ、違っていると――異なる価値があるのだと、思いたいのだろう。
(でも、そんな風に感じるってことは、私が本当にせつなになれるわけじゃないって、自分で認めていることなのかもしれない……)
また、暗い思考に沈み込みそうになる。そんな時、あゆみが、まるで独り言のような口調でつぶやいた。
それを聞き取った瞬間、せつなの心臓がドキリと音を立てた。
「それにしても、最近のせっちゃんは、なんだか積極的になってくれて嬉しいわ」
もしかしたら、自分が偽者だと気付かれたのだろうか?
急に口の中の水分が無くなったような気がして、せつなは無理に唾を飲み込み、何でもない調子で問いかけた。
「それって、私の様子がおかしいってこと?」
「ううん、そうじゃないんだけど。でも、私を映画に誘ったり、ブレスレットが欲しいって言ったり。少し前のせっちゃんなら、考えられなかったから」
それだけ、馴染んできてくれたってことよね? と、あゆみは嬉しそうに微笑む。
せつなは返事を避けて、寂しげな笑みを浮かべた。
あゆみの感じた変化。それはきっと、心の奥底に眠っているはずの、ソレワターセの本性の発露だろう。
どれだけせつなを演じたところで、この魂は欲望と邪念で汚れている。
同じ記憶を持ち、価値観を共有したところで、行動や発言を模倣したところで、自分が化け物だと認識してしまった時から綻びは出始めている。
「ごめんなさい、おかあさん。私は何かを欲しがるばかりで、何も返すことができない」
「子供はそんなこと気にしなくていいのよ」
「だけど! あれが欲しい、これも欲しいって、そんなことばかりで……。私はおかあさんに迷惑かけてるんじゃ?」
「せっちゃんは、これまで何も欲しがらなかったものね。むしろ自分の物まで、惜しげもなく与えてしまうような子だった。だから、せっちゃんに何か欲しいって言われたら、わたしは嬉しいのよ」
「嬉しいって、私が悪い子になったことが?」
「ううん。確かに少し変わったとは思うけど、悪い子になんてなってないわ」
「だけど、私は欲しがるばっかりで……」
「人の物を奪うのは良くないことだけど、欲しがるのは悪いことじゃないわ。それだって、大切な幸せなの」
「欲しがる本人にとっては、よね?」
「ううん、そうじゃないわ」
それはどういう……と、聞き返そうとしたせつなを制して、あゆみが前方を指差す。
いつの間にか、最上階にある映画館の前に着いていた。
「さあ、入りましょう。久しぶりだからわたしもドキドキしちゃう」
「あっ……うん。私も楽しみよ」
館内には幾つもの劇場があった。チケットの映画は人気作品のためか、一番大きなスクリーンで上映されるらしかった。
あゆみが、まるで童心に返ったようにはしゃいで先を急ぐ。
その映画は、『ドッペルゲンガー(~もう一人の私~)』というタイトルだった。
時は昔、西欧の国の貧しい家庭に、ダンサーを夢見た一人の少女がいた。
その子は、いつの日にかプロのステージに立つことを夢見て、毎日毎日、厳しい練習を続けた。
無理を言って買ってもらった、一枚の大きな鏡に自分の姿を映し出して、繰り返し踊る姿をチェックして。
レッスンに通うこともできず、コーチから教わることも無く。専用のシューズすら手に入らず、それでも愚痴一つ零さなかった。
鏡の中の自分はずっと見ていた。少女の笑顔も、少女の涙も、流した汗も、描いた夢までも、その全てを――
幾度も挑戦を重ねた少女は、ついにチャンスをつかむ。その最終選考の前夜、少女は練習用の大鏡に、手鏡を合わせてしまった。
その途端、ずっと少女を見続けてきた、もう一人の自分が牙を剥いた。
鏡の中から抜け出した分身の手が、少女の首にかかる。
分身は少女になりすまし、見事にオーディションに合格した。しかし、態度の急変を怪しまれ、父親に正体を見抜かれてしまう。
依頼された専門家によって、分身の正体は“ドッペルゲンガー”と判明した。彼女は今の生活を守るために、彼らを殺めていく。
そうして、一人、また一人と、疑いを持つ者を次々と手にかけていき――
やがて独りになった少女は、自らの生まれた鏡に自分が映らないことを嘆き、その鏡を割って、破片で自らの喉を突いて死んだ。
物語が進むにつれて、せつなの顔は真っ青になり、体はガタガタと震えだした。暗かったのが幸いして、顔色まではあゆみに気付かれなかったものの、様子がおかしいことは隠せなかった。
せつなは気力を振り絞って最後まで観終えて、エンドマークと同時にトイレに駆け込み、吐いてしまった。
青白い顔のせつなを連れ、あゆみはそのまま帰宅することにした。
せつなは重い足取りで、トボトボと歩く。行きと違って、帰りは口数も少なかった。
「ごめんなさい、せっかくのお出かけだったのに……」
「いいのよ、目的の映画も観られたんだし。それよりせっちゃん、もう大丈夫? ここで少しだけ休憩していきましょう」
クローバータウン・ストリートまで戻ってから、一軒の可愛らしい喫茶店の前であゆみは足を止める。
お腹が空いている時は、暗い気持ちになる。美味しいものを食べれば、明るい気持ちになれる。
『料理は愛情』『食事は幸せ』それは、桃園家の家訓でもあった。
サンドイッチを食べて、紅茶を飲んだせつなに、ようやく少しだけ笑顔が戻る。それを見て、あゆみは敢えて映画の話をすることにした。
家でテレビのホラー番組を観ても、悲鳴を上げて大騒ぎするのは、いつもラブの方だ。せつなは顔色一つ変えずに、そんなラブを慰めたり、からかったりするのが普通だった。
そんなせつなの様子がおかしくなった原因が、映画の内容にあるのならば、ちゃんと話した方がいいかもしれないとあゆみは思ったのだ。
「初めてスクリーンで見るには、ちょっと刺激が強すぎたのかもしれないわね」
「うん……。もう平気よ」
「最後まで、救いの無いお話だったわね。ただのホラー映画だとばかり思ってたけど、そうじゃなかったみたい」
「ねえ、おかあさん。どうして……こんなお話を作ったのかしら? これじゃ、誰も幸せになんて……」
「観た人にそう感じてもらうのが、目的だったのかもしれないわね。でも、なぜドッペルゲンガーはあの子になりすまそうとしたのかしら? もっと恵まれた人なんて、それこそいくらでもいるのに……」
ドッペルゲンガーの気持ち。それは、視聴者の多くが少女に好感を抱いているのと同じ気持ちなんだろう、とせつなは思った。
あゆみの言う「恵まれている人」とは、最初から多くの幸せを持って生まれた人だろう。しかし、何かを手に入れる喜びとは、実はそれを持っていない者だけが感じ取れるものだ。
今の自分がそうであるように、一度それを手にしたら、後は失う恐怖が待っている。そして、最初から持っている人は、自分が恵まれていることにすら気付かないのかもしれない。
幾多の不幸を乗り越えて、熱く、激しく、ひたむきに幸せを追い求める――ドッペルゲンガーは、きっと、そんな少女だから憧れたのだろう。
そして、持っていないことが不幸なら、手に入れることは幸せであるはずなのに、ドッペルゲンガーは幸せにはなれなかった。
(つまり、あの子だって恵まれていた。欲しがることすら許されない、化け物に比べたら……)
そして、そんな者たちは、どうやっても幸せにはなれないのだろう。
「それにしても、可哀想だったわね」
「えっ? ええ、そうね。あの子、あんなに頑張っていたのに……」
「ううん。女の子はもちろんだけど、あの子のことよ。なりすますんじゃなくて、一緒に生きればよかったのに」
「それって、ドッペルゲンガーのことを言ってるの? だってあれは、邪悪な化け物なのよ!」
あゆみは、「そうだけど……」と、つぶやいて言葉を詰まらせた。
せつなは、信じられない思いであゆみを見つめる。この人は、一体何を言っているのかと。
この映画が、どういう意図で作られたのかはわからない。だけど、ドッペルゲンガーは、恐怖と憎悪の対象として描かれていたはずだ。
少なくとも、救うべき対象として見ていた人なんて……。それを期待していた人なんて――自分以外に一人でも居るとは思えなかった。
泣き出しそうな顔で厳しい視線をぶつけるせつなに、あゆみは穏やかな視線で応えた。
「本当に、邪悪な化け物だったのかしら? あの子は、あの女の子になりたかったんでしょ? そういう生き方に憧れるなら、本当は同じくらい良い子のはずよ」
あゆみは優しい口調で、せつなに説くように語る。ゆっくりだけど、力強い言葉。深い愛情が感じられる言葉だった。
口先だけじゃなくて、それを実行に移してきた人だった。桃園家にせつなを迎え入れた時も、同じ気持ちだったに違いない。だったら――
微かに生まれた期待を、頭を振って外に追い払う。迂闊に希望など持てば、その分だけ後が辛くなる。それに、もう自分には後戻りなんてできない。
そう――少女を手にかけてしまった、ドッペルゲンガーのように。
「どうして――おかあさんはそんな風に優しくなれるの? あの女の子の幸せを奪ったドッペルゲンガーのことを、そんな風に言うなんて。私のこともよ。欲しがってばかりいるのに、それも大切な幸せだなんて……」
「ああ、映画を観る前に話していたことね?」
あゆみは思い出して頷くと、逆にせつなに問いかけた。
「だったら、どうしてせっちゃんは、自分の分だけじゃなくて、ラブの分までブレスレットが欲しかったの? 同じ物を身に付けたかったから? それとも、ラブに好かれたかったから?」
「わからないわ。その両方かもしれないし、もっと違う理由があるのかも……」
「本当は、ラブの笑顔が見たかっただけじゃないかしら。プレゼントしたら、ラブが喜んでくれると思ったからでしょ?」
あゆみの言葉に、せつなが小さく息を飲む。
「そうかもしれない。だったら、おかあさんがさっき、『欲しがるのは悪いことじゃない』って言ったのも?」
「そうよ、せっちゃん。与えることだって、幸せに繋がるの。その幸せは、欲しがる人がいてこそ生まれるものでしょ?」
償いではなくて、正義感でもなくて。損得や、善悪と関わりなく、「与える」ことによって生まれる幸せ。そんなものがあるのなら――
(そんなものがあるのなら、自分のような者だって、救われるかもしれない)
一瞬だけそう思って、せつなはもう一度、心の中で激しくかぶりを振った。
「与えることが幸せなら、やっぱりあのドッペルゲンガーのように、奪うことは不幸なのね。それを罪と言うんでしょう?」
「そうなるわね」
「だったら私は、やっぱり幸せになってはいけないのかもしれない」
「そんなことないわ。ひとつひとつ、やり直していけばいいのよ」
一切の躊躇も無くそう言い切るあゆみに、せつなは我知らず、すがるような目を向ける。
「それじゃ、償いきれないくらいの、大きな過ちを犯していたとしたら?」
「勘違いしちゃダメよ、せっちゃん。わたしはやり直せばいいと言ったけど、それは自分の過ちを、自分の手で清算しなさいって意味じゃないわ。過ちを反省して、同じことを繰り返さないようにすればいいと言ったの」
「じゃあ、犯した過ちはどうすればいいの?」
「みんなの力を借りて、助け合って解決すればいいじゃない」
「そんなの無責任だわ……」
「人は誰だって、過ちを犯すものよ。それで幸せになれないのなら、誰も幸せになんてなれないわ」
「それでも! 自分のせいで苦しんだ人がいるなら、やっぱり償うべきなんじゃ……」
苦しげに訴えかけるせつなの目を、あゆみはじっと覗き込んで、穏やかに言葉を続ける。
「ねえ、せっちゃん。こうは考えられない? せっちゃんが過ちを犯したとしたら、わたしたちみんなで償えばいいんだって。その代わりにせっちゃんは、誰かが犯した過ちを、償うお手伝いをするの。そしたら、みんなで助け合って、みんなで与え合うことができるんじゃないかしら」
「それが――みんなで幸せゲットってことなの?」
「ええ、その通りよ。今はラブの口癖だけど、その言葉は、元々はわたしのお父さんの口癖だったの。わたしがお父さんに教わったことを、ラブに伝えて、ラブはそういう子に育ってきた。せっちゃんもそうしてくれるなら、わたしは初めて、親らしいことができたのかもしれないわね」
せつなは、壊れていくのを感じていた。
自分の中で、許せなかった過去が――認められなかった現在が――
憎んでいる自分を――愛してくれる人がいる。否定し続けた自分を――肯定してくれる人がいる。
そうなりなさいって、笑ってくれる人がいる。
せつなは、祈るような気持ちで、最後の問いを投げかける。
もしも、これも期待を超える答えが得られるのなら――と。
「最後に聞かせて、おかあさん」
「なあに?」
「奪うことが悪いことなのはわかったわ。与えることが幸せなのも。欲しがることが間違いでないことも。だったら、欲しがっても与えられない人は、やっぱり幸せにはなれないのかしら?」
「そういう人がいたら、せっちゃんが与えてあげたらいいじゃない。その代わり、わたしたちがせっちゃんに、できる限りのものをあげるわ」
今にも涙が零れ落ちそうなくらいに潤んだ瞳で、せつなはあゆみを見つめる。
これまでの迷いが、悩みが、靄が、全て爽やかな風で吹き飛ばされて、気持ちが晴れ渡っていくのを感じた。
赤黒い闇の中に、柔らかな光が差し込んでいく。
胸の内に渦巻いていた絶望は、全身を突き動かす希望にとって変わる。
(この人なら、おかあさんなら、きっと本当の私も受け入れてくれる。もちろん、ラブだって!)
だったら、自分がすべきことは一つだけだ。ドッペルゲンガーとしての運命を変えてみせる。過ちを繰り返さず、次の幸せに繋げるために!
そして、そのためには――急がないと、間に合わないかもしれない。
せつなは、すっかり冷めてしまった紅茶の残りを飲み干すと、勢いよく椅子から立ち上がった。
「おかあさん、ありがとう……。私――大切な用事を思い出したの。これからすぐに行ってくる!」
「そう。どこに行くつもりなのかは、やっぱり教えてくれないのね?」
「ごめんなさい。でも、どうしても私がやらなきゃならないことなの。みんなで、幸せゲットするために」
「なら、危ないことはしないって、約束してくれる? それと、必ず無事に帰ってくるって」
「うん、約束する。東せつなは、必ず無事に帰ってくるわ」
「ううん。そうじゃなくて、あなたが帰ってくるのよ」
それを聞いた瞬間、時が止まったような気がした。
何を言われたのかよく分からなくて、心配そうに自分を見上げるあゆみの瞳を、ただポカンと見つめる。
「ごめんなさい。変なこと言って、びっくりさせちゃったかしら? なんだか今のせっちゃんは、別の人のような気がして……。でも、今の積極的なせっちゃんも大好きよ」
「ありがとう。行ってきます――おかあさん」
その一言に、万感の思いを込めて。
せつなは、あゆみを喫茶店に残して、一人で店を出た。そして、ストリートを全速力で走り出す。
目指すはラブたちの元、四つ葉町公園のダンスステージ。
焦りはある――気持ちは逸る。
でも、その足取りは一陣の秋風のように、力強く、爽やかで、そして、これっぽっちの迷いもなかった。
最終更新:2014年01月26日 13:08