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「まなびのじかん」1




「…ダメ、やっぱり解んない……」
「大丈夫。出来ます。さっきの例題思い出して下さい」
「…どの例題…?」
「どの例題だと思います?」
「………」
「それが分かれば出来ますよ」


ここはとあるテレビ局の楽屋。収録の待ち時間を潰しているのはダンスユニット、トリニティともう一人。
人気ユニットであるトリニティには個室が与えられており、普段なら思い思いに音楽を聴いたり、
ステップのおさらいをしているところだ。
現にメンバーのナナとレイカは二人でストレッチに余念が無い。
しかし、いつもなら率先して体を動かしているはずのリーダーのミユキは、眉間に皺を寄せて数学の
問題集とにらめっこしている。
そしてその向かいにはミユキのダンスの教え子でもある後輩の東せつな。
涼しい顔で解答済みの問題のチェックをしている。
こちらを見ようともしないせつなに恨めし気な視線を送り、ミユキは溜め息をついて再び問題に目を落とす。
ナナとレイカはそんなミユキに気の毒そうな、そしてほんの少し面白そうな視線をチラチラ送っている。

「ミユキさん、追試まで後どれくらいですか?」
「…二週間、です」
「どうします?今ならまだ『一夜漬けコース』への変更も受け付けますよ」
「…………」
「前言撤回ですか?トリニティのミユキともあろう者が」
「…このままお願いいたします」
「了解しました。じゃ、続けて下さい。例題4の解き方、覚えてますね?」
「……!…あ、そうか……」
「ヒントは今回限りです。私は試験には付き添えないんですから」

ミユキは答えず俄然必死に鉛筆を走らせ始める。まるで急がないと解答が逃げてしまうとでも言うように。
せつなはそんなミユキの様子にチラリと微笑んで、また解答のチェックに戻った。

事の始まりは今から一ヶ月ほど前の事だ。
ミユキはいつも練習に使う公園の野外ステージ脇のテーブルに陣取っていた。
身を切る様な寒空の下、せっかくカオルちゃんが差し入れてくれた揚げたてドーナツもすっかり冷めている。
眉をしかめて頭を抱えながら格闘しているのは関数のグラフ。
解らない。模範解答と照らし合わせながら解けば何と無く理解できた気にはなる。
しかし、また次の問題を見たらさっぱり解らない。詰まるところ、根本的に基礎を理解していないから
解き方のコツも掴めない、と言う事なのだろう。
問題は解らなくてもそのくらいは分かる。

「…うぅー、何なのよこれは…」

ぬくぬくとした誘惑の多い自室や、人目のある図書館は避けて敢えて吹きっさらしの中で勉強してみた。
確かに眠くはならないが、それで理解度が上がる訳もない。当たり前だが。

「…あの、ミユキさん?」
突然すぐ側で名前を呼ばれてミユキは飛び上がった。
驚いて見ると、そこにはダンスの練習着のせつなが申し訳なさそうな顔で立っていた。

「すみません、何度か声を掛けたんですけど…」
「ううん、こっちこそ。…一人で練習?」
「はい。でも、お邪魔なら…」
「あ、いいのいいの!気にしないで!」
「…数学ですか?」

せつながミユキの手元を覗き込む。何度も書いては消した跡のあるグラフ。

「…ちょっといいですか?…失礼します」
「…?!」

せつなはペンを取ると、グラフに何本か補助線を引く。そして出来た図形にいくつか角度を書き込む。

「これでどうですか?」
「……ー!!」

目の前の霧が晴れる、もしくは目から鱗が落ちる、と言うのはこんな感覚なのだろう。
ミユキは夢中で掴みかけたヒントを追い掛けて式を書き込んでいく。

「……でき、た…?」

せつなはノートを取り上げ、しばらく眺めた後でニッコリと笑う。

「合ってます」
「ホントにっ!?」

引ったくる様にノートを奪い返したミユキは目を見開いて模範解答と照らし合わせた。

「…ホントだ……合ってる」
「すみません、惜しい所で詰まってるみたいだったので…」

ミユキは無言でふるふると首を振った。

高校に入って以来、ヒントを貰ったとは言え多分初めて数学の問題を自力で解いた。
ミユキが呆然とするには十分な理由だった。ミユキはそのくらい、数学が苦手だった。

「でも、どうして……」
これ、高校の問題なのに、そう言い掛けてミユキははっと言葉を飲み込んだ。
せつなとはもうそれなりの付き合いになる。過去の事や出自もすべてラブから聞いていた。
もちろん、数度に渡りトリニティの舞台を潰した事も含めて。
ラビリンスの社会制度は知らないが、せつなは十代前半で幹部を務め、こちらの世界を制圧する為の
責任者の一人として派遣されたのだ。
自分より三歳も年下であっても、せつなは子供ではないのだろう。
恐らくラビリンスでは成人として扱われ、こちらで言う基礎教育などは当の昔に終えていても不思議ではない。
それも、相当なエリート教育を施されていたと考えるのが妥当だ。

「ね、ね、せつなちゃん!これは?これは解る?」

せつなはさして考える素振りも見せずにスラスラとペンを走らせる。解答を確かめもしない。
正解なのは分かりきっていると言わんばかりに。

「…すっごい……」
「そうですか?」
「ちょっと、泣きそう」
「あの、ミユキさん…」
「イヤ、せつなちゃんがどうって言うんじゃなくって!」

ミユキは興奮していた。こう言うのを天の助けと言わずして何を言うのか。
ミユキはガシっと両手でせつなの手を握り締めた。

「せつなちゃん、一生のお願い!」
「ちょ、ミユキさん!」
「あたしの家庭教師になって!」

「…………は?」

思わずせつなは間の抜けた声を漏らす。
しかしそんなポカンとしたせつなの様子には目もくれず、ミユキは且つて無いほど真剣な眼差しをせつなに向け、懇願する。

「あたし、このままじゃ高校卒業できないの!」


ミユキは遠い目をして語る。
トリニティは忙しい。とんでもなく忙しい。
そしてそれはモロに成績に反映されている。
教師達もミユキを応援してくれている。試験や出席についてもかなり恩情のある措置をしてきてくれた。
しかし、何事にも限度がある。高校は義務教育ではない。卒業させるには最低限、越えなければならないラインがある。
そして、そのラインに数学だけが辿り着けないのだ。

「このままじゃあ、留年か退学になっちゃうの…」
「…それは、困りましたね……」
「事務所的にも困るみたい。ほら、トリニティは子供のファンも多いし…」

子供達の憧れのアイドルが成績不振につき、高校中退…。それも卒業間近になって。どう考えても宜しくない。
それならいっそ最初から進学しないか、一年生の終わりか二年生の始め辺りでダンスに専念とか何とか言って
さっさと辞めた方がマシなくらいだった。

「だからお願い!」
「…でも、私も学校がありますし、ミユキさんは仕事が…」
「それなら大丈夫。あたしに考えがあるの!」

せつなはミユキのダンスの後輩。なら、付き人として収録に同行してもらえばいい。
一般人では楽屋や収録スタジオに勝手に入れる訳には行かないが、後輩に経験を積ませる為に
先輩の仕事ぶりを勉強中だと言えば良いのだ。
何なら一時的にでも事務所に登録すればいい。そのくらいの融通を利かせるくらいにはミユキは売れっ子なのだから。

「夜とか遅くなってもちゃんと送るから!ご両親にもきちんと説明させてもらう。
芸能界は危ないって思われるかも知れないけど、絶対に変な虫付けたりしないし!責任持つから!」

ここまで必死になられると断れそうに無い。
しかし、せつなはふとある疑問に行き当たり、気圧されながらもおずおずと質問してみた。

「あの、でもそれだけ深刻なら事務所の方でも何か考えてくれるんじゃないですか?
ほら、ちょっと仕事をセーブしてもらうとか、それこそプロの家庭教師を雇うとか…」
「それなのよ…」

ミユキはふぅ…と溜め息をついて椅子にドサリと腰掛ける。
せつなも何となく向かいに座り、ミユキの話を聞く体勢に入った。

「ソッコーで連れて来てくれたわ家庭教師。それも自宅と仕事場両方」
「………」
「移動や待ち時間担当と、家に帰ってからのね。一人だと拘束時間が長くなっちゃうから」

でもね、一週間で辞めてもらった。
ミユキは自重気味に笑う。完全にこちらの我が儘なんだけどね、と。

「あのね、先生達は頑張ってくれた。でも勉強は教えてくれなかった」

意味が分からない。せつなは首を傾げて先を促す。

「教えて、理解させるんじゃなくて、試験にだけ合格すればいいんだって…感じだったのよね」

そう、結果だけ手に入ればそれで良かったのだ。
時間も無い、ミユキの理解度も低い。ならば、あらかじめ予想問題を何パターンか作り、それを丸暗記すればいい。
学校からもらった過去の答案を見ればどんな内容の問題かは予想がつく。
それにミユキが通うのは難関大学への合格率を競うような進学校ではない。
試験も至極基礎的な問題で、引っ掛けも少ない。
それにそもそも優秀な成績を取る必要なんてないのだ。ギリギリだろうが点数が届けばいい。
さっきミユキはせつなに卒業が危うい、と言ったが、実際にはそれは無いだろうなと自分でも分かっていた。
学校側だって別にミユキを留年だの退学だのにしたい訳じゃない。
もっと言えば、合格だってしなくても多分大丈夫なのだ。
試験をすっぽかしたり、白紙で提出したり、学校側の恩情に後足で砂を掛けるような真似でもしない限り
後日レポートの提出等のお茶を濁した救済措置が取られるのが関の山だ。
とにかく試験を受け合格した、と言う体裁さえ整えばいい。
事務所も、学校も、家庭教師達も、ついてはミユキ本人でさえ、そう思っていた。


「でもねぇ、自分でもびっくりした。先生達に模擬答案見せられて、これさえやっとけば良いって言われた時ね…」
「…………」
「すっっごく、ショック受けた。何て言うんだろ、屈辱感?それ、感じちゃったのよね…」

『どうせ無理』『時間の無駄』『出来る訳がない』そう、耳元で囁かれてる様な気がした。
相手に悪気が無いのは分かってるつもりだ。
でも、『出来ないヤツ』とレッテルを貼られたのは確かだ。
悔しさで目の前が赤くなった。同時に、試験の度に感じていた劣等感をまざまざと思い出した。
カツカツと鉛筆が机を叩く音、シャリシャリと紙の上を鉛筆が滑る音。
周囲が難なくこなせている事が自分には手も足も出ない。
もちろんミユキの本分はダンサーだ。数学なんて出来なくてもそれはミユキの資質を何ら損うものではない。
実際、高等数学なんて大抵の人間には無用の長物で学校を卒業どころか、試験が終われば綺麗さっぱり忘れてしまう、
そんな扱いでも珍しくないのだから。
それでも、他人より格段に劣った部分がある、と言う事実はミユキの自信もプライドもズタズタにするくらいの破壊力があったのだ。

今までどんな事も努力で克服してきた。
まだ無理だと言われるような難しいステップも繰り返し練習して自分のものにしてきた。
諦めなければ、夢は叶う。そう信じて、今の自分がある。
その自分が努力もせずに結果だけを欲しがるなんて、今までの自分への裏切りではないのか。
全力でぶつかって駄目ならそれで仕方がない。
でも真っ正面から向き合いもせずに目を逸らすなんて逃げでしかない。
ここで逃げたら、これから先もずっとこの劣等感と屈辱感を抱えていかなくてはならなくなる。

「馬鹿馬鹿しい、単なる意地なのかも」
「………」
「我ながらメンドクサイ性格だと思うのよ」
「…少し、分かる気がします」
「そう?」
「はい。どんな無理な事でも、投げ出したら自分が自分で無くなってしまう…それが、とても恐い」
「せつなちゃん……」
「その結果、誰も誉めてくれなくても、迷惑をかけるだけなのが分かってても…」
「………」
「意味があるって、思いたいんです。誰か一人だけでも気付いてもらえたらって…」

せつながどんな世界の事を思っているのかはミユキには分からない。
でも、多分せつなはミユキのこの馬鹿馬鹿しい無駄な努力を笑ったりはしない。
いくら他人に呆れられようと、自分にとっては絶対に譲れない意地だってあるのだ。

「引き受けてくれる?」

せつなはコクリと頷く。

「私でよかったら」
「やった!ホント?ありがとう!」
「でも、私は厳しいですよ?師匠だからって遠慮はしません」
「望むところよ!ガンガンいって!」
「だからミユキさんも遠慮しないで下さい。これから試験まで私の時間はすべてミユキさんに使います」


ミユキは椅子から立ち上がり、後輩に深々と頭を下げて礼をとった。
こうして、二人の期間限定の師弟逆転二人三脚が始まった。



最終更新:2014年03月06日 23:18