冀求の頃/なずな
緑川なおが両親におもちゃを強請ったのは、ただ一度きりだった。
幼心に、家族が増えるとお金が必要だということは理解していた。そのために我慢しなければいけないこともあるのだと、わかっているつもりだった。けれど失われるのは新しい遊び道具だけではない。母も父も弟の世話にかまける。妹が産まれてからは言うまでもない。向き合っていたすべてが自分から目を逸らしてしまったのだ。ほんとうに小さい頃は当たり前のように与えられていたすべてを、ある日突然に取り上げられてしまった。そう感じた。
焦げるような冬はなおの家のどの部屋にも招かれていた。
なかでもにわかに暖かい畳の部屋の隅には、木製のベビーベッドが鎮座している。すっかりニスの剥げた足や振り回したおもちゃにえぐられたでこぼこのせいで、それは皮をはがれた生木のようにも見えた。傍で暖房にあおられてゆらゆらと振られるモービルを、忌々しげに睨む。はじめはどちらもなおの物だった。
今の自分にとりたてて必要なものではないのに、それが剥奪されてしまうことを妙に悔しく思う。なおは自分の上着の裾を掴む手を震わせた。あれの代わりに、今すぐ何かを与えられて然るべきなのだと思った。あるいは冷たく空いた胸のぶんまで抱きしめられて、満たされなければいけなかった。けれどそのための両親の腕は、待てども待てども自分に差し伸べられはしなかった。幼い家族のためにそれが永遠にうしなわれてしまったような気がして、なおの胸には枯葉が転がっていく。同年代の子どもならまだ許されているかもしれない幸福を自分だけが享受できないことが、どうにも納得いかなかった。長女とは不遇なものだと思った。
涙を堪えながら顔をあげると、母親が大きな手で頭をわしわし撫でてくれた。もうお姉ちゃんになったんだから、と困った顔で諭すその声が、なにか恐ろしい宣告のように響く。
おねえちゃんだから。だから、なんだ。
あたしはあたらしいボールがほしいのに、と言って泣きじゃくる幼なじみの背中をぽんぽんと撫でながら、れいかはたいして同情していなかった。なおが膝を抱えてうずくまる姿は、それこそボールのようだと思った。
河川敷に吹きすさぶ冬の風は、子どもたちの鼻を頬を真っ赤に染めていく。その中を、なおは鼻をすすりながら駆けてきた。襖から寒さの染む家から逃げ出すように転び出ても誰ひとり追いかけない。きょうだいに感けて気づいてすらいないのだと思った。喉がごうごうと痛むほどに走り続けてすっかり疲れ、枯れた芝生の真ん中でもつれるようにうずくまり、それからずっと泣いている。
あまり速くはない足音がとたとたと懸命にそれを追いかけていたことに、なおはしゃがみ込んでからきづいた。それがれいかのものだということにも。足音は立ち止まる。荒くちいさな吐息をゆっくりと整えながら、声は発せずにそこに立っていた。なおと背たけのかわらないはずのちいさな身体は、木枯らしを遮る樹木のようだった。
「……あのね、いもうとがうまれたでしょ。けいたもいるでしょ。あたしもうお姉ちゃんだから。だからね、だめなんだって」
落ち葉のような手のひらで涙を拭いながら切れ切れに話すなおを背中側から見下げ、れいかはふうん、と相槌を打った。それきり何も言わなかった。
足下のかさついた芝生に涙がしたたり落ちる。いくら雫を含んでも、冬の枯れ草が潤うことはない。なおは膝のうえでじんじんと冷えた指先をかたく握りしめた。濁った色の空は、こんなにも満たされない心を投影しているかのようだ。
ほんとうは、なおちゃんは悪くないよ、とただそれだけの一言を待っていたのだ。肯定が欲しかった。それが一番欲しかった。けれどそれは叶わないことも、薄々ながらわかっていた。れいかは他の
ともだちのように理合なしに慰めることをしない子だった。なおが思うままぶつける言葉を聡くききわけて、安易な考えはけして口にしない。今だけはそれが腹立たしくてたまらない。
れいかは恵まれていると思う。走り回っても余るほどの広い庭に一人だけの部屋も持っている。お出かけのときには目のさめるようなきれいな服を着て、ときにはなおの知らないとおい場所に行ったと言って、ずっしりとした包みのお菓子をくれることもある。それに末っ子だ。家じゅうに満ちた愛をいっしんにそそがれて、自分と同じだけの時間を生きてきたに違いなかった。
なのにこの子は欲しがることをしない。流行りのゲームにも興味を示さなければ、テレビのヒロインと同じドレスを着たがることもなかった。幼稚園に入るまえから遊んでいる、擦り切れたボールを今も追って遊ぶなおにはそれがいっそ嫌味にしか感じられずに、胸がじくじくと煮え立っていく。
れいかちゃんちはおかねもちなのに、どうして。
嫉妬のようなぎとぎとした感情と、それはいけない考えだという思いとがせめぎあって、泣き続けるなおの表情をますます歪ませた。それはもつれあい、溶岩のように鈍く高い熱を称えてちいさな胸では制御が効かなくなっていく。
とうとうなおが大きく肩を揺らすのを見たれいかが泣かないで、と声をかけたときに、鬩ぎ合う感情は爆発した。
「れいかちゃんはなんでも持ってるじゃない!」
叫びながらきっと顔をあげると、濃紺の瞳と見つめあった。ほら見たことか。熱い胸につめたい嵐が吹き荒れて、頭の奥がぐらりと揺らいだ。息がつまる。唇が震える。それでも、激昂の波に乗って湧き上がってくる言葉を呑み込むことはできない。
「あたしは、あたしは、ぜんぶきょうだいに取られちゃったのに。……ずるいよ、れいかちゃんなんかだいきらい!」
向かいあったおおきな瞳がぱちりと見開かれ、それから悲しく伏せられた。
ひどいことを言ってしまったと思った。顔じゅうに昇った熱がすっと冷めていくのを感じた。両親の愛を遠く感じる今、一番の遊び相手すら失ってしまうかもしれない。そうしたら、とうとう全てを無くしてしまう。急に世界が沈黙したような気がして、それが恐ろしくてたまらなくて、なおはもっと小さくなって泣きだした。
川沿いを走る風はますます冷たくなる。遠くではしゃぐ子どもたちの声が小さくなっていく。これでとうとう味方はいなくなった。自分から目を逸らした全ては、この手に負えなくなってしまったのだと思った。
けれどれいかはまだ隣にいる。言い返すことも慰めることもなく、側で立っていた。芝生がかさかさ鳴る音に紛れてしまうくらいに小さく息をつく。物をいわないれいかは、やはり樹木のようだった。潤っていると思いこんでいた木膚はその実そうではないのかもしれない。身体じゅうが冷ややかで、訳がわからなくなった。
ねえ、おこってないの。あたしといるの、いやじゃないの。
たっぷりとした静寂のあとに、れいかはかおをあげて、と小さな声で話しかける。なおはそれに従った。自分が傷つけた幼なじみは今どんな顔をしているのだろうと思った。怒らせたのか。かなしんでいるのか。なおがおずおずと頭をもたげると、その目はすぐに深いあおの瞳に捉えられた。
「わたしに欲しいおもちゃはないのよ。おかあさまもおじいさまも、それはそれは厳しいわ。おにいさまやおとうさまはやさしくしてくださるけど、だからといってなんでもくれるわけではないの。でも、かわりにお話をしてくれるのよ。それでわたしがわらうと、どなたもじぶんが楽しいみたいによろこんでくれるの。それは物をもらうことよりも、ずっとすてきでうれしいことだと思うわ。それとおんなじでね、わたしはなおちゃんといると楽しいから、それでじゅうぶんなの。いっぱいはなして、すっきりして、なおちゃんがわらってくれたら、そうしたらうれしいわ」
あまり表情を変えずにゆっくりと話すれいかが、なぜだかずっと年上に見えた。そこにみえたのは細い根をかっしりと伸ばした、ただひとつの木だった。どうりで風がやわらいだわけだ。れいかはなおの背中を叩いていた手を、今度はその肩に添えた。
「なおちゃんがいつものやさしい子に戻ったら、どうかおかあさまたちのおはなしも聞いてあげてね」
淡いブルーの品のいい手袋越しに滲んでくるあたたかさを感じながら、なおは俯いて一言も話さなかった。渇求は今も胸にくすぶってやまない。けれどそれがひどく恥ずかしいことのように感じて、なおはこのときから我がままをやめた。
季節は巡り、何度目かの冬をすっかり迎えた街並みは、見渡すかぎり灰味を帯びている。なおとれいかはその中を談笑しながらゆっくりと散策していた。
幼い頃は家族で来ていた隣街のショッピングモールに、中学生になった今は時折ふたりで立ち寄る。磨かれたように光る床や解放的な吹き抜けが相変わらず小綺麗なそこは、家族連れや中高生といった人々でいつでも賑わっていた。そこにいる誰もが、いっときは外の鈍色の世界を忘れている。日の翳った空はくすんだ青をしていたけれど、モール中を照らすライトのオレンジと混ざり合って、空間そのものが賑やかしく煌めいているようだった。
なおはわあ、と声をあげてショーウィンドウの外側に隣接された白いワゴンに歩み寄った。そこにはマフラーや手袋といったカラフルな防寒具が几帳面に並べられている。その中でひしめきあい、ランダムに折り重ねられたまばゆい色たちは冬のためのものなのに、なぜだか無性に春を思わせた。
なおは小豆色のざっくりとしたストールを手にとる。一点だけ残されたそれはいろ鮮やかな周りとくらべて、かえって異彩をはなっているように見えた。れいかは巻いてみたら、と促し、受けとったストールでなおの首をそっと包む。その鈍くやわらかい色は、なおの深い色の髪にとてもよく映えた。首を包むもわもわした手ざわりが心地よくてなおは笑った。
「あったかいなあ」
夢のように目をほそめて、長い毛足にゆびを埋める。顔をほころばせる様子がいかにも年相応の子どもらしくて、れいかも釣られて笑った。
「なおはそれが欲しいのね」
「今のマフラーは小学生のときからずっと使ってるしね。そろそろ綺麗なのがいいんだけど」
あたらしくするのは来年にしようかな、となおが笑いながらワゴンに戻したそれを、れいかは拾いあげた。
「ん、どうしたの?」
「少しだけ待っていてね」
開け放たれたドアから店内に入ると、れいかはまっすぐにレジに向かう。あまりに突然のことで、なおはいっとき反応を忘れた。
「えっ!? ちょ、ちょっとれいか!」
「こちら、いただきますね」
お揃いのがま口をぱちんと開けて会計をはじめてしまうれいかを止めるに止められず、なおは立ち尽くした。暖房の効いた店内から漏れる空気がひやかすようにふわりと首筋をくすぐる。同時に耳に飛びこんできたのは、すぐ使うのでタグを外していただけますか、と弾むような声。嬉しさより先にこみ上げてくる気恥ずかしさに頬が上気する。
れいかは店から出てすぐに、それをなおの首に巻いた。袋にも包ませずに受け取ったストールは、改めて見ると凝った編地とさりげない金糸のラメが美しかった。今更になって値段も見ずに買ってくれたのだということに気づいたが、そこに言及するのは野暮なような気がして心に留めておいた。
日はすっかり翳り、モールを照らすオレンジの照明がいよいよ映えた。吹き抜けの空間から滑り抜ける風は未だ切りつけるように冷たいけれど、辛くは感じない。なおは照れくさいばかりで、ストールに隠れるように顎を埋める。ありがとう、と言った声はくぐもっていた。けれどれいかは微笑んだ。なおが喜んでくれるなら、それで十分すぎるお礼です、と。
「ほんとうに大切に想っている人は、側にいるだけで心があたたかくなります。なおにとっては、ご両親やご兄弟はそれほど大切なものでしょう。わたしにも、同じくらいに大事に想うものが、あるのよ」
はっと顔をあげると、微笑んだれいかの頬はいろづいていて、ちいさな子どものようだった。
その姿を見つめながら、なおの目に見えていたのは遠い日に受け取った水色の手袋だった。
かたほうあげるね。
そう言って右手だけにはめられた手袋が、どれほど暖かだったかを思いだした。れいかは笑っていた。だからもう、泣くのはおしまいにしましょう。
あぜんとするなおを、れいかは素のままの手を引いて自宅のあるほうへ先導しようとする。もう片方のそれはれいかの手にはめられたままだった。ああ、大事なものを託してくれたのだろうと思った。ついさっきまでれいかの手をあたためていたそれが、なおの胸をじわりと掴んでいる。泣き腫らした目尻がひりつくような思いがした。
冬風の強さはかわらない。けれど繋いでいた吹きさらしのはずの手が、手袋に包まれたほうよりにわかに暖かいような気がしていた。結局それは次の日、親づてにれいかの元へ返されたけれど、帰り路の寒さを凌ぐにはこと足りていたのだ。
「――どうしてれいかには、わたしに必要なものがわかっちゃうんだろうね」
なおはため息のような声で言った。くれたのがれいかじゃなきゃ、とても受け取れなかったよと笑う。覗いたショーウィンドウを何気なく姿見にすると、我ながら悪くないように思えた。覆われた肩がじんとして、からだじゅうが暖かい。
「わかるに決まっているじゃない」
視線をれいかに戻すと、双碧とみつめあった。冬の夜空のような、かぎりない、あお。その広袤を背にして、なおははじめて枝葉をひろげられていたのかもしれない。
「なおにだれよりも八つ当たりされて、だれよりも頼ってもらえたのは、きっとわたしだもの」
得意げに言うれいかに、なおは肩をゆらして笑った。ただすこしの否定だってできないのだから、おかしくて仕様がなかった。
「やっぱ、れいかにはかなわない気がする」
――このさきも、ずっと。
うんと幼くて、目にしたどれもが手にはいらずに泣いていた頃。欲しいものはいくつもあって、そのどれもを我慢してきた。愛に満たされるいっぽうで、伸ばした手をひっこめることすらできなくなった。流行りのおもちゃも、よそ行きの晴れ着も持っていない。なおはそんな日々を思い出した。胸に隙間をかかえたまま家族に優しくあろうとするあまり、生じた摩擦をいらだちに変えて、ときに意味もなくれいかにぶつけたときがあった。甘えをみせていいのはれいかだけだと思っていた。
それでも何も掴めないままに浮かせたままの手をとってくれたのは。年端もいかないあの頃に耐えられていたのは、優しく悧発な幼なじみのためだった。その笑顔は愛のいしずえを潤す永遠の昇華だ。れいかを、誇りに思っている。
冬は終わらない。どんな上等な外套を纏ったとしても、すきま風に凍える日々を生きなくてはならないことは不変だ。限りなく満たされることなど、ないのかもしれない。けれどそれを補って余りあるものはもう側にあったのだ。
なおはれいかの手をとると、むきだしのままの自分のそれと絡めた。乾いた枝葉が若さを取り戻すように吹きさらしの指先に血が通っていく。手袋はないけど、あったかくなるかな。なおが小さな声で言うとれいかはくすぐったそうに笑った。
「かなわないなんて、嘘ね。」
ふたりはすこしだけかさついた指を引きあうようにゆっくりと歩きだす。風が和らぎ、夜がいっそう濃くなった気がした。自分に陽をそそいでくれた幼なじみは今も隣にいる。これ以上なにを望めるだろう? 十分だ。これで、十分だ。
「――ありがとう。いますごく幸せだよ」
身体じゅうを吹き抜けてやまないあたたかさを、なおは泣きそうになりながら噛み締める。
最終更新:2014年10月25日 15:00