「まなびのじかん」3
「おはようございます」
そう声を掛けながら複雑な作りの廊下を急ぐ。
もうすっかり通い慣れたスタジオ。すれ違う人に道を譲り、挨拶する。
せつなはトリニティの見習い、と言う事になっているから、テレビ局では出る側としては一番の下っぱと言える。
だから例え相手がスタッフでも子役でも動物でもプロとして来ているのだから挨拶するのはこちらから。
ミユキにレクチャーされた注意事項を思い出しながら楽屋へ向かうせつなをいぶかしむ者はいない。
トリニティのミユキが只でさえ容姿の整ったせつなを事務所の後輩だと紹介すれば
それを疑う理由はなかった。
しかし、その事を差し引いてもせつなは芸能人で溢れるテレビ局で違和感無く風景に溶け込んでいた。
単に見た目が良いからでは無い。
どんな美少女でも一般人ならすぐに分かる。まず立ち居振舞いが違う。
もの珍し気にキョロキョロする事も無く、オドオドと気後れする様子もない。
当たり前だ。そもそもせつなには『芸能人に憧れる』と言う感覚そのものが無い。
だからどんな大物俳優や人気タレントを見てもはしゃぐ事も黄色い声を上げる事もない。
相手が誰であろうと大人しやかな仕草で頭を下げ、丁寧に挨拶する姿はどこからどう見ても
躾の行き届いた奥ゆかしい新人だった。
せつなだってラブやあゆみとドラマやバラエティーを見るので有名人の顔と名前くらいは人並みに分かる。
しかし、テレビで見る顔をそこかしこで見かけても、『有名人見られてラッキー』と言う感覚とは無縁だった。
本人の感覚としては地元の商店街で顔見知りに挨拶するのと何ら変わりは無い。
違いは相手がせつなを知らない、と言うだけだ。
せつなの目的はあくまでミユキの家庭教師であり、それ以外に興味を引く対象は皆無なのだから。
楽屋をノックし、ナナとレイカに挨拶する。
「いつもお疲れー」と気さくに声を掛けてくれる二人ともすっかり馴染んだ。
指定席となったミユキの向かいに座り、まずは恒例の宿題のチェックから始める。
「ミユキさん、理論と命題。このあたり嫌いですね」
再びミユキに緊張が走る。
「いやあの、嫌いって言うか…」
「怒ってるんじゃないですよ。ちゃんと出来てます。ただ、あまり効率よくはないですね」
「うーん、何かまどろっこしいと言うか…。こう、スパッといかないと言うか…」
「そうですね。じゃあ、この系統は捨てましょう」
「えっ?でも、いいの…?」
「はい。すべての範囲を同じ理解度にするのは無理でしょう。何にだってどうしても苦手な物はあります」
「………」
「食事でも我が儘ばかり言って好き嫌いの激しい子供には叱りますよ。
でも嫌いな物でも頑張って食べる子には多少の融通は利かせます。どうしても食べられない…
って言う物が一つくらいは仕方ないです」
「どうしよ、嬉しい」
「そんなに嫌でした?」
「うん、泣きそうなくらい」
「まあ、相性がありますから。ミユキさん、三角関数や数列は理解が速いです」
「あ、うん。高次方程式とかもあんまり嫌じゃない、かな」
「ですね。じゃあ、そちらの幅を広げましょう。もう追試まで一週間切りました。
得意な方面を強化します」
「了解!」
「トリニティさん、お願いしまーす!」
どうやらリハーサルが始まるらしい。今日の授業はここでおしまい。
これからがミユキの本領発揮。勉強のお陰で仕事がいつもにも増して楽しい。
仕事がストレス解消になるとはちょっぴり皮肉で複雑だ。
「あ、出番だ。ありがと、せつなちゃん。今日はもういいよ。たぶん、て言うか絶対に遅くなるから」
「あの、あんまり遅くならない内に途中で帰りますから、見学しててもいいですか?」
「それはもちろん構わないけど、疲れない?ずっと付き合ってくれてるのに」
「はい。ミユキさんが踊ってるところ、見たいです」
「オッケー!じゃあ、今度はせつなちゃんが勉強だね」
ミユキはさっきまでの生徒モードから一気に強気な笑顔になる。
こちらが本来のミユキなのだ。
トリニティがスタジオに入ると途端に空気が変わる。
ピンと張り詰めた心地よい緊張感。
期待の籠った視線を全身に受けながら、ミユキは演出家の細かい指示や抽象的なイメージだけの
曖昧な要求も汲み取り、応えてゆく。
スタジオに組まれたセットは肉眼で見ると案外安っぽい。
けれどトリニティが中に入って踊る。すると、ただのハリボテに魂がやどり、そこに別の世界が現れる。
何が違うのだろう。ミユキより技術的に優れた踊り手はいくらでもいる。
現にせつなだってダンスの技術だけならミユキの上を行く事だって不可能ではない。
ミユキより上手いダンサーの動きを見て、それを真似ればいい。せつなにはそれが出来る。
でも仮に、ミユキとせつなが同じ舞台に立ち、同じ振り付けで踊ったとする。
断言出来る。観客の目を集めるのは圧倒的にミユキだと。
そしてそれを当然の事実としてミユキも疑問にも思わないはずだ。
なんて美しいんだろう。せつなは嘆息する。
女性にしては長身で、どちらかと言えば骨太な、大柄な体格。
手足が抜群に長く、甲高な足にはヒールの高い靴が良く似合う。
完璧な配列の引き締まったしなやかな筋肉と、それを自在に操る柔軟な関節。
それらを適度な脂肪が覆う事で、鋭く力強い肉体がまろやかな女性らしさをまとった色香を醸し出す。
濃い目のメイクが映えるキリリとした顔立ち。
目配せ一つ、口角の上げ方一つで成熟した妖艶な美女にも、無垢であどけない少女にも見える。
あれほど激しく踊り、強いライトを浴びているのに、ミユキの額には汗一つ浮かばない。
もう体がそう覚えているから、とミユキは笑うが、どれほどの努力の上にそれが成り立っているか。
長時間のライブではそうはいかないが、ミユキは撮影の前にはほとんど水分を取らない。
もちろん、倒れない為に必要最低限の水分補給はしているが、その匙加減を身に付けるまでには
随分無茶もしたに違いない。
ビデオの撮影やテレビなら編集くらい出来そうなものだが、大映ししになる時に
乱れた姿を撮されたくないのだ、とミユキは茶化した風に言う。
結構見栄っ張りなんだよね、と。
『トリニティのミユキ』として人前に出る時は、ダンサーとして出来得る限り完璧な状態で臨む。
それがミユキのプロとしての矜持なのだ。
ミユキは欲張りだ、とせつなは羨ましさ混じりに苦笑する。
あんなにも、誰にも負けない輝きを放てる世界を持っているのに、苦手なものが一つあるのが
我慢出来ないなんて。
(でも、私も似たようなものなのかしら…)
負い目だろうが、劣等感だろうが、マイナスの感情は人を萎縮させるから。
ずっと抱えてきた罪悪感。
トリニティのコンサートでの暴挙。
ミユキは許してくれた。笑顔でせつなを受け入れ、ダンスまで教えてくれている。
そしてミユキを知れば知るほど、自分の罪の深さに戦いた。
ミユキがどれほどダンスを愛しているか。どれほど仲間やファンを大切にしているか。
一つの舞台を作り上げるのにどれほど大勢の人が携わり、協力しているのか。
自分の仕出かした事が、どれほど多くの思いを踏みにじったのか。
たかが勉強を教えるくらいの事で罪を償った気になるほど身の程知らずではない。
でも、ほんの少しでもミユキの役に立てる道が見つかった。
何がなんでもやり抜こうと思った。
例え、嫌われたって必ずミユキが納得出来る成果を出させる。それが使命だとすら感じた。
それも杞憂に終わりそうだ。
ミユキを見くびっていたと身の縮む思いだ。彼女はそんな狭量では無かった。
もともとせつなを許して受け入れるくらい寛大で、自分を磨く為には後輩に頭を下げて教えを請う
事が出来るくらい柔軟なのだ。
今さらせつなが恩返しや償いなどと口にしても笑い飛ばしてくれるだろう。
ミユキとの二人三脚もゴールが見えて来た。
大変だったが、ほんの少し寂しい気もする。
ミユキも同じ気持ちを抱えてくれているだろうか。そうだと嬉しい。
「休憩でーす!」
スタッフの声が響く。こうした場合の休憩はほんの小休止で、すぐに長回しの撮影に入る。
もっと見ていたいが、さすがに最後までは無理だろう。
ちょうど、見学しているせつなを気にしてくれていたらしいミユキと目が合った。
身振りと唇の動きでもう帰る事を伝えると、ミユキも同じように仕草でまた電話する、と伝えて来る。
お疲れ様、と手を上げてくれるミユキに会釈してせつなはスタジオを後にした。
………
……………
すれ違うスタッフ達にも丁寧に挨拶しながら帰るせつなの後ろ姿を見送る。
せつなが見ている。そう思うとリハーサルにも熱が入った。
せつなは恐い先生で、また恐い生徒でもある。
意識しての事かは分からないが、せつなの視線を前にすると、こちらは丸裸されている様な焦りを感じる。
技術どころか皮膚の下の筋肉の動きまでつぶさに観察され、取り込まれてゆく。
勿体ないな、とミユキは思う。
せつなが本気でこちらの世界に来れば、不世出のダンサーと呼ばれる事も難しくはないだろう。
せつなはおよそ、世の女性が女性として生まれたならば、一つくらいは手に入れたいと願うものを
すべて兼ね添えているのではないかとすら思う。
艶やかな黒髪。透き通る様な白い肌。
これ以上完璧な配置は無いのではないかと思うほど整った目鼻立ち。
華奢に見えるが貧相なほど細くは無い、優美な曲線を描く肢体。
姿勢とバランスの良さは、鍛えられた体幹の強さを現しており、見た目の儚いまでの可憐さに
凜とした印象を加味している。
爪先まで神経の行き届いた清楚で丁寧な立ち居振舞い。
少し低めの甘い声は、不意に至近距離で柔らかく名前を呼ばれたら、同性でありながら
胸の底で何かが妖しくざわめくような感覚に捕われる。
後輩としてせつなを連れ歩く様になって以来、数えきれないくらい、共演者や局の人間に聞かれた。
『あの娘は誰だ』『いつデビューするのか』『その折りには必ず紹介してくれ』
個人的に興味を惹かれた事を隠そうともしない輩もどれほどいた事か。
曖昧にはぐらかしながら虫除けに必死だったのはせつなには秘密だ。
何より、絶対に悪い虫は付けないと約束した責任がある。
それに、とミユキは思う。そもそもせつながこちら側に来る事はまず無いだろうな、と。
せつながいい加減な気持ちでダンスをやっているとは欠片も思わない。
寧ろ非常に熱心で個人練習も欠かさない。
ミユキへの質問も活発で、曲や振り付けの世界観への興味も多いにあり、
真摯な姿勢と言う点ではどの後輩よりも評価出来るかも知れない。
それでもやはり、ダンスに向ける気持ちや情熱はミユキとはかなり異質なのは間違いないだろう。
ダンスはミユキにとって人生そのものだ。踊れなくなるくらいなら生きている意味が無い。
そう本気で思うほどに。
しかし、せつなはダンスそのものと言うよりは、ダンスを含むこの世界。
せつなが育った無機質な世界には無かったであろう芸術的な人間の営みこそを愛している様に感じた。
そしてそれは、桃園ラブと言う存在がなければ成り立たない。
彼女がダンスをしていなければ、せつなが自分からこの世界に目を向ける事は無かっただろう。
ラブはミユキが芸能人としての視点から見ても、とても愛らしく魅力的な少女だ。
ミユキは有名になった自分と多少なりとも縁が出来た途端に馴れ馴れしくなったり、
厚かましい要求をしてくる人間をうんざりするほど見てきた。
そんな中、ラブは出会った当初から親しくダンスを教える仲になった今でも、
変わらぬ素直な憧憬を向け、一途に慕ってくれる。
ラブはミユキにとっても可愛くてたまらない特別な後輩だ。
正直なところ、ダンスのセンスや技術はそこそこ、と言ったところ。
しかし彼女には見る人の目をパッと惹き付ける華がある。
そしてその天性の魅力は、他人の視線を集めなければお話にもならないこの仕事において、
造形の美しさや諸々の技術より遥かに得難い才能だ。
どれほどの美貌を備えていようと、また演技や歌の技術がどれほど優れていようと、
その『華』が無かった故に、夢を諦めた人間がどれほどいるか。
ラブならば、この世界で成功を掴める素質は十分に持っている。
そして、せつなはそのラブをこの上無く大切にし、まさに掌中の珠の如く愛している。
しかし、せつながラブと同じ道を進むかはどうかは別の話だ。
せつなが熱心にダンスを学ぶのも、ましてや今回の様にプライベートな時間をほとんど犠牲にしてまで
ミユキに尽くしてくれるのは、やはりラブの存在があればこそ、だ。
もしラブが憧れていたのがダンサーの自分ではなく、他の誰かだったら。
歌でも、演技でも、ひょっとしたら音楽や絵画でもせつなはラブを通してその世界を学び、
造詣を深めていっただろう。
つまり、せつながダンスを学ぶのは、ラブを始めとする彼女の愛する者達が生きる世界そのものを
学ぶ事と同義なのではないのか。
(ふむ、ちょっとばかし思考が壮大になりすぎた気もするけど…)
でも、そんなに的外れではないだろうとミユキは思う。
何にせよ有難い事には違いない。
せつな先生がいなければ、追試を目前に控えた今ごろどれほど悲惨な精神状態だったか。
考えるだけで血の気が引く。
せつながイースとしてこの世界に来た。
それがなければ自分とラブとの出会いも無く、ダンスを教える事も無かった。
ましてや、逆に自分が教わる立場になろうとは。
過去に舞台を破壊された事に思う事が全く無い訳ではない。恐らくせつなだって、同じだろう。
こちらが口に出さない限り、せつなもその事には自分からは触れられない。
いくらこちらが済んだ事だと言ったとしても、せつな自身が完全に昇華するのはまだまだ遠い先だろう。
しかし、それも人生の歯車の一つなのだと思うとミユキは不思議だった。
(回り回って、最大のコンプレックスから救ってくれる相手になるんだもんなぁ…)
壮大な物思いの行き着いた先が苦手科目の克服…とは、些か規模が小さくなりすぎた気もするが、
それも含めての運命ってヤツなのだろうと。一人ミユキは納得する。
「再開しまーす。次、通しで一度回しまーす!」
(さて、行きますか)
それに今日は嬉しい発見もあった。
はっきり言って、今回の家庭教師があるまではミユキとせつなの関係はラブと言うワンクッションを
挟んだものでしか無かった。
しかし、今日のせつなからの熱の入った視線には間違いなく浅からぬ敬意を感じる事が出来た。
勉強ではかなり情けない姿を曝してしまったが、少なくとも踊り手としての自分は
せつなから一目置いて貰える存在らしい。
禍福は糾える縄の如し、人間万事塞翁が馬とは昔の人は上手い事考えるものだ。
良いことも、悪いことも、すべてに感謝だな、とミユキは笑ってカメラの前に進んだ。
最終更新:2014年03月15日 01:59